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みなさん、メリークリスマス!
今日のMyoudaniChurchのクリスマスでやると、特別にこの今夜会館をお借りしていただいてきますことをお願いいたします。
聖日礼拝の前にですね、お祈りをさせていただきます。
おめでとうございます。
ゆっくりいらっしゃいました。
はい、それでは一言お祈りいたします。
私たち一人一人を救うために、この地上に大までになっても、一人を惜しまずに、私たちを救うために、お祈りをしなくてくださった神様。
いつも共にいて、お互いをもって、私たちの声で声援をしていただく。
今日のクリスマス礼拝を、共にあなたの生まれる、お祈りができることを聞くことができます。
あなたの出たことに、生命を信じて、生命を信じてください。
あなたの生命を聞くことができます。聞くことができます。
どうぞ、事前に投げて、反射して、秘伝様の命によって、お祈りいたします。
今日は、秘伝様の復興祭というお祭りにしまして、聖書家康は、他のお祈りにも重要としようとしております。
秘伝様が、なぜこの地にお祈りになったか。
その目的をですね、今日のこの、いわゆる、皇と息子の声で説明する。
すべてが大事ですね。
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秘伝様は、当時ですね、弟子たちに、あるいは人々に、秘伝様のお話をよくわかりやすく知っていただくためにですね、いろんなバトル話を話されました。
今日、全部は読んでいないんですけれども、この、ルカの福祉教第十五章には、失われた人の話が、またその前には、失った羊、失ったドラクモという人物が出ています。
その中で今日の話は、皇と息子の話です。
ある人に息子が二人いたと語り始められています。
二人の息子がいるんですね。
ところが、今日の二節を見たらですね、弟と息子がある日、父親に、
お父さん、私に財産の分けまいをください。
という意味ですね。
つまりそれはですね、父が死んだら、葬物することになっている、自分の分の後援ですね。
その自分の分の遺産を、もう丸めてくれ、ということなんですね。
それだけでも、父に対して随分と礼を示す、愛のない者に。
この意味はですね、要するに、自分にとって、あなたも死んだのどうでもいい存在、
さっさと本当に死んで、財産を残してほしいと思っている、そういうもの意味です。
もうですね、本当にデタライナーでも、お父さんが生きていますよ。
亡くなっていない、亡くなってから、自分の分を入れたくわけなのに、
まだ、父が生きているのに、自分の遺産をくれという意味です。
早く死んでほしい、それを持って出てきてほしい、
この家はもう無理だけだから、早く出ていきたいだから、という意味ですね。
普通の父だったら、ものすごく怒ってですね、息子を追い出して、
そういうほど、ひどいもの意味です。
しかし、彼は、彼の望み通りに、いわゆる財産を受け継いでいます。
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つまり、そういうことを言われたのに、何も怒りもせず、いわゆる財産を前に持ち上げて、どうぞ。
ということはですね、この弟息子は、疾病値も高まるうちに、
それを全部、常に持ち上げて、こういうふうにして、
それは、その弟息子の願いです。
彼は、もうずいぶん前からですね、父の命を絶望したんですね。
自分が好きなように、家出をするためにも、それにはお金がいるんです。
その、もこげと言いましょうか、もこでを、お父さんから、
そういうふうに言うのは、こんな家に寮を持つ二人に、地味な世界でいると、
とりあえず、このお父さん、本能のいい親父さん、お孫さん、
この弟息子の姿、その中に、
私たちは、この弟息子の中から、自分自身の姿を見るのではないでしょう。
私たちは、基本的に、自分の人生は、自分のものだと思っている。
だから、自分の人生、自分のものだから、自分の思い通りにして、
と思いつつ、生きている。
私たちが、自分のものだと思っているこの人生、
そこで、自分の思い通りにしている様々なものは、自分で獲得したものではなく、
天の父なる神様から与えられたものなのではないでしょうか。
そもそも、この命と身体、生まれ育った家庭環境などが、
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そうなんでしょうね。
こういう身体を持って、この時代に、皆さんが、明治時代とか、福川家康とか、
あの昔の時代じゃなくて、この時代に、この世に生まれようと思って、
生まれて、両親の下で生まれようと選んで生まれた人は、
また、人生を営んでいくための、
どれどれの能力や、あるいはそれぞれの資質を、
自分で努力して、能力を身につけ、資格を得るということも、もちろんありますけれども、
それを身につけるための基本的な資質は、
実は、作り主なる天のお父様から与えられたものですし、
また、その力を生かすためのチャンスやあらゆる機会なども、
神様から与えられたものです。
人生は、作り主なる神様によって与えられた条件や機関によって、
作業されている部分が、とても多いのではないか。
いや、ほとんどではないか。
自分の努力によって、道具ができる部分というのは、
そう、多くはない。
いや、滅多に無いのではないか。
つまり、私たちは、この弟・息子と同じように、
自分で、
つまり、作り主なる天のお父様である神様から与えられたもとでによって、
人生を実は、私たちは歩んでいる。
しかし、この弟・息子は、そのことをありがたいとは思っていないのです。
彼にとって、息子は、自分の自由を奪い、束縛するような存在でしかなかった。
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だから、私は、もう一日も早く父のもとを渡して、自分の思い通りに、
しかし、このように父のもとを飛び出して、一人で生きていくことも、
やっぱり、神が与えてくれるものなしには、できないのです。
神が与えてくれるものは、自分様によって与えられた命とか、
能力やチャンスを用いて生きていながら、
それを与えて去った方のことを、ほとんど意識せずに、
ありがたいとも思わずに、
全てもともと自分のものだというように思い込み、
好き勝手に歩んでいる。
という私たちの姿を、
この弟息子は、見事に描き出しているのではないでしょう。
さて、この弟息子はですね、遠い国に帰っていきました。
もう二度とですね、この場所には戻りづくね。
もう戻りづくね。そう思いでですね、
今のブラジルとかですね、
中国のところに、香港のところのような遠い国に行ってしまったかもしれない。
そこでですね、思い通りに自由にお金を湯水ように使い果たしてしまう。
飲んだり、遊んだり、いろんなですね、
大人限りを尽くして、
その親父からもらったその財産をですね、
無駄遣いして、すっからかけらってしまう。
ところがですね、悪いことは重なるもので、
そこに売り機金が、
そしてですね、財を歩いたままで、
豚の世話をするようになりました。
ところが皆さん、ユダヤ人にとってですね、
この豚という動物は、
汚れたものであって、
豚肉も食べないし、
豚を飼うこともしていないんですね。
もっとも、嫌われる、絶対にしたくない人との代表という意味なんです。
だから、この息子は、
もうですね、これ以下はないというどんどこにまで落ちぶれてきました。
自由に生きるというのはなかなか難しい。
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勝手に生きることを自由と勘違いしてしまった結果、
むしろ自由を失う。
奴隷のように持ち込んでしまいました。
それはこの弟、息子の姿です。
彼はですね、もう食べ物がなくてですね、
今日の16節を見たらですね、
食べ物がなくてですね、
この豚の餌の、
イナゴ、マメ、ゲモを食べた方ですね、
ところが、誰一人もですね、
彼にその豆さえ与えようとしなかった。
自由になりたい。
そして、父のもとから飛び出していってしまった息子には、
自由もなくなり、
生活も不安定で、
人生も。
ここにですね、もう一つ、
彼のお父さん姿が描かれていると思いますが、
それは、誰も困っている彼を助けてくれなんですね。
まさかの僕の親も友もと言いますが、
彼には本当の友がですね、一人もいなかったんです。
たぶんですね、最初ですね、
お金を私が持っていた時には、
多くの人々が周りに集まってきていたでしょう。
人事を尽くして、
横絵を覚えて、
その愛している方とかですね、
そういう女の人がどろどろと来てですね、
そういう人たちと共に彼を多くの限りを尽くして、
あの時は周りにその友達が。
女の人は多くの推薦を受けたんです。
持ち上げて頑張っていたんです。
船のケルビン、
円のケルビンって、
何もかも使い果てて、
彼の心をですね、
引っ張ってくれる人が二人一人もいます。
次は、本当の自由ではないんです。
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といえば彼がですね、
死に与えられた財産、
人生のもとでの使い方を間違えたということなんです。
財産というものを、
常に持って、
成り行くことより本気を築き、
支え合っていく友を作るためにこそ、
用いるべきものなんです。
ところが彼は財産を自分のため、
自分の楽しみのために使ってしまいます。
その結果、人による友達も得ることができず、
自由を求めず、
その意味を勘違いして、
かえってそれを失い、
財産やその他の人生のもとでの持ち方を誤って、
他の人との関係や、
孤独に落ち着いている彼の財産が、
それらのことの根本にあるのは、
私たちに命と財産を与え、
人生のもとでを整えつけさせたのが、
自分ではない、
救い主なる神様であることを、
自分の力で自分の思い通りに生きることができるし、
そうすることこそが幸せだと、
勘違いしてしまっていることなんです。
それが彼のところなのです。
そういうふうに、
無礼と孤独の苦しみの中に書かれた
十七つを見ますと、
このような表現が書かれています。
しかし、
原文の意味は、
という意味です。
確かにそのようにも言えるでしょうか。
肝心なことは、
そこで彼が自分の本当の姿に気づいたと、
多くの人々は、
自分が自分のことを一番よく知っていると、
みんな思い込んでいるんです。
21:00
しかし、
それほど多くの人々は、
実は自分の本当の姿を気づいていないと、
思うかもしれません。
これはですね、
その続きを見ますと、
こう言っています。
いろんなものがありはまっているのに、
自分はここで一体何をしているのだろうか。
うれしにしそうで、
殺しているんじゃないのか。
と、本当の自分の姿に目が覚める。
この続きは本当に素晴らしいことなんです。
私はここで、
うれしにしそうだというのは、
気づくまでもない現実です。
しかしその現実とは、
最初的な、
父のところでは、
あんなに大勢の職員、
雇員に上がること、
感がある。
もうこの大きい子どもの家では、
失敬しません。
願う。
と、喋ったわけなんです。
本当の終わりは、
この自分の本当の姿を気づいた時から、
この弟の、
この大きい子ども。
私はですね、
この弟の息子のように、
家で落ち着くことはできません。
家の仕事がですね、
リアルタで消えていきたいな、
と思ったことはあります。
高校生のときは、
基本工夫をして、
医療機関も、
飲食店をやっていました。
おいしいものを毎日食べるのは、
いいんですけれども、
夏休みも、
冬休みも、
祝日も、
ほとんど遊べなくてですね、
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ずっと、
家も仕事も、
切磋をさせられました。
生活にも出たり、
休日にも出たり、
していました。
小学生の頃から、
自転車や原子機を持ってですね、
自転車に乗って、
自転車に乗って、
原子機に乗って、
他の子供たちのように、
遊べない。
自分のですね、
家の仕事を、
休みも、
祝日も、
ずっとそれをしなくならない。
あの頃はですね、
本当に情けなくてですね、
それが嫌々でした。
でも、
家で落ち着くときは、
ごとごとしながらですね、
家の仕事を、
高校3年生まで、
させられていました。
高校卒業する頃に、
親は、
子供、
20歳になるかな、
誰よりですね、
もうこれから自由に、
戻させてください。
みなさんのように、
自由に、
自由に、
もう出ていく。
ところがみなさん、
先ほどお呼びしました、
十七節の二言葉の中で、
神のところには、
という言葉があります。
神のところには、
このみなさん、
この弟息子、
彼がもともといた場所、
いや、
いるべき場所は、
神のところなんです。
そこに、
いるべきでした。
もともと、
彼がそこを出て、
自由になりたいと思っていたんですね。
ただし、そこは、
大勢の雇い人が、
ありや孫、
さんによって、
養われているところです。
雇い人ですらそうなのですから、
息子であって、
彼は、
なおさら豊かに、
そこに養われていたんですね。
そのところです。
ところが、
自分は、
そのことがわからなかった。
豊かに含まれて、
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豊かに養われていた。
そこが、
いわば、
それが、
わからなかったんですね。
こんなところにいるのは、
好きだな、
と言って、
僕らが、
飛び出して、
行ってしまったんですね。
その結果、
どうなったんでしょうか。
自由になったのではなく、
むしろですね、
あの、
自分の家の、
雇い人、
いかの生活に陥り、
飢え死に、
死亡になっている、
そのことに、
彼は、
気づいたんです。
それは、
自分が、
取り返しのつけないことを、
してしまった、
という、
自分が本当に、
生きることができる場所は、
あの人の家だったのに、
自分が、
いるべき、
この居場所は、
人の家だったのに、
それが、
わかります?
自分から来るよ。
今、この苦しみ、
絶望に、
生きている。
そしてですね、
その、
弟の息子は、
そのことに、
気づきまして、
地のところに、
帰ろうと、
決意して、
行動が、
終わらさせています。
地のところに、
帰ろう。
地のところに、
帰ろう。
というと、
何か立派な手綱をしたように、
感じられますが、
そうではない。
もう、
自分の力では、
どうにも、
ならないのです。
どこにも、
生きることができる、
と思わないのです。
地の向こうに、
身を寄せる。
しかしですね、
今さらですね、
ただいまと、
帰ることは、
できない。
もう、
地など、
死んだものと思うから、
遺産をくれと言って、
飛び出したわけですから、
今さらですね、
ただいま、
お帰りなさいと。
地の向こうに、
ここが、
私は、
天にあっても、
また、
お子さんに対しても、
罪を犯しました。
もう、
私は、
あなたのことを、
呼ばれる資格は、
ありません。
雇い人の、
一人にしてください。
そうですね、
彼は、
自分が、
罪を犯したことに、
気づいて、
30:00
地の向こうに、
このお子さん、
息子は、
実は、
自分の、
父親に対して、
だけ、
悪いのです。
私は、
天に対して、
罪を犯しました。
あなたの前に、
罪を犯すことを、
言っているんですね。
天の、
父なる神様に対しても、
お父さんに対しても、
罪を犯しました。
罪を犯しました。
皆さん、
私、
人間の罪というものが、
このようなものでありまして、
作り主なる神様に、
生かされ、
養われ、
運ばれているのに、
そのことを感謝せず、
むしろ、
不自由な、
束縛と思い、
作り主なる神様のもとを、
飛び出して、
勝手に生きること、
それが、
罪というものです。
罪を犯して、
生かされているのに、
それを神様のこと、
感謝せず、
必死しています。
いや、
反抗しています。
そこから、
飛び出して、
好き勝手に生きていることは、
我々人間の、
この弟・息子の姿は、
まさに、
その罪に陥っている、
人間の姿を、
ということに、
してくれていると思います。
弟・息子は、
天に仰って、
と言います。
それを、
作り主なる神様に対して、
と言います。
彼の姿は、
実は、
神様に対する、
人間の罪の、
もっとも、
人間性の前です。
しかしですね、
それだけではなく、
彼はですね、
また、
お父さんに対しても、
そうです。
実は、
彼が、
自分の父親に対して、
罪を犯していることにも、
私の思いを、
受け入れて、
罪によって、
必死に、
つまり、
神様のもとから、
と言います。
人間になるしかないと、
つまり、
もう、
必死に、
つまり、
神様に、
愛される資格はない、
33:00
せいぜい、
こき、
使われ、
いろいろ、
働かされる、
という、
思いを受けている。
これが、
また先、
人間が、
自分の罪の現実に含めて、
自分が、
罪人であることを、
示されたときに、
思うこと。
それを、
聖徒では、
悔い改めと言います。
ですから、
悔い改めとは、
自分の罪を、
嘆きへの話しに、
反省し、
これからは、
救い主なる神様も、
雇い人の一人として、
必死に、
働いて、
生きさせてもらおう、
という、
思いが、
悔い改めに、
伴われます。
多くの宗教では、
悔い改めて、
神様も雇い人となって、
働くことが、
信仰であると、
教えています。
信仰に生きるとは、
不幸を反省し、
心を入れ替えて、
神様のもので、
必死に、
働いて、
無限の、
物になろう、
と、
言われています。
それが、
人間が、
普通に考える、
悔い改めであり、
信仰なんです。
その息子が、
地の底に帰って、
こういう応答をですね、
考えたことは、
人間、
誰もが、
考える常識なんです。
悪いことを、
しかし、
ところが、
このお話は、
実は、
弟の息子を、
その、
彼の把握から、
帰ってきた、
あの息子を、
父親は、
つまり、
失礼に失われた、
神様がですね、
人間の常識を、
遥かに乗り越える、
その愛を、
固まっているんです。
弟の息子は、
出て行った時の、
生きるようにとした、
ベロベロの、
ポジティブで、
思い出すようになって、
来るのはですね、
今日、
まだ家までは遠かったのに、
父親は、
彼を見つけました。
そして、
かわいそうに思ってですね、
走り寄って、
彼を抱きしめて、
口づけしました。
まだ遠く離れていたのに、
見つけたというのは、
ここにですね、
ほぼ、
父親の気持ちが、
保っているんですね。
いつも、
息子が帰るよう、
待っていたんでしょう。
一日、
何回も、
息子が出て行った方を、
見つめていたのでしょう。
帰って来るんだろうか、
今日帰って来るんだろうか、
明日帰って来るんだろうか、
36:00
夜帰って来るかも、
朝まで帰って来るかもと、
ずっと、
だからですね、
その、
お父さんの目はですね、
戻って来た息子の姿が、
遠かったのに、
一瞬早く、
それを捉えたんですね。
そして、
ああ、
今すぐ、
息子の息子を、
見ていると、
そうですよね。
そして、
2度と無く、
息子の動きを、
息子の動きを考えたんですね。
こう言おうと思っていた事を、
帰って来る。
しかし、
息子はですね、
それを帰って来てですね、
二男にですね、
急いで一番良い着物を持って来て、
このこのに着せなさい。
それから、
手に指輪をはめさせ、
足に靴を履かせなさい、
それは、息子は自分にとって最も大事な息子である、愛する者にある、大事な息子として迎える、このお父さんの愛の表現です。
妻と息子はですね、別に関係のことを考えます。 親父なんて、早くこっちに出てくれ。
そして、犠牲を持っていきたいんだからと思っていた彼でした。 思い通りに自由に生きるんだと思っていた彼でした。
飛び出していってしまった彼でした。 その財産をですね、もう無駄にしてしまった彼でした。
そしてですね、このお父さんはですね、一言のごとを言うこともなく死にました。
ここにみなさん、このお父さんのあの息子を迎えてくれた、あのお父さんの愛のことを考えていました。
それはもはや人間の常識では考えられない、ありえない愛の姿でした。
世間の目から見られたらですね、このようなことはないかと言われるようなお父さんの姿です。
しかし、シュウエスティッドは、作り主なる神様このような愛を持って、
いつまでも許してくださる愛を持って、抱きしめてくださる愛を持って、私たちをいつ帰ってきても迎えてくださる。
39:16
この愛を示してくださったその日が、クリスマスなんです。
その日が、イエス様がお終わりになった日なんです。
私に一本のネジを持って、
ずっとですね、上にね、水の壁にね、見つめてくださる方が、
偉い姿でも、惨めな姿でも、どんな姿でも、かまわない。
抱きしめて、口づけして、喜んで、触れてくれる、神のお父さんがおられる。
そして、その主なる神様が、私たちを救うために、この地上にイエス・キリストを、
私たちのすべての罪とか誤きを背負って、一度二十日に亡くなってくださった。
そのイエス・キリストを救い主として、受け入れ信じる者には、
その神の愛が、やっとわかって、本当の愛をわかってですね、
本当の意味で、愛することができる人に、変えられるんです。
このクリスマスの日を、聖書はこの世に優しさに教えていいんです。
聖書ですね。
ゆかの福音書、第21章、私がお読みいたします。
今日、バリエの街で、あなた方のために、救い主がお生まれになりました。
この方こそ、救い主です。
ここにですね、イエス様ね。
キリストのお母さんとして、お生まれになりました。
救い主が、この方こそ、キリストです。
ここにいる、イエス様のお父さんです。
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この救い主を、私の救い主として、受け入れられるチャンスは、
その日の数は、そんなに実は多く、
とても残念に思うことなんですけれども、
去年のクリスマスにはじまれて、
ようやくこのクリスマス恋愛においでになった、
皆さん、私が救いを得るチャンスはいつでも残っている。
生徒には、今さ、救いの日であり、恵みの日です。
によく、今日は、恵みの日であり、
クリスマスは、アメリカのクリスマスです。
この弟、息子のように、
もともといるべき場所から飛び出して、出て行ってしまった、
私たちを迎え入れるために、
救い主のお父様が、イエスとして人間と名乗って、
迎えに来られた日が、クリスマスなんです。
このお父さんがですね、弟息子を迎えに走ってですね、
あなたを救うために来られた、イエス様の救いのこの腕を、
つかみませんでした。
このクリスマス、イエス様の救いのエネルギーが、
神様の本当の愛のエネルギーが、
お父さんのように、