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【早川】こんにちは、早川洋平です。【戦争の記憶】今日は、田部井武さんにお話を伺います。田部井さん、よろしくお願いします。
【早川】田部井さん、早速なんですけども、先ほど名刺をいただいて、東京都足立区梅島2丁目ということなんですけども、
【早川】今日、場所はですね、ここはですね、尾久橋なんですけども、ここからすぐ近くというか、近くなんですか?
【田部】そうですね、距離としては短いんですけど、交通手段がないもんですけどね、やっぱり時間的には、来るのに1時間弱かかりますね。
【早川】すみません、そんな中、ありがとうございます。田部さん、最初に、生年月日を教えていただきたいんですけども。
【田部】昭和8年、3月30日です。
【早川】昭和8年、3月30日。
【早川】というと、今年、もうすぐ、今度の3月で82歳。
【田部】お若いですね。全然見えませんけども、82歳ということで、今日は色々お話を伺っていきたいんですけども、そもそもご出身はどちらなんですか?
【早川】私は東京で生まれたんです。
【田部】東京はどちらで?
【早川】東京のこの先の赤戸というところなんです。赤戸で生まれたんです。
【田部】あ、そうなんですか。じゃあ、もうこの辺って言えばこの辺。
【早川】そうですね。それで新しくここに家ができたのでね、昭和14年とか15年に家ができたので、そこを引っ越してきたんですね。
ですから小学校入った時は、一番先に入ったのは赤戸小学校に入学して、それで大西小学に転校になったんです。
【田部】まさにこの辺もよく知っていらっしゃって、今またその近くのところに少し引っ越されてっていう感じなわけですね。
【田部】あれですか、じゃあずっと基本的には東京にいらっしゃってっていう感じの田部さんなんですけども。
【早川】戦争では疎外しましたけど。
【田部】あ、そうなんですね。それも含めて伺いたいんですけど、最初に皆さんに伺ってるんですけども、いわゆる戦争っていうキーワードで、
田部さんご自身の中で、歴史的な戦争が始まったっていうタイミングじゃなくて、ご自身の中での戦争っていつどんな記憶がありますか?
あ、戦争始まったなっていうふり返ると。
【早川】そうですね。やっぱりちょうど小学校の2年か3年ですからね、戦争が始まったのは。あ、23年生の時ですね、戦争が始まったのは。
ですからね、その頃はもう本当に戦争一触っていう感じで、他の話なんかは友達同士でなかなかできない雰囲気がありましたね。
その頃、今と違うのはね、子供でもみんな新聞を読むということ。新聞を読まないとね、敵をどれだけね、四国を撃墜したか、戦艦をどれだけ沈めたかということをですね、知識として持ってないと話の輪に入れない、そういう雰囲気でしたよ。
【佐藤】なるほど。
【早川】だから朝見ると、もう一番先に新聞でね、今日は何機落としたの、何機ね、何隻潰したのかというような形で持ってね、自分で頭の中に学校行きまでに用意しているんです。
ほんとに学校行くと、あ、今日は勝ったぞ、こうやって落としたぞって、それを知ってることがね、やっぱりなんとなくね、みんなのリーダー的なあれになれるんです。
知らない人はね、やっぱりそういうのを聞いてやっぱり覚えるんでしょうけど、そういう雰囲気でした。
【佐藤】旅さんご自身も今おっしゃったように、毎日新聞を見るのが当たり前の常という感じですね。
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【早川】それも一面だけですよね、そういうことですよ。
【佐藤】でもあれですか、もう当時は常に、つまり戦争の、もう全部今おっしゃったような話ってことですよね、一面なんていうのはほとんど。
【早川】石から銃までもう、国家信用がもうね、徹底してたんです。ですから小学校4年の時に、いわゆる教育直後、あれ難しいですよ。あれも全部かけたんですよ。
全部かけたんです。それから、歴代の天皇陛下、これ覚えたって別にどうともないですよ、今思えばね。
今でもこんなことで覚えたことが、今でもこうやってね、何台かまでは言えるわけです。
それを言えるだけじゃなく、全部あの漢字で書くんです。
すごいですね。
そういう時代だったんです。
なるほど。
徹底してたんです。
その時に、新聞読まれてたってことですけど、後から振り返ると、どの新聞もかなりいろいろ引っ張られてたじゃないですか、情報とかっていうのは。
その辺は当然何の疑いもなくというか、それが当たり前だと思って読んでました。
いや、でも日本がだんだん空襲が激しくなって、バケタンがあっちにもあっちにも大きい襲いになると、うちの母親なんかはね、
たけし、この戦争は負けるよ、こう言ったんです。
そう言って私らはもうそんなことを反発しなくちゃならないです。
それで母親と喧嘩してね、ノーと言うとね、大変だぞとか、とても負けるわけじゃない、戦争は絶対勝つんだ、というようにね、母親に何とか。
母親ってどっち勝つぞ、女ですか大人しいですよね。
うちに任せるまで、そういうことを私らは言いましたね。
その時は、そういうことをお母さん何言ってるんだろうって感じなのか、子供心に、でもなんかお母さんが言ってるのもひょっとしたら一理あるかもなって思って言い返してたのか、どんな感じだったんですかね?
それは多少はそういうことはあったんだけども、自信を持ってたんですね、勝つということ。
負けるっていうことはね、本当に頭の片隅でもなかったんですよ。
やっぱりそうだったんですね。
それは当時、もちろん子供によるでしょうけど、でもほとんどの子供たぶんきっとそう思います。
そのくらいね、新聞は広い意味で教育かもしれないですけど、やっぱりすごい占める割合って大きいんですね、人間にとって子供にとって。
そうですね、そこまで教育されてたんですね。
当時、海戦というか、田部さんにとっての戦争の始まりってことですけど、逆に振り返った時に、戦争が始まる前も戦争が始まりそうみたいな雰囲気とか家庭で、
例えばさっきの話ですけど、お母様かお父様が、そろそろ武蔵戦争始まるぞみたいな、そういう雰囲気とか会話ってあったんですかね。
それは私らの年代ではまだそこまではなかったですね。
ご両親同士は話してたりしたのかもしれないけど。
私らはまだそういうことを察知するだけの能力がなかったですね。
今、ご両親の話がありましたけど、実際そのご家族の構成とかっていうのはどういう感じだったんですか、当時。
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父親と母親とおりまして、それから私が長男で、妹、弟、妹と子供4人いたんです。6人家族でした。
じゃあ、男2人、女2人の兄弟っていう感じですか。
そうです。
そうすると、当時、海戦直後は田部さんが今小学4年生ぐらいっておっしゃったと思うので、
お子様、ご兄弟では、たとえば弟様も含めてですけど、直接どっか戦争行ってたってことはないってことですよね。
お父様は当時何をされてたんですか。
当時、海軍のスパナっていうのを作ってたんですよ。
スパナ?
スパナっていうか、こういうネジを回すやつ。
あれ、当時芋の上で持ってドカッと入ってくるんです。
それをバレーを取ったり、いわゆるキシッと角度を合わせるだけ、ヤスリで擦るんですね。
そういう仕事を三日島の方でやってたんです。
ですから、うちの方にも玄関にも3台ばかり、そういう万力っていうんですかね、挟む。
あの万力を置いて、だとやっぱりうちで持ってて、夜なんか遅いよね。
やっぱり間に合わないときなんかやってたようですし。
実際、さっきその新聞を見て、それがある意味、戦争体験中のその日課みたいな感じっていう印象を受けたんですけど、
その時に、さっき負けるとも特には思わなかったっておっしゃってましたけど、
実際、恐怖とか、その後も途中で東京もそうですけど、大久保もそうですけど、空襲受けたりするじゃないですか。
その受けるまでは、死の恐怖とか、そういうのは全くなかったというか。
そうですね。全くありませんでした。
日本戦争は勝つもんだということで。
全然なかった。
それが変わった瞬間はありますか?ある時から。
そうですね。やっぱり、しげく空襲を受けるようになりましたとね、実際に防空壕なんてもないんです。
うちが密集してますからね。防空壕を掘る場所自身がないんですよ、この辺のうちでは。
あ、そうだったんですね。
で、通りにね、何十メートル大きい穴が掘ってあったんです。そこを入るぐらいです。
で、私のうちではね、死ぬならもう一緒だよって、おふくろはそういう人でしたからね。
死ぬなら一緒だよって、なんとか入ったって余計、帰って死んじゃうよって。
ですから、押入れに入ってしたい。
布団を何枚も敷いて、こうやって上から布団があるだけね、ここに垂らして、こうやって静かにしてたんですよ。
ところがやっぱりね、学校行くと、爆弾が落ちた時は目をここにやって、耳を押さえないと目が飛び出すから、細かく破れるということですから。
私は子供の頃にもね、みんなにここにやらせて、もうおふくろはそういうことじゃなく、
たけし見てごらん、これは何見てごらん、真っ赤だよ、真っ赤だよっていうふうにね、
おふくろはもうどっちみち爆弾落ちてたら死ぬんだなっていうことを親だから知ってたわけですね。
今私でもおそらくそういうことがあったら、おそらくそう思います。
ただ子供はそんなことで絶対死ぬことはない、この戦争は負けることはないっていう、そういう気持ちでもう徹底的に鍛えられてるんですからね。
ですからもう、でも、いつかはやっぱりね、
今日は死ぬのかな、今日はもう、それは考えるようになりました。
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やっぱりありましたか。
それは背中に爆弾を直接ね、当たるかもわからないという、そういう感じまで持ちました。
それこそあれですよね、やっぱり空襲が結構激しくなってきたら、気の見きのままじゃないですか、
寝る時もすぐ出れるみたいな格好で寝てたりしたんですか、どういう感じだったんですか。
そうですね、寝まき生きて寝るなんてことはほとんどありませんでした。
ほとんど寝たままの状態ですね。
北霧です。
さっきお母様のいろんな言葉をいただきましたけど、
お父さんが田部さんに対して、こういう風に空襲があったらこうしなさいとか、この戦争はどうこうとか、
その戦争に対する何かお父さんとの会話って記憶に残っていることってありますか。
そうですね、中はやっぱり私だと同じように、一時徴用なんかも言ってましたからね。
体が悪かったのもともと、背筋術をやってたんですね。
ですから体が悪いから徴用に下地製薬所で勤めてたんです。
こっちで仕事がないときは向こうに行かなきゃならないんです。
そういうふうに仕事してましたからね、やはり体も相当無理してたんでしょうけど。
田部さんの記憶で、いつ死ぬかもわからないっていうところに少し変わっていったって言いましたけども、
僕も今回、あらためて東京大空襲を含め東京の空襲を調べてみたんですけど、
僕らの世代、やっぱり東京大空襲しかそもそもよく知らない。
それ時代もよく知らない。
以前ご出演いただいた田村さんのきっかけに、
オグニ空襲があった、ドリトル空襲も含めて日本初空襲があったことをやっと知ったぐらいで、
東京の空襲って本当は細かいものを入れれば何十回、百回超えてるわけですよね。
その辺っていうのは、ずっとその期間基本的にいらっしゃったわけですよね、疎開のところは除いて。
やっぱりその中でも一番大きかった空襲とか命の危険を感じたっていうのを振り返ると、いつのどの?
やっぱり3月の10日、9月の10日が一番大きいですよね。
その当時って思い出したくないでしょうけど、思い出すとどういう日でしたかね、9日の夜からですが。
そうですね、その時も同じようにですね、やはり私のところではもう布団をかけてお尻の中に入ってたんですよ。
これで窓を開けますともう真っ赤です、周りが。
ただ幸いこの一角が残ったんです。焼けなかったんです。この一角が残ったんです。
というのは一番最初にこの朝日殿下が軍事工場として指定されたので、この脇、建物を疎開になったんです、ザーッと。
ちょっと本当は血かけばいいんでしょうけど、そういう状態になるんです。
私のところは朝日殿下があるからと、貧血でも一番危ないよって言われてたところなんです。
ところがそこだけが焼け残って、周り、私の姉なんかは3度焼けてるんですね。
行くとこ行くとこ空襲であげてるんです。そういうあれもあるんですね。
私が普通に考えたらその軍事工場やられそうですよね。
そこはやらなかったんです。そこも外れたんだろうというのは昭和17年の4月の18日の空襲でね、田村さんのお宅なんかがやられたのが。
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これは日本で一番初めの爆撃を受けた時ですね。
その当時、もう360度、火の海だったけど、そんなにそれは外に出てはっきり見るというわけにはいかなかったわけですよね。
そうです。夜間ですからね。
ただ、つまり夜間って3月9日の夜ってことですよね。から10日にかけて。
そうです。
その当時、逆に外に出れたというのは、記憶ではいつ、何時ぐらいに外に出れたんですか?
そうですね。やっぱり冬のまだ寒さが残っている時でしょうからね。そんな遅くまで外に出てませんね。
それでご飯を一緒に早く食べていかないとご飯が少しのものをみんなで分け合うわけですからね。
ですからね、バラバラに食べるなんてことはできませんから、どうしてもやっぱり夕方早く家の中に入ってくるんですね。
で、街灯なんかもどんどんありませんでしたからね。
だから暗くなるから、どうしても早く家に入りますね。
入って、3月9日の夜の前の夕方は普通の夕方だったんですか?
そうですね。もういつもと同じ。ただし小さな空襲はもう続いていましたからね、毎日。ない時はほとんどないぐらい。
毎日空襲のサイレンが鳴りましたから。
その時の家族での会話って、その3月9日と9日に限らず、どんなお話してたんですかね?覚えてらっしゃることでいいんですけど。
やっぱりおふくろはあんまりそういうことを、自分で戦争負けるっていうふうにおそらく心積もりしてたんでしょうね。
ですから私たちと積極的にそういうことを言うとまたね、私ら反発しますから、あまりね、私らの前で言わなかったですけど。
私らオアジンが帰ってくるとオアジンにね、いろいろね、いろんなことをニュースでもって、今日これで勝ったよとかね。
みんなデタラメなことをね宣伝してたわけですね。そういったような話を。
ですから実際に根拠のない話をお互いにしてたわけですね。
その中で、話は少し前後して戻りますけども、東京大空襲の一番ひどい時、なかなか外には出れなかったと思うんですけど、
10日の明けて、例えば10日の夕方とか昼ぐらいになったら何か外に出たりはしたんですか?
しました。
それと一番の大きなのはね、3月9日に私たちと同学年の者は、疎開先の飯坂温泉から帰ってきたんです。9日の日に。
帰ってきたその晩、みんなお父さんお母さんと一緒になってね、何年ぶりかで帰ってきたのは。
うちで亡くなったものを食べたんですよ。その晩、そういう状態でみんな焼けた晴れたんです。本当に残酷ですよ。
3月の9日の日に飯坂温泉を出て、帰ってきて親とほうで初めてね。
良かったね、無事で良かったねとお互いにね、ただいあっていながら、その晩空襲で焼けた晴れだった。
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その疎開に行った子どもたち、お知り合いも、それで亡くなった方もやっぱり。
ああ、いっぱいいますね。
当時、東カレーマーケットの外に出て、山上があるわけじゃないですか。
それってどんな景色だったんですか?もう景色の色から匂いから、どんな感じなんですかね、表現すると。
一番印象にあるのはね、私の親父とおばさんが三河島に住んでたもんですからね。
で、おばさんが一人住まいだったもんですから、どんなことが心配で、とにかく行こうと思って、私と親父が一緒に出たんです。
その時はもう周りに何もないです。
そうしてちょうどこの道をまっすぐ行ったわけです。
三河島と私らの卒業した学校、音症学校という学校がありまして、その学校の口頭からパーン、パーン、缶詰が跳ねて飛んでるんです。
火で燃えてる?
缶詰をね、保存食として取ってたんですね、南韓の時に。
その時に保存食って言うんでしょうか、何食って言うんでしょうね、あれ。
そういう場合の缶詰を取ってたのは、熱でもってポンポンポンポンポンポン、通りの向こうまで跳ねてるんです。
ところがそれを今度拾って、蓋を開けて、みんなが食べてる人も何人もいるわけです。
私はその先の帝国食神という食神会社があったんです。
そこでもやっぱり軍隊の食料を作ってたんでしょうね。
そしてそこでもってね、微粛してたんでしょうね、お砂糖。
そのお砂糖が溶けて飴になってるんです。
それのところにみんながアリのように群がってました。
それを私もここで少し取ってね、お味と一緒に行きましたけどね。
途中ではね、月あたり、ちょうど今の明治通り、明治通りの左側にですね、
金河発電ってあったんです。
赤水陸、赤水陸と私たちが寝たんですが、そこに大きな池があったんです。
池の周りにやっぱり子どもが死んでました。
何か当時、池とか川って、当然その通しだったり、
逆に消しだったり、歴史だったりっていう感じがあった。
何かで見たんですが、やっぱりそういう感じなんですか?
そうですね。私らはその後知ったんですけど、
墨田区あたりのね、墨田川に飛び込んだ人たち、
あいた人たちの数ではありませんけど、
それでもやっぱり死人をね、何人か私ら確認しました。
その時ってお父様と歩かれてて、
亡くなった方たちを見て、
普段そんなしょっちゅう見てたわけじゃないでしょうから、
まだ幼い中でどういうふうに映って、
どう旅立つのって感じたんですかね?
いやもう、自分がいつ死ぬのかっていうだけのことしか考えなかったですね。
いつが自分の番になってくるのかって、
やっぱりお袋に入ってたこと間違いないんだなっていうような感じが、
なんとなく気づいてたのかもやっぱりその惨劇、惨状を見に行って、
すごいリアルにやっぱり感じた。
そうですね。
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その当時ね、まだちょうど私受験だったわけですよ。
ちょうど中学行くのに。
そこにも書いてありますけど、中学行くのにね、
柴浦工業っていう学校があったんですよ。
これは私の親がやっぱり教育というのにあんまり関心を持ってなかったから、
そういう時代だったのかわかりませんけど、
中学行くのにね、いっぱいでもって。
ですから私は自分で選んで、
あそこの柴浦工業まで田町までね、
岩手をもらいに行って、
それで帰りの岡町町と上野の間で空襲になっちゃったんです。
電車の中で。
さあ大変ですよ。
電車からね、レールの上まで飛び降りるんです、みんな。
早くしろ、早くしろってもうね、みんな早く逃げるの忙しいもんですから。
後ろからどんどんどんどん押されて、
私もね、はーっと思ったけど押されるものですから、どんどん飛び降りて、
さあそれから上野の改札口に抜けて、
上野の山へ行って、上野の防空壕へ入ったんです。
山に防空壕を放ってあったの。
放っても私はまだ小さいですから、息苦しかったですけどね。
大人の背中にこういうふうに下がっちゃって。
そういう経験をしましたね。
それが一番でした。
自分で一番生きるか死ぬかという時は。
じゃあその時は本当にもはやこれまでかみたいに思いました?
思いました。
よくしかしあの時は無事でもってね、機銃捎えたりも受ければね、
ザーッとスロープスアリーノを這うようにみんなが並んで山へ行くわけですから。
いくらでも打てるわけですからね。
そうですよね。
じゃあまさに救死に一生という感じですね。
そうですね。
そういう思いを何回もしましたね。
3月10日のことでもう一つお聞きしたいんですけど、
当時火災がすごいように、アメリカはそういうふうに爆弾を使ってるって言いますけど、
すごい突風が吹き荒れて、
本当に竜巻みたいな風速100mぐらいのがあって、僕なんかで見たんですけど、
その辺の風とかって感じました?火事で来る。
私はその時まだ朝まで家の中にいたもんですよね。
朝というか逆に起きた後はどうなんでしょう?
まだもちろん火は出てるんでしょうけど、夜なんかうっさらと見た火の海とはまた違って、もう消えてたんですか?結構。
いやただ真っ赤に燃えてて、もう空真っ赤だっていうことだけの記憶しかないですね。
あとはさっきの缶詰のパンパンっていう音。
あれはもう翌日ですね。
缶詰がバンバンバン跳ねてる。
その音って今でもやっぱり残ってます?
その音まではちょっとあるんですけど、ちょうどその時に私の女房の親父がこの学校の教員をやってましたね。
ちょうどうちの部屋に子供たち、女房、子供たちを疎開させてて、自分は宿直でちょうどその日に帰ってきてたんですね。
大変だったそうですし。酒を飲んだ時に私もいろいろそんな話を何回も聞きましたけどね。
皆さんいろいろそのタイミングで紙一重でいろいろあったわけですよね。
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3月10日だけじゃなくて、つまり細かい空襲を挙げたらキリがないと思うんですけど、それ以外にも
結構本当に大規模なものって、僕が調べると5、6回はあったみたいなんですけど、3月以前以降でもいいんですけど、他に空襲のすごい大きな記憶ってありますか?
この近辺はなかったんですね。
ただ2月の10日の日は寝てて、ちょうど昨日多い時でしたけどね。
その時にはずいぶん感じましたよ。
また空襲が起こるなんてことでね。
それは直接近辺でなくて、爆弾が落ちてる音とか聞こえるんですか?
ものすごい異様です、あの音は。
遠くであったとしても音もそうでしょうし、やっぱりなんか地鳴りみたいのもするんですか?
そうですね、僕ではさほどそういうのを聞いたことはありませんけどね、一番最初の時以外はね。
一番最初の時はそうでして、ものすごい音がしました。
うちの私はちょうど玄関の先に妹達と遊んでたんです。
ガーって鳴ってガラスが剥がれましてね。私は今でも傷がありますけど、足をガラスで切りまして。
ガラスがもうみんな折れちゃったんですからね。
それで私ともっと離れた、朝日電化のガラスもほとんど割れたって言いましたからね。
そうなんですかね。
ご無事だったというか結構スレスレね、いろいろご経験されてるわけですね。
本当スレスレですね。
本当にカラオケって政府って言ったことでしょうかね。
その3月10日から終戦までの5ヶ月ちょっとって、どんな記憶残ってます?
それでね、これはいかんと、どっちみちアルタカーだったので、
親父のね、もともと実家が足利にあるんですよ。
あ、栃木の。
栃木の。そこへ疎開したんです。
ところが親父が行ってる間は、向こうはもうある程度東京以上に裕福ですから、何とかやっていけるんですから。
そういうのは親父はこっちに仕事があるんですから、こっちに帰ってきたんですよ。
ほんとおふくろと向こうではあまり面識がないわけですよ。
今のような親戚関係ってなかったんでしょうね、当時は。
女に嫌いで嫁として、だから本家で寝泊まりさせてもらっても、
食料はね、思いにね、肩見せなかった。そういう状態ですね。
それで親父がいなくても5人の家族が行くわけですから。
どこだって巡宅になるわけじゃありませんから。
5人行くから向こうも大変だし。だからあまりいい顔されないということは、
私は子供だったのか、あまりそういうことまでわかんないんだけど、
おふくろはきっとそういうことで。
家を一軒借りて、それで生活したんですけど、やっぱり食べ物がないんですよ。
なかなか東京から行った人に食べ物を回してくれないわけ。
そういう現実があるわけですね。
東京なら闇でもって何とか買えるんです。東京のが。
お金さえ出せば。何とかそういうルートがあったんですね。
じゃあもう死ぬならどこでも、ここにいたんだって考えて生き残れるわけじゃない。
死ぬなら一生だよと。
おふくろはそういったところをはっきりしてるんです。
24:01
親父は多少そういうあれがなかったんでしょうけど、
おふくろは死ぬならどこでも一生だと。思いっきり東京に帰ってきようと。
東京に帰ってきて生活してたんです。
そうだったね。
実際さっきの闇って話もありましたけど、食事って東京に帰ってきてから?
どんな感じだったんですか?そういうところで買ってたんですか?
やっぱり同じ地域の人たちに闇屋さんとかがあるんです。
もちろん下手屋ですよ。
下手屋のおかみさんや親父が一緒になってね、
陸作物ってそういうルートがあるんですね。
そういったものを買ってきてや。そういったものを闇で売って。
それをお米一升、お米二升っていうのに育って小分けしてもらって買いに行くんです。
それ実際に買いに行くのは、たびさまお手伝いとかしてるんですか?
私なんかはもう第一番私が行くんです。
力仕事的なものは背景物を取りに行くんで私が行くというような形ですね。
闇屋さん?買うときもあんまり人目に出ないところで買うんですか?
闇屋っていうのにマークされちゃうと血筒が目に留められちゃいますから。
知る人ぞ知るっていう感じで、みんなこっそりと集まってるところがちょっとあるみたいな。
私も一度ね、私の一軒向こうの通りの子供、私よくは二つぐらい下なんですかね、加藤さん。
今印刷屋やってますけどね、その人を連れて渡日場があったんです。
船が出てたんですよ、この川を横断するのに。
今橋ができちゃってますけどね、この下が渡日場だったんです。
その渡日に乗って買い出しに行ったことがあります。その子を連れて。
すごいですね。
物を何にも買えません。
このぐらいのきょうなっていうのはありますか?知ってますか、きょうな。
ラッパーですか?
ラッパー。そのきょうなを二束ずつ分けてもらったの。
それはもう、後でも叫んで一回こっきり出す。
それでも恵まれてるって言えば恵まれてるんですかね、闇で何か買えない人もいるわけですよね。
みんな買えたんですけど。
でも生きてたんですから、やっぱり何かヘラ食べてたんでしょうね。
なんか記憶で、何食べてました?
今のきょうなもそうでしょうけど、当時こんだてって家の物ってどんな物が記憶にあります?
やっぱり主食はお米に麦の温度が入ったものですよね。
それだとか、お芋を混ぜたものだとか、大根を混ぜたものだとか、やっぱりそういったものでしょうね。
ただ今のものにはね、子供4人でもお父さんとお母さんがこの脇に座ってね、食事するでしょ。
こうやってお父さんとお母さんは食べないんですよ。
そうなんですね。
子供たちに十分食べるほどでもないんだけれども、私らはある程度年をとってきたからね、その辺のものを理解できるようになりましたから。
やっぱり親に残さなきゃいけないなと思うから、必ずしも100%食べるとか、7割くらい食べるとか、
もうお腹いっぱいでいいんだよ、僕はもう食べたよっていうような形で親に食べてもらうような形。
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こうやってまた何か親がいないときに子供たち、妹やお父さんたちはまだその辺の理解ができない子供もいたわけですけども、
何かのときにあんたも、お父さんやお母さんは何も食べてないから、お父さんやお母さんは何も食べてない。
お前ら少しね、お腹いっぱいになるまでいっぱいになったふりして、そういうふうに遠慮するんだよっていうような形で何回か教えたことあります。
しかも一番上のお兄さんとして。
それが中学行かないぐらいですからね。
でもすごい今よりも全然精神年齢高いですね。
そうやって当然親はこうだし、お子さんもみんなご両親を思ってたってことですよね。
そのときにご近所との付き合いというか、そういうこと助け合ってたのか、ギスギスしてたのかとか、
その家にもよると思いますし、まだこの辺に住んでらっしゃる方もいるから言えること言えないことあると思うんですけど、
どういう感じだったんですかね?雰囲気とか殺伐としてたとか、助け合ったとか。
そうですね。子供同士を中心に付き合いが多かったんでしょうね。
もちろん両隣あたりはお互いに声を掛けたりして、足りないものをお互いに貸し借りしたことはあったんだと思いますけど、
それもみんなが自分の家の事情を知っているから、そういうめちゃくちゃなことはなかったでしょうね。
私たちが目にする江戸時代にいろんなものを貸し借りしているんだから、ああいうことはなかったものもないんですから。
何か振り返って終戦万華で空襲も激しくなってきて、本当にもう生きている心地がしなかった時に、
そんな中でも支えになっていたものとかことって何かありますか?幼な心に。
うちの場合に思えば、親子6人が誰も外れることなく生き残ったっていうことでしょうかね。そのぐらいでしょうかね。
さっきのね、食事の時にみんな譲ってみたいな、そういうのも聞くとすごく心打たれましたけど、
そういう感じである意味支え合ってきたって感じなんですかね。
そうですね。もう家族が生きるってことはやっぱり一番そういうことでしょうね。
本当にそういうどたんばままでいけばお互いに支え合うっていうことになりましょうね。
だからもう子どもも一緒ですね。子どもも自然とやっぱりそういう知恵が働くんでしょうね。
それでその後、今おっしゃったように幸運にも皆さんご無事で終戦を迎えられるわけですけども、
終戦の玉王放送の時っていうのはどこで?
自分のうちで。
決まった?
うん。
それは前日ぐらいにか何時間前にテレビで正午からなんかあるよみたいな情報を得てたのかたまたまつけてたのかどういう感じなんですか?
前に分かったんです。その時にちゃんともう12時にこういう放送があるからと。
うちにたまたま4級のラジオって言って真空管が4つあるってのは高級品なんです。
1級がいいんじゃないです。4級ってのはクラスじゃなく。
30:00
球が4つあるって4級のラジオってのは高級なんです。
4級超えるわけです。
たまたまうちの兄弟が軍庁などをしてたと思うんですけどね。
周りの人がみんな集まってきて、うちの中で我々玉王放送をそれこそ制作していきまして。
始まる前というかなんかあるらしいぞって分かった時に、
田部さんご自身はお昼から戦争終わるなみたいに思ったのが全くわからなかったか、でも何か重大なことが。
私自身はわからなかったですね。
実際始まって、天皇の言った言葉は難しいことですが理解できましたか?
理解できません。
全然できなかった?
できないです。
でも周りの大人はやっぱりわかるわけですよね。
うちの親はね、戦争負けたんだというふうに言いましたけど、
私はそれを持って、友達とその日約束があったもんですから、
出て行ったら、その子供は負けたんじゃない、その親がそう言ってるわけですね。
負けたんじゃない、和歩をしてるんだって。
言い合わせをしたことはそれは記憶があります。
あったんですね。
だから、はっきり負けたっていうことの証言が慣れてないんですね。
実際その日、勝負終わって、また家に帰ってきての夕食とかってどんな感じだったんですかね?
それはちょっと今は記憶がないですね。
でも、戦争終わったっていう、その時の和歩さんご自身の気持ちとかってどんな感じだったんですか?
変わったのはね、やはり電気の大いがなくなったんです。
大い?
大い。黒い切れをゾワーッと、力が外に漏れないように。
これがなくなったんです。
これはもう良かったですね。
そうですね。面白い明るくなった。
負けたのはやっぱり自分なら残念な気持ちもありましたけど、
ただこれでもって死なないんだなっていう気持ちだけはできたんですね。
その気持ちっていうのは結構人だったり年代によりますけど、
田部さんの中では結構その日というか、戦争終わったんだって分かったから、
もう俺は死ななくていいんだっていうふうにすぐ結構思いました。
切り替えがついたですね。それは。
残念だとかそういうことじゃなく、やれやれっていうことなんでしょうね。
それはどうでしょう?
田部家、ご両親からご兄弟からも、みんな結構そういう意味では一括とも切り替えは早かったんですかね?
そうですね。親はね、やっぱりそれからどうやって食っていくのか、仕事はどうなるのか、
いろいろね、それはあったんでしょうけど、私らはとにかく戦争終わったんだと。
それでその翌日から浅井殿下のサイレンが空襲を知らせるわけだ。警報を。
浅井殿下の空襲のサイレンが全然なくなった。
全然なくなって、それこそ気持ちの良いゆっくりした朝が迎えられた。
それはやっぱり生まれ変わったっていうとちょっと違うかもしれないですけど、なんか不思議な感じでしたね。
そうですね。しばらくね、これで空襲がなくなったんだなと。
平和なんていう言葉は全然そんなこと使いませんでしたけど、ただね、戦争は終わったんだなという感じでしたね。
33:08
今でいう、例えば精神的にすごい辛い目にあったりしたら、
例えばトラウマっていう言葉とかがあるじゃないですか。
いろんな意味でうなされたり、幻覚、幻聴があったりとか、
そういうものって全然なかったんですか?つまり戦争終わってから。
なかったんですね。きちんと切り替えやすいんじゃったんですね。
じゃあ、街歩くのも昔は怖かったりしたと思うんですけど、それも全然なくなった?
その辺はどうなんですかね。子供だったからなのか、田部さんのご自身のパーソナリティなのか。
親はやっぱり安心したんでしょうね。子供を殺さないといけないんだなっていうことでしょうね。
ただ、親父は仕事はどうなるのかな。海軍からの仕事ですからね。
そういった仕事。それで、まあ、余計なことですが、その後ね、
そういう仕事を続けてやってきたかったのは、やっぱり仕事がない。
それで仕事が、加藤さんとかいうのが仕事を一生懸命家に持ってきてたんですよ。
ところが仕事をしたときに、お金を持って泥にされた。
そうなんですか。
そういう悪質なのもいたんです。その人も困ってたんだろうと、あとは思いますけどね。
でも、お父様はショックですよね。ショックというか、子供も世にいて大変だったでしょうね。
だから、とにかく大変な時代でしたよね。
今度は命が助かったというだけで、じゃあ助かればね、食っていくのも何でもいいのに。
今度は食う心配ね。やっぱり人が食べなきゃいけませんから。
その食糧事業が最も悪くせぐるんですよね。
そうなんですね。
それでどんどんどんどん復印して、どんどん帰ってくるんですが、人口が増えちゃうんですから。
そうか。食べ物はそんなに増えてないのに。
そう。食べ物が増えてないのに人口が増えるんですからね。食べ物取り合いですよね。
しばらく経ってから、親中軍、いわゆる米軍が放出物資といって、いろんなお里だとか、いろんな肉だとかね、そういったものをね。
あれなんかもううずいわりがたかったけど、そんなに頻繁にあるわけじゃありませんしね。
だからその当時、戦争中ですかね。
ちょっと今そっとうっかり言わせたけど、
藩司が、法を守る男が自分でもって辞めをやっちゃいけないといって、一切辞めをやめて、生活して死んじゃったんですよね。
山口藩司。これは有名な話ですよね。
戦争終わって、精神的なものとしてはわりと早く切り替えられて、今そういう意味ではお金だったり、身体というのは食事とかっていう意味では相当苦労されてきたってことですけども、
ご自身の中で、結構その未来というか、将来こうなりたいんだとか、戦争終わってから、結構本当に明るく描け始めたのっていつぐらいですかね。
結構終わったらすぐ、将来こういうふうに、これから日本でこうなるんだとかこうするんだみたいにすぐ描けました。
直後はそんなこと全然考えられませんでした。
いつぐらいからそういうふうに見えるようになりました?
36:02
そうですね、やっぱり学校通うようになってでしょうかね。
それでもやっぱりね、弁当の中にジャガイモの味付けしたやつがね、切ったのがゴロゴロ転がったり、そういうの持って行ったりなんかしました、時代ですからね。
私だけのところだけじゃなく、周りにもそういった人がいっぱいいましたから、まだまだ生活のフロイというのは全然できていない時ですね。
それはしばらく続きましたから。
逆に戦中に当時、壁少年は、いろんな少年がいたと思うんですけど、やっぱり将来国のためにということで軍人になりたいとかって、結構僕がお話し聞いた方が多かったんですよ。
戦争終わった時に、そこでちょっと拍子抜けしちゃって、その後夢がなくなったみたいな方も結構いたんですけど、たぶんその辺ってどうだったんですか?
そうですね、別に僕はね、軍人になろうとかそういったことを思ったことはありませんでした。
そういう意味では喪失感とかも別になかった?
あと2年経てば、ようなしに志願はしたでしょうね、あと2年戦争が続いたら。ただちょうど6年生が終わった時ですからね。
それが運命というかタイミングですよね。
そういった点では助かりましたね。
あとはやっぱり新聞を読むのが当時当たり前だったという話はありましたけど、今振り返ると情報がかなり操作されてたっていうこともあると思うんですけど、
そういうことも含めて、70年経った今、戦争終わってからすべてが分かった時点で、国だったり、いわゆる親中軍だったり、当時の日本の報道機関だったり、天皇陛下だったりに対する何か気持ちが変わったとか、何かそういうものってありますか?
大いに変わりましたね。
どんな感じにどう変わりましたか?
やっぱりね、ああいう時代って二度と会ってはいけないなっていうことがまず大事ですね。
国家主義っていうのはどうしてもやっぱりね、こういったところで戦争に自然と追いやるような形を作っちゃうんです。
だからそういったことはまずいけないということですね。
自然とっていうことですけど、今もいろんな意見があると思うんですけど、この70年後の今も国が少し、国がというか世界が、日本もいつか戦争になっちゃうんじゃないかみたいなふうに言っている人もいますし、全然そんなことないという人もいますけど、
その戦争を体験された田部さんから見て、今のこの日本の空気、雰囲気とかっていうのはどう感じますか?
やっぱり危惧してますね。
例えばどんなところで感じますか?
そうですね、やっぱり近隣の諸国とはやっぱりうまくなかなかやっていけないというようなことね、こういったことがやっぱり一番いけないですね。
たまたまね、立地的にソ連があったり、北朝鮮があったり、でもそれもある程度ね、やっぱり強調していけるようなムードはありますよね。
ただ北朝鮮は全くわかりませんよね。
それじゃあ北朝鮮のためにだけね、やっぱり軍備を知ればいいのかとか、そういうことになるとまたお互いに力をつけちゃって、そういった方面ばかり力をつけちゃいますとね、これは余計危険ですね。
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だからお互いにそういったことではなく、もっと腹を張って話し合いをするとか、
僕が困っていれば困っているものを援助するぐらい、やっぱり努力はないとやっぱりいけないと僕は思いますね。
もう一切戦争はね、二度となっちゃいけないと。
それが一番です。そこからスタートしないと。
これ、勝っても負けても同じです。
勝っては自分のところで死害はゼロかと。絶対そんなことはありません。
勝ったところでも同じ。嫌な思い出なくちゃならないし。
その意味でさっき田部さんおっしゃったように、僕がちょっと気になったのは、
望むと望まずあると、気づくと気づかずあると、自然といつの間にか戦争になっちゃうみたいな空気っていうのはおっしゃいましたけど、
当時小さかったからなかなか感じられなかったかもしれないですけど、
その海戦の前の一番古い記憶をたどったときに、
いつぐらいに、やっぱり海戦って言われたから戦争になっちゃったっていう感じなのか、
半年前、1ヶ月前ぐらいからなんとなく世の中がそろそろ本当にやばいぞみたいな空気になっていったのかとか、
なんかその辺っていうのは覚えていらっしゃればですけど。
その時はあんまり実際に正直言ってそんなこと思わなかったんでしょうね。
後でいろんなことを調べてそういうことがわかったから、
ああ、あの時はこうだったなっていうことには振り返ればわかりますけどね。
ただね、気づいてからなってたらもう遅いわけですからね。
その中でちょうど聞きたかったんですけど、70年たって今、いろんな感情あると思うんですけども、
今日実はですね、この目の前に少年の戦争体験、星の瞬く空が読み聞かせようっていうのをさっき田部さんがいただいたんですけど、
これはどんなものなんですか?
そうですね、やっぱり戦争を二度と起こさないということを自分らが伝えなきゃいけない義務があると思う、責任が。
そういったところから広く語りかけると言っても、やっぱり口でしゃべることなかなかできませんから、
やっぱりそういったことでもってね、少しのグループにでも広げていったらいいなということから始めてみたんです。
冒頭の数行だけ読みますけど、あきらくんでいいですかね。
あきらくんは昭和8年、東京荒川区で生まれました。
当時の東京下町はコンクリート作りの建物はごくわずかしかありません。
木造のトタン屋根、あるいは河原武器で2階建ての家も少なく、1戸建て住宅より長屋の方が多かったようです。
これは、たべえさんご自身の体験をあきらくんと名前を変えたという感じですかね。
これはすごく貴重なものなんですけど、これは聞くところによると、たべえさんご自身の経験をまさにこの文字にして、
何部何部何部って済んでいて、今までずっと配られてきたってことですよね。
ただ多少あれのフィクションになっているのは、動物園の動物が戦争であれされたの。
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これは秋山千恵子さんがずっとラジオで喋ってましたよね。
そういったものを見入れしていたものですからね。
トンキーですね、このトンキーの問題。
それぐらいですね、あとは全部私の体験そのものです。
やっぱりそういう意味では、なかなかおっしゃったように、
喋るのも大変ですし、喋る人数も一度限られていますし、
そういう時にこういったものを残していくためにはすごく素晴らしいことだと思います。
僕自身も僭越ながら今回のインタビューも永久に残せると思うので、
いろいろご協力させていただきたいと思っているんですけども。
いいですね、でも読み聞かせ用なので、
やっぱり一番ある意味聞かせるべき、聞いてほしい子供、お子さんにいいですよね。
これ実際いろんな方が見ていると思うんですけど、
田辺さんの感覚でいいんですけど、読み聞かせは何歳ぐらいからいけそうですかね。
やっぱり小学生の今学年でしょうね、4年生ぐらいからでしょうね。
そうするとよく聞いてくれるし、質問も出てきますよね。
当時もそうですよね、当時の田辺少年もそのぐらいだったんですね。
最後にここまでお話を伺ってきて、戦争70年経ってですけど、
この読み聞かせの部分と重なる部分はあると思うんですけど、
田辺さんもお孫さんいらっしゃったりすると思うんですけども、
これ聞いている中にもそういうお孫さんだったり、
あとまだ生まれてない子供も今後聞くと思うんですけども、
そういう子供たち、あと僕のような親の世代に向けて、
何か一つアドバイスというかメッセージというかいただけるとしたら、
どんな言葉をいただけますかね、戦争を体験した方として。
そうですね、戦争っていうのは勝ち負けがないんですよ。
勝者も敗者もないんです。どっちも敗者なんです。
これはもう一番はっきりするんです。
もう本当にね、食べ物から蹴るものからみんな失うんですからね。
これはもう生きていけません。これはお互いなんです。
お互いに今日、ただ今の戦争はですよ、
私たちが経験した戦争とは違うかもしれません。
遠くの方へね、ボタンを一つ押せば、やはり核爆弾でもってね、
何にもなくしちゃうことができるから、
早物勝ちだかもわかりませんけど、私はその辺のところはよくわかりませんけど、
いずれにしても、それやって勝ったとしても、
その抱負は必ずどこかからあるわけです。
ですから、勝った、負けたということは絶対ないんですね、これからの人は。
だからもう自分が生きていく、この中の平和を保つには、
もう戦争というのは一切あってはならないということだと思うかと思います。
ありがとうございます。
今日はですね、東京都足立区梅島の壇井健さんにお話を伺いました。
壇井さんありがとうございました。
どうも。