で、運転するのが好きって言うと、そういうと走り屋みたいなイメージありますよね。車漫画っていっぱいありますよね、なんかイニシャルDとかイニシャルDとかイニシャルDとか、あれ興味ないから車漫画も多分ぼっとあるんだと思うんだよな。
あれ、もう一個だけ知ってる。めぐみのだいごを描いてる人の漫画のやつ。なんかありますよね、カペタっていう漫画。あれも運転に関しての漫画ですよね。
スピードを出して、スピードを出してというかモータースポーツか、なんかそういうのありますよね。そういうのもね、あんまり、漫画としては面白いと思いますよ。もちろん読んだことあるし、漫画は面白いなと思いますけど、
僕が好きな運転っていうのはそういうのでもないんですよ。あれは競技的な運転だと思うんですけども。でね、僕何が好きかって言うと、多分ここまでそうじゃない、そうじゃない、あれでもないとかって言ったら、きっと一人でドライブして考え事しながら風景とか見るのが好きなんでしょって思うと思うんですよ。
いわゆるそれが試作的なドライブ、競技的なドライブに対して試作的なドライブね、思う試作するのね、試作に吹ける試作ね、そういうのが好きなんだろうっていうことになるんだと思うんですけども。もちろんそれも好きです。そういうのも好きなんですけども。
僕が運転するようになって自覚したのがですね、社会的なドライブっていうのが好きなんですよ。これちょっと説明させてもらってもいいですか。社会的なドライブっていうのは、例えばどういう時に感じるかというと、一番多いのはね、高速道路、高速道路で混雑してきた時に感じるんですよ。
つまり、たくさんの車があって、スピードが速いやつは追い抜いていったり、車間距離をとっていったり、坂道でスピードが出る、その先にカーブがある時にみんなゆっくり減速していくとか、あるいはちょっと自己車両があって急激にみんな減速しなきゃいけない時に、ハザードランプで急激に減速していることをみんなに電波的にお伝えしていくとか。
たくさんの魚が誰の指示もなく大型の魚の脅威から逃げたり、群れがあっちこっち海を移動したりするみたいなことってあるじゃないですか。
虫でもいいや、魚でも。でもね、海の感じと高速道路の感じが似てるから魚なんだと思うんだけど、魚が誰も指揮者がいないのにお互いのちょっとしたサインを交換しあって、相手の動きに応じて集団としての動きをしていく時ありますよね。
僕魚になったことないからわかんないけど。でも車運転している時に特にたくさん車がいるような高速道路とか高速道路の出口とか三連休の最終日の東名高速とかに乗ると、自分がその魚の一匹になったような感じがするわけですよ。
それが僕がやってる社会的なドライブってことなんですけども、そうした時に言葉を交わさなくてもみんなが考えていることがわかるわけですよ。
ウインカーを出す、ブレーキランプが光る、ハザードランプをたく、ゆっくり減速する、徐々にスピードアップしていく、右を開ける、左を開ける、車間距離を取るみたいな。
そういうのが連動して動いている時に、言葉を使わず、特に真っ暗くなってきた東名高速で東京に戻ってくる時の魚群の中の一体になった時に、とっても気持ちいいんですよね。
とっても気持ちいいってことに気づいて、全然僕、渋滞とかストレスに感じないんですよね。その時って言語的な思考から解き放たれてて、好きな音楽を聴きながら家族とか友達とおしゃべりして、運転にストレスがかかるかというとかかんないんですよね。
もう自分が何かを考える必要がないんですよ。もう自分がどう動くべきかっていうことが、そのサインが魚群全体、周りのお魚たちがお伝えしてくれるんで、その通りに動けばいいんですよね。
ああいう全体の一部になる社会的なドライブっていうのがすごく好きなんですよね。好きっていうか、そういうのも好きっていうか、すごい好きだなと思いましたね。
そう思った時に、教習所?自動車学校?で何を習ってるのかっていうのが理解できたんですよね。つまり車を運転するだけだったら、もちろんいきなり行動を出るのは危険だけども、もしプライベートな広い場所とか道路があるんだったら、車を動かしたり止めたり、あるいは駐車場に出し入れしたりする練習なんて一人でもできるんですよ。
全然難しくないですよ。でも運転するっていうのは、車っていう道具をうまく操るっていうことを学びに行ってるんじゃなくて、もちろんそれができてるのは大前提で、車に乗って海に出る。つまり魚として海に出る。
社会に入るときに、その社会の身の前の人たちが発してる情報をちゃんと感じ取って、ちゃんと行動に移せると。車の中にお互いいるから意思疎通できないわけですけども、意思疎通できない状態で車のサイン、車を減速する、加速する、ブレーキランプ、ハザード、ウィンカー、あとはちょっとしたハンドルの振り方。
これね、もしかしたら実際なんかやるかもしれません、私。どっか、どっかっていうか、東能なんですけど、東能でね、やるかもしれない。やりたいと思ったことが1個あって、やろうかな。
で、なんかだんだん、この話になったんであれなんですけども、今朝ね、聞いてたポッドキャストで、優しい民族学っていうポッドキャストがあって、これあの民族学好きな人よく聞いてるやつで、最近本にもなったんで、また話題にもなっているのかな。
それにですね、森内小幸さんっていう、メディアヌップにも過去何度かゲストに出ていただいた、今は宮崎県のシーバソンに住んでいる学芸員さん、地域おこし協力隊兼学芸員さん兼博士課程の学徒でもあられる森内さんが、小幸さんがゲストで出てて、なんかね、3回シリーズの今1回目なんで、3分の1しか聞いてないんですけどもね、面白かったですね。
東野とシーバソン、つまり柳田邦夫が自分の学問を起こすときに起点にした西っていうかね、西の山の中のシーバソンと東北の山の中の東野って、この両方の場所に現代でどっちにも住んだことがある、住んで研究してるなんて人って、森内さん一人しかいないんで、もうこれは現代の柳田邦夫と言ってもいいような、そういうことをしてるね、方なんですけども。
それすごい面白かったんで、ぜひリンクもしておくんで聞いてみてほしいんですけど、それがね、面白かったね。それもね、山の中の話なんですけど、なんかロビンソン・クルーソー的な連想が、シーバソンがすごいもう日本三大秘境だとかって言うからね、僕すごい期待が高まっちゃってるんですけど、いまだに行けてない。行こう行こうと言いながら、いまだに行けてない。
行ったことないなりに、僕、近しい光景があって、新潟県の山越村っていう、ここはね、宮本恒一がよく足を運んだ、民族学者の宮本恒一がよく足を運んだとこで、僕自身は日式越えNFTっていうそういうプロジェクトで親しみがあって、遊びに行ったことあるんですけどもね、本当にこう旧春な山の中にポツポツと集落があって、その山の中がネットワークされてる。
で、あらゆる道がくねくねとつづら折りになってるみたいなね、そういうとこなんですけども、聞いてるとね、シーバソンも角度60度みたいな山が連なっていて、10か所ぐらいの集落があって、そこがくねくねした道でつながってるって言ってたんで、たぶん近しい感じなんじゃないかと思うんですけどもね。
あの僕、あの光景、山越島の光景思い出すんですけど、すごい景色がいいんですよ。今自分が立ってるのもどっかの山の斜面なんだけど、その目の前にも誰かが住んでる、どっかの山の斜面があって、それがこうてんてんてんてんて折り重なっていて、なんか雲の上に住んでるようなね、僕行ったことないけど、マチュピチュにもし人が住んでたらこんな感じかなと思ったんですけど。
そういう感じがしたんですけど、宮崎もそういう感じなのかな?どうなのかな?分かりませんが、すごく行ってみたいな。山で思い出したわけじゃないけど、今、映画遠い山並みの光っていうのが9月5日から公開になって、劇場でやってるんですけど。
これ、和尾石黒のデビュー作。4位出たのは多分1982年ぐらいで、その時は女たちの遠い夏ってタイトルで、今の遠い山並みの光ってタイトルになって出たのは88年とか、多分その辺だと思うんですけど、その作品が40年ぶりぐらいに映画化されて、今劇場公開してるんですけどね。
これがね、えらい面白いんですよ。えらい面白い。衝撃受けましたね、僕。小説もね、すごいミステリアスな雰囲気をまとってて、あれどういう話なんだろうってちょっとね、分かんないような感じなんですよ。で、分かんないくてもいいと。
なんかそういう余韻ごと楽しいみたいな本なんで、それはそれでいいんですけど、映画だとミステリアスな部分がもっとサスペンスとして強調されていて、はっきりとした謎の解決っていうか、なんか不思議な部分もまだたくさん残ってるんだけど、こういうことだったんだよって結構はっきりと示してくれてるんですね。
映画では分からなかったことが映画でははっきりと示されていて、それがね、すごい面白かったんですよ。面白い面白いしかやってないのは何で歯切れ悪いかというと、あるネタバレになっていて、見てない人にお伝えすることができないような内容なんですけども、僕なぜそれに衝撃を受けているかというと、本を読んでてね、その構造、仕組みに全然気づいてなかったんですよ。
で、映画館で久々に遠い山雨の光を見て、こういう話だよなって途中まで見てたんですけども、その最後の最後である謎の種明かしみたいなのがあって、びっくりして家帰って15年ぶりぐらいに小説を再読したんですけども、
確かにその謎の解決方法を示された後に読むと、確かにこういう話だったのかなっていう風には読めるんだけど、やっぱり再読してもその元の小説に描かれているヒントがものすごくささやかで、これ普通に読んだら気づかないなっていうような話なんですよ。気づかないなっていうのは、なんかミステリアスな話だなって終わっちゃう。
でもよく読むとすごくはっきりとした謎の解決みたいなのがあって、そう思って読むのとそうじゃないと思って読むのとで大違いであるみたいな感じなんですよ。
これなるべく言わないようにしてるから今すんごい歯切れ悪いんですけど、違うものの例えで言うと、比較的読んでる人が多いだろうと思う村上春樹の予備作「風の歌を聴け!」で言うとね、あれってたくさんの断片に分かれた小説で、主人公とネズミっていう男の子とあと何人かの女の子が小指のない女の子とかに出てきて、神戸でお酒いっぱい飲んで夏休み終わったら東京に帰ってくみたいな、なんか青春小説だと思ってる方多いと思うんですね。
さーっと読むとそういう感じなんですけども、よくよく読むと主人公の彼女が妊娠をして、それはきっと主人公の子供でしょう。妊娠をして大学の寮の近くで首をつって自殺をしてしまったと。
それに深く傷ついている主人公がいて、その妊娠とか女性とかを巡り話をしていくやつなんですよ。でもそれがあまりにも主人公とかの、もしかしたら村上春樹自身の自伝というか実話なのかもしれないけど、あまりにも深く傷ついてるんで、深く傷ついた原因になる。
彼女が自分の子供を見守って自殺したっていうことをすごくわかりづらく書いてるんで、普通に読むとわからないんですよね。もうすごく暗号メーター、なんていうかな、入れ替えがあって、話の入れ替えがあって隠してあるんだけど、それに近いかな。
その隠してる、お話をわかりづらくしてる、ミステリアスにしてる手法はそれとは違うんだけど、一回読んだ後と後から謎解きを聞いたときの違いの楽さでいうとそれぐらいの違いがあるんですよ。でね、めちゃめちゃ面白かった。
で何が面白かったっていうと、その謎解きが面白かったんじゃなくて、その謎解き、なぜそんな複雑な話にしなきゃいけなかったのかってことなんだけど、遠山並の光の主人公は越子っていう女性のニュースに移り住んで、長女を自殺で亡くしてると。
で、それについて自分を責めている。深く後悔している。で、まあそりゃそうですよね。考えてもみてくださいよ。自分の子供ですよ。大石。大石が自殺して亡くなっちゃってるんですよ。
その悲しみみたいなものを間接的にっていうか、深く悲しんでいるからこそ、別の方法によって逃避したり救われたりしてるっていう状況があるんですけど、その状況そのものをまず描いてるんで、すごく間接的なんですよ。いろんなことがね。その表現が。
で、お話としてはすごい悲しいスクリーンな話に思えるんだけど、ある改善があると。解決じゃない。前進かな。ちょっとした前進が見えて、最後お話は終わるっていうことなんですけど。
それがね、小説の中だとすごい構造がわかりづらいのが、あれはね、脚本を監督された石川圭さんがとっても素晴らしい仕事をしたっていうことだと僕理解してるんですけども。
映画の中、小説の中でわかりづらかったシークエンスであったり、つながりみたいなものをはっきりと抜き出して、もしかしたら作者自身が意図してなかったことすらも浮かび上がらせて一本の映画にしてるんですよね。