1. LIFE UPDATE │ YOHEI HAYAKAWA
  2. 「B29がやってきた──畑に伏せ..
2025-08-12 1:21:52

「B29がやってきた──畑に伏せた、あの日のこと」遠藤隆視さん【戦争の記憶29】

spotify apple_podcasts youtube

▼今回のインタビュー

青森の疎開先で、空を埋めつくすB29の編隊。

逃げ場のない野原を走り、畑の溝に身を伏せて、機銃掃射をやり過ごした──。

1933年原宿生まれの遠藤隆視さんが語るのは、

焼け野原と化した東京、灯りのない列車での疎開の旅、

そして信じ合い、支え合って生き抜いた人びとの記憶──(2025年取材)


▼「戦争の記憶」とは

戦争を体験した一人ひとりの「生の声」を、記録し、未来へつなぐプロジェクト。

2013年より早川洋平が全国各地で証言者のお話をうかがい、映像や音声で記録・発信しています。

http://memories-of-war.com


▼【聞き手・早川洋平プロフィール】

はやかわ・ようへい/1980年横浜生まれ。中国新聞記者等を経て2008年起業。羽生結弦、吉本ばなな、髙田賢三、ケヴィン・ケリーら各界のトップランナーから市井の人々まで国内外分野を超えてインタビュー。13年からは戦争体験者の肉声を発信するプロジェクト『戦争の記憶』にも取り組む。『We are Netflix Podcast@Tokyo』『横浜美術館「ラジオ美術館」』『石田衣良「大人の放課後ラジオ」』等メディアプロデュースも多数。


▼最新刊『会う力-シンプルにして最強の「アポ」の教科書』(新潮社)

https://yohei-hayakawa.com/auchikara.html


▼あなたの想いを、プロの対話と映像でかたちに残す

『PORTRAIT INTERVIEW』(ポートレート・インタビュー)

NetflixやUNIQLOなど世界的ブランドの魅力を引き出してきたプロインタビュアー・早川洋平が、あなたのストーリーを丁寧に聞き取り、高品質な映像に仕上げます。

ブランディング、節目の記録、家族や大切な人へのメッセージとしても。

https://life-interview.com/portrait.html


▼初心者でもプロでも。

インタビューや対話を学びたい人のための

『会う力』養成講座

https://www.auchikara.com/


▼ケヴィン・ケリーさん×早川洋平対談原稿を無料プレゼント!

早川の最新インタビュー情報やエッセイ等をお届けする無料ニューズレター『LIFE UPDATE LETTER』に登録頂いた方には、WIREDの創刊編集長で世界的な思想家としても名高いケヴィン・ケリーさんと早川洋平の対談原稿全文テキストをプレゼントさせて頂きます。

『LIFE UPDATE LETTER』

登録無料 https://yoheihayakawa.substack.com/


▼本やセミナーでは見つからない

あなたの可能性や悩みの解決の糸口を

プロインタビュアー早川洋平が引き出す

『LIFEUPDATE SESSION』

https://yohei-hayakawa.com/session.html


▼僕のメンター北川先生の教えの核心を

音声プログラムとしてまとめました

『瞑想の基本と実践』

https://pro.form-mailer.jp/lp/ce6f5cb8321253

『才能がもたらす平和感』

https://pro.form-mailer.jp/lp/e8613bc9321246

サマリー

このエピソードでは、遠藤隆視さんが91歳の時に語る戦争の記憶に関する個人的な体験が中心に展開されています。B29による空襲や学童疎開、西田東の少年時代の思い出など、戦時中の生活や空気感が詳しく描かれています。青森での戦時中の経験について回顧し、B29による空襲や疎開の出来事、幼い頃の思い出や農作業、家族との別れによる戦争が彼の人生に与えた影響を深く掘り下げています。疎開生活についても語り、青森の畑での生活や食糧不足に対する子どもたちの工夫、教師との共同生活などについて触れています。終戦後の混乱の中での体験についても言及し、リンゴをリュックサックに詰めて帰宅した際の驚きや悲しみを共有し、復興に向けた協力の重要性を強調しています。また、高橋さんが感じた戦争体験を通じた食糧不足や助け合いの精神についても語られ、戦後の状況や当時の人々の生活、戦争が今の世代に与える影響についても触れています。

戦争の始まりと少年時代
はい、じゃあ最初にお名前と、青年月日を教えてください。
遠藤隆視、昭和8年12月24日。
クリスマスイブですね。
そうです。
じゃあ今、この取材時では91歳。
そうです、91歳と7ヶ月ぐらいから。
はい、ありがとうございます。
今日はね、いろいろ、戦争の記憶ということでお話を伺っていきたいんですけども、
お生まれは、今日お邪魔しているご自宅、東京の原宿とか代々木周辺ですか?
ここじゃなくて、今の病院は中央日赤病院、渋谷区の宮城町。
広尾とは違う?
広尾、広尾。
本当ですか?僕の兄も広尾で生まれています。
そうですか。
うちの父もそこでお世話になっていました。
今はもう宮城町と言わないで広尾って言うんだよね。
ですよね、あの日赤も古い日赤の時から。
そうそうそうそう。
あ、そこで生まれたんですか。
うん。
あそこはもう、しょっちゅう、なんていうかな、年頃年寿、寿命、ちょっとぐらい歩いてすぐ行くというような感じですよね。
自宅は要するに、昔の原宿、今の神宮前三丁目か。
だから渋谷区と港区のちょうど境目のところですよ。
なるほど。でも本当に都会じゃないですか。都会の生まれ。
そこで育ったんです。
なるほど。
そういう意味では、そこから少し引っ越されたり、いろいろあると思うんですけど、やっぱり大きく言えばこの辺で生まれ育ち、今もいらっしゃるってことなわけですね。
そうですね。戦後あるしてからしばらく経って、ここに来たのは昭和の何年ぐらいかな、20、戦後あって、昔のお米屋さんやってましたからね。
そうですよね。
昔はお米屋さん個人で営業できなくて、工団、工団って言ってもお分かりになるかな。
わかります。
工団制になって、親父がたまたまそういう商売をやってて、それで強制されたのか収容されたのか知らないけど、その工団に入らないと入るものが入らないということで、
そこに勤めた関係上、工団のいろいろ収録されるんですよね。ここでもっと商売やりたいとか、こっちでやりたいとか、こっちは知り合いがいるから、知り合いが多いからここで商売やりたいというような感じじゃないんですよね。ほとんど競争的だ。
なるほど。
それで戦後終わってから、工団、しばらくは配給制度をやってましたから、やっぱり工団通じて、いくらか、いくら楽になったのかな、その地域に発展するようにというような形で知り合いのお店を出すんだったらどうぞという感じでね、あれしたんですけど。
その頃はみんなもう登録制だったんですよ。この人、仮に遠藤が福岡さん、中川さん、早川さんにお店を出してもいいですよ、私はお客さんになりますよ、どうぞというような、大いいところ、営業所になるわけ。
そのような関係で、ここがあってたまたま親父が管理してた、管理というか、一緒にみんな賄ってたところですから、自分で商売やりたくて、昔からずっと米屋やってましたからね、米屋どうしても切れないから、どうしてもやりたいんだって。
いろいろ登録制で、1500人だったかな、2000人だったかな、ちょっと忘れました。そういう人を集めなければここで商売やっちゃいけませんよというような許可制ですね、当時は。
商売から、高壇時代のお客様がいるから、今新しいお客さん集めるって言っても大変でしょ。昔原宿にいた、住んでた親父だから、こっちはほとんどいないが、高壇時代にいろいろお知り合いになった人、あるいは高壇時代からお客さんになれた人とか、
そういう人にお願いをして、既定の登録の数になったから、ここでやりなさいということで始めたんです。
ここじゃなくて、今も山野の通り、山野の真ん前に古いバラックで、それこそ展示中ですからね、そういうところ、高壇で帰ってきましたから、そこを引き継いでやって。
この道、だんだん広くなってくると、ちょっと店が出て、あそこが今度は道路改正で大きくなっちゃった。あそこ、いわゆる駅から南新宿、山野通りの反対側、今の広い通り、あの通りが予選企画、許可制で広がったんですよね。
話ちょっと戻っちゃいますけど、今日は事前に、今の青年合併の話があっても、おそらく太平洋戦争の開戦始まった時が、高壇さんたぶん8歳ぐらいだったと思うんですよ。終戦をたぶん12歳ぐらいで迎えてると思うんですね。
はっきり覚えてないと思うんですけど。まずちょっと伺いたいのが、いわゆる戦争が始まる前の記憶、空気感っていうのは、ちょっとうっすらでもいいんですけど、どんな感じの空気だったのかなって。つまり、子供心に、おそらく8歳ぐらいだったと思うんですよ、日本が戦争に突入した時。
学童疎開と戦争の実感
その時に、始まる前に、戦争が始まりそうだな、みたいな空気とかって、なんか感じてました?
それはね、ありましたよ。小学校2年生かな、2年生か3年生ぐらい。
だと思います、計算しても。
それで学校でいろいろ竹襟をこさえたり、下駄巻きじゃだめだから、裸足でやられるんですよ、だって。できないし。運動具じゃだめなんて、運動具なんかもうないですよ。あったとしても貴重でね。
みんな学年末になるとぼろぼろで、みんなもそんなの履いてないよ。そのうちにだんだん布だけの運動具かな、それで持って生活してたんだよな。
そのうちに、だから昭和2年、3年頃からそろそろ疎開をしなきゃいけないよ、というような形で、またもうそんなようなのがあるして。
なんか当時、戦争が始まった時に、なんか戦争っていう始まるぞ、みたいな時に子供心にどういうふうに何を思ってたんですかね?
あれでね、ラジオが昭和16年間、12月8日、戦争が始まって。だから、学校からね、今日ラジオ放送があるから、しっかり話を聞きなさい、というようなことでね、言われて。
それで、初めて戦争だった。戦争が始まる。子供の頃は小学校だから、学校はそんなこと言ってるけど、みんなもう幼稚でガチャガチャしてる連中ばっかりだから、戦争だなんて言ったら、国がやるんだから、我々たちは関係ねえや、というような感じ。
大人の人の方が帰って、大変だったね。これから大変だぞ。食べ物もなくなってくるし、アメリカだから機械が多いし、日本なんか一握りだよ、なんていうような感じでね。
戦争が始まったらもう、どっかいいとこ見っけといて、逃げなくちゃダメだよ、って。今からそういう心構えをしなきゃ、というような感じで大人たちは言ってたんですよね。それをまともに聞いたことは聞いたけれど、それ本気にならないですよね。
あんまり実感が、やっぱり子供だから、そこまでなかった。
実感があるでしょ、子供だから。
で、そのうちに小学校4年の時だ。小学校4年から初めて学童疎開。
で、4、5、6年生かな。それぞれ組を変えて、年齢が決められてるから、学童疎開。学童疎開やります、っていうようなことで。
で、4年の時は、その話はそろそろと言って、もう5年生から学童疎開かなっていかなきゃダメだ、ということで、4年、5年生、6年生は学童疎開のことで密閉だったんだよね。
そうすると、高橋さんの中で、さっきラジオで回線の情報が入った時は、正直あんまり子供としては実感がなかったけど、やっぱり疎開いよいよするぞっていう時にやっぱり戦争が始まったっていう、逆に子供としての実感があった感じですか。
うん、まあそんなようなことで。だから戦争始まると、いや、使い捨てにならなくて、物を大事にするとか、それからこういうものは、戦争に役立つから取っとけよとか、戦争が始まったら、いらないよ、敵が来たら、こんなのあるしてダメだよとか、英語をしゃべっちゃダメだよとか。
ああ、言われたんですね、やっぱり。
英語のものは、英字が書いてあるやつはみんな捨てなさいとか、目につかないようにしてください。それこそ面白くなかったね。自分の好きな、大切にしてたようなものをみんな破棄しなきゃいけない。それ以外見っかると大変なことになるよ。
大変になるということは国族になるよ、と言うようなことを大人がてらに言ってくるわけだけど、言葉はそんなことを知らないから。
そういう意味では、たかしさんは逆に英語の何か、実は始まる前は結構触れてたとか、なんかそういうのあったんですか。
うん、そんなようなことはないですよね。近所でお山の大将を聞いて、遊んでるほうが多かった。遊びに行ったって、竹持って、戦争の敵をやっつけるとかさ、そういう体に体操はできないですよね。
ラジオ体操だなんて、できなかったんだから、学校行ってラジオ体操だなんて、あんまりなかったの。やらなかった。電波が流れちゃいけないとか、敵に感知されるから。それこそそういうようなことがあったよ。
じゃあそういうのが本当に、最初の海戦のラジオの時は実感なかったけど、そこから日々刻々といろんな今みたいな形で、やっぱり子供ごとに実感が湧いてきた。
情報が入ってくる時間。
B29空襲の記憶
今フィリピンのなんとかという島で、日本軍の飛行機が、アメリカの爆撃機、30機とか20機とか、爆撃したよとか、なんとかっていう、
日本軍砲板隊とか、大将とか、言ってやる人だけど、それは今で思うよ。何言ってんだって。
でもその時は高橋さんもですし周りもそうですけど、まさに日本行け行けみたいな感じで、誰も疑いなくみたいな感じでした。
それは日本はすげえなあ、そんなに強いのかなあって。それこそ開港旅行で山本一郎君が戦後してハワイに行ったとか、あいたいなことは全然ニュースになってないですよね。
その時は。戦火上げたとかなんとか。戦火がいいことばっかりある人たちがね。要するに電話放送ですね。
電話が多かった。
ただ当時はね、それを疑う人が多分ほとんどいなかったと思うんですけど。
これ実際、疎開が決まったってありましたけど、その時、そもそもですけど、高橋さんご家族、例えば兄弟とか、さっきお米屋さんの話もありましたけど、
お父さんもお母さんはみんな一緒に戦争が始まるまでは住んでて、始まってからもお父さんは、ご兄弟は例えば兵役に行ったとかそういうのもなかった。どういう感じだったんですか。
もう全然離れてた。
戦争はお父さんも行かなかった。
年齢ですからね。
ただし、お父さんはね、その頃自動三輪乗っかってて、今で言う運送屋かな。
運送会社に勤めてて、その自動三輪で運転して、ちょっとしたアルコールだとか、戦時の何を作ってたかわからないけど、そういう軍事品を製造してる会社に勤めてたんですね。
ですから、そういうような形で、その三輪車を運転してても、ある程度自由だった。
だから、わりかし我々たちは疎開するまでは、食べ物でも衣類でも何でも自由にね、手に入るようなまだ身分だったんですよ。
だから不幸中の幸いで。
本当はそんなようなことだから、親父は親父で、親父はもう家族のことあんまり見てくれないんですよね。
そっちの方が一生懸命になっちゃうんだ。国の方でやらなきゃいけないから。
そのような時代だったね。
戦争が始まった直後、家族で、お父様も含めて、これから戦争が始まってみたいな話とかってあった記憶とかってありますか?
そんなことないですよ。家族でそんなような話はしないです。
戦争が来るから、ラジオがあったら喜んでりゃ、みんなで一緒に喜んで走ってた。
だんだん厳しいのは、我々たちは5年、6年生で、そこに行ったときに終戦を聞いたんだから。
うっすらね、もう6年生ぐらいになるとね、分かったね。
そういうことが出場だった。
だってね、そこに行っててね、私はほら、静岡県に行ったのさ、一番最初。
静岡県のね、火水祭、今でもありますよ、火水祭。秋葉神社の火祭の有名なお寺と一緒になって。
それで火祭もやったけど、そこは山の上なんですよね。
山の上で空襲警報が、わーってサイレンですよ、今。
サイレン聞こえるとB-29が空飛んでるんですよ。
それでまばゆく、小さいまばゆき袖みたいな、あれB-29だか何だか知らないけど、
日本の戦闘機がそのB-29の編隊を追っかけてて、
何だか鉄砲を撃ってんだか、銃撃してんだか分かんないけども、
あれすると時々パッパッと火が見えるんだけど、全然効かないんだろうね。
で、追っこってくんないと。小さいやつ追っこいて。
だからそんなようなことを見ちゃってるから、あー全然ダメだと。
ニュースと違うなみたいな。
もう勇気が違う。全然こっちが大きい。敵の方が大きくて、味方が小さくて、味方がやられてるじゃないかと。
それは百分は一見にしかずですね。一目瞭然。
そんなようなことで、人がだんだんありして、5年生の時から、
今度はここにいたんじゃ、危ないから。で、今度は青森行きましょう。青森ですと。
で、青森行ったら、北津がある。あれ、太宰治の懸念家がある。今でもお寺がありますよ。
まあ、和尚はいないけど。そこにしばらく住んでる。
で、私はその頃、いろいろ言うこと聞かない。学大生の方だから。
青森での空襲体験
全然その言うことなんか聞かないで。空襲警報だよって言ったって、一人でバーッと行ってね。
町の中でバーッと行って、どんなかなと。
国心が強かったんですよ。
すごいですね、それは。
でね、そこであの頃はね、青森の津軽安都。どこだか、まあ、基地は分かんないけど。
基地はないから、艦上機ってのがあるんですよ。ほら、船から飛び出る。
航空母艦と違う。それの編隊はできないけど、
短期でね、小さい爆弾、あるいはして、旋回しながら、様子見ながら壊れたんですよね。
攻撃は少しできる。それにね、狙われたことあるでしょ。
そうなんですか。
畑の中なら大丈夫だろうって言うようなことで、ある日したら、やっぱり撃ってきた。
だから急いで、畑の溝、中に隠れてね、助かったことがある。
それはさすがにもう命、ちょっと危険というか覚悟しますね。
もう感じてる時、もうダメかなと思ったら。
まあ、子供かけられ、そんなに大きな気持ちは持てたかどうだか分かんないけど、怖いなっていう気持ちの方が先だね。
それ当然空襲警報出てたんですか。
ああ、もう空襲警報出てない。
出てなくて。
そういうやら。だから出られるんですよ。
まあ、さすがにそうですよね。さすがに高橋さんがガキ大将で肝が育ってても警報が出たら出ないですよね。
出ない。そこのお寺、畑が、じゃない、お墓がね、2カ所ある。
で、1カ所でね、そういうようなことをして、お寺のお将も、あのお墓どうなってるかなというような形で見学してた。
私も一緒に見た。
そしたらね、弾が撃った後、弾がおら、命中しないと土の中に潜り込むでしょ。
どんな弾か、エンジンを掘ってみようよって。
掘って出した。
出したんですか。
出したんですよ。そういうことを。
で、わたっぽでは、4、5日前に爆弾落とされた。
自陣車のね、入口の道路の、建物、あれ建物だったら大変だよな。
道路の真ん中にね、爆弾をあるしたの。
だから爆弾だからね、深いかなと思って、こう深くあるしてるかなと思ったら、そうじゃない。
だから浅いんですよ。浅くてふわーっと行くから、周りの家がみんなガラスがなくなったり、玄関だとかなくなってたり。
火災はなかったんだね。
だからその辺のことです。
そういうことをやってて、もう6年になって。
6年になってからね、あと夏ぐらいになって、夏は8月15日が終戦だから。
それまでに青森だから、畑はリンゴ畑でしょ。
だからリンゴ畑から通り越して行くと山がある。
そこから冬のために滝木をね、蓄えなきゃダメだと。
いうようなことで、滝木を毎日毎日みんな背負ってるんですよ。
なぜいう陸作家ってないですよ。
ないですよ。
腹の中で、自分でこさいた腹の中に尿を入れて、その尿をうまくあれして、シュッて帰ってくる。
燃料を出しに来て、毎日毎日。
それで大きいものを鋸で切ったり、斧で切ったり、宅配。
そんなような形で小学校時代、勉強だなんてほとんどない。ないです。
あんただけ仕事を手伝ったり、農家の手伝いをさせたり。
だから熊田とか稲刈りとか、そういったのをやってたね。農作業はほとんどですよ。
なるほど。
2回目の総会に青森の話をちょっとしていただきましたけど、学校の授業とかほとんどなく、農作業がほとんどっていう中で、
疎開の思い出
いわゆるその時の青森での集団疎開という形でいったと思うんですけど、
同じ学校の人たちがみんな一緒に青森に行ったんですか。
最初の静岡の方の話に戻った方がいいかもしれないですけど。
静岡も違う。それぞれここの組は、
クラスごとなんですか。
そうそう、クラスごと。
あんまり仲のいい奴は、逆に学校の方でもいろいろ考えたんでしょうね。
別々にして。
そういうふうにして。
だから、加水祭と、それからもう一つ別の同じ学校。
同年生が今でいう森の石松のところに行った。
だいぶ離れてるでしょうね。
静岡の方の話に戻っていいですか。
戻りますけど、
率直に疎開が決まったとき、どんなふうに感じましたか。
そもそも家族みんなで行ったわけじゃない。
ないし、子供だけでしょ。
ご兄弟とかもいたんですか。
兄弟が、弟がいた。
弟は一年遅れだから、一緒に行って、
一緒に学童世界に暮らしたんだな。
それは決まったとき、さっきからお話聞いてるといい意味で気持ちが高しさがすごく強くて、
やんちゃら面もあったとはいえ子供なので、当然疎開が決まったとき、
親と離れるのがすごい不安だったとか、泣いたとか。
それはやっぱりある程度、もう仕方ないなというような感じでいたけどね。
だから一番の思い出はね、青森から静岡行くとき。
静岡から青森じゃなくて。
静岡から青森行くとき。
そのときね、今で言う飛行機だとか、そういったのはないから。
どっか東海道線がだらだら。
かしきりで。
遠いですよね、青森ね。
だりして、それで原宿の駅、真夜中。
それこそ明かりなんか全然しゃない。
真っ暗でしょ、しゃないの。
むしろ暗くね。
そこで原宿駅に流れるよって聞いたのは、どこだか知らないけども、
全然親が待ってるよって。
親の顔見られるよというようなことなんだ。
こんなに暗くて見えるかよって。
文句言った方がいいんですよ、私は。
それで実際に原宿駅に着いたら、
本当に真っ暗だけどもってわからない。
止まってるあるいは30秒だって。
もう止まってるうちに入んないですね。
だからずっと直行して、ふっと止まって、ふわっと行くわけですよね。
だけど、別所なら長いだろ、親がどこにいるかってわからないわけでしょ、子供たちだから。
先祖たちはあらかじめ、医者はわかってるかもしれないけど、あらかじめ知らない。一生懸命。
で、真っ暗だから。
駅の方も真っ暗。
列車も真っ暗。
だから分かんない。
それでお互いに呼ぶんですよ。
名前を。
戦争と食生活
ふとみんな来る来る。
そこで名前あって、ふっと押して、ふっと見ただけでもうおしまい。
だから、親とすれば子供だから、何食べてるのかわかんないかなっていう家のことで、
ご飯食べた後、残ったご飯が干して、
そういったのと、それから大豆。大豆の一体質とか。
そういったのがね、袋に入れてくれてね、それを渡されてもらって。
それを覚えてるな。
それで、青森行くまでに、それをポリポリポリポリ食べながら、喜んでたのかな。
その袋でもらったのはご両親から直接もらったの?
そう。
じゃあ直接、ちょっとだけ話せたんですか?
本当にちょっとですね。
だから、お母ちゃん、お父ちゃん、そんなような形でしたね。
子供の名前を言われて。
その時、お父さんお母さんからかけられた言葉とか、覚えてますか?
かける暇ないよ。
もう一瞬ですもんね、今の30分ですもんね。
なんとか自分の親子で渡すのが精一杯。
そういう話をしちゃいけないってことだよ。
そうか。もう暗くしてるくらいですもんね。
だから、そういう面で厳しさもあったし、そういう楽しさもあったし、生涯忘れられない気持ちだよね。
じゃあそのワンシーンはかなり印象的に覚えてるってこと?
印象的に覚えてる。今で思えば、親ってもな、母親って子供を大事に思ってるんだなと。
愛情っていうのは初めて分かったんだね。
ちょっと時系列を整理させていただきたいんですけど、静岡を最初疎開した時があるじゃないですか。
その静岡に疎開したのは終戦の1年前ぐらい?いつぐらいですかね?昭和?
静岡は小学校4年。
だったらやっぱりもう昭和20年。
20年じゃない。
19年。
20年はもう戦争終わったでしょ。
その前の年。
昭和16年にありして、18年ぐらいかな。
18年ぐらい。
静岡には結局どのくらいいたんですか?
1年ちょっとだね。
でも結構いましたね。
その頃私が行った時は、ちょうど本堂で寝かされるんですよ。
本堂で寝かされる。
布団は自分の親たちが用意してくれた布団で持って出るけど、足がね、体が大きくなっちゃうから、布団の足が出ちゃうんですよ。
そうするとね、そこで冬なんか、冬だったんだけど。
霜焼けだね。私は霜焼けになっちゃった。
歩けなくなっちゃった。
結構ひどい霜焼けになっちゃったんですね。
ひどい水膨れになって。
それがより痛くて。ひひひひ。
ひひひ。とんかぶりながら行った。
だけど両歩、両歩って言うんですよね。戦争たちのことを。
そしたら気がついてくれて、これはひどいな、明日医者連れて行くからね、って。
で、街の医者におぶってね、連れて行って。
それ切らなきゃだめだよ、っていう医者に言われて。
そういうこと思いながらね、しょうがない。もう戦争だから、いい悪い言ってらんない。
切られちゃった。
切っちゃった。
切っちゃったっていうか、皮だからね。
指を切ったとかそういうことじゃないですね。皮のその。
ここがね、ぐわっとこうなった。
足。膨れて。
それを水を出すために。
その辺のことでね、一週間ぐらい病院へ通わないとだめだっていうことで、
どうやって行こうかっていうようなことからしたら、
両歩って言って、
先生より下の両歩、それこそ真っ赤ナイフだね、今で言う。
そういうのがあるしてるから。
それがね、じゃあ私をおぶってね、病院まで連れて行きましょう、というようなことでありしたんだけど、
その病院がね、遠いんですよ。火水祭から町に出るまでが、約20分以上あるかな。
それをおぶる。
山の中通って、畑の中通って、柿。
あの辺は柿が、柿ね。
柿ね。果物のほうが。
果物の柿。柿の畑が多かった。そういうようなところだった。
思いながら行かなくても、学校なんかも行かないでしょ、全然。
でね、一週間ぐらいそこらで、ありしたけど、
これはいいや、思い知ってた。学校行かなくても、そういうのがあるっていうことで、
まだ行って、まだ行って、まだ歩けない、歩けない、ずっとつけてね、ありしたんですよ。
だからそれが終わってね、しばらく経って、春が来て、春が来てね、あれね、
何月頃だろうな、そろそろ空襲が激しくなってくる。
B29。
B29を見たのは、もうだいぶ経ってからだ。
あれはね、天気が悪いような時じゃないから、6月の梅雨明けぐらいかな、
そろそろ青森に行かなきゃいけないよ、もっと安全なところに行かなくちゃいけない、ということで始まった。
それはそういうふうにね、文字通りいろんな飛行機飛んできたりとかあると思うんですけど、
いわゆる何か爆撃があったりとか、近所で誰か亡くなったとか、そういうのが具体的にあったわけではないんですか?
うん。静岡の時はそんなような空気ないですよね。全然ない。ただ本当にのほうほうのというような感じ。
戦争の背の字も話題にならなかったような気がしますよ。
その中でさっきのこの足、切ってとかっていうことですけど、いわゆる食べ物とか、衛生面っていうのもあるんですけど、
つまり経験していない世代からすると、やっぱり栄養とかもろくに取れずに、消毒とかもちゃんとできないと、
下手したらその傷だけでも破傷風とかイノシトリになるとかもあったと思うんですけど、その辺の食べ物とかも含めて結構普通に。
食べ物はね、今でいうお寺の一煉飯ですよ。だけど、静岡の時はよかったね。
なんだかんだで、春して。だけど静岡の方がおかつが、復食の方がなくて、なんていうのかな、寂しかったな。
毎日同じだったかわからないですけど、どんな感じの夕食でも朝食でも、どんな感じだったんですか。
本当にお米と味噌汁と一品だけだったとか、どんな感じですか。
われわれと食事するときは、長いこういうテーブルがピューってて、そこにこう振ると。
どんどんの一煉。
お米だけ。
静岡の時ね。最初の時はいいんですよ。
それこそ、「ああ、これはすごいな。うちにいるよりいいや。」って。
戦時中の疎開生活
うちにいればそうですよ。米飯なんか食べられないんだから。
食べたって、米を食べるんだったら、雑炊ぐらいなもんですよ。
おかげが悪いよ。
それに茄子だとか、かぼちゃだとか、大根だとか、ほうれん草だとか、そういったようなものばっかり。
汁が多いやつだよ。
それ食べさせられてるから、かえってごちそうだった。
でもやっぱりお腹は空いてたんじゃないですか、子供たちは。
お腹は空いてるけど、みんなすでに慣れちゃうんだよね。
あれどういうわけだかね。
全然サンジはなかったな。
食べ物は本当にこれが食べたかったな、あれも食べたかったなっていうような気持ちにはならない。
もらったものはすぐ食べると。
人が食べてるものを欲しいなって言って、おい、分けるよっていうような感じで食べたことがある。
それぐらいなもんですね。
そのお寺に疎開してた人の数ってどのくらいいたんですか?
その同じ学校の同じクラスの人だけだったんですか?
例えば他の地域は?
地域はありました。
あの時は臨泉とか駆け塚とか、私らは順城、原宿国民小学校とか、3校、4校ぐらい。
全部で何人ぐらい?100人単位ぐらいみんなでいたのか、もっといたのか少なかったのか?
100人ぐらい。最初は150人ぐらいいたんですよね。
そのうちにだんだん親から心配だからって言うんで、親も疎開にいたら危ないからって言って忙しいでしょ。
一緒に子供を連れて行って、一人に来て、そういうような連中は親と一緒に疎開してた。
それぞれあったわけですね。高橋さんは寂しいとかはなかったんですか?
寂しいのは寂しいで、みんな同じだから、教区が。
寂しいけど孤独とはちょっと違ったってことですね。寂しい人たちがみんないっぱいだったから。
それでほら、周りは周りみんな同じだから。
だから逆に楽しいことを探すとかね、逆に遊び方を変えるとか。
どんな遊びをしてたんですか?楽しかった遊びとか思い出はありますか?
あの頃はね、普通に早い話が兵隊ごっこだな。兵隊ごっこ。
こう分かれてしたんだけど、それも最初のうちはにぎやかにワーワーワーワーやってたけど、
そのうちに戦争がだんだんだんだんあるし、こういうことやっちゃうんじゃダメだって。
訓練だけやろうって。
竹を取ってきて、先っぽをどっちが鋭く切れてるかなとか、
こんな丸まってるんじゃダメだって。
いろんなような形でね、子供ながらにみんな感じながら遊んでた。
遊び道具をね。
じゃあやっぱり遊びだけど、今考えるとちょっと非日常ですよね。
その戦争と向き合ってるような。
そうそう。それでほら、今みたいに遊び道具だって、
駒だとか、米駒だとか、そういったの無いんだからね。
木のあれを持ってきて、駒をこさいようとか、そういった工作物っていうかな、
手芸品的なものが結構出始めたね、子供の時に。
青森じゃないや、最初の静岡の疎開はわりと1年くらいあったっておっしゃいましたけど、
その時にお父さんお母さんと手紙やり取りしたりとか、そういうのは?
そういうのはありました。
あるけれど、それも時限が決められて、
いついつにこういうことをやるからって。
出すやつと出さないやつと、いろいろ。
子どもたちの遊び
でももらったって、学校経営図だから、直接もらえない。
そんなのあるし、どうせばれちゃうから、本当のことを書けないで。
子供ながらにそういうことを、やっぱり悪口が働いてくるんだよね。
だからそんなことで、全然興味なかった。
これすみません、ちょっと勉強不足で、もしわかれば教えていただきたいんですけど、
疎開するじゃないですか、お寺がお世話をしてくれるわけじゃないですか。
シンプルにお金?
例えば学校側で疎開するときに、親から1年分とか徴収して、お寺にそういうふうに納めてたのか。
お金とかってどんな感じだったのかな?
お金なんてなんも持ってないですよ。
じゃあもう完全にお寺側の行為で、全部面倒見てくれてたってことなんですか。
寝泊まりとか、あと当然さっきご飯が出るって言ってたじゃないですか。
だからそういうのは、国でしょうね。
渋谷区なり渋谷区、われわれたち渋谷区なら、渋谷区で持ってた人。
子供たち本人に渡らってないでしょう。
それはそうですよね。定期的に例えばお金をどうこうってことじゃなかった感じですね、今の話だと。
それでね、運のいい奴らはね、親にそういったお金を送ってもらうんですよ。
そういうのもあったんですね。
ところがそのお金が、物を売ってるお店がないから使えないやん。
あんまり意味がないってことか。
意味がない。で、このお金どうしようか。
みんなも今で言う、なんて言うかな。
荷物がね、検査もしなきゃ何もしない。最初から決まってるみたいだからね。
だからその一番下に突っ込んだらなんならない。
でもその頃、小銭はない。お札ですよ。
あるくらいは50銭かな。そこらのお札があって。10銭とか20銭とかっていう。
それがね、みんなもう紙くず。
お金なんか持っとって、これいらないよって。
まあでもそうですよね。買えるものがあるところでこそですもんね。
だからお金の用はお金じゃない。
まあその中で選挙が厳しくなってきてね、青森でさっきありましたけど、青森での生活は今度お寺じゃない?
お寺。
やっぱりお寺。
だからその頃はね、青森だからね、よかったですね。
ちょうど一番あずれだから、あんまり大丈夫だということで。
要するに周りの野山観察しなきゃいけないとか、そこにはそういうものが入ってくる。
一つの勉強ですね。一つの社会勉強。
一番楽しかったのがね、山へ行ったときにね、一番おいしいの。ほら匂いのいいの。松茸。
松茸と牛乳をね、やらされた。
だからそれ帰ってくると、松茸のご飯の食べ放題。
それは戦時中とは思えないですね。
そうですよ。そういうことはある。
それで水の海に行って、タニシを取ってくるんですよ。
タニシを煮て食べさせてくれたりね。
どうでしたタニシ?
僕も香港で食べたことあるんですけど、意外と食べれますね。
食べれます。おいしいですよね。あれもっとタニシ。今で言うタニシはなんだろうな、サザエかな。
ちょっと似てますよね。
そんなような感じで、サザエ、シナモンはおいしいけど、あれ焼いて食べたりしたり。
青森に行ったときには、我々たちは行ったときには、まだリンゴが小さかった。
リンゴはほら、今頃から大きくなって、だんだん色がついてくるような時期だからね。
その時に畑の畑を取ってくるんだから、毎日竹を拾って。
それでバレないようにリンゴ畑に入って、その青いリンゴでもなんでもいいから、何しろ食べたいものがないんだから、手近に。
だからそれを戻して、昼間食べるとバレる。戦争に見つかったら大変な話。
町の人はあんまりグチグチ言わないんだよね。町っていうか村だな。
そういうところで夜中、布団かぶりながらガリガリ食べてた。
だけど青いリンゴだから硬いんだよ。
音が出るんだよ。
みんな闇でガリガリ鳴ってると。
一回ちょっと大騒ぎになったことある。
そもそもですけど、祖会って要はクラスごととかありましたけど、先生も一緒に行ってるんだよね。
先生も一緒に行ってる。先生が一番の親分で。
そういう意味では、もちろん非常時だから当然、遠足とは違いますけど、でもある意味長いみんなでのクラスごとの集団生活みたいな感じってことですね。
だから先生の気持ちとやる気だな。
それでそういうところへ。今の時期だから、今の時間なら何時何時から何時までは絶対大丈夫だから。
安定感のあるときにそういう外出をさせたり、そういう行動させたりしてくれたわけですね。
戦争の終息とその影響
最初の戦争が始まったばっかりの時とか、日本が別に負けてるとは当時は思わずにってありましたけど、
さっきの話で修正まげになってくると子供でも小6ぐらいだといろいろわかってくるっておっしゃってたじゃないですか。
でも実際そのいわゆる学校の先生自体はそういうことは言わないわけですよね。
言わない言わない。
一番言わない言わない。
言っちゃいけませんもんね。
言ったら大変なことになるから。
でも子供同士でそういう話はしたりもそれもしない。
そういうのもできる。
でもやっぱり高橋さんもそうですけど、小6ぐらいだったらみんなわかってますよね。
もうダメだよ。ギンポン。負けちゃったよ。
でもそれは子供同士で話したことはない?
あるあるある。
どんな感じでした正直。そういうのはちょっと聞いてみたいなと思って。
そんなことないよ。最初みんな反発するんだよね。反発するからだんだんそうなってくると。
ほら生活が眩しくなる。米は食べられなくなる。肉は食べられなくなる。
現実が変わってきますもんね。
肉なんかほとんど食べないからね。ないから。
そうですよね。
魚だってそうでしょ。魚なんてあんまり食べないもんね。
思いのときは近所だから。湖、あれ津軽湖ってどこだかわからないけど、そういうところから取ってくる。
自分との人がやっぱり川上監督たちはかわいそうだなというイメージで、少しずつ最終のうちはクリスタル。
クリスタルに連れて行ったけど、連れて行くと畑仕事させるんでしょ。
村の人たちはそういう畑仕事さえできないくらいに徴用、軍の工場の方へみんな連れて行くから。
畑仕事はみんな子供たちにやらされたんだよね。
その中で話すいません、ちょっと前後しちゃいますけど、畑のところで撃たれそうになってという話がありましたけど、
それは繰り返しになりますか、青森来てからですよね。
だからやっぱり戦後、終戦間際だから、最初青森で、当然静岡危険だから青森行って、今も話の途中まで青森は、
いろいろあったにしても、命の危険はなさそうだったけど、今の撃たれそうになったあたりって、それは昭和20年何月くらいだったんですか。
もう戦後、戦争が終わりたいなというような前。
直前?
6月頃かな。6月頃だよな。
その時は青森にもそうやって来てたってことですよね。
青森まで。8月になってから、戦争はそろそろ。
8月15日っていうのは、まだ戦争やってたから、そこまではなんとかお寺で、今日ラジオ放送みんなで聞こうと。
いうようなことで、8月15日、青森に聞いたの。
御魂放送は聞いたんですか、天皇陛下の。
その時、どんなことを思いましたか。
その頃ね、何言ってんだかやっぱりわかんない。
言葉遣いもね、難しいし。
何よ、おぬれがどうのこうのな。神話なんとかってね。
お前わかってるかって。実はもう終わったんだよって。
それぐらいのもんですよ。
でも実際その時何思いました?終わったってわかった時。
じゃあこれから家に帰れんのかなって。
だけど家があんのかな、帰っても家があんのかなっていうのは逆に思ったね。
その頃、もうないよ。原宿は原宿だから、原宿は住んでたのがみんなないよって。
東京も大空襲あったじゃないですか。空襲も何回もあったりとか、そういう情報も入ってるわけですよね。
だから空襲、東京の空襲はね、あったってこと知らん。
知らないし、教えてもくれないか。
広島と長崎の原爆はどうですか?情報入ってました?
それも聞かない。大きな爆弾があって、それで戦争を曲げるんだ。
だから日本は勝てないよっていうような評判がある。
だからデマがね、デマで子供ながらに流れちゃう。
頭のいい奴はいろいろ推察するじゃないですか。
そこでね、しょうがない。じゃあ流れになる。しょうがない。
というような気持ちにずっと昔からだから、昔からっておかしいけど、
学校生活をやって、集団疎開をやってる間だから、それに慣らされちゃうんだよ。
良くも悪くもあんまり余計なことは考えなかったって感じ?
考えない。考えないし、考える時間を与えてくれない。
あれですよね、だから弟さんも一緒に行ってた。
そういう意味では弟さんと疎開生活は2年ぐらい?両方で。
弟さんとどういう兄弟として、どんな話したとか?
終戦の瞬間
兄弟だったら話ししない。
やっぱり今の疎開してる中の一人っていうだけ?
そうそう。あんまりじゃない。
それは話しちゃいけない空気とかそういうわけじゃないけど、あんまりそういう感じ、べったりって感じにはならない?
ちょこちょこっと話をするようになったのは、8月15日。
そうだね。家に帰ってもどうしようかとかさ。
家がないのにどうしようか。お前はあっち行けよ、俺はここだ。
いろんな話はするけど、具体的にわからないんだから、実際に。
その話ちょっと戻りますけど、天皇陛下の漁港放送聞きました。
終わったな、これから家帰るって今の話の時に、その瞬間、当然みんなで聞いてるわけじゃないですか。
周りの同級生だったり先生も、お世話になってたお寺とか、大人とか周りの人の様子ってどんな感じだったんですか、みんな。
ちょっと安心したような気持ちには周囲はなってたかもしれないけど、我々たちは、あ、もう戦争終わった。
ふーっと言うような気持ちにはならなかったね。
戦争終わったんだから、じゃあ今度はもう家に帰れるんだっていう気持ちの方が強くなった。
それで15日経ってから、2、3日経ってから、今度先生の方から、高校校で家に帰る、高校引き上げるから。
焼け野原の帰宅
そういうようなことを、おーっと。
それで忘れもしない、いつだったかな、何日だったかな、5日くらい経って、早いですよね。
みんなリックサック空っぽにしとけって言うから、なんだろうなと思ってたら、りんごをね、全部入れとく。
帰り、りんごのリックサックでしょって帰ってきて。
しばらく、りんご食べてたね、親も。親も兄弟も。
それで帰ってきた時に驚いたね、もう。
とにかく何にもないんだから。
やけの原。
やけの原って、それこそ私のところは原宿一丁目だけど、新宿の伊勢丹、新宿の伊勢丹のビルが見えたんだから。
残ってたから、それくらいやけの原だったってことですね。
うん。それくらいやけの原。
原宿ってのは少し高いんだよね。新宿よりちょっと高い。
だから、ああと思って。
全然親たちとの暮らしなんだろうなというような感じよりも、どこに寝るんだろうと思ったんだ。
よく見て、帰ってきた瞬間ね、あれ、うちないじゃない。どこに寝るのって聞いたら、ここだよって。
見たら、やけぼっくりの柱が立ってた。周りがトタンでこうしてさ。
中に虫廊かな。まだ虫廊ならいい方だけど、何にもないとこもあるんだよね。
そこで寝るんだよ。みんな、5人か6人。うちの家族は1人。6人一緒に。8人。8人一緒に寝るんだよ。
それは遠藤家?
弟さん以外にも兄弟もいたんでしたっけ?
お父さん、お母さん、たかしさん、弟さんで4人ですか?あと4人は?
あと4人兄弟。私が一番上だから、下。
もっとちっちゃい。あ、そうか。
それにおじいさん。おじいさんはいないけど、おばさん、おばあさん、だ。
そっか。
全然存在禁止だった。全然行かないから調子良くなったら、おばあさんとおじいさん、おじさんとそのお嫁さんが三宿部の方へ、
家を探して三宿部へ行ったから離れてた。
しばらく経ってから、いろいろみんな一生懸命やった関係で、今の土地にみんなが来るように家を建て始めて生活できるようになった。
復興への協力
でもさっきの話で、終戦になってみんなでリンゴをリュックサックに積んで帰るっていうのは、つまり青森からまた電車で帰るんですよね。
帰って原宿の駅っていうのはあったんですよね。
原宿の駅はあった。
そこにお父さんお母さんが迎えに来てくれてたんですか。
いや、迎えには来ないんですよ、みんな。
みんなで自分の家のある場所に帰るみたいな。
あの頃帰りは原宿の駅で降りたのか、どこで降りたのか、記憶がない。
記憶がないと、後ろまでファッとリックサックを降ろす瞬間はそこなんだけども、どうやって来たのか記憶がない。
でもあれですよね、当然それだけのやけの原ですし、大空襲もあって戦争もあって、同級生で家族を亡くした人とかもいっぱいいたんじゃないですか。
会いましたよ。
帰って、終戦終わってからみんないろいろ情報を先生たちが集まってる。
先生たちが情報をつかんだ。
あそこのあいつの親はいついつ頃に爆撃を受けて死んで、空襲にあって死んだよとか、いろいろ情報を先生たちは入ってんじゃん。
それは当時は発表しないけど、戦後終わってから各自子供を呼んでね、家に帰ってもこうこう、お父さんお母さんいないよとか、そういうような話を子供たちにするわけですよ、ここにね。
わからないですけど、究極的には帰ったら誰もいないっていう人もいたかもしれないですね。
そうです、かもしれない。
だからそういう子たちはどうしてるのかなっていうのは、気持ちも何もないよね。自分のことだけ考えないといけないから。
だって明日から寝るのに、ここで寝るのかな、嫌だなっていう気持ちの方が強いよね。
子供ながらも、やっぱり今までやってきた生活よりもっとひどいんだから。
戦争は終わったけど、生活はもっとひどくなってる。
どんどんどんどん苦しくなってる。
家に帰ってご両親と再会した時って、何か言われたとか、親御さんが嬉しくて泣いてたとか、高橋さんは何か覚えてます?
ほとんどないね、俺は。
俺からここでリトバリーするんだよ、と言われたぐらいなもんかな。
リックサックのリンゴを食べやがる。何個何個何個。一人ずつ分けるか。
その頃は親がみんな管理しちゃうからね。
兄弟二人だからさ、二つの家族だから結構あったから。
貴重な食料ですね。
ほんと食べるものもないんだから。それこそガス水。水道はあったけどガスだなんてないでしょ。
だから風呂入るって言ったって、親父が。それこそ街なんか歩いて、ドラム缶だとか、そういったのを集めてきて。
で、露天風呂で。焚き木はもういろいろある人いるから。
いくらのっぱらだって言ったって、大きな柱の燃えかすだなんて残ってるから。
燃料はそういった形で汚いけど、不自由なしで良かったでしょ。
あと水だな。水がちょろちょろちょろちょろでね。
30分経たないと、この瓶。瓶って言ったって瓶はないんだから。
入れるものだって焼き跡からもらってきた洗面器だとかさ、これは水漬けになるな、これは寺用器になるなっていうようなものを
集めてきて、それを使ってたから。水が溜まるまで大変だったことを覚えてるな。
あとは実際、学校の授業とかそういうのが復活したっていうのは、いつぐらいからなんですか。
8月20日とかに帰ってからすぐに復活したわけじゃないですよね、焼け野原で。
ないですないです。しばらく学校休職だ。
いつぐらい、はっきり覚えてないかもしれないけど、年明けてからなのか、どんな感じだったんでしょう。
年明けてから。
それで我々たちは旧四連隊、兵舎のところには駐留軍が占領してるから、それの住まいや、今でも覚えてるけど、
四連隊の一番前、霞ヶ丘のところは馬小屋だった。
で、もう落ちてはする兵隊さんの兵舎が、駐留軍が来て生活する宿泊と、
食事なんかもするのかな、食事もして、そういうようなとこだったんです。
それが、いつ頃かな、もう今度アメリカ人いなくなるよって。
アメリカ人がいなくなるよって、そこが真っ先で、
あと、今で言う競技場の前の池田とかあったりのところ、ぐるぐるぐるぐる、駐留軍が散歩してたんだよね。
で、我々たち小さいものは、裸足でもって、チューイングアップくれ、チョコレートくれ、というようなことをやった。
実際、くれたんですか?
なかなかくれないよ。
で、あの丸い池の中で泳ぐのに、子供ながらで恥も何もないよ。
すっぱだかになって、あそこで泳いだ。
そうすると、チョコレートの半分だとかね、ガムの一枚だとかね、そういったのもらって。
そういう楽しみ方をやってたわけ。
学校の授業としては、いわゆる、僕らのイメージだと、やっぱり、戦中と戦後で大きく変わったと思うんですよ。
つまり、一応民主主義になってみたいな。
同じ先生が言ってることが180度変わったみたいな、そういうのはなかったんですか?
あと、教科書が黒塗りされてたみたいな話も聞いたことありますけど。
そういうことはなかった。
どんな感じでしたっけ?
だって、教科書なんかないもん。
そもそも。
学校始まっても。
だから、先生の話、世間話、あの時はこうこうだったなっていう先生もいるし、
新しい先生はあの時はどうだったのとか、逆に聞く立場の先生だもんね。
元助の馬小屋の兵舎だったところが、この学校の兵舎になったんだから。
そこでいろいろ話をして。
そして卒業式もそこでやる。
もう教科書で勉強だなんてしたことで。
その兵舎で勉強って言ったってね。
勉強だなんて。
だから算数が多かったね。
そうですか。
掛け算だとか、そういったの。
戦争中だからいろいろあるするけど、
1たす2とかさ、分数とかそういったぐらいはあるするけど、
掛け算はほら、19歳じゃない人は教えないでしょ。
そういう時代だったから、うやうやだから。
そういう掛け算の復習だとか、そういったのを主にやってたね。
なるほどね。
あと絵を描くとか、絵を描かせるとか、
それから集字描かせるとか、
集字って言ったって筆結びもないんだからね。
鉛筆ってよくなくて、
もうないものばっかりだったから。
子供を集めて、何か世間話をして、
先生はそこで、今で言うストレスを解消してたのが、
その辺の時代ですよ。
人それぞれだと思うんですけど、
疎開中は、もちろん1回撃たれそうになったりするけど、
命の危険を毎日感じてたわけじゃないと思うんですけど、
でも当然、戦争の空気があって、未来を描きづらかったと思うんですけど、
いわゆる戦争が終わって、帰ってきて物がなくて、
大変な中でも、高橋さんもそうですし、
周囲の雰囲気っていうのは、やっぱり復興に向けて、
大変な中でもプラスにいくような、
そういうエネルギーみたいな空気があったんですかね。
そうですね。今考えてみれば、
そういうような流れる空気っていうものは、
流れてないですよね。
自然の現象で、そういう空気が出来上がるのかな。
まあ、早嵐が、このままじゃ、このままじゃしょうがないから、
この町は、少し眠らないように、
このままじゃ、しょうがないから、
この町は、少し賑やかにして、
みんなでもって協力し合おうと。
協力する体制が、今の時代と比べて、全然違うね。
ボランティアの気持ちが、ガーンと強い。
助け合いが当たり前みたいな感じですね。
出てくるのが当たり前だと、人と会うのが当たり前だと、
いうような形で、うまく出来ている。
そういうような人たちが多いから、
みんないろいろ知恵を出し合って、
じゃあ、今度、町のためにこういうことをやろうとか、
ここを直さなきゃいけない。
ここを直すには、第何般が、
昔の隣組っていうのがあったから、
それを、まだ戦争間近だから、
終わった間近だから、
解散されてないでしょ。
それを言っても通じるから。
そうすると、第何般は何人に始まって、
この工事、スコップある人はスコップある、
勝ち合いがある人は勝ち合いがある。
そこで思って、工事しちゃおうかと。
ゆえのことで、だんだん復興しちゃうんだよね。
でも、そういう意味では、
安易に言えることじゃないですけど、
お話があって、疎開の時もそうですけど、
大変なんだけど、状況がみんな一緒だから、
復興の時も、やっぱり助け合いの気持ちで、
ある意味、ごちゃごちゃ考えるんじゃなくて、
やるのが当たり前みたいな空気が。
そうそう。そういうこと。
だから、これしちゃいけないよ、
ああしちゃいけないよ、
しちゃいけないよ、という言葉がなかったね。
そもそも。
そういう意味では迷いはなかったってことですかね、
みんな大きく。
だから、単純に人間だよね。
みんながやろうって言えば、
戦争の影響と生活
おお、やろう、これやんなきゃ、
ここが生きてこないよ、とかさ。
みんなで楽しくやろうよ、というようなことですよ。
だって、食べるものもないんだ。
食べるものがあるんだ、人たちは。
要するに、地方に親戚を持っている人たちが、
その地方から送られてくるものを大事に食べて、
だから、本当の仲のいい人たちに少しある。
みんな、要するに、お互いに助け合う空気が強いよね。
だから、全然、さっき言ったように、
ボランティア、あれはもう全然。
だから、あれなんかのいじめだなんていうのはないよね。
なかったよ。
もっと言うと、そのボランティアという概念すらなかったかもしれないですね。
今、振り返ればボランティアだけど。
そうそう、振り返るとそうなんだ。
その頃はないだろう。
あいつは、あそこの英卓は誰たちの土地、あそこは出てこないよ、とかいうようなことはなかった。
ほとんど出られるところは。
だいたいから、定職がないんだから。
そうですよね。
収入もないんだ。
みんな無職でどうする、これからってことですもんね。
だから、同類なんですよね、みんな。
それと気持ちは同じだから。
だから、まとまったんだよね。
ってことですよね。
今で思えば不思議だよ。
今の日本、そうなってくれや、こんな世界にならなかったよ。
これだけみんな、いろんな、その時から比べると物資共にあるけど、あるからこそ、いろんな迷ったり。
そういう意味で、今の物資ってありましたけど、戦後、昭さんの中で、小6とかで帰ってきて、最初はもういい意味で、今の話で、無心でやって迷いなかったと思うんですけど、
どこのタイミングで、やっと日本というか、自分も含めて家族も含めて、復興してきたな、ちょっと未来を考えられそうだな、ある意味、いろんなことを悩めそうだなっていう風に思ったのって、
もうそんなのはね、そういう風に感じたのはね、どうなんだろうな、別に感じはなかったね。
でもそれこそ、だからずっとその後もね、いろいろ働かれたりしてきて、もう本当に、そこからあっという間に今の91歳までってことはないと思いますけど、
でもどこかで一息つけた瞬間があると思うんですよ。それが果たして16歳の時なのか20歳の時なのか、考えたこともないかもしれないですけど。
ここまであっという間っていう感じではないですよね、さすがに。
だから、先どんなような生活をするとか、文明的なことを考えるとか、そういったのはないけど。
とにかく無心でって感じで。
無心でなるようになれ、という意味で。
あとちょっとだけ伺いたいんですけど、何だろうな。
改めて今日ずっとお話しかかってきてるんですけど、この戦争の体験、今日も話してもらった記憶も含めて、その後の高橋さんの人生にどう影響してきましたかね、この戦争体験を。
やっぱり、戦争をやった体験というか、あれはやっぱり勉強になってるね、現在でも。
こうこうこういう時はこうしないと。こういうような考え方をしなきゃいけない。
高校高校だからこういうような態度をしなきゃいけないと。人の接し方が勉強になったね。
それは例えばどんなことですか。
要するに今こうやって話してるでしょ。話してる時だって、自分ばっかりでこう喋ってるけども、人の話も聞かなきゃいけない。
昔はそんな人の話なんか聞かなかったもんね。
それでね、時間がないし、食べるものも精一杯だから。
とにかくあの頃は食べるものだって、本当に。
それこそ電車に乗って芋の買い出しとかね。買い出しっていうのは結構流行ったんですよ。
だからそういうのみんな、仮に埼玉県の所沢へ行くと、所沢のさつま芋は美味しいけど値段は高いよ。
ただし遠い村まで行かなくちゃダメだよとか。
そういう話題が集中的で、そこでそういうように。
食べるものが大事に考えちゃうからね。
やっぱそこですよね。
食べるものがないから一番みんな不自由してた。
だから芋だって一ついくらいくら。
昔はね、缶目なんですよ。キロじゃないから。
それでその頃は測り手なんてないんだから。
芋を何個何個。これは大きいから何個いくらっていうような感じでね。
そういう商売をやりながら生活してた。
それが商売、一つの職業になっちゃったんだよね。
だから商人が意外と多くなっちゃった。
そうですね。そうならざるを得なかったみたいなところもありますよね。
会社だなんていうのはないんだから。人を雇うというようなところがないんだから。
それでそういうようなのが出始めてきたのは、やっぱり芋だとこはなんだかんだって。
加工してみなさんに与えていくらだと。それが闇市だよ。
過去の教訓
闇市だったら一皿10円とか。10円が多かったな。
だからみんなで友達同士で付き合ってるのも10円あるか。
30円しかないじゃん。じゃあ3人で食べに行こうとかさ。
そういった時代だった。だから今の南口、新宿の南口なんていうのが闇市の本場だったんだ。
それでそれを支配するのが町の頃月の今で言う暴力団。
その暴力団が日出に馬船だね。
お二人が管理してるから。管理も何もしないんだけど。一軒一軒ね。
実戦とか未実戦とか一軒一軒集める。
一軒一軒10円集めたって大変だからね。あそこの南口いっぱいだ。
で芋屋はあるし。おからのお寿司はあるし。おからですよ。お寿司のシャリの。
ちょっとヘルシーですね。今だったら逆にそれ新しいですね。
そうかヘルシーでね。
僕ちょっと食べてみたいですけどね。でもいつもだったらね。
魚なんかないでしょ。あったってイワシくらい。
イワシもスッタイのところにある。そんなのはしばらく経ってからだ。
しばらく経ってくるとそういう闇市も贅沢になってくるからだんだんつけながらってくる。
それは貴重な話ですね。
かえってあの頃の方が世の中に賑やかだったね。
やっぱりエネルギーはあったでしょうね。町にも人にも。
やっぱり今回こういう機会いただいて、この戦争の体験の話を今までお子さんとかお孫さんとかに話したことってあったんですか。
あんまりないね。
それはなぜですか。
やっぱりね、そういうような思いをしたから。
なんていうかな。今そんなのが世の中じゃないよと。
その時代によって思うんだけど、話しても無駄だなと。
そういう経験はさせないよと。
言うような気持ちの方が強いから話したって無駄だよ。
そういう経験はさせたくないけど、話さない方がいいって思うんですか。
話したって信用できないじゃん。
経験してないし、時代がまるっきり。
見たこともないし。
闇市行ったって言っとんないのが闇市だって。わからないでしょ。
こういうシャツだとこさ。
こうやって、これいくらいくら。
買う人は、これ150円、いや100円、もっと300円とか。
絶対な市場だから。
そういうのを教えたって。
今も時代に待ちしてないじゃん。
その中でね、今回逆にお孫さんの力もあってだと思いますけど、
今回こういう機会をいただいて、僕はもちろん高橋さんが経験したことの1%もわかったとは言えないですけど、
でもやっぱり直接経験した方からお話を聞いて残すことは、やっぱり意味あるなと思って。
非常に本当にありがたいと思ってるんですけど、
そういう意味で、今この時代、日本、あと世界もですけど、
世界もまた戦争が起きたりして、そういう時代の空気を見て、今何か率直に思うこと感じてることってありますか?
ありますよ、やっぱり。
何を思いますか?
やっぱり、戦争時代のことを思い出すことも、悪いことばっかりじゃないから、いいこともあるから、
そういうのを少し、要するに、戦争中のこと、戦争時代のことを少しは思い出すような、思い出すような人たちはいないからね、ほとんど。
そういう流れは、もうつかんでる人はつけないし、それをつかんで、いいことだと思って、それを活用しようというような相談相手もいないから、
もうダメですよね。
だから、今の新しい、ダメにみんな、あれしていくでしょ、もっかっていっちゃう。
だから、もう、経験していいものは、だんだん、だんだん、薄れていっちゃうんだよ。
だから、今の世の中、新しいことは、いいことだ、いいことだ、いいことだって、こうなってくるから、昔のことが、グーンとなくなっちゃうでしょ。
そうすると、中年だとか、あるいは、そういった昔の話をチラッと聞いてる人は、あ、ずいぶん変わったな、ということになってから、今の、もう、中高年。
俺たちは老人だよ。老人だけが思い出す。
で、その思い出した人間たちが結束して、昔みたいに集合、集中、要するに、そういったような気持ちを持ったフロランティアが、出来上がるかというと、出来上がらない。
未来へのメッセージ
今はもう、自分は自分というような形で。
個人主義みたいなところがありますよね。
違うじゃん、スタイルが。世の中のスタイルが。
だから、やっぱり、世の中が変わらなきゃ、何かあって変わらなきゃ、そういう時代が繰り返してこないなと。
やっぱり歴史は繰り返しちゃう。
最後にですけど、これを今日インタビューに残させてもらうので、今インターネットがあるので、それは良い部分で、50年、100年経っても、この声は残ると思うんですよ。
それこそ、僕もいなくなっても。
なので、今これを聴いている人が、リアルタイムで聴いている子供かもしれないし、もっと言うと、まだ生まれてない未来をこれから生きる人たちに、
一言、高橋さん、伝えたいことがあるとしたら、どんなことでもいいけど、何かありますか?
だからやっぱり、自分を信じることだね。
何でも、親が言ったからって言って、それは確かに、良いことなら良いけど、そうじゃない場合だってある。
だって自分の考え方は、自分の考え方と親の考え方、ある程度は同じかもしれないけど、違うところだってあるわけでしょ。
だからその違うようなところを、自分が自分で正しいと思えば、そうやって違うんだから。
だから自分の信念は、自分の信念として、やっぱり表に渡さないけど、気持ちだけは十分持っている方が強いと思うね。
強いと思うし、世の中を渡っていく力のたとえになるじゃないですか。
その辺のことですよ。だから自分を信じろということだけ。
はい、ありがとうございます。ということで今日はですね、遠藤隆さんにお話を伺いました。ありがとうございました。
いえいえ。
01:21:52

コメント

スクロール