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一言、お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、
死の御前へと私たちをまた今日も集めてくださり、
あなた仰ぎ、礼拝できる幸いを感謝いたします。
祈られたように、8月はいろいろなことを考える季節です。
6日と9日に、私たちの国は79年前に原子爆弾が落ちましたし、
そしてまた15日には終戦記念を迎えようとしていますが、
いろいろなことを本当にこの世界の中でもなおも考えさせられるその季節の中にあります。
主よ、ただあなたは、この世界を、痛む世界を見つめ、
憐れみ、この世界のために御自身の命を捧げ、
この世界を癒し、回復させ、一つにしようと、
今も御手を伸ばして働いておられる主であることを覚えます。
主よ、私たちも、あなたに愛されて、
あなたの十字架の贖いによって罪許され、復活の命が与えられて、
永遠なる主と共にその御国を築くという、
あなたの働きへと目されていることを覚えて感謝をいたします。
主よ、どうか、あなたの御声が私たちの指針です。
御言葉を開いてください。
命令様が私たちに悟りを与えてくださって、
今日もあなたの御言葉によって気づきが与えられますよう、
御導きください。
特に、世界のために、今、戦争が起きている場所、
そしてまた、そのために、様々な力が動いていますけれども、
どうか主よ、上からの智慧を異星者のうちに与えてくださいますように、
そしてまた、戦争という状況が長く続かないよう、
どうか、あなたの御手をなおも働かしてください。
お願いをいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人、
ご自宅におられる方、施設におられる方、
心が痛んでおられる方、
体調を崩しておられる方もいらっしゃいます。
熱さの中にある私たちを守り、
また置かれている一人一人のところに、
主はそこにおられるという人材を与えてくださり、
あなたを知ることができますよう、
かえり見てください。
お願いをいたします。
お手に委ねます。
あなたが御言葉を開き、私たちを導いてください。
やつ様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
今朝は詩編の69編を開いていただきました。
69編の表題には、
ダビデによると歌われていますけれども、
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しかし、この詩編はいろいろな見方がありまして、
もしかしたら、この詩編は、
南ウダ王国が崩壊する末期、
いわゆるバビロンによって滅ぼされる
敗戦直前の南ウダの国において、
預言者が歌った歌ではないか、
というふうな見られ方もします。
人によってこれは、
預言者エレミアの歌ではないのか、
ということを歌われる歌です。
こういうのは真実の確認のしようがないのですね。
けれども、今朝はダビデの歌というよりかは、
この南ウダ王国末期で叫んだ預言者の歌として、
この69編を一緒に見させていただきたいと願っています。
なぜなら、今朝は少し礼拝の中で、
戦争ということに心を馳せたいと願っているからです。
今年で日本は戦後79年を迎えます。
私は先日37歳になった人間でして、
私も、そしておそらく私の親も、
戦争を意識的に経験した世代ではもうありません。
そのため、戦争、かつての日本の戦争というのは、
私からすれば、いろいろな人の話を聞いたり、
いろいろな人の証の本であったり、
そういうことから、知識によって想像するしかないわけですけれども、
そういうことを続けていく中で、
よく共通して聞く言葉があるなと思います。
それは、戦争はいつのまにか始まっていたという実感です。
いつのまにか始まっていた。
いつのまにか始まっていた。
いつのまにか開戦し、徐々に日常会話から教育の現場まで、
言葉や価値観が徐々に徐々に変わっていき、
徐々に言論が封鎖され、徐々に近所に召集令状が届くようになり、
いつのまにかそういう中にいる私も、
戦争体制のプロパガンダに染まっていった、
そういうお話を伺います。
太平洋戦争に限って言うならば、1941年から45年だったと思います。
わずか4年ですね。
しかしその間に230万人の方が亡くなりました。
そしてそのほとんどは最後の1年に亡くなったということが言われています。
いつのまにか、いつのまにかですね。
ある種、戦争末期の時代を生きた預言者と言ってもいいかもしれませんが、
私の詩を読んだ預言者はこのように歌っています。
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1節2節お読みしますけれども、69編の1節。
神よ私を救いください。水が喉にまで入ってきました。
私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。
私は大水の底に陥り、本流が私を押し流しています。
泥沼にはまり足がつかず大水の本流に渡されて、
いわば私は立つことができないとこの詩人は歌うのです。
私は立てない。
よく真綿で首を絞められるように表現されるのを見ますけれども、
気づけば足がつかない。
そのような状況、それがもしかしたら戦争というものなのかなと思わされます。
戦後79年ですけれども、しかし私たちは今生きているのは新しい戦前だとも言われる時があります。
かつての痛みに目をとめながら、そこで何が起きたのかということを
やはり8月ごとに覚えるのはしたいなと思っていますし、
そしてそのような中で私たちはどう立ち得るのかということ、
その2つのことを今朝はこの箇所からご一緒に聞きたいと思います。
何が起き、どう立ち得るのか。
1つ目のポイントですけれども、この2箇所から思わされるのは、
大水にとらわれる時、私たちはほとんど立てないということです。
大水にとらわれる時、私たちはほとんど立てない。
先ほども申し上げましたが、私は戦争の経験をしておりません。
ただ、よくいろいろな方々からこの話を見る時に、
戦争という状況が人を変えてしまったという、そのようなお話をよく聞きます。
平時の時は普通の人が、戦時の時に特に軍の中で、当時はですけれども
暴力と恐怖に満ちていたそのような軍部の中で、だんだん感情が鈍くなってのしに
現場で心に深い傷を残すほどの加害に手を染めてしまうということがある。
でもそれは、個人の倫理の問題を超えているわけです。
いえ、いわば戦争という状況が個人の倫理や、もしかしたら社会通年上の正義、
そういうものを塗りつぶすほどに強大で強力である、
そういう言い方ができるのではないかなと思うのです。
今日読んでいただいたこの2節のところ、今日の、先ほど読みました2節の大水という言葉があります。
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この詩編の中にある大水というのは、これは混沌を意味します。混沌です。
創世紀の1章2節に、神様が世界を創造される前の状況を、
地は茫漠として何も見えず、闇が大水の表の上にありという言葉がありますが、
いわば神様が秩序を定められる前の混沌なんですよ。
そこには秩序がありません。常理が通るべき場所に常理が通っていない。
理不尽であったり不常理というものがまかり通る。
そのような状況に私は流されていると預言者は歌います。
そのような状況の中で、国はどうなっていくのでしょうか。
この預言者が預言をした南ユダマッキという国のことを少し想像するならば、
おそらく起きていたのはこういうことです。
現状を直視できずに、根拠のない楽観主義に陥っていったということです。
現状を直視できずに、根拠のない楽観主義に陥っていきました。
ご存知かもしれませんが、南ユダ王国の最後の王様はゼデキアと言います。
ゼデキアは最後の王様になったのはなぜかというと、
一時保守でバビロンがエルサレムに手を伸ばしている状況の中で、
彼は何を思ったのか、無謀にもバビロンに反乱を起こすんです。
そのような無謀な反乱を起こすのです。
それはまさに無謀な反乱でした。
すぐに彼は捕らえられて、ちょっとえげつないですが、
目の前で子供が殺され、彼は両目をえぐられ、バビロンに引かれていきます。
このことがきっかけで、南ユダ王国は徹底的に破壊されることになります。
神殿も含めてエルサレムは壊滅状態になります。
これはどう考えても無謀な反乱なんです。勝ち目などないのです。
でも、なぜ無謀な反乱をここで起こし、無謀な戦いを続け、
早く降伏をすれば助かる命があったにもかかわらず、
それをすることができなかったのか。原因は明確です。
一つそれは、彼らには100年前の成功体験があったのです。
ちょっとだけ話すならば、北アスリアという国を滅ぼす、
北イスラエルという国を滅ぼすアスリアが迫ってきて、
北イスラエルを滅ぼし、南ユダまで至って有名なラブシャケという軍団長が出てきます。
アスリアが南ユダを、エルサレムを取り囲み、18万5千人の兵隊が南ユダを取り囲んで、
絶対絶命の状況に陥ったことがあります。
でも当時の王様ヒゼキアが神様に祈った時に、
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一晩のうちに神の使いが18万5千人の兵隊を撃って、
奇跡的に南ユダが助かったという出来事が起きるんです。
まあ何と言ったらいいんでしょう。いわば神風。
でもそれは奇跡なのです。
いつも起こるわけではない。
しかしヒゼキア、ゼデキア、後の王様ゼデキアを思いました。
神の奇跡によって危機を乗り切った私たちの国には、同じことが起きるはずだ。
しかし当時の南ユダというのは、ヒゼキアの時代と明確に違いました。
堕落をしていました。
罪に罪が塗り重ねられて、私たちはエレミーアの言葉で知っていますが、
本来であれば悔い改めから始めなければならなかった。
そして神様がエレミーア氏に何でも言うのは、早く降伏しろなんです。
早く降伏しろ。
しかしその声を聞くことも出来ず、
本来であれば悔い改め、降伏、神の言葉に聞くべきところが、
そんなことはしたくないのです。
自分の問題を変えりみるよりも、
自分の都合のいい方に神は働くと、勝手な解釈をしていく方が楽です。
ですからその方に彼らは動いていきました。
最後まで自分たちがどういう状況にあるか、危機感を持つことが出来ず、
危険なところに今立っているはずなのに、それを自覚できなくなって、
結果国は破壊されてしまいました。
当時の南油田において、国内ではこれはおかしいと叫んだ預言者は、
エレミーアだけじゃありませんでした。
多くの預言者が叫びました。
しかし彼らは激しく迫害をされたようです。
今日の詩の5節から12節にはそういうことが書いてあります。
部分的に読みますと、例えば6節。
万軍の神主よ、あなたを待ち望む者たちが、私のために恥を見ないようにしてください。
イスラエルの神よ、あなたを死体求める者たちが、私のために癒しめられないようにしてください。
あなたのことで私は素尻を受け、恥辱が私の顔を負っているのです。
9節、それはあなたの家を思う熱心が私を食いつくし、あなたをあざける者たちのあざけりが私に降りかかったからです。
何を言っているのか、そのような中で主の側に立つと言って行動した人たちが次々と苦しめられたということを。
戦時中のキリスト教会というものを少しお話しするならば、
当時キリスト教の牧師というものはスパイと揶揄されました。
キリスト教は適性宗教と呼ばれましたし、牧師家庭は激しく迫害をされました。
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教会員は次々と教会から去っていきました。
それぞれに戦いがあったことを想像しますので、別に何かを責めるわけではありませんが、しかしそういう状況がありました。
1941年、宗教団体法というものが立てられて、
日本のキリスト教会は文脈や教派とかそういうこと関係なく、一つの団体にまとめられます。
日本キリスト教団というものが生まれます。
戦時中の教会の礼拝では、宮城拥拝から始まります。皇居の方に礼をするところから始まります。
礼拝の中では、黄身がよが賛美をされました。
戦闘機を作るために献金が募られました。
日本キリスト教団号というものが実際にその写真が残っています。
礼拝堂の後ろには徳公が礼拝を監視していて、反戦思想を語る牧師はその場で直ちに捉えられていきました。
賛美歌というのは、戦意向上のために利用されました。
この後賛美いたします、新聖歌454番、立ち上がれいざは、戦時中に戦意向上のために利用されたと。
そのように言われる歌です。
立ち上がれいざ、主のつわもの、主というのは天皇と読み換えられました。
これが起きていたことですね。
何度も申し上げますが、そのことを一方的に批判してはいけないと思います。
私は同じ状況に立たされたら、違うことをできるのかなといつも自問します。
ただ思うのは、恐れなければならないのは、戦時という状況ではないかなと思うのです。
真綿で首を締めるようにと言われますが、いつの間にか抗いようもなく、国家が、民族が、個人に対して、計り知れない力で締め付ける力を働くということがある。
その時に、個人の良心は全く無力とは申し上げませんが、しかし立ち向かっていくことは限りなく難しいですね。
まさに大水の本流のように人を流し込んでしまう。心を失わせ、信仰を歪ませ、私たちがどこかで踏ん張りたいのだけれども、足がつかない状況を生み出してしまう。
それがおそらく、この戦時という状況なのではないかなと思うのです。
ただ、二つ目のポイントをこの箇所から見ていくときに、私たちはじゃあ何もしようがないのか。
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二つ目のポイントは、神は大水から私たちを救い上げ、心を生き返らせるということです。
改めて思います。私たちは一体何を成し得るのでしょうか。
預言者は歌いました。今日の13節から18節を読んでいただきましたが、この中で預言者はまず言います。
しかし私は主よ、あなたに祈ります。
神よ、御心の時にあなたの豊かな恵みにより、御救いの誠をもって私に答えてください。
私を泥沼から救い出し、沈まないようにしてください。
私を憎む者どもから大水の底から救い出してください。
金流が私を押し流さず、深い淵が私を飲み込まず、穴が私の上で口を閉じないようにしてください。
主よ、私に答えてください。
慈しみ深いあなたの恵みのゆえに、あなたの憐れみの豊かさに従って、私に御顔を向けてください。
あなたの下辺に御顔を隠さないでください。私は苦しんでいます。早く私に答えてください。
私の魂に近づき、これを贖ってください。そして私の敵から私を贖い出してください。
主人は大水の中で叫びました。しかし私は祈ります。
何を祈るのでしょう。
主よ、私を大水の底から深い淵から救い上げ、あなたの御顔を向けてください。あなたの御顔を隠さないでください。と預言者は歌います。
創世紀を思い返すならば、あの大水の混沌に対して秩序を想像されたのは神様です。
何かがおかしい、それは国が、社会が、常識が、すべてがおかしくなっていき、その中にいる時に私たちはおかしいということすら自覚ができなくなるのですが、
しかし、それはおかしいとどこかで気付くのであるならば、それは国よりも社会よりも常識よりも、それを想像された神、それよりも大きな尺度を持つ儀なる神の前に立つことでしか、私たちはおかしさを自覚することができない。
ちょっと長い言葉になって申し訳ありませんが。
でも、そうだと思うのです。儀なる神という尺度でなければ、私たちはそれらを超えたところから見ることができる。儀なる神という尺度は人にとって何よりも大きいのだと思うのです。
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預言者を謳いました。
狂気と暴力の中、正常でいるには、神の見顔が私は必要だと埋めきます。
この見顔というのは、実会の時にもお話をいたしましたが、愛の見顔なんです。神様の見顔というのは。
愛の見顔、それを見る時にどれほどこの状況で起きていることが、神様の見心から離れていることであるのか、歪んでいることであるのか、そのことを示されるのではないか。
詩人は続けて歌いますが、神の見顔を仰ぐ時に彼は二つのことを知りました。
まず一つは、神は私の嘆きを御存じであるということ。19節から21節に書いてあります。
神は私の嘆きを御存じである。
そして22節から28節に書かれているのは、神は裁かれる神であるということです。
22節から28節に書いてある言葉を読んでいただいたらお気づきになるかもしれません。
これは呪いの言葉です。すごい激しい呪いの言葉です。
しかし言い換えるならば、正しく不正に対して怒ることができているということです。
おかしいことはおかしいと怒れるということです。
私はこれはキリスト社に大事なことだなと思います。
おかしいことはおかしいと、私たちは時に怒らなければならないことがあります。
そして本日の中心聖句にしましたが、69編の32節というところにこういう言葉があります。
心の貧しい者たちよ、見て喜べ。神を求める者たちよ、あなた方の心を活かせという言葉があります。
あなた方の心を活かせ。
高橋秀典という先生はこの歌詞を、この言葉をこう訳していました。
神を訪ね求める人々よ、あなた方の心は生き返ります。
あなた方の心は生き返ります。
祈りの言葉というか断定形で訳せる言葉だと言っていました。
あなた方の心は生き返ります。
先ほど大水で流される中にあって、個人の良心などは身心も立ち打ちすることができないとお話をいたしました。
確かにそうです。
しかし詩人が歌うのは、しかし私は祈りますとまず彼は祈り始め。
大水の本流から救い出し、神の御顔を求め、そして神を訪ね求めたならば、
一度傷つき失われた心であったとしても、神はその心を生き返らせてくださるということを彼は歌うんです。
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その心を生き返らせてくださる。
そうであるならば、私たちはおそらく大水の中にあってまず召されるのは、なおも祈りなさいということです。
まずなおも祈りなさい。
そして神を仰ぎなさい。
神を仰ぐならば、あなたの心は何が正しく何が間違っているのかということを改めて見つめる。
あなた方の心は生き返らされ、そしてあなた方はこの大水の時代の中にあっても生きた心をもって生きることができる。
生き返った心をもってあなたは生きなさい。
生きなさい。そう言われているのではないかなと思うのですね。
神によって生き返らされた心を持つ人は、人の心を生き返らせることがまたできるのではあると思うのです。
一つのお話をしてもう終わりますが、後ろに本が置いてあるんですけれども、
命の言葉者が出しているクリスチャンの戦争を経験された方の赤シシュを後ろに置いていますけれども、
その中に書いてある一人の方に松本正義さんという方がいらっしゃいます。
この方は後に日本キリスト教団の牧師をされる方なのですが、
この方は太平洋戦争が始まる直前に教会で洗礼を受けました。
その後すぐに入隊して軍隊生活が始まりました。
過酷な軍隊生活なんですね。そこに満ちている暴力の様は赤シシュで書かれていましたが、
先生がおっしゃるのは、軍隊の激しい暴力と恐怖によって思考停止の人間が作られていくと言っていました。
しかしそのような軍隊生活の中に、教会の牧師夫人が何度も面会に来てくださったそうなんです。
その中である時、牧師夫人の先生が面会でこうおっしゃられたそうなんですね。
今、松本さんの駐隊長に会ってきました。
そして、松本さんを戦地に送らないでほしい。
あのような青年を戦争で殺すのはお国のためにならないと申し入れてきましたよと、そう言われたそうです。
松本さんはびっくりしたそうです。
当時の社会であればどれほどの罰があるかわからないような言葉をさらっと先生が言われた。
27:08
そしてこの松本さんはその後、軍隊生活をある程度落ち着いてから中国に出兵をするということになりました。
出兵直前に地元に1日2日帰っていいということで、教会では送別会がなされたそうなんですが、
そのような中で牧師先生がこうおっしゃられたそうです。
松本君、この戦争は必ず負ける。バカな真似は絶対するな。どうなってもいいから、何が何でもとにかく生きて帰ってこい。
そうおっしゃられたそうです。松本さんはそれにもまたびっくりした。
軍隊では生きて領収の恥ずかしめを受けずと教えられた。捕まるぐらいなら自決しろと教えられた。
けれども何があっても必ず生きて帰ってこいと言われた。
松本さんはその後生きて帰りました。
その時の経験を私はこの牧師たちの言葉を通して常識を超えた勃開を受けた。
けれどもいつの時代も必要なのは常識を超えた勃開だと。
なぜなら常識というのは歪み得るからです。
しかし常識が歪んだ世界で常識を超えた勃開が自分を救ってくれたとそのようにこの方はお明かしをされていました。
なぜこの牧師たちは常識を超えたのか。
軸は常識にはなかった。神ご自身の前に生きていたからでしょう。
もう終わりますが大水の中で私たちはどう立ち寄るのでしょうか。
神をたずね求める人々よ、あなた方の心は生き返りますと今朝の歌書は語ります。
神様は傷つき大水に飲み込まれる人の心を生き返らせます。
大水に飲み込まれる人の心を生き返らせます。
これは戦時等々にも限らずそうでしょうね。
私たちは自分の立ち位置に立つことが足がつかずにただただ振り回されるしかない日々というのがあるわけです。
けれども大水の中に飲み込まれる人の心を神が生き返らせると言われる。
また神に生き返らされた人の心は死んだ誰かの心を脈動させるということがまたあるのでしょう。
止まっていた心が動き出します。
国も社会も常識もある種のちにおかしいと思われるような時代がかつてあった。
それは今後ないともおそらく言えないのだと思いますが。
けれども神もまたその場所に必ずいるということを私たちは忘れてはならないのだと思うのです。
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そしてそのような中で人々の心を保ち守るのは生き返らされた心を持つお一人一人。
神の心に生きる人、人の心を生き返らせる人。
私たちもまたその一人一人であるということを一緒に覚えたいと思うのです。
立ち上がるいざ種のつわものと今から賛美をさせていただきますけれども。
種のつわものというのは大水の中にあってなおも神の御前に神の心を持って生きるものです。
私たちは弱いです。何度も申し上げますが一方的に当時は批判なんかできない。
私も同じところに立たされたらわからない。
でもやはりこの言葉を覚えておきたい。
しかし私は種の前に祈ります。
種を仰ぎその中であなたの前に問われながらうめきながらそれでも
ああそこで神の心を生きるということは何なのか。
どうか神様あなたの霊によって私を支え私に勇気を与えてください。
そういうところでうめきながら一歩一歩築いていくことが私たちのめされていることではないかなと思うのです。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。