新年の感謝と期待
今朝はここから短く、天は開いていると題して見言葉を取り継がせていただきますが、改めまして、高いところからですが、皆様明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
元旦、この年の初めから足を礼拝するところから始められる栽培を感謝をしております。
新たな一年に、私たちは様々な期待を抱きます。もしくは、私たちは今年はどうなるだろうかということも思われる方もいるかもしれません。
というのも、一年振り返ってみますと、いいこともあるし、同時に、今年はちょっと大変だったなと思うことも、私たちは経験をいたします。
そのような期待と不安が入り混じりながら、年々状況が変わる中で、私たちは今年どうなるのかなということを互いに思い巡らすこの時ではないでしょうか。
祈りでも祈りましたが、世界の状況も変わります。
日本は来年同じ状況なのかよくわからないなと思いますし、また私たち個人の状況においても様々なステージが変わる、そのようなことを経験します。
ただし、私たちキリスト社は変わりゆくものに軸を置いているのではない。
むしろ変わりゆく世界、確かなものが少ないこの世界の中で、変わらない神や旧約の言葉を借りるならば、いわなる神です。
変わらない、不変の神。
その方を仰ぎながら、この方に私は繋がっていく、そのような礼拝をしていく、そういうことを覚えたい、そういうし続ける一年でありたいと願っています。
ナタナエルとイエスの出会い
さて、今朝お開きしましたこの43節からの言葉。
この箇所は、読んでいただいたらお分かりの通り、ピリポ、特に今日注目しますのは、ナタナエルとイエス・キリストの出会いについて書いてある箇所です。
ナタナエルというのは、おそらくイエスの十二弟子の一人、バルトロマイと同一人物ではないかと言われる人ですけれども、彼はどういう人物だったか一言で言うならば、
彼もまた、置かれた時代、変わりゆく時代の中で、変わらないものって一体何なのかということを真摯に見つめた人物でした。
そのナタナエルに対して、イエス様はどのように関わられたのかということを、ご一緒に聞きながら、新年の私たちへの見言葉とさせていただきたいと願っています。
二つのことをご一緒に見たいと思います。
ナタナエルに主はどのように関わられたのか、一つ主が語られたことは、私たちは主に知られているという事実です。私たちは主に知られているという事実です。
このナタナエルとイエス様の出会いを見る時に、イエス様を紹介したのは、友人であったピリポでした。
彼は興奮しながら、ピリポはナタナエルに対して言いました。
私たちは旧約聖書に予言されていた、あのメシアに出会った。
年末にも少しお話ししましたが、この時代は今の私たちの時代より、より厳しい時代でして、人々はローマの支配に合わせ、エルサレムの宗教指導者の搾取によって、税金に重なる税金ですごく厳しい生活を強いられていました。
多くのユデイ人がメシアを待ち望んでいましたし、それゆえにこの時代には、多くの私こそメシアだという人たちはたくさんあふれていました。
そのような偽予言者も多く現れる時代の中で、ピリポがナタナエルに対して、私たちはメシアを見たんだと言ってきたとしても、実はナタナエルの反応はとても冷めたものでした。
ピリポが45節に、「私たちはモーセが立法の中に書き、予言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人でヨセフの子イエスです。」と言うのですが、ナタナエルは彼に言った。
ナザレから何か良いものが出るだろうかです。ナザレから何か良いものが出るだろうか。イエス様の出身ナザレというのは、旧約聖書には一度も名前が出てこない地名です。
だからこそ、そんなどこの馬の骨かもわからないような、そのようなイエスをナザレだと、私はどうやって信じればいいのか、そう思ったわけです。
今の時代も重なるかもしれません。厳しい時代というのは、人々はどこかで救いを求めます。ただ、救いも氾濫しすぎて、自分の都合のいい救いを求めて、救ってくれそうなものを求めるということはあるでしょうし、巷にいわゆる救い主というのはあふれています。
もしくは、いやいや、そんなものを信じるからこそダメになるのだ。何かを信じること自体が危険なのではないか。そのようなことを思うのも無理もない、そのような時代です。
しかしピリポは、そう同じように疑うナタナエルに対して一言こう言ったのです。ピリポの言葉は46節。来て見なさい。来て見なさい。ピリポはここでナタナエルと議論はしません。こういうものだから信じれるんだなんていう議論はしません。
いいえ、議論で人は神を知ることなんかできません。神を知るというのは、神がいることを納得できるかどうかではないんです。私たちが神を知るというのは、生きておられる神に出会うということです。神は生きておられるのです。
そしてそれは、あなた自身が言って、あなた自身がこの方を見なければわからないとピリポは言いました。これは今も重なることでしょう。そうピリポは言わんばかりです。あなたが見て、来て、見ない、見なさいと。
ナタナエルはこれを聞いて渋々イエス様の元へと向かいますが、彼を見て先にイエス様が声をかけられました。47節48節にイエス様とナタナエルがこういうやりとりをしています。
イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て彼について言われた。
見なさい。まさにイスラエル人です。この人に偽りがありません。ナタナエルはイエスに言った。どうして私をご存知なのですか。イエスは答えられた。ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたが一軸の木の下にいるのを見ました。
このやりとりは少し注目が必要です。と言いますのも、やりとりはちょっと不思議なんですね。ナタナエルが行く。するとイエス様から声をかけられる。この人には偽りがないといきなり言われるのです。
そしてそれに驚いて、なんであなたは私のことを知っているんですかと言った後に、イエス様が言われたことは、あなたが一軸の木の下にいるのを見ましたと言うんですね。これは単に、たまたまナタナエルが一軸の木の下にいるのをイエス様が目にしましたよと言っているわけではありません。
一軸の木の下と言いますのは、当時のユダヤ教においては、静かに神の言葉を黙想し、熱心にメシアを待ち望み祈る場所なんです。静かに神を黙想し、熱心にメシアの到来を祈り待ち望む場所が、一軸の木の下と呼ばれる場所です。
イエス様がいわばここでナタナエルの、あなたが一軸の木の下にいるのを見たというのは、実際に見ましたということよりもむしろ、この揺れ動く時代の中で、あなたが悩みながら真摯に神を求め、御言葉を黙想し、救いを待ち望んでいるその在り方を私は知っていたよということを言うのです。
あなたがそうやって家に抱えていながら、主を求めていた思いを私は知っていたよということを言うのです。
ナタナエルはもしかしたらドキッとしたかもしれませんが、ああ、主が私を全部知っておられるということがわかったのではないでしょうか。
天が開く約束
このナタナエルの姿は私たちに重なります。
私たちは真摯に主を仰ぐ中で、神に忘れられているのではないかという不安はいつもあります。
私の孤独や祈りを神は知っておられるのだろうかと思います。
口に出して祈っている回数が少ないからこそ、ああ、私は神様に何も伝わっていないわと思うかもしれません。
誤解です。主は言葉になる前からあなたの祈りを知っておられるのです。
そして主は私たちのすべてを知っておられる。
咎始めに私たちが改めて覚えたいことは、私たちが主を探し出すのではなく、主が先に私たちを見出し、私たちのことを知っていてくださるという事実に私たちの信仰は立っているということです。
そのことをぜひしっかりと覚えてください。
この知られているという安心感が私たちの信仰の歩みの土台なんです。私は主に確かに知られているのです。
二つ目のポイントを見ます。
そして私たちはこのキリストを通して天と結ばれているということもこの箇所が語る大切なことです。天と結ばれている。
ナタナエルは突如として自分のことを知っておられるイエス様に出会って、あなたは神の子、イスラエルの王ですと告白をいたしました。
いわばここでナタナエルはメシアだと認めるわけですね。
ただイエス様はここで、あなたはこれよりももっと大きなことを見るよ。メシアが来たよりも大きなことを見るよとここでナタナエルに言うのです。
それは何かというと五十一節の言葉ですね。
まことにまことにあなた方に言います。天が開けて神の御使い達が人の子の上を上り下りするのをあなた方は見ることになりますと。
天が開けて神の御使い達が人の子の上を上り下りするのを見る。
旧約聖書をご存知の方はこれが一体何を言っているのか即座にお分かりかと思います。
これはヤコブのハシゴですね。ジェイコフズラダーです。
創世紀のヤコブの記事の中には二次を八章にありますが、ベテルでヤコブが野宿をしているときに夢枕で神様の御使いが天と地を行き来するハシゴが自分の枕元に立ったという幻を彼は見ます。
そのことは聖書に通じていたナタナエルは即座にわかったでしょう。
天と地をつなぐ存在
ああ、主はあのことがもう一度起きると言われた。
ただここでイエス様が言われたことは、天が開けて神の御使い達が人の子の上を上り下りするのを見ると言われたのです。
人の子の上を。
いわばイエス様がここで言われたことは、私自身がその天と地をつなぐハシゴ、架け橋となると言われているのです。
天と地というのは聖書の中によく出ますが、これは別世界のことを言っているのです。
地上の延長線上に天があるのではありません。天と地は区分された世界です。
神の世界と人間の世界は遠くに行ったらあるものではない。
天は神様の聖なる領域、地とは闇が覆う、本来混じり合わない世界です。
しかし私たちは旧約聖書を通して、神様は私たちこの世界を救うために、天を裂いてこの世界に入り込んでくるということ柄をよく目にいたします。
神様はこの世界を救うために何度も天が割り込んでくるのです。
それは例えばヤコブの梯子もそうでしょう。
それはモーセやサウルやダビデに神の霊が下ったということもそうでしょう。
イスラエルの幕やエルサレム神殿も同じことでありましょう。
地上において天が入り込んでくるのです。天が割り込んでくる。
聖なる神、天におられる神は遠くで見ているお方ではないのです。
地上を救うために天の支配諸共が神によってこの世界に割り込んできたんだということを旧約聖書は語り、
そして新約聖書の後単説において私たちが覚えることは、とうとう神の御手が、神の霊学だったのではない、
神の御子である方が神である在り方をも捨てて、人とまでなられてこの世界に入り込んでこられた。
天の地との交わりにイエス様は生き、そしてイエス様の十字架と復活は神と人との完全な交わりを完成させる、
いわば天と地との梯子が結ばれたのです。
この方が今やヤコブの梯子となられました。
だから私たちはヨハネの福音書でそのことが勧められますが、祈るときは皆によって祈れと言われるのです。
なぜ皆によって祈るのでしょう。
それはイエスキリストが梯子だからです。
イエスキリストを通して私たちの祈りは聞かれるのです。
そして私たちこの世界が真っ暗に見えて、この地上には何か人間のごちゃごちゃしたものしかないと見えるその最中にあったとしても、
実は天というところに梯子はしっかりと掛かっている。
私たちのそれぞれの現実に掛かっている。
そして私たちは時折感じるでしょう。
ああここに神がおられるという臨在。
ここに主がおられる。
特別な場所に行くからそうなるのではありません。
私たちの置かれた場所に天は割り込んできているのです。
事実そうなのです。
だからいかなる困難や荒野のような状況でも
主を認めそこに祈りの祭壇が開かれるならば
いつでもそこは天が開かれた場所になる。
私たちはそのことを教えられてきていますね。
ナタナエルの信仰
もう終わりますけれども。
私たちは今年もまた天が開かれているという現実に互いに生きていきたいと願っています。
先ほどナタナエルと私たちは重なると申し上げました。
ともすればナタナエルの持っていた
なざれに何の良いものが生まれようかという言葉
私たちの中によく浮かぶ言葉です。
疑いや偏見、私たちの常識というもの大事ですが
しかしそれは神ではありません。
そのようなものの屋根の下でイエス・キリストを見ようとするときに
私たちは主の姿を見過ごしてしまうのです。
結局はナザレで生まれた普通の人でしょうと
どこの馬の骨か、俺には関係がないと思ってしまうのです。
しかしナタナエルは見て、来て、見ました。
イエス・キリストに出会いました。
彼の疑いや常識という屋根は取り払われ
無限に広がる開かれた天を見上げるものへと変えられました。
キリスト社はそういうものであるはずです。
2026年が始まりました。
私たちは最初に申し上げましたが
それぞれ期待や不安を持ってこの場所に集っていると思います。
ただ私たちが自分自身の経験や常識という屋根に閉じこもっているならば
世界は狭く暗く見えるのかもしれません。
今朝の御言葉が私たちに告げることは
主イエスによって私たちに天はすでに開かれているということでしょう。
天が開けて神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを
あなた方は見るようになります。
これは今私たちが見ている現実なんですよ。
天と地は結ばれている。
誰しも一軸の木の下で抱える悩みを持っています。
ただ主はあなたのことを知っておられます。
そしてそこから私たちを連れ出し
御自身という天のはしごを通して神の栄光を見せてくださる。
この新しい一年も私たちは自分の足で立つのではない。
天が開かれ神の使いが私たちの主イエスキリストの上を上り下りし
絶えず天からの助け神の恵みによって私たちは立つのです。
そのような神の恵みをぜひ信じてみようではありませんか。
私自身信じていないならば信じていただきたいと思うのです。
来てみなさい。
今朝はそのように私たちは招かれています。
お祈りをいたします。