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2025/12/28:真ん中におられる方

2025/12/28 年末感謝礼拝

加藤満牧師

ヨハネの福音書 -28


サマリー

2025年の最後の礼拝において、メシアとしてのイエスの存在と心のあり方について考察されます。バプテスマのヨハネの言葉を通じて、主に目を向ける重要性が示されます。このエピソードでは、イエス・キリストが日常の中におられる事実と、常識がその視覚を妨げることが考えられます。また、ヨハネの謙遜な姿勢が示すように、自らの立場を理解し、主を認めることの大切さが強調されます。

2025年の最後の礼拝
それでは一言お祈りをいたします。
恵み深い天の父なる神様、
2025年の最後の礼拝の時を迎えました。
改めて主が祈られたように、
今年一年もこの教会を支え、
教会のお一人一人の主であられ、
私たちが倒れそうな時にも、
下に永遠の身腕を持って、
確かに支えを与えてくださっていたこと、
あなたの恵みを覚えて心から感謝をいたします。
そして主よ、私たちは今年では終わりません。
これからもまたあなたと共に歩んでいきますが、
あなたの代わりない十字架の身すくいを覚えます。
私たちの罪を許し、神のことをしてくださったこと、
永遠の命を与え、永遠なるし共に生きる、
新たな命を今与えてくださっていること、
あなたは自分の足立つのではない、
私の恵みによって歩むのだという、
あなたの恵みに支えられて変わらず、
進んでいくことのできる恵みを感謝をいたします。
どうか様々な弱さが私たちにはあります。
もしくは今年一年を振り返ると、
後悔もあるかもしれません。
様々な思いを抱えてこのところにいらっしゃいます。
でも主よ、あなたはそのすべてをご存じで、
受け入れてくださっています。
私となおも歩もうと、私たちは励ましてくださいます。
どうかあなたに今目を上げながら、
静まってあなたこそ主であることを知ることができますように、
私たちの心を導いてください。
お願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人、
痛んでおられるお一人一人を、
なおも覚えてくださいますように、
お願いいたします。
これからの時を見てにおやだねをして、
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
バプテスマのヨハネの教え
改めまして、
2025年も残すところ、あぞわぞかとなりました。
年末というのは、毎年そういう話をしますが、
不思議な時でして、
12月31日から1月1日という、
一晩をまたぐだけなんですけれども、
私たちにとっては、
それはいつもの一晩ではなくて、
何かが終わり、何かが始まるということを
強く意識させられる、そのような一晩です。
これも今年を振り返るそのような時期かもしれません。
今年はこれを達成できたという方もいらっしゃるでしょう。
もしくは、私はこのことに不十分であったという後悔を
お持ちの方もいらっしゃるかもしれませんが、
もしくは社会の混乱や、
身近な私たちの問題の中で、
ただただ疲れ果てて立ち止まっておられるという方も
いらっしゃるかもしれません。
世間は、しわすと言って忙しく走り回っておりますけれども、
キリスト社はそれに習う必要はありませんので、まだ高端説です。
ですから、私たちは今一度立ち止まって確認したいことは、
このせわしない、そして落ち着きのない私たちの心は、
一体改めてどこに向かっているのかということです。
そのことを今朝の箇所から覚えたいと思いますが、
今朝の箇所は、
ヨハネの福音書の罰テスマのヨハネが出てくる、
そのようなシーンです。
彼は救い主を待ち望んでいる民衆に対して、
非常に鋭く切り込みながら、
しかし希望に満ちた言葉を投げかけるわけです。
特に今朝、ご一緒に注目したいのは26節の言葉です。
26節の後半ですね。
あなた方の中に、あなた方の知らない方が立っておられますという言葉です。
あなた方の中に、あなた方の知らない方が立っておられます。
忙しさの中で、しかし改めて、
私たちはどこに心を向けるべきなのか、
年末に主が私たちに語られる言葉に、
少しご一緒に聞きたいと願っております。
ヨハネがこのところで多くを語っていますが、
ヨハネの発言から、3つのことを今朝は覚えたいと思います。
彼が言った第一のこと、それは、
私はそれではないという彼の言葉です。
私はそれではない。
少しこの歌手の背景を抑えておきたいと思いますが、
当時のこのヨデン地方といいますのは、ローマの圧勢下に置かれていました。
加えて、この副印書でも扱われますが、
エルサレムを中心とした宗教指導者層たちによる激しい税金の取り立てがありました。
地製の住民たちは、とても厳しい生活をしていましたし、
それは貧しい人たちにはもっとしんどくなるというような
社会状況が生まれておりました。
そのような中で、人々が待ち望んでいたのはメシアです。
この私たちの状況をどうにかしてくれるメシアが現れるはずだ。
そしてその中に突如として現れたのが、このバプテスマのヨハネだったのです。
彼の力強いメッセージと彼のバプテスマの儀式というのは、
しばらく預言者が出ていなかったこの地域において、
瞬く間に、ああ、彼は預言者ではないか。
いや、聞いて言うならば、いや、預言者どころではない。
もしかしたらバプテスマのヨハネこそが、私たちが待ち望んでいたメシアなのではないか。
そのような期待が人々の中で集まってきた、そのような状況なんですね。
そのことを聞いて、エルサレムの指導者たちは調査団を送り出すわけです。
そして今日の19節にありますけれども、このエルサレムから来た人々がヨハネに問うのです。
あなたはどなたですか。あなたはどなたですか。
ただここで20節を見ますと、彼はためらうことなくと潔く答えるのです。
20節。ヨハネはためらうことなく告白し、私はキリストではありませんと明言したというのです。
ためらうことなく明言したというのは気持ちがいいですね。はっきりと言ったということです。
私はキリストではない。
ここでヨハネは自分に向けられているスポットライトを自覚しながらも、それをあえて外そうとするのです。
私ではない。
かえって彼のこの後のやりとりは、私は何者か、私はどういう人物かということを言うよりも、
私は何者ではないということをはっきりと指していきます。
21節を見ますと、彼らはヨハネに尋ねた。
それでは何者なのですか。あなたはエリアですか。ヨハネは違いますと言った。
では、あの預言者ですか。ヨハネは違いますと答えた。
私はエリアではありません。私はあの預言者ではありません。
当時メシア大坊が渦巻いていたこの地域においては、実はヨハネ以外にもイエス様以外にも、
あの人がメシアだと言って人が集まっていたグループは実はいくつかあるのです。
でもヨハネはその中で、私はそうじゃないと明確に言います。あの預言者でもない。
じゃあ、あなたは誰なんですか。
23節にヨハネはこう答えました。
ヨハネは言った。私は預言者イザヤが言った主の道をまっすぐにせよと荒野で叫ぶ者の声ですと。
ヨハネが言った。じゃあ、あなたは誰ですかという問いに対して、彼は私は荒野で叫ぶ者の声にすぎませんと言いました。
私は声にすぎない。
1年お互いに振り返るときに、私たちがよく追われることと言いますのは、私自身もそうですが、
私は何者であるかを示すことに追われるということが多い現実ではないかなと思います。
私たちは評価を求めやすいです。仕事やもしくは教会においては、奉仕の評価というものを求めます。
家庭においては、良い父親であり良い母親であったかということを、私たちは評価として求めます。
いわば人からどう見られているかでしょう。
しかしそのようにしながら、時に私たちは自分のできたことや自分のできなかったことにばかり目を向けて、
あたかも私という存在を、私の人生の主役に据え続けるということを、互いにしがちだなあということを思わされるのです。
確かに私たちの人生の主役は私なのかもしれません。自分の人生には責任を負わなければならないかもしれない。
でも私たちが信仰によって教えられているのは、あなたの王座にキリストを据えなさいということでしたね。
ヨハネがここで言うのです。ヨハネの見る姿勢は、私は主役ではない。私は声に過ぎない。
声という表現は実に味わい深い表現であると思います。
声というのは、そこで語られるべきメッセージや意味がなかったら単なる煩雑な音でしかありません。
しかし声であると彼が表現したことは、私の人生を通して語られる神がおられる。
私の人生に意味を与えて、私の人生を導いておられる神がおられる。
そのことをヨハネは言うのです。主こそが私の人生の主役、導き手となって、私の人生を単なる煩雑な音ではない。
一つの繋がったメッセージ、意味を与えてくださる。
いわばヨハネには、そういう主を私の中心に据えることを認める謙遜さというのが、彼の中におそらくあったのではないでしょうか。
しかしそれは私たちも学びたいことです。私はそれではないのです。
心に留めるべきこと
王座は主が座っているはずではありませんでしたか。
そして二つ目のことを見ましょう。ヨハネが言った二つ目の言葉は、今日見ました二十六節です。
あなた方の中に、あなた方の知らない方が立っておられます。ということです。
この二十六節、会話の中で続けてヨハネが言いました。
私は水でバクテスマを授けていますが、あなた方の中には、あなた方の知らない方が立っておられます。
この言葉は、二つの側面のことを言っているのです。
第一にそれは、あなた方の中に主は、メシアは、既に立っておられますよという事実です。
あなた方の中に、メシアは既に立っておられますよ。
中にという言葉は、これはギリシャ語で読んでも、真ん中にと訳する言葉です。
あなた方の真ん中に主は立っておられます。
当時、メシアが現れるとするならば、それは、
ダビデのように軍隊を率いた力強いメシアが現れるというイメージが一般的でした。
しかしヨハネは、メシアである主は既にごく普通のあなた方、ごく普通の人々の真ん中に既に王であるお方は立っておられるのですよという事を言うのです。
しかし、人々はダビデのような人物を想像していましたから、そういう王が来ることを期待していましたから、二つ目のポイントです。
真ん中にメシアは立っているにもかかわらず、人々は知らない。
知らないと言われているギリシャ語は、単に情報として知らないだけじゃない。
これは、認めていないとか、見分けることができないという言葉です。見分けられないという言葉です。
これはまさに、1章の9節から11節の言葉の繰り返しなんですね。
すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって作られたのに、世はこの方を知らなかった。
一緒です。光として来られた方が真っ暗闇の真ん中で光っているのに、人々はそれを見分けることができない。
なぜ見分けられないのか、それは彼らにおいてメシアはこういう救いをしてくれるはずだという期待があるからです。
彼らの中に握っている期待こそが、実はそこにいるメシアがそこにいることを見えなくさせているという事実なんです。
私たちは果たしてそれを見分けているかなということを互いに問われます。
しばしば恩師中澤先生のお話をしますけれども、中澤先生が滋賀県の森山市で開拓伝道をなさっていたときに、
ある家の離れが礼拝所として与えられたんですね。
おもやのご主人はノンクリスチャンの方で、おもやのご家族と仲良くしていて、
そのおもやのご主人は大学教授なんですよ。でも神様も信じていない。
先生は家の離れをキリスト教に貸してくださるご主人に対して信仰の話を分かち合うわけです。
救い主の存在
でもそのご主人が返す言葉はいつも、どうも常識が邪魔をしてねと言うそうです。
常識が邪魔をしてねと。
若き日の先生は救いの邪魔をするような常識は捨ててしまえと、
心の中では言わずとも思っていたということを本で書いておられますが、
ただ私たちに互いによくあることかなと思います。
救いはそこにある。救い主はこの苦境の底におられる。
しかし私たちの中に、救いはこう起きるはずだ。私のこの苦境主はこう救ってくれるはずだ。
そのようにしながら、そこに立っておられる主が見えなくなることがある。
それを認めることなく、私の常識を認める。
常識は大事です。常識を捨てるなんていません。
ただ、それにも勝って見言葉は真実ではなかったかということを、私たちは改めて問われるのです。
見言葉の真実と、私の常識と、一体どっちが正しかっただろうか。
私たちは年末に改めて覚えたいことは、救い主は私たちの日々の中に立っておられたのです。
ヨハネの謙遜
私たちの中で主が遠くにおられる。
そのように思ったこともあるかもしれません。
皆さんにとって一番困難だった、この2025年の出来事は一体何だったでしょうか。
病を負ったという方がいらっしゃるかもしれません。
人間関係で傷ついたという方がいらっしゃるかもしれません。
不安で眠れない夜を過ごした方はいらっしゃるかもしれません。
そのような中で私たちは、自分の感情や常識、神様をこう助けてくれるはずだという願いにとらわれて、
もしかしたら、イエス様がそこにおられることを見分けられなかったのかもしれない。
しかし、今朝の歌唱を通して主が語られることは、
メシアは、主は、あなた方が探し求めている方は、もうここにおられるのだという事実を認めなさいということです。
気づきなさい。見分けなさいです。
そこに主はおられるのだということ。
そのことをこの言葉から覚えたいと思います。
そして三つ目の言葉に目を向けますならば、二十七節の言葉です。
その方は、私の後に来られる方は、私にはその方の履物の紐を解く値打ちもありません。
三つ目のヨハネの言葉は、履物の紐を解く値打ちも私はないと告白したということです。
履物の脱がせる、履物の紐を解くというのは、当時の社会においては、
足を洗ったり、履物を脱がせたりするのは奴隷、しかも奴隷の中でも最も地位の低い人がする仕事でした。
ただこのヨハネの言葉は驚きです。
そのような、履物を脱がせるような奉仕すらも私にはもったいない。
奴隷の最も最下層のそのような立場にすら私はいないということをここで言っているのです。
いわば、私はそのいやしい奴隷にさえ及ばない。
神の前には私はそういうものにすらないということを言うのです。
ヨハネの言葉、この謙遜さというのは卑屈なものではありません。
むしろヨハネは見分けているのです。
イエス・キリストがどれほど圧倒的に清く偉大で私の想像を超えた方であるかということをヨハネは見抜いている。
言葉を変えるならば、神を神としているのです。
私は人間であって、神を神としている。
イエス・キリストに対する私の立場、イエス・キリストに対しての私の距離感をふさわしく自覚している。
そのように言える言葉でしょう。
私たちが時折陥ることは、神様を自分の願いを叶えてくれる便利な道具にしてしまうということはよくお話をいたしますが、そうです。
私たちは時折、そのように神様を便利な存在のように扱います。
しかし、ヨハネはふさわしく聖なる主を恐れ、聖なる主の前に自分自身の姿を示されながら、靴を脱ぎ、跪く姿勢をとっているのです。
ただ私たちは、昨年も今年ですね、サムエル記も読みましたけれども、あの旧約聖書のストーリーが教えることは、私たちの勝利、私たちの戦い方は一体どういう戦いなのか。
それは、あなたの足の履物を脱げですよ。
あなたの立っているところは聖なる場所であるという、あのヨシア記で主が語られた言葉の通りです。
私たちは戦い方は、自分で武器を持ってやっていくということばかりを考えます。
でもまず私たちの戦いは、あなたは主の前に靴を脱ぎましたか、ではないでしょうか。
聖なるお方を聖なるお方として恐れているだろうか。
ただ私たちは、交談説を通して、もしくは十字架を通して知っています。
これほどまで聖なる主、私たちが本来靴の紐を解く値打ちもない、そのような私たちのために、
自ら跪き、自ら私たちの足を洗い、そしてついには十字架にかかってくださった聖なる聖なる神がいるという、この驚きです。
福音はいつでも驚きですね。
主の真ん中に立つ
良き知らせ。
私たちには到底たどり着けない、計り切ることのできない聖なる神様は、
その罪人のために跪き足を洗い、その罪を担うれるという、計り知れない愛の御業をなさった。
その神を知るときに、これはよく言うんですが、十字架を見て驚けなくなると、私はちょっと危機だなといつも思います。
この十字架を見て驚くときに、私たちは神を神とせざるを得ない。
バクテスマのヨハネは、主の道を用意せよと語りました。
主の道を用意せよ。
しかしそれは、私たちの心の中に、その中心に座り込んでいる、自分自身という偶像を脇にどけて、
そこに既に立っておられるイエス様のために場所を空けることではないでしょうか。
今朝の中心聖句は、26節の言葉です。
あなた方の中に、あなた方の知らない方が立っておられます。
2026年がどのような年になるのか、私たちは誰も知りません。
世界情勢は不透明で、年末年始、私が特に思うのは、来年も皆さんとともに年末と年明けを迎えられたらいいなと思います。
当たり前のことではないのです。去年と同じ顔ぶれがここに集うというのは。
しかし、分かりません。正直申し上げまして、分からない。
ただ、一つ確かなことは、どのような状況になろうとも、主は私たちの真ん中に立っておられるという事実です。
主は教会の真ん中に、私たちの家庭の真ん中に、私たちの働く職場の真ん中に、そして何より、クリスマスが語るのは、私たちの震える心のそのど真ん中にですよ。
そのど真ん中に主は立っておられる。
私たちがこの年末、互いに心がけてしたいことは、ヨハネのように指を指すこと。
主が主よ、あなたがここにおられることを感謝をいたします。
私はあなたがここにいることを知りませんでした。しかし今、あなたを私の主として改めて仰ぎます。
そのように告白をすることではないでしょうか。
私たちは今年もまた喜びともしくは後悔があったかもしれません。しかし全ての罪と後悔を神の子羊であるイエス様にも預けてしまいましょう。
そして、そこに立っておられる主の手をしっかりと握り、平安のうちに新しい年へと歩み出そうではありませんか。
主は今、私たちの真ん中に立っておられる。
そのことを覚えて、あなたこそ私の主ですと告白を改めてさせていただきたいと思うのです。
一言お祈りをいたします。
25:27

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