1. 【体験者の証言】戦争の記憶(Memories of War)
  2. 「空襲と飢え、そして母の背中..
2025-08-08 50:22

「空襲と飢え、そして母の背中」佐藤武昌さん【戦争の記憶28】

▼今回のインタビュー

6歳で横浜から北海道へ疎開。

焼夷弾の恐怖、食べ物のない日々、母の献身。

1939年1月27日生まれの佐藤さんが語る、

幼い記憶に刻まれた戦争と、家族で築いた戦後の物語──(2025年取材)

 

▼「戦争の記憶」とは

戦争を体験した一人ひとりの「生の声」を記録し、未来へつなぐプロジェクト。

2013年より早川洋平が全国各地で証言者のお話をうかがい、映像や音声で記録・発信しています。

http://memories-of-war.com

 

▼【聞き手・早川洋平プロフィール】

はやかわ・ようへい/1980年横浜生まれ。中国新聞記者等を経て2008年起業。

羽生結弦、吉本ばなな、髙田賢三、ケヴィン・ケリーら各界のトップランナーから市井の人々まで、国内外・分野を超えてインタビュー。

2013年からは、戦争体験者の肉声を発信するプロジェクト『戦争の記憶』にも取り組む。

『We are Netflix Podcast@Tokyo』『横浜美術館「ラジオ美術館」』『石田衣良「大人の放課後ラジオ」』等、メディアプロデュースも多数。

 

▼最新刊『会う力 ― シンプルにして最強の「アポ」の教科書』(新潮社)

https://yohei-hayakawa.com/auchikara.html

 

▼あなたの想いを、プロの対話と映像でかたちに残す

『PORTRAIT INTERVIEW』(ポートレート・インタビュー)

NetflixやUNIQLOなど世界的ブランドの魅力を引き出してきたプロインタビュアー・早川洋平が、あなたのストーリーを丁寧に聞き取り、高品質な映像に仕上げます。

ブランディング、節目の記録、家族や大切な人へのメッセージとしても。

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サマリー

佐藤武昌さんのインタビューでは、太平洋戦争中の空襲や食料不足の記憶が語られています。特に、夜間の空襲やその恐怖、幼少期の家族の状況が印象深く表現されています。また、食生活の厳しさや母の苦労も強調されています。このエピソードでは、佐藤武昌さんが第二次世界大戦中の空襲や飢餓、そして母親に関する思い出を語っており、特に戦争時代における彼の家族の生活や、母親の強さと苦労について深く掘り下げています。このエピソードでは、空襲や戦後の復興についての思い出が語られ、特に北海道での終戦体験や家族の影響が強調されています。また、戦争の記憶とその後の生活の変化についても触れられ、戦争がもたらした傷跡や復活の過程が描かれています。このエピソードでは、空襲の経験と戦争による飢え、そして母の背中から受けた教えが語られており、戦争の記憶を通じて、戦争の悲惨さや人間の思いやりの大切さが強調されています。

戦争の記憶と空襲
さあ、今日はですね、戦争の記憶インタビューということで、佐藤武昌さんにお話を伺います。よろしくお願いします。
よろしく。
佐藤さん、最初になんですけど、青年月日とお生まれの場所を教えてください。
えっとね、私は1939年1月27日ですね。
横浜の生まれ。
横浜の、横浜市神奈川区で。
神奈川区。
今、今年このインタビュー。
86ですね。
どうですか、いきなりですけど、人生86年って結構あっという間でした。
そうだね。ほんとあっという間ですね。
その中で今日ね、いろいろお話が上がっていきたいんですけども、1939年ということで、
太平洋戦争が始まった戒戦時は多分2歳ぐらいで、終戦が6歳だと思うんですよ。
その中で、担当職人ですけど、佐藤さん、この戦争の記憶っていう、これはインタビューシリーズなんですけど、
戦争の記憶って聞いて、真っ先に今頭をよぎることって何ですか?どんなことでも構いません。
パッとよぎるのはね、やっぱりまず食べ物がなかったなっていうことと、空襲だね、怖かったね。
もう夜、毎晩のように来たじゃないですか。
空襲が、B-29ってね、不気味だね、でかいやつが空を飛んでね。
それでうちのそばにね、光射を撃つところがあったんだけど、弾が届かないって言うよね。
バカバカ撃ってるんだけど、破片だけが飛んでくるという。
それで不気味で、それでどんどん落としていくでしょう。
うちの近くはそうしなかったけれども、焼夷弾落としたりね、とにかく不気味ですよ。
私、寒い暑いあれだけど、やっぱり寒い時の空襲を覚えてますね。
もう夜中起きてね、サイレンが鳴るわけですよ。空襲警報外れって。
そうすると10日間制って電気に切れをつけてて、それを全部下ろすわけですよ。暗くするわけですね。
それで子供の頃ですけども、私が覚えてるのは、
4つ、5つでも自分の着るものが寝る前にちゃんと畳んで、
もう夜中起きてもちゃんと自分で着れるように畳んでおいてちゃんと着るわけですよ。
それでみんなで寒い中に防空壕に入ってね、寒くてもこんなんで入って、
中に入って、ロウソク一本でね、それで畳で一枚で蓋をして、
それで中でじっとしてるわけですよね。
だから子供の頃でもね、一番眠たい時でしょ、夜中から。
そういう思いがあったね。
今、3、4歳とおっしゃいましたけど、そうすると物心がつくかつかない時に、まさに戦中だったということですよね。
それで、兄弟もいたからね。
どんなご家族構成だったんですか。
家族は、兄弟は四人なんですよ。
私の兄が5歳で、昭和7年だから、戦争が始まる前にもう亡くなっちゃっていたんですね。
ただ、7年目で生まれたのは北海道だから、戦争地はまだいないで、兄がいなくて、疎開をする時は5人ですよね。
だから、そういう夜中の恐ろしさとか、そういうものと、やっぱりとにかく中空襲ですから、
おちおち子供の頃でも出れないというね。
それで起きてきて元気になると、お腹空いてもなかなか食べ物がないというね。
家族の疎開と食糧事情
そういうことが一番思い出されますね。
今、5人とおっしゃいましたけど、竹松さんは何番目ですか。
私は正式に言うと、5番目ですね。
正式に言うとというのは差し支えなければ。
だから、兄が死んじゃっているので、正式に言うというか、普通に言ったという言葉みたいですね。
あれですか、ご兄弟、細かいですけど。
姉、兄、姉、姉と。
だから、3姉妹の兄貴は1人。その次ですよね。
なるほど。先ほど大生は横浜の神奈川区っておっしゃいましたけど、
そうするともう小さい時、2歳ぐらいの時に疎開してたとか、そういう感じなんですか。
11歳、疎開は6歳ですね。
6歳で疎開。
終戦直前に疎開ということですか。
その頃、うちの親父は中国で戦争で現地にいて、
私の名前を言いますと、竹政っていうのは、
中国の中心、真ん中辺りにある武館のそばにね、武将ってあるんですよ、私の名前。
その通り。
そこをうちの親父が、自動車部隊だけど、陥落させて、その頃生まれて、
おそらく兄が死んでるから、あの頃は男の子というのは女の子よりは大事にされたんですよね。
お母さんも、男の子が生まれましたよって電報が来たんじゃないですか。
でも戦争中だけど、そんだったらばって、
じゃあ俺が今いる場所の名前をつけろって言うんで、竹政っていう。
そうなんですね。
国族要塞神経、国立神社の立神教師、
その中でお父さんは去年、
襲戒されたわけじゃないですか、
襲戒されたわけじゃない。
それから打撃されながら、
うーちゃんって言うね。
中国語で言うとね。
そうなんです。
じゃあ、その襲戒されていたときは、お父さんは中国に?
おふくろもよく知らない親戚を辿って行って
北海道にいて
向こうから電報を手当たりしたんでしょ
昔の人は手豆だから
それでちゃんと連絡してあるから
そこの住所もここに訪ねて行きなさいと
大丈夫だよという形を手紙で受け取って
おふくろが行ったんですが
5人ですよ
下はおそらく1歳か
そこなんですよね
その5人上だってまだ
中学の上級がそこなんですよ
それは今日も一緒に話したんだけど
すごいよね
今だって大変ですよね
確かに北海道の最初に行ったのが
茂生節というところで
朝日川のちょっと手前にある
寒いところですよ
そこへ行ったんですから
うちのおふくろ見ず知らずですからね
非常に不安とあれを抱えて行ったと思います
私なんか戦争というと
やっぱりおふくろの姿
大変だったなというのがすごく記憶にありますね
兄弟同士とかね
そういうことですね
食料がないという
そういうところで一番強い
さっき食料ってありましたけど
その時の食事の何か思い出とか
お母様はこんな苦労してこうしてたとか
もうちょっとだけ具体的にありますか?
こっちにいるときはまだ良かったですよね
ただ食べるものは
それ以外に何か食べたってあんまりないですよ
ただうちの親父はタイで
戦争でいうと位が上の方だったから
北海道行って配給があるんですね
そういう軍隊の上の
あるのは水飴だけ
ガロン缶というか四角い缶で送られてきて
やっぱり覚えてるのは
ちっちゃい時って甘いもの欲しがるんですよね
ないんですよ
食べ物が一番とにかく記憶に残っているのは
ここまで10分くらいお話しかかってますけど
やっぱり竹本さんの中で食べ物食べ物って出てくるので
もちろん今の話を聞かせても
当然満足だったわけじゃないと思うんですけど
いつもお腹空いたらひもじいなみたいな
そういう感じあったんですか?
ありました
本当にそういうガツガツしてる感じですよね
お腹空いててね
でも親としてやるものはないから
食べるものはない
こっちにいるときですね
もう本当になくなって覚えてるのは
香料とか泡とかヒレとかああいうもの
お米がないから
これねお腹がいくら空いててもね
本当においしくなかった
飼料ですよ
米とは違いますよね
味がないんですよあれボソボソしてて
こんなこと言っちゃうんだけど
まだこっちにいるときに
私が小さい時で風邪をひいて寝てたんですね
親父がいないから
うちのお袋の親
おばあちゃんが田舎からちょっと
なんか手伝いに来ている時に
私が突然大きな声で泣き出したんです
全く治すと具合が悪くなったのかと思って
親が飛んできて
なんだと思いますか?
寝ててしらっと見たのが
前の日におばあちゃんが来て
小豆を持ってきてあんこ作ってくれたわけですよ
その鍋の底にあんこが残っているの
これを姉に残ったのいいよ
これ食べなさい
それを私が食べた
ギャーッと泣いた
それは泣きますね
特にその時期
そのくらい食料がなかったですね
当時お父様は中国に行かれていたということですけど
ちなみに戦争に行かれる前
佐藤家
お父様はその前どんなお仕事をしていたか
佐藤家自体はどういうお家だったんですか?
うちの親父は
横浜市神奈川工業
3期生 卒業
そこを卒業して
今の東芝を勤めて
工業系ですから
やっていて
結構いろんなものを作ったり
偉い人の説明をしたりしたけど
何を思ったら
そういう話は聞いていないんですよ
もう17歳で亡くなっちゃったから
これから自動車があるだろうということで
うちのお袋の話ですけどね
突然辞めて
これから3年間
自動車の教師所があるんだ
品川にあって
そこで修行して
3年ぴったりで辞めたらしいんです
3年ちょうどだから辞めた
あなたはどうするの?
ラーメン屋でも何でもできるから
とにかく自動車の学科系の仕事をやりたいんだ
そこから横須賀で
うちの実を言うと
おじが結構な海軍じゃ
中尉だったら
軍隊で神様みたいなもんですよ
それでやってたんでね
おそらくうちの親父は
10人兄弟で5番目でね
やっぱり5番目
そうかそうだね
それでうちの一番上のおじさんには
可愛がられたらしいんだね
それで悩みを言って
こういうことをやりたいんだって言ったら
じゃあちょっと来いと
横須賀に借りて
その場所を色々探し求めて
分かったことは
今は公園みたいになってるらしいんですけどね
昔は
そういう特別な
海軍が使える特別な
清水里にそういう場所があったらしい
そこを借りたみたいですね
根岸なんですよ
そこで
1932年ですか
創業した
自動車の教習を創業したのが
始まりですね
そうですね
そこからすみませんまた戻りますが
その疎開もしているとき
あとその前もですけど
なんて言うんでしょう
やっぱり空襲
そしてその準備
今平和だからあれですけど
正直僕自体も
6歳とか5歳のときよくて
ゼロじゃないですけど
やっぱり毎回空襲と
あとその食べ物だと
竹松さんの中ではどうなんでしょう
子供だから当時分かったこと
分かんないことあると思うんですけど
とにかく毎日
いつ死ぬか分かんないぐらいの感覚だったのか
意外とそこまでの
どういう感覚だったんですか
なんか毎晩
起こされてやだなと
だけどもう
飛行機が飛んで時間が来るわけですから
だから
怖いとかなんかあっても
そういうもんじゃないですよね
子供の頃はそんなもんですよね
あと親の死に従って
ついていくということですよね
そういう意味ではあんまりね
ステレオタイプなイメージで
僕らは当然戦争を経験していないので
今の毎日空襲に備えてみたいな感じだと
5歳6歳といえども
ビクビク震えて寝れなかったんじゃないかなと
意外とその当然
非常時とはいえ
竹政少年の中では日常もあったし
楽しいこともあった
そうですね
結局ね
近所つってもね
知れてますよ
そんな家がいっぱいあったわけじゃないし
だからどうしても兄弟同士で
遊ぶのが多かったですね
私ね上が姉だから
今のね
あんだり
あやとりとか
女性のやることはね
かなりできたらしい
らしいってことはあんまり後方にないんですよね
そうなの
そういう兄弟同士で遊ぶ
ということが多かったですね
だからそんなにね
毎日が戦争で嫌だとかさ
そんなにないですよ
そういうもんだと思って
夜中起こされるのはやばい
つらかった
それもつらかったっていうことじゃない
自動的に起きて
寝れればいいなと思うくらいで
そのくらいですよ
そうするとその中で
最後のおそらく1年ぐらいを
疎開先で過ごして
日常と終戦の記憶
当然その終戦があったわけじゃないですか
その時のことって覚えてます?
覚えてますねよく
どんな感じでした?
聞いてないです
あのね
こっちと違って
まず飛行機も飛んでこない
空襲がないんです
まさに疎開してるわけですか
本当にのどかな
農村地帯
光川平野の中での農村地帯で
いいとこでしたよ
それはいいとこだけど
食い物は持ってなかったね
本当に
戦時中の空襲の記憶
だから向こうへ行って
小学校に入ったんですよね
こっちの小学校入る
身体検査とか全部終わって
入る予定が
おそらく3月
よく覚えてないですよ
2月か3月に
行ったと思うんですよ
それの時は覚えてますね
前の日に親戚の家に泊まって
またその泊まった
夜に爆弾が起こって
そばに
見に行きましたよ
あの頃小さい時は
すごく広く見えたけど
5、6メーター以上の穴が
折れちゃうんだよね
すげーなって感じ
その落ちた瞬間とかに目覚ましたとか
あんまり覚えてない
それはなかったですね
昨夜は何か起こったみたいだよって
から見に行ったって言ったんですね
疎開行く時
疎開行くってみんな
何とも思わないし
覚えてるのは
疎開行く時に
親戚の家に泊まって
そこで
おにぎりを作ってくれたわけですね
お昼に
上野の駅で待つわけですよ
電車行くまで
みんなでお昼食べようって
せっかく作っていただいたけど
おにぎりを食べたら
兄弟と話したら
不老者
パッとおにぎりを触った
もう真っ黒系で
不老者はそこだろ、おじいたから
その時に
父のおふくらも
そんな汚れたものはもうやっちゃいなさい
それ覚えてますよ
不老者が大勢いて
そりゃかわいそうですよね
食べ物もないし
だから私食べてるとこに
パッと横を見てる時に触られていた
それはすごく恐怖になかった
竹松はやっちゃいなさい
もうそのくらい
東京がね
荒んだ状態だったんでしょうね
母の苦労と家族の生活
それは覚えてますよ
やっぱり食べ物なんですね
今の話聞いてても
食べ物です
兄弟であって話したって
食べ物ばっかり話した
特に子供だとそうですよね
そうですよ
だから戦争はしてもらいたくない
ちゃいながらも
それはね
父親がいなきゃそんなことはないわけですから
ただ不思議にね
親父がいないから寂しい
うちの親父は明るかったんですけどね
寂しいとかそういうのも
意外にいなかったですね
毎日子供ながらも
いろいろ
のどかに遊ぶ時間もあったりして
あれはあったんで
それをすごく感じる
というのはあまりなかったですね
その分やっぱりおふくろが頑張ってたんでしょうね
いいと思いますよ
そういう意味ではお母様の
先ほどもいくつか出てきましたけど
印象的なエピソードでも
かけられた言葉とか
今も覚えてる何かあります?
そうですね
戦中に
うちのおふくろの
思い出すのは
昔の母親っていうのはすごいなと
電気製品がないんだから
全部手裂からね
まず4時くらいに起きて
真っ暗
ご飯なんてないから
芋を茹でたり
なんかでしょうね
そうやってやって
子供たちに食事を与えた後は
今度すぐ
だからあの頃
子供でも自分の布団を全部畳んで
自分で全部やりましたよ
そういうことはね
当たり前でしょ
毎日忙しいんだから
その後終わった後
今度は家の中の掃除でしょ
それから洗濯も手ですから
休む暇ないで
今度は昼の
飯を作んなきゃいけないでしょ
それで終わったら
今度すぐ買い物でしょ
買い物と買い出し
そうですね
必死ですよね
特に
日曜なんかというと
一番上の姉を連れてね
北海道なんか
ブツブツ交換ですよね
いろんな単物を持って行ったり
結局一日は思うと
昼飯やってその後
買い物ですよね
帰ってきて今度は夕飯作って
みんな子供たち寝かした後
今度
夜中トイレなんか行くじゃないですか
その時夜中やってました
だからね
本当に暇のない
おそらく想像だけど
子供には食べさせても
十分なものは食べてなかったと思いますよ
やっぱり子供のために
だから母親が
かっけっていうのはあまり聞かないでしょ
なって栄養不足ですよね
それを補うために
親から聞いてあげて
自分でお給添えたりね
そうやって
育っている姿がすごく
印象に残ってますね
とにかく
5人子供がいて
やっぱり
気持ちがね
荒んだ形にならなかったのは
母親のすごさだなと思いますよ
すごいですね
それは本当に感謝ですよ
いくら疎開で直接的な
空手とかなかったとしても
やっぱり
お父様も直接いない中で
戦後の変化と教育
他にもそういう方がいて
みんながすさまなかったわけじゃないですよね
そうですそうです
でもそういう不自由さ
不自由というか
親父がいないから寂しい
そういうのはあまりしなかったですね
その中でおそらくさっきの
2月か3月ぐらい疎開されて
もうそれ終戦の年ですよね
8月に終戦じゃないですか
その終戦のタイミングで
もう変えられたのか
どんな感じだったのか
親父がね
北海道に2年半いましたから
そうなんですね
その理由はなぜかというと
親父が何かこっちに来た時に
どういう理由だか分かりません
北海道で
駐屯したことがあるらしいの
そういうことにしたのは分かりませんけどもね
それで親父が
結局戦争終わって
帰ってきたら
なんていうかもうちょっと疲れが出て
そこで働くところであって
もういいじゃないか
平和だったわけですよ
親父もゆったりできて
でもその時もやっぱりお袋ですね
お父さん
こんだけの
子供が大勢いてね
田舎にね
のんびりしてる場合じゃないでしょう
みたいなこと言ったと思うよ
それで親父も
やっとゆったりできたんだって
毎日2合のお酒を飲ませて
幸せだったわけでしょ
なかなか
ライチが開かないんで
そん時は家族会議
ずっと親父いないんですから
親父しかいないんだから
やれば全部親父に票を入れますよ
圧倒的な多数で
それで
偉かったの親父は
よし分かったって言うんだよね
その間に全部お袋を調べて
生まれたところで
その後ほら横須賀でやった後
教授場に持ってきたんだよ
理科生やって
それがまだ
宣誓のあれも受けずに
住まいも残ってる
教室も残ってる
っていうことを確認して
帰りましょうって
いうことですよね
2年半か
結構記憶はありますね
ありますよ
面白かったのは
雪が降ったわけですよ
こっちの感じで行くでしょ
服も知らないから
それであの頃私
和服ですから
はいはいはい
それで
旅の下駄履いて
だから雪が降ったから
高下駄履いて
送ったわけですよ
帰りや高下駄に雪がついちゃうんでさ
こんなんなっちゃって
コロンコロン転がりながら
ビショビショになって泣き泣き帰ってきた
覚えてますね
それは分かんないもん
これだってしょうがないし
こっちでちょっと雪降ったって
チラチラぐらいでしょ
そうですよ
寒さは忘れられない
今の2年半で思ったんですけど
ちょうど行かれたときに
小学校入るというか
つまり戦前にぎりぎり
戦中の教育
そしてその後すぐ切り替わってる
両方経験されてる
僕もいろいろ話聞きましたけど
180度ぐらい違うみたいなことも
聞いたことあるんですけど
どうですか竹本さん
そういうことは感じはしなかったけれども
とにかく教科書は
戦前の教育を最初受けたでしょ
そうですよね
よく覚えてないけど
そういう教科書やって
途中から変わって
教科書もガリバンですって
止めたような教科書で
変なところを
黒く塗られたりして
変な異様な感じですよね
ただ記憶として
古いあれから
急に新しい教育になったとか
そういう感じはなかった
なかったな不思議に
自然とってわけじゃないけど
竹本さんの中ではあんまり
ただ振り返ると確かに
黒く潰されてたなみたいな
古いのかもしれないけど
なかったですね
急に変わってさ
民主主義のあれだとか
そんなあれはなかったですね
それは周りの
同級生もそうだし
先生は明らかに絶対変わったことを
言ってるはずだけど
竹本さんはあまり感じなかった
あと玉音放送とかそういうのも
聞いたとかそういうあれはないですね
その後おそらく学校には行ってた
行ってましたよ
そういう話題が
あまり出なかったな
正直あれですか
竹本さんの中で8月15日
もちろん後から振り返ったら終戦なんだけど
あの日終わったよなみたいな感覚は
あんまりない
それはね
北海道に行ったことが
一つ大きなあれでしょうね
とにかく戦争から
離れちゃった感じ
そがいという
だって来ないんだから
飛行機も来ないし
校舎は普通に音も聞こえないし
そこだけにいったら戦争もない
食べ物があれってことを除けば
振り返ってから親は大変だったかもしれないが
のどから
2年半だったかもしれませんね
じゃあなんかあれですか
年が小さかったからとかもあると思いますけど
当然新聞とかはあったり
全く情報が
なかったわけじゃないと思うんですけど
家族間兄弟間で
日本のそういう選挙区だったり
いろんなことなんか
それはどっちかというと
行く前の方が
ありましたね
歌でね
出てこいミミツマカサとかね
出てくりゃ地獄に
月落とすとかね
そういうのを自然に覚えさせられた
戦中ですから
アメリカの野郎って
言うような
感じは
歌を歌わせられるんだ
自然となりますよね
だからそういう
とにかく日本語が強いんだとか
そういうものはありましたけども
6歳ですからね
激しい時は6歳ですからね
逆に6歳でもそういった記憶がある
というのは個人的にはすごく今
驚きでもあるんですけど
歌は歌で歌ってるけど
竹本さんの中では
なんて言うんでしょう
どんな歌があったかわからないですけど
アメリカへの思いとか
その辺がぐちゃぐちゃしてるところがあるよね
三国同盟ピコタンピコタン
ピコタンタンの中で
イタリア到来
そんな歌を歌ったりね
だからすごくなんか
戦争に染まって
嫌だなとか
子供だから自然にそういったものを覚えて
いたっていうことで
そういう意味では
それが現実なんだけど
上の世代はね
これから戦争いくかもしれないとか
だと思いますけど
竹本さんとしてはもちろん戦争ってなんとなくあるけど
食べ物だけ
直接の
という意味での距離はちょっと離れる
ありました
確かにね19年ですから
横浜もバンバン
B29が飛んできましたよね
それはもうしょっちゅう
空襲の怖さとかね
それはもう
覚えてますけれども
なんかこうそばに
横浜空襲とか
ああいうのは味わってないから
そういう悲惨なあれが
味わってないから早川さんにもね
俺なんか話題あんまりないよ
全然
でもそういう意味ではちょっと言い方あれですけど
そばに空襲とかあって
なんか近所で誰かが亡くなったとか
そういうのはあんまり記憶にないですか
もちろんよかったと思うんですけど
じゃあその中で
すみませんちょっと
重複しちゃうかもしれないですけど
戦争が直接自分が兵隊に行くとか
将来どうこうとか
お国のためとかアメリカみたいな
戦争の記憶と終戦体験
そういう感覚も全然なかった
戦争に行くって
戦争に行ってね
戦っていったのはそれはありました
それは当たり前のように
軍隊を
うちの親父も軍隊でしょ
うちの親父なんかよく
軍隊に向かうので
それがこうしゅうこうかくって
体がしっかりしてるとこうしゅうって
これ言われるらしいんですよ
俺はお前な
こうしゅうこうかくだったんだ
そんなような話は
聞いてますから
そのまま
スッと言ったらば戦争行ったでしょうね
そういうものは
ちっちゃいながらおのかに
ありましたね
そこに怖いとか死にたくないとかっていうのは
全然なくとにかく戦争に
今振り返っても
私の性格から言ったら喜んで行くでしょうね
国のためとか
家族のためだったら
死も恐れずやるタイプ
私はどっちかというと
そのまま行ったら
でもある意味では終わってよかったよね
本当そうですね
そういう意味では明確に
8月15日で終わったわけじゃない
2年半ってことですけど
あえて定義付けるなら
竹松さんの記憶とか
人生の中で戦争が終わったというのはいつになるんですかね
そうですね
やっぱり北海道行って
空襲はないというのが
こんなとこ
あんだなと思って
北海道知らないうちに
それで終戦になっちゃったということなんですよ
そういう意味では
ある意味では
終戦というものを
しみじみ感じたとかね
なんかないんですよね
それで知らないうちの親父が
戻ってきたとか
ということですね
それこそ物心ついたときは
お父さんも言ってたぐらいの感じですもんね
ちょっと前はいたんでしょうけど
そう
うちの親父は存在感があったから
だから戦争
時々戻ってくるわけですよ
その時に
明るい終わりだったから
いっか明るくしてね
時々
そうしなきゃ
下の子供ってできないじゃないですか
そうですね
そういうことで
安川さんが言ったように
戦争が終わったというものを
記憶として強く持ったというのは
あまりないんだよね
家族の影響と戦後の生活
それはやっぱり北海道に行ったおかげでしょう
そういう意味でお父さんも帰ってきて
その後
戦争という意味では
直接の体験では
お父さんも濃いものをされているはずだと思うんですけど
やっぱり
お父さんからその後でも構わないんですし
当時でもいいんですけど
戦争についていろんなことを話しましたか?
いやよく聞きましたよ
どんな話ですか?
日本は堂々と
天皇がいて戦ったっていうね
誇りを持ってましたね
それからやっぱり
ドイツを褒めてましたね
そうですか?
ドイツも立派だと
大国を相手に戦ったって
そういう話はよくして
だから戦争のいろんな
面白おかしく話をするんですよ
と裏腹に
うちの親父がよく
新聞に載ったらしいんですよ
なぜかというと
戦災工事を連れて歩いたらしい
かわいそうな子
それが結構
戦争に向かっているんですが
何もないというのは
これはちょっと見てください
戦後
親父が家に行った時
いきなりMPが
土足で上がってきて
親父連れて行っちゃった
戦犯として
いやこの時のは
ちょっと私も思い出される
恐ろしい体のでかいのが
土足ですよ畳を
親父を手錠をはめて連れて行ったんです
これは日本の?
MPだから
日本の警察の人
これは覚えてます
袋をはわてて支度して
日本の警察の人が
駅までの間
連れて帰ったらだいたい
危ないんですよ
あばしりですから
それで
連れて帰ってその駅の間だけでも
防風の話もあるでしょうから
これもされるかもしれないし
というようなことで
行ったんですよ
それでその後帰ってきたのが
うちのお父さんのすごいところで
手紙なんか全部もしちゃって
燃えないものは全部埋めちゃって
凄い証拠をね
綺麗にしちゃって
だから何もない
手紙をやるといっぱいあったらしいんだけど
こまめに書いた親父だったら
一切ないのはちょっとあれだけど
それはそうでしょう
残したら
自分の
夫をやっぱり無事に
帰したいと
結局名前違いで
うちの親父はそんなことを
人の悪をやるような
そういう男じゃないと
子供の頃思ってたし
やがて帰ってきたんだけど
そういう思いもあった
それは生きた心地しないですね
これはね
一大事件ですよね
戦中よりむしろそこですね
そうですね
やっぱり親父も喜んで帰ってきてね
まあどっちかというと
戦争直後の方が
色々あったからね
思い出しますよ
だから
戦争があって
その後の
復興というかね
復活するにどうやったかというのは
よく覚えてますよ
お袋が戻ってきましたよね
そこからが
大変ですよね
もう一家総出で
教師場は
県の土地を借りたから
もうないんです
学科をできる
教室だけと住まいは残ってた
教室と住まいだけ
そうすると
学科だけを教えていたんですね
ある程度
商売になってきて
今度は親父はどうしても
自動車を動かしたい
そういう土地をね
こっちの友達がいたから
横浜に
聞いて
しがし博楽あたりで
狭い土地を借りて
教師場に来て
第1号車ってのは
昔はそんな車買えませんから
フレームをまず買う
エンジンは横須賀から
自分で買って
地域社会の復興と取り組み
このぐらいだったら思い出そうと
そしてそれをオーバーホールして
夜中中やってましたね
ハサガタなんかできた
オーバーホールして
エンジンがかかって
それを乗せて
1号車を作った
戦後のそういった方の方がね
いろいろ記憶に残ってますよね
本当に買うよ
だって
教室だけ残って
あとは今度
当社番から買ってきて
ビラを作って
姉たちが
駅で会いたり
家族勢でですね
私も小学校だけでも
朝6時に起きて
教室を掃除するのが私の仕事
みんなあるわけです
やることが
初めて
朝飯になって
そういう戦後のことはよく覚えてます
でもなんか
言っていただいたのに逆にすごく
勉強になって
戦前とか戦中だけじゃなくて
戦争が
8月15日で終わった後も
全てが
終わったわけじゃないですか
それも戦争のね
傷跡というかね
その後こういった形で
生活を作っていった
よく覚えてますよ
だって
畑を
やがてある土地を借りて
友達の土地を借りて
教習所を始めて
で、学科と実習ができて
それで試験場へ
生徒さんも
そこで試験を受けて
就職できるわけですよ
先生さんも喜んでね
うちの家じゃもう豪快な男だった
おーとか言ってやって
先生ありがとうって言って
朝お弁当持って
教室に行くんですから
その後うちの伯楽のところに
教習所作った後もね
その教習所作るんだってね
そばで土地を借りてやってるんだって
狭いとこですから
やっとお金を貯めて
畑、うちのそばの畑を買ってね
それ全部
耕して
覚えてますよ私も
手がつきなんかないですから
私がだから
小学校3年、4年ぐらいですかね
ドラム缶に水を
入れて
押した
本当にね
家族みんなでやったら本当の寛容ですよ
そういったもの
すごく覚えてますね
それで
教習所始めたって
やっぱりうちの親父
もやっぱり
従業員を大事にしたんですすごく
だからお袋も
従業員の夕食をちゃんとうちで作るんです
そういう作業
よく覚えてる
本当に
姉たちは受付やったり
いろんな
作業をやって
みんなで作った寛容ですね
だから私は寛容ってことを
この前も使った
今竹間さんおっしゃったように
本当に僕はそんな軽々しく
いうこと言えないんですけど
今お話しされてる中で戦後の
寛容でやってるの目がキラキラ輝いてたんで
大変だったと思うんですけど
やっぱりすごくエネルギーが
上前へっていう感じがしたと思うんですけど
実際その本当に
当時の日本だったり
もっと言うとせっかくなんで
横浜の雰囲気空気感
人の顔とか戦後
当然どの家もいろいろ大変だったと思うんですけど
でもやっぱり全体としては
これから復興するぞっていう明るい空気だったんですが
どういう感じだったんですかね
個人的な感覚で構わないんですけど
子供の頃だからあんまり覚えてないけれど
小学校やっとね
最初その小学校入る予定だったら
うちのすぐ隣みたいな
身体検査を受けて
やっと戻ってきて
3校目で
今の某校に戻ってきて
やって
もう
なんていうかな
そういう開業が始まって
みんなで協力してやって
動き始めて
だんだん
この軌道に乗っかってきてね
ある程度余裕が出てきて
っていうのは
よく分かりますね
だって最初はまず
戻ってきて
こっち来たらお米ありますから
麦飯ですよ
麦が多い後半
それが小学校6年なんと
全部白米になった
だからみんなの
友達の弁当日だってね
本当にね
弁当にね
梅干しね
そこにちょこっと佃煮があるとかね
そんなものみんながそうだから
麦飯で
少しずつ職も復興していったわけですね
そうそう
私は
戦後のそういった動きを
よく覚えていて
覚えてますね
小さかったからはっきりじゃないと思うんですけど
横浜でもね戦後1年2年3年ぐらいの時は
当然アメリカ軍もいたりとか
戦争から帰ってきたりとか
そういう風景
あります
もう外人がね
もう外人様ですよね
横浜なんて一番ありそうです
ところがね子供たちに優しいんですよ
僕らも値段あるでしょ
チョコレート
やっぱりイメージ通り
喜んでね
いろんな話にできないのは
話ありますよ
女の子連れてね
そういう女の子連れてね
人前で悪さをやるよ
見てられないな
しかしそういうのを感じた時
やっぱり負けたんだなって感じしましたよね
威張ってね
ああって感じでしょ
まだ子供だから
なんかもらえたら
食べ物弱いから
なんかくれてやっぱり
子供は特にそうですよね
チョコレートやガムなんてないんですから
私ら
なんか小敷みたいなもんだ
複雑ですね
それでね
子供頃でね
なんとか
世間一般が暗いとか
そういう感じはなかったですね
なんか復興しようっていう
雰囲気は強かったと思います
パワーとかエネルギーはすごくなかった
うち自体がそうだったから
うち自体に
戦後は全部出てると思いますよ
本当に真剣ですよね
もううち家族でやってて
夜中近くになって
ザルにお金を
売り上げ持ってきて
オフから全部誕生するだけでしょ
でももう
戦前と全然違うんやね
その忙しさとかあれが
それはあります
今早稼いで
戦争体験とその影響
世間一般が暗かったら
復興しようっていうね
それはなんか熱はあったよな
子供の頃に感じましたよ
結局
やってましたね
その流れちょっとまた戻りますけど
竹松さんご自身が
その後もね
今日は一個人としてお話が上がってますけど
今も会社の話も少し出てきましたけど
やっぱりこの戦争体験の
戦争のお話を
例えば会社の方にだったり
地域だったり話されてるっていうのを
ちょっと伺ったことがあるんですけど
そもそもやっぱりそういうお話を
今日も機会いただいてますけど
されようと思ったきっかけとか
どんなところに
当然こういう話をされない方もいますし
それはね
実を言うとね
うちの息子である李徴が
7,8年
もう10年ぐらい前ですかね
親父さんって
なんだよ
戦争体験の話できるって
親父なんかもう最後なんじゃないの
その頃
うちは学童保育
学童保育始めた
タイミング的にね
そういう話をね
してもらいたい
そこからです
お家族にはちょっとしたことあったんですか
家族にですか
あんまり話してませんね
ある程度のちょこっと話するけど
あとは戦後の話の方が多いですよね
こうやってこう
戻ってきて親父戻ってきて
こういう風にやったという話はしますけども
食料がないとかそういう話はしますよ
意外にそういう話は
してないかもしれませんね
ただし一番言いたいのは私はね
戦争はやっちゃいけません
誰も喜ばない
本当に戦争
例えば
それはもう今今年で8回目か9回目だけども
またやるんですよ
なるほど
8月8日に
3時間くらい子供相手に
同じです
ちゃんと言うことは決まってるんですけどね
その文章は今度お見せしますけどね
戦争はとにかくしないように
しましょうね
それを具体的に
子供たちだからピンときませんよ
そうですね
本当はね
早川さんとか皆さんに
言われて
そこの親御さんは
昼も働いているから
話す時間がない
そういうことで
一度言って
うちの息子を
理事長の話のきっかけから
話をしようということになった
よく考えたら本当にいないんですよ
本当そうですよね
今度の3時間のお話は
もちろんそこを聞ければなんですけど
そこで話そうとしていることとか
この8年9年ずっと
多分根幹の部分は
変わってないと思うんですけど
ここでさらっているのは難しいかもしれない
具体的にどういうメッセージを
込められているのか
聞いている方にも結局伝えられると思うんですけど
こんなちっちゃな時でも
すごくやな思いをしたよ
という話ですよ
寝ている時に起こされて
ひんもじい思いもして
食べるものもなく
ただ本当に
頭に浮かぶのが
食べ物ばっかりですよ
だって遊んだ時に
雑草ですよ食べて
木の葉っぱ食べて
甘いものが欲しいから
木に敷きつけて
それをカネに吊るしておいて
水みたいに溜まるわけですよ
それを飲むとかね
ノイチゴは食べるし
食べられるものは全部聞いて
どういう草が食べられるか
喉が渇けば川の水を口持てて
そういう思いもしたけど
やっぱり免疫力があったのかね
あの頃の水もきれいだったんですよ
農薬もなくて
そんなような話はしますけど
基本的には
非常にちっちゃい時でも
やな思いをね
寂しさ
特に食べられない
そういうことだから
戦争はしないことですよ
思いやりと日本人の価値観
もうある程度伺ったのかなと思いつつですが
改めて今の
日本もそうです
世界の情勢を見て
思うこと感じることって何がありますか
だから今こそ
私たち日本人がね
活躍しなきゃだめですよね
間に入って
やっぱり
こういった力づくで
ものをやっていく
人間はみんなそうだと思うけれども
2000年以上続いた
いろんなことがあったでしょう
でも日本人の生き方ってのは
そうじゃないと思うんですよ
人のことをよく
私はちっちゃい時から
人の眼を見て
何を考えているかを察しなさい
そのくらい人の
対する思いやりとか
そういうものはたいずつ
人のことを考えながら
私はそういう教育を受けていましたよ
親父夫婦から
物質こそ大事だと
私たちが今こそ
心が大事でね
そういうものに変えていかないと
物を売ったらいくらでも
キリがないじゃないですか
あと権利
権利じゃなくてその前に義務があるんですよね
そういうことばっかり
先に頭に入っちゃって
日本人が今いるから
非常にこれから日本は
寄与していますよ
よくないですよ
自分のことばっかりしか
考えていない人が多くなって
私は違うと思う
日本人の考え方はそうじゃないですよね
いつも思いやり
人のことを打に
私はそういう教育を受けましたから
ちっちゃい時
対する礼儀を知って
相手のことを考えて
そして自分の考え方を述べる
そしてお互いに理解し合う
という
これが日本の生き方だと思うんですよ
大和大使も明治憲法も
そうですよね
国家庁の御説文に従って
万華光輝
何とかってありますよね
全部あれをよく読んでいくと
日本人というのは
そういう生き方をしてきたと思うんで
それをやっぱり
今こそ示す
時だと思いますね
50:22

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