1. 名谷教会 podcast
  2. 2012/07/29:聖日礼拝(旧音源)
2012-07-29 48:26

2012/07/29:聖日礼拝(旧音源)

2012/07/29 聖日礼拝(旧音源)


00:00
ご着席ください。聖書朗読をしていただきます。
今日の最初の箇章は、「マルコの福音書六章三十五から四十四」です。
受け出し参り、お願いいたします。
聖書を拝読いたします。
マルコの福音書第六章三十五節より
そのうち、もう時刻も遅くなったので、弟子たちはイエスのところに来て行った。
ここは偏僻なところで、もう時刻も遅くなりました。
みんなを解散させてください。
そして、近くの部落や村に行って、何か食べるものを命名で買うようにさせてください。
すると彼らに答えて言われた。
あなた方であの人たちに何か食べるものをあげなさい。
そこで弟子たちは言った。
私たちが出かけて行って、二百でなりものパンを買って、あの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。
するとイエスは彼らに言われた。
パンはどれくらいありますか。言ってみてきなさい。
彼らは確かめて言った。
五つです。それと魚が二匹です。
イエスはみんなをそれぞれ組みにして、青草の上に座らせるよう弟子たちにお命じになった。
そこで人々は百人、五十人と固まって席に着いた。
するとイエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを先、人々に配るように弟子たちに与えられた。
また二匹の魚もみんなに分けられた。
人々はみんな食べて満腹した。
そしてパン切れを十二の籠にいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。
パンを食べたのは男が五千人であった。
五条です。
聖火隊に神聖火309番を賛美していただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題しましてメッセージをしていただきます。
03:13
聖火隊に神聖火309番を賛美していただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題してメッセージをしていただき、その後内田先生より五つのパンと二匹の魚と題して
三義一仏の目印の長さ
春秋は力の神人みたい
家族と一緒に歌いながら、
家族と一緒に歌いながら、
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06:00
家族と一緒に歌いながら、
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このヘロデ大王にまつわる家族の中でこういうことがあったということ。
15:00
これを見てこれはいけないと誰しもが思うわけです。
ヨハネだけではなくて誰が見てもこれはよろしくないというのはわかっているわけです。
でもおそらくそれをヘロデアンテパスなりヘロデ大王当時もいないかもしれませんが
この恐ろしいヘロデ大王これは自分の息子だって3人も殺害しているわけですね。
気に入らなければ全て抹殺するというそういう人たち。
そういう人たちに面と向かってそれはよろしくないですよそれは不法ですよと誰が言えようか。
そういう中でバプテスマのヨハネがそれをヘロデアンテパスに進言したわけですね。
このヘロデ大王にまつわる取り巻きの人たちそれとバプテスマのヨハネ
それぞれの生き方あるいは価値観そういうものがここから伺い知ることができるのではないか。
バプテスマのヨハネもおそらく首をはねられることぐらいは覚悟しておったのではないか。
しかしヘロデアンテパスはこのヨハネのことをそこまで思っていなかった。
心を痛めたと彼の言っていることは決して間違っていないし自分も自分に非があるというのをわかっていた。
しかしヨハネを殺害しようとまでは思っていなかった。
ただヘロデアがそういうものですからそして自分も何でも欲しいものを与えようと言ってしまったものですから
結果としてヨハネの首ははねられたというそういうことになったわけであります。
さて今日はその後のマルコの福音書の6章の30節からのところを一緒に見ていきたいと思います。
30節31節32節
さて使徒たちはイエスのもとに集まってきて自分たちのしたことを教えたことを残らずイエスに報告した。
そこでイエスは彼らにさああなた方だけで寂しいところへ行ってしばらく休みなさいと言われた。
人々の出入りが多くてゆっくり食事する時間さえなかったからである。
そこで彼らは船に乗って自分たちだけで寂しいところへ行った。
この中のイエス様が言われた言葉その中にしばらく休みなさいという言葉があります。
私たちは案外こういうイエス様の何気なく語っているその中の言葉は見過ごしてしまいやすいと思うんですね。
18:09
それこそ私は道なり心なり命なりそういうこと私の血は全ての罪からまた方を清めますとか
そういう言葉は暗証請求として覚えておきなさいとお勧めがあったりしますし自分もそういう言葉を覚えてそれが励みになったりするんですが
そういう見言葉ばかりではない。イエス様は時にこういうこともおっしゃっている。
イエス様はさああなた方で寂しいところへ行ってしばらく休みなさい。
休むということ。これは私たちが日ごろいろんなことに携わってそしていわゆる仕事をする働く何かを行動するそういうことがあるわけですが
そして私たちが休むそういうときに罪悪感を覚えることはないだろうか。あまり継続して働き続けていくそれはかえって危険である。
しかしだからといって休むことに対して何か後ろめたいそういう思いを覚えることはないだろうか。特に日本人はどうだろうか。そんなことを考えさせられることがあるわけです。
人は決して休むことなしに休息することなしに働けません。ですからこのイエス様の言葉これは本当に非常に大事なことであります。しばらく休みなさい。
創世記の2章のところもそうでした。こうして天と地のすべての晩商が完成した。神は第七日目になさっていた業の完成を告げられ、そして第七日目になさっていたすべての業を休まれた。
神は第七日目を祝福しこの日を聖であるとされた。それはその日に神がなさっていたすべての創造の業を休まれたからである。
休むということはこれは神様が私たちにメッセージとして語ってくださること。それは必要なことなんだ。そのことを今日この言葉から示されることがあるわけです。
休息が必要だ。もちろん特に体調面で自分は休息が必要だ。そういうことは誰もわかりません。御本人しかわからないので、それはその人に委ねているわけですから、御本人が休むことが必要、休養が必要だと思われたら、そう判断なさったら休めばいいわけであって。
21:21
特に教会ではそれを咎める人は誰もいません。ですから、このイエス様のお言葉、これは本当に私たちにとってありがたい言葉ですし、慰めの言葉であります。
しばらく休みなさい。また、人にはその人でしか言えない何か休まざるを得ない理由とか、そういうこともあるでしょう。そういうときもその人はその人の自分の判断で休む、休息をとる、そういうことがあろうかと思うんですね。
休むことと何かを欠席することとは違いますけれども、しかし欠席せざるを得ない休息、そういうときもあるでしょうが、それもその御本人に委ねられている。そういうふうに思うわけであります。
ですから、このイエス様のお言葉、しばらく休みなさい、こういうことも私たちはこの聖書の中にイエス様の言葉として記されているということ、これをしっかり覚えておきたいと思うんですね。
使徒たち、あるいは弟子たちが食事する時間もなかった。そして彼らは疲れていた。そして彼らにイエス様は休みなさい。あるいは全ておもにを負って疲れている人、苦労している人は私のところに来なさい。あなた方を休ませてあげよう、あの御言葉にもありますように。
イエス様は休みというものを非常に大事にされておられる。またそれが必要なんだということですね。
私たちの信仰生活、あるいは教会生活と言ってもいいんですが、時に一つの落とし穴があるということを聞いたことがあります。それは熱心ということですね。パウロのお手紙の中にも熱心でありなさいということが出てきます。
しかしこの熱心でありなさいということをどう解釈するかということなんですが、これはおそらく経験でありなさい。その熱心ということの意味として、信仰的に経験でありなさい。
あるいは深さにおいてもっと深くあるように。あるいは質的な、あるいは密度、そういう面においてもっともっと深くあるように。しかし私たちが熱心でありなさいということは、もちろん一生懸命やるというのはいいことなんでしょうけれども、それが熱心であらねばならない。
24:16
ですから働き詰めで休まない。それがいいことのように思ってしまって、結局燃え尽き症候群のようなことになってしまう。そういうこともあるわけですし。
また熱心である、一生懸命、そして休まないで働き詰めでやっているという、そういうことに、そういう中で一つの誘惑が来ます。それは、私は一生懸命しているのに、あの人はどうなんですか、この人はどうなんですか。あの丸太のように人をさばいてしまう。
そういうことが、なきにしもあらず。ですから熱心である、一生懸命、そして休まない。そのことの、もう一度私たちは点検しておく必要があろうかと思うんですね。
人をさばくことは本当に罪でありますから、私たちがもし何か一生懸命させていただく、あるいは休まないで何かさせていただいている。それはすべて神様の恵みであり、憐れみであり、支えであったわけですから。
しかしそれが今できない状況の人たち、あるいは今休息が必要な人たち、休まないといけない人たち、その人はまたその人のありようを神様は見ていてくださっている。それを受けとめていてくださっている。
ですからそのとき、皆それぞれの事情がありましょうし、神様が一人一人を支えていてくださるんだ、そういうことも言えるわけであります。
ですから毎月症候群のような、丸太症候群のようなことにならないように、私たちの信仰生活、あるいは教会生活、私たちはそれを一生涯の事業としてやっている。
ですから時にはバランスが必要でありましょうし、あるいはペース配分というような必要に応じて休息をとりながら、これを全うしていくということ。これが非常に大事なことではないか。
イエス様が言われた、しばらく休みなさい、そのことからそんなことを示されているわけであります。
二つ目のことは三十三節から三十四節。
27:00
ところが多くの人々が彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々のまちまちからそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。
イエスは船から上がられると多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深く哀れみ、いろいろと教え始められた。
ここに群衆が羊飼いのいない羊のようであった。それをイエス様がご覧になって深く哀れまれた。
羊飼いのいない羊、それが群衆であり私たちである、そういう例えでここに書いてあるわけですが、羊飼いのいない羊、それはどこへ行けばいいのかわからない。
そして迷っている。私たちもいろいろと生涯の中でキロに立たされて右に行くべきか左に行くべきか、あるいは道がわからないでどこへ行けばいいのかわからない。
そして立ち止まって左往している。そういう状況が考えられます。あるいはどこに行けば草があるのか、あるいは植物にありつけるのか、ただ呆然として立ち止まっている。
羊飼いがおれば牧草地にも連れて行ってくれるでしょうけれども、それが導く人がいない、そういう状況。あるいは羊というのは常に危険に晒されている。
特には羊泥棒とか、あるいは狼とか野獣がいつも羊を狙っている。羊飼いは犬も飼っていて、そしてそういうものをいつも近づいてこないように守っていてくれるんですが、その羊飼いがいない。
いつ危険が及ぶかわからないような、そういう状況に立たされている。そういうような状況をジェス様はご覧になって、彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深く憐れみ、そしていろいろと教え始められた。
ジェス様は後、「私は羊飼いです。」そのようにおっしゃって、「私に従ってきなさい。私に委ねなさい。私があなた方を導く羊飼い。私があなた方を養う羊飼い。私があなた方を守ってあげる羊飼いなのだ。」そのようにおっしゃってくださった。
ですから、ジェス様は群衆を憐れんで、そして彼らをこれからも守ってくれるように、神様を守ってくれるように、あるいは自分が羊飼いとして彼らを支えていくのだという、そういう思いがここにあふれているわけであります。
30:12
そして三つ目。読んでいただきました三十五節から四十四節のところ。ここに出てくるキーワードはパンですね。パン。パン。もうお昼も近いのでちょっとお腹が空きましたが、おいしいパンがあればいいなというそんな思いですが。
今日のこの箇所、そして五つのパンと二匹の魚。この説教の箇所と題を決めたのは、もう一か月ほど前のことなんですね。
ですから順番にこうしていくと、一月の二十九日の醍醐成日はこの箇所かなということで、一か月前に決めさせていただいて。
そして今朝、ライフラインという電動番組を見ていましたら、五つのパンと二匹の魚というベーカリーカフェの紹介があって、へえと思いました。
そういうところが説教者の小さな喜びのような、そんなことであります。これは高段に立つものでないとわからない小さな喜び。ああそういうこともあるんだ。
世の人々はそれを偶然というわけですね。あなたがここを七月二十九日に用意したのは、それとテレビでそのことをやっていたのは偶然ですよ。
でも私たちは何か神様のお導きがあって、私への励ましと皆さんへのメッセージというんでしょうか、私が語りきれなかった不十分なところをまたそういうものが補って、そしてさらに深くより恵みを与えてくださっているんだ、そういうふうに思ったわけであります。
五つのパンと二匹の魚という、そのことがここに書かれてあるわけです。はっきり言いましてこれは奇跡の話ですよね。そこにあった五つのパンと二匹の魚を、イエス様がそれを手に取って、そして天を見上げて祝福された。
その前にここに男だけで五千人、あるいは女性や子供たちや含めるともっとたくさんいたでしょうが、そういう人たちに何か食べるものを与えなさいと弟子に言ったところ、弟子はこんな人たち全部を食べさせるだけのことはできません。
33:17
ここに二百でなりものパンを買って、あの人たちに食べさせるようにとでも言うのでしょうか。二百でなりというのは、今のお金で換算すると二百万円ぐらいだそうです。換算のレートによりますけれども、弟子たちも二百万とか、それはちゃんと計算してそうしたのか。
要するにたくさんのお金がいるんです。またそんな大量のパンを今手に入れることはもう不可能です、無理ですということを言いたい。そのことを私たちが出かけていって、二百でなりものパンを買ってあの人たちに食べさせるようにということでしょうか。イエス様それは到底無理ですよ。
ということで、それじゃあ今ここにパンはどれぐらいありますか。五つと二つの二匹の魚です。そうするとイエス様がそれを私に貸しなさいと。
するとイエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを先人々に配るように弟子たちに与えられた。また二匹の魚も皆に分けられた。人々は皆食べて満腹した。そしてパン切れを十二の籠に一杯取り集め、魚の残りも取り集めた。パンを食べたのは男が五千人であった。
これは間違いなく奇跡です。奇跡とは何でしょうか。奇跡とは神様の技、神様の力とか神様の能力、それが人間に見えるような形で表された。それが奇跡ということであります。
ですから私たちが聖書の中で色々な奇跡の記事を見たときにどう思うか、どうそれを解釈するか。神様がなさった技、神様の力、能力を私たちが目に見えるように表された。
それをいくら研究したり、いくらその通りやってみたり、そんなことをさせるために奇跡があるわけではない。これは信仰の問題であります。
今日も出エジプト記、教会学校で出エジプト記で、エジプトを出たイスラエルの民が目の前に航海、そして後ろからパロの軍勢が押し寄せてくる。絶対絶命の中で神様がモーセンにその杖を海にかざしなさいと。
36:13
そうすると海が割れてイスラエルの人たちはその渇いたところを渡っていった。その奇跡を一回実験してみようと誰かが杖をかざして。あるいはどういうふうにしてそういうことが起こったのか。
いくらそれを研究しても私たちにはわかりません。研究材料としてそういう奇跡がありません。あるいはイエス様が湖の上を歩いておられた。
それじゃどうしてイエス様が湖の上を歩かれたのか。一度やってみようと。忍者のようにして一歩。右足を出して、右足が沈まないうちに左足を出せばいいんだ。左足が沈まないうちに右足を出せばいいんだ。
そういうふうに言った人もいますが、そんなことを研究するために聖書があるのではない。復活の記事もそうです。諸女高譚もそうです。どうしてどうして。なぜこんなことがあるんだ。どうしてこんなことが起こるんだ。
そして一年経ち、五年経ち、十年経ち、二十年経ち、どうしてだろう、どうして、ああだろうか、こうだろうか。どうして復活なんかあるんだろうか。そしてやがてこの世を去らなければいけない、そういう時が来て、そしてせっかく神様が私たちに与えてくださっている救いのメッセージ。
祝福の御言葉を自分のものにできないで、そしてこの世を去っていってしまう人たちが何と多いことでしょう。奇跡とはそういう私たちの研究材料として書かれているのではない。これは神様の業なのだ。
神様がいかに力あるお方で、そしてその奇跡を通して私たちに何かを伝えようとしている。そのことのための奇跡なのだ。奇跡は何かを私たちに示す道しるべである。そこに神様のメッセージを私たちは見るわけです。
五つのパンと二匹の魚。弟子たちはもう私たちにはこれしかありません。こういうものでどうして五千人、その他たくさんの人々を食べさせることができるんですか。これが弟子たちの私たちの偽らざる思いでありますし、私たちのまた限界であります。
しかしイエス様がそれを私に貸しなさい。私たちもそれをイエス様に委ねた時、イエス様はそれを何倍にも増やして、そしてそれを弟子たちから、あるいは弟子たちからそこにいる人たち全部を満たすようにしてくださった。
39:12
この奇跡を通して神様は私たちに何を語ろうとされているのか。それは私たちに託されている小さな五つのパンと二匹の魚でしかないような賜物とか、あるいは神様が与えられている才能だとか。
誰それさんに比べて私の才能なんて本当にちっぽけなもの。それこそ二つのパンと一匹の魚ぐらいしかないかもしれない。私にはこういうだけのちっぽけな力しかない。
もしそう言い続けるならばそれで終わってしまう。しかしそれをイエス様にお委ねしたならば、イエス様はそれをいかようにも増やして、そして豊かにしてくれるんだ。何倍にもそれを祝福して増し加えてくださるんだという、そういうメッセージがここに込められているわけです。
ですから特に私たちの生涯、それをイエス様に委ねるということ。これが私たちの救われたことと、そして救われたと同時に献身という身を捧げるということですね。
これが私の生涯、時間も能力も賜物も一切を主に委ねて、そして主にお任せして主とともに歩んでいく生涯。これを献身の生涯と言うんですが、イエス様に私のいただいている五つのパンと二匹の魚。それでしかないんですけれども、それをイエス様に委ねます。
あとはイエス様がそれをいかようにもしてくださるんだという、それがこの五つのパンと二匹の魚であります。
今朝のテレビの紹介のこともそうであったのではないかな。彼女はただお母さんから教えていただいた料理、あるいはケーキを作る。それはただお家で、あるいは親しい人に何か作ってあげたいという。
おそらくそれで終わっていたでしょう。でもこれをイエス様に委ねよう。イエス様に託そう。そうするときに大きなビジョンが与えられた。そうだ、もっと多くの人々にこの小さな賜物、自分が持っている力、才能をイエス様に委ねよう。
42:03
だから十字架があそこに建てられているんだと思うんですね。十字架を見て、その十字架にかかられておられるイエス様にそれを託すときに、イエス様はそれを豊かにしてくださる。もっともっと何倍にもその恵みを、祝福を増やしてくださる。そんなことが語られておったんだと、そのように思うわけです。
もう一つ、このパンについてですが、私たちは生産式をこの箇所から思い出したいと思うんですね。パン、私たちは生産式でパンとブドウ酒、あるいはブドウジュースをいただくわけですが、そのパンをいただく。
そのことをさらに詳しく書いてあるのが、ヨハネの福音書の六章。ヨハネの福音書の六章というところに、さらにこのことが詳しく書いてあるわけです。
イエス様は今、子供が持っていた、あるいは弟子が持っていたそのパンを私に託しなさい。そしてそれをパンを裂いて人々に与えられた。しかしさらに驚くべきことは、ヨハネの福音書の六章のところには、イエス様は私が命のパンですとおっしゃったわけです。
私が命のパンです。私たちは生産式でいただいているパンは、そのイエス様ご自身をいただいている。まさに命のパンであるそのイエス様ご自身をいただいている。そんなことをこのヨハネの福音書の六章は私たちに語っています。
本当はヨハネの六章の三十節あたりから五十八節までそのことが書かれてあるんですが、時間がありませんので、四十六節後半の部分をお読みいたします。またお家に帰って百八十六ページ、百八十七ページ全体を読んでいただけたら幸いであります。
四十六節から。
45:03
五十三節。
私の肉は誠の食物。私の血は誠の飲み物だからです。私の肉を食べ、私の血を飲むものは私の内にとどまり、私も彼の内にとどまります。生ける父が私を使わし、私が父によって生きているように、私を食べるものも私によって生きるのです。これは天から下ってきたパンです。
あなた方の父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べるものは永遠に生きます。ここに何度も私が命のパンです。私が命のパンです。私が天から下ってきた生けるパンです。
このパン、イエス様そのものを私たちはいただく。イエス様の持っておられるその生きた命をいただく。イエス様の持っておられる精霊を私たちがいただく。イエス様の持っておられるそのアガペの愛を私たちが分け与えていただく。これが生産の意味でありますし、私たちが日々そのことを覚えて、そしてまた十字架を仰いでいきたいと思います。
お祈りをいたします。私は天から下ってきた生けるパンです。天の神様、今日はマルコの福音書、またヨハネの福音書を通して神様の恵みをいただいたことをありがとうございます。
五つのパンと二匹の魚しか私たちには見えません。またそこに絶望を覚え、また限界を覚える弱き小さなものであります。しかしそのようなものでもイエス様に託しさえすれば、イエス様にお預けして、主をどうぞこれらをあなたがご自由になさってくださいと委ね託すときに、
主はそれを何倍にも祝福してくださることを見ました。また私たちのその神の技、奇跡が私たちもこの信仰によって目に見えるようにあなたが現されてくださるように、これまでもそのような技を見ましたが、またこれからもそのことをあなたは成してくださることを信じます。
48:03
私たちに与えられた五つのパンと二匹の魚をこれからもあなたに委ねていく信仰を与えてくださるように、イエス様の尊い皆によってお祈りをいたします。
アーメン
48:26

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