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2024-09-22 28:04

2024/09/22:仕えるべき神

2024/09/22 聖日礼拝

加藤満牧師

ヨシュア記 -15


サマリー

ヨシュア記の24章におけるヨシュアの国別説教では、神様の偉大さやイスラエルに対する約束、そしてイスラエルの民が受けている恵みについて語られています。特に、イスラエルの民が神に依存し続けることの重要性が強調され、神様が彼らの歴史の中で常に共にあったことが述べられています。このエピソードでは、神を愛し仕えることについての教えが中心テーマとなっており、ヨシュアは民に誰に仕えるかを選ばせる問いかけを行い、神への全存在での愛と仕えを促しています。

ヨシュアの祈りと神への感謝
それでは一言お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、主の御前へと私たちを招いてくださりありがとうございます。
天候も安定しない中、心も体も霊も弱りやすい私たちですが、
しかし主が私たちを一人一人に目を止め、決して見捨てず、今日まで支えてきてくださり、
今日もあなたの前へと来ることができた幸いを感謝いたします。
あなたは私たちを愛し抜いてくださり、
巫女イエス・キリストを十字架に捧げてくださり、
その捧げられた父よによって、私たちを神のことし、
甦られた命、永遠の命をもって、私たちはあなたのことし、
永遠なる使徒を共に生きる命を与えてくださいました。
そしてあなたと共に、あなたの祝福を、あなたの御国を築くようにと
共に歩んでくださることを感謝いたします。
神様、本当に体が弱りやすいところにあります。
どうか私たち一人一人の心と体と霊とお支えください。
そしてまた施設におられる方、また本当に体を痛めておられる方、
もう一人一人をお守りくださいますようにお願いをいたします。
戦争のニュースが本当に絶えません。
いや、もっとひどくなってきている様子を私たちは目にします。
それに心を痛めています。
どうか主よ、異星者たちにあなたが働きかけてください。
現場にある本当に何も知らない子供たちの命が奪われるという悲劇を
どうか主をとどめてくださいますようお願いをいたします。
自然災害の猛威が世界を襲っています。
そのうちに苦しみを一人一人をどうか主がお支えください。
お願いをいたします。
どうか御言葉を取り続く子供の憐れんでください。
あなたの御用がなされますよう助けてくださいますように。
イエスキリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン
神様の偉大さとイスラエルの歴史
今朝読んでいただきましたのはヨシワキの24章です。
そしてその前の23章も含めて
これはこれまで見てきましたが
ヨシワキの主人公と言ってよいでしょうか
指導者ヨシワの国別説教になります。
ヨシワキの最後にはヨシワは100歳で天に召されたと書かれてあります。
ですからおそらくここで語られた言葉はその年齢に近かったでしょうか。
もう自分の最後が迫っているというそのような状況で語られた言葉。
そういう彼にとってこの国別説教というのは
最後にこれだけは残しておきたいという言葉でしょう。
最後にこれだけは私は言い残しておきたい。
私たちも思いますが
人は去っても言葉はおそらく残るということがあるのだと思います。
人は去っても言葉は残ります。
モーセが語った神明記のように例えばそれがそうでしたが
私たちもそうですよね。
命の最後に親から語られた言葉であったり
そういうものは私たちの心に深く何かを残すことがあるでしょう。
ただモーセとヨシワ二人を見ますと
二人に共通することは
彼らの最後の言葉というのは
自分自身の自制力や業績を彼らは言い残したのではないということです。
彼らはこの23章24章両方ともこれは全イスラエルに向けて語った言葉ですが
何十万という民に向けて
彼は生ける神様はこういうお方だったという
神様について語り残すんですね。
私たちも思います。私たちは一体誰に
どのような言葉を残して天国に行きたいでしょうか。
誰しもがそういうタイミングを迎えますね。
でもそういうことを覚えながら
少し今朝のこのヨシワ二の言葉に見ていきたいと思うんです。
今朝でヨシワ二は4回目になりますが
今日が最後です。
これまでヨシワ二を見てきましたが
ヨシワ二のテーマは2つと申し上げてきました。
1つはモーセの世代からヨシワの世代への代替わりでしたね。
1つはそれ。そしてもう1つは
カナンの地を占領していくということが書かれていました。
そしてそのような中で私たちが繰り返し耳にしたのは
神様はイスラエルのために戦われる神であるということでした。
神様はイスラエルのために戦われる神である。
今日24章を読んでいただきました。
23章の3節そして11節にヨシワは繰り返しために向かって語ります。
23章の3節にも
あなた方は自分たちの神主が自分たちのために
これらすべての国々に行ったことをすべて見てきた。
あなた方のために戦ったのは
あなた方の神主であるとヨシワは言います。
11節にも
だから、失礼、10節ですね。
あなた方は一人で戦に追うことができる。
あなた方の神主ご自身があなた方に約束したとおり
あなた方のために戦われるからであると。
主はあなた方のために戦われる神である。
神様というのはイスラエルの民の前に立ってですね。
その前に立ってカナンの諸国に対し
先陣を切って戦ってきた神様でした。
そして言わば
私が先陣を切って戦うのだから
あなたたちを私の後ろから従ってきなさいと
そう言わんばかりに神様は前に立って戦って来られたわけです。
イスラエルの民はただ
先陣して戦われる神様の
その背中についていくことを学ばなければなりませんでした。
イスラエルの民の力と大きくなることが大事ではなかったんです。
大事だったのはむしろ
神様の身力がどれほど大きいかを知ることでした。
それが彼らが学ばなければならないこと。
そしてそのような神様が共にいて
そのような神様に信頼することのできる
大しさであったり強さということを
彼らは知らなければならなかった。
大しくあれ強くあれ恐れてはならないおののいてはならない
あなた方の神主があなた方と共にいるからだ。
主が共にいることの大しさ
強さをあなた方は知らなければならないということでしたね。
そして神様のそのような力を信頼して
一歩一歩進むことを学んでいく
彼らの過難の日々とはそういう日々だったのです。
自分たちが強いのではないですね。
そしてこれは23章だけではなくて
24章の中にも見られるそのような光景でした。
24章というのはヨシュワの言葉というか
ヨシュワを通して語られる主の言葉
主が語っておられる言葉なのですが
全部を見ませんが
さらっと見ていただいたらわかるかと思いますが
この2節以降書かれているのは
アブラハムのおじいさんの寺
寺の時代からずっと連綿と続く
イスラエルと神様の歴史について
語られています。
神様はこのヨシュワの何世代も前から
イスラエルの民と共に歩んできたのです。
ただその理由はただ一つだけでした。
それは先日めて言えば
アブラハムとの契約を実現するために
神様は民と共に歩んできたのです。
そのことがわかるのが
3節ですね。
私はあなた方の父祖アブラハムを
タイガの向こうから連れてきて
カナンの全土を歩かせ
子孫を増し遺作を与えたと
言われますけれども
子孫を増し
わざわざそういうことが書かれるのは
アブラハムの契約の言葉を
思い返させているように思うのです。
神の恵みと約束
これは聖書の中で強調しすぎても
しすぎではないぐらい
ものすごく大事な言葉ですが
創世紀の12章の1節から3節ですね。
ご存知の箇所だと思うので
聞くだけでもいいですけれども
創世紀の12章の1節から3節というところを
もう一度お読みしますと
こういう言葉ですね。
主はアブラハムに言われた
あなたはあなたの土地
あなたの親族
あなたの父の家を離れて
私が示す地へ行きなさい。
そうすれば私はあなたを
大いなる国民とし
あなたを祝福し
あなたの名を大いなるものとする。
あなたは祝福となりなさい。
私はあなたを祝福するものを祝福し
あなたを呪うものを呪う。
地のすべての部族は
あなたによって祝福される。
もう細かく言うまでもないかもしれませんが
神様はアブラハムと
アブラハムの子孫を通して
この世界を祝福すると契約された。
言い方を変えるならば
神様は罪に痛むこの世界を
アブラハムとその子孫を通して
祝福し、癒す。
そのために民を選ばれたのですね。
これは創世紀のこの箇所だけで
終わったのかといったら
そうではありません。
神様の計画というのは変わりません。
そのための出エジプトであり
そのためのカナンに入っていったのです。
そもそも私たちは思います
なぜ約束の地がカナンなのか。
カナンというのは
当時の世界の交通の要所なんです。
カナンに住むというのは
世界中の人たちと会うということです。
そして世界中にカナンの地の
民の話が広がるということです。
いわばカナンの地に
イスラエルの民が定住し
その地で神様を信じ
神様の立法と教えを守り
神様を愛して
隣人を愛するという
そういう民族になっていったら
どうなっていったでしょうか。
カナンの地は祝福の基となったのです。
そしてカナンの地から
世界中に神様の祝福が流されていくはずでした。
ですから神様は
神様のご計画があったわけです。
イザヤ風に言うならば
万軍の主のネスキンが
これを成し遂げようとしていた。
イスラエルの民をカナンの地に置き
彼らを神の民として整え
世界中に神様の祝福を広げていく。
そのために
何百年も何百年も
神様が救い
神様が戦い
神様が忍耐をし
神様が愛し続けたという歴史が
あったんだということを語っているのが
二十四章です。
二十四章に一貫して繰り返されること
それは主語
私はという言葉が何度も繰り返されるということです。
私はあなた方の父祖アブラハムを云々カンナ
私はヤコブとイサを与え
私はモーセとアロンを使わし
私はあなた方の父祖たちをエジプトから導き出した
私がエジプトで行ったことをあなた方は見て
私はヨルダン川の向こうに住んでいた
青森人の地にあなた方を導き入れ
私はあなた方にあの地を与えた
私は私は私は私は
全て私がやってきたということを主が語るのです。
この二十四章の中で
民がしたことというのは実は七節だけです。
彼らは主に叫び求めということしか書いていません。
私がやってきたということを言うのです。
私が私がしてきた
私がこれをした
ヨシハは民のリーダーとして
このことへの深い自覚がおそらくあったのです。
我らが今あることは
全てが神様の恵みによることである
神様によるのである
私たちに何か力があったから
私たちが従順だったから
だから進んでこれた
いやそういうことではなくて
それ以上に私たちができたのは
主に叫び求め
主にすがることだけだったわけです。
けれども
神様はそういう私たちを見捨てなかった
それがヨシハが見てきた神様ですね。
そして二十四章の十三節というところには
この神様の語りの最後ですが
二十四章の十三節
私はあなたが老したのではない地と
あなたが建てたのではない町々を
あなた方に与えた
あなた方はそこに住み
自分で植えたのではない
ぶどう畑とオリーブ畑から
食べていると言っています。
あなたが得るために老しなかった土地に住み
植えなかったものを食べて
あなたたちが満たされているとするならば
これを恵みと言わずに何というのでしょうか
恵みなんですよ
彼らが今満たされて生きているということは
ヨシハが語ったのは
神様は恵みの神である
イスラエルを愛する
そのような愛の神である
そのようなことを語っている
ヨシハの国別説教というのは
神様の姿をありありと語っているんです
神様の姿をありありと見せつける
イスラエルの民よ
あなた方は何十年も
この神様と共に歩んできただろうけれども
本当にこの神様の姿を
あなたたちは知っているかと
まさに問いかけるんです
この神をあなたたちは知っているか
この神様の力強さ
偉大さ
器用さ
そしてイスラエルの民が
何度も主に逆らって
いや主を捨てたとしても
決して見た目を踏ん張って
捨てることはなさなかった
神を愛する重要性
その神様の愛の姿を
あなたたちは知っているか
もしもそれを知っているのであれば
23章の11節にありますけれども
だからあなた方は
自分自身に十分に気をつけて
あなた方の神主を愛しなさいと
言われる
これ自分自身を気をつけて
ということは
自分のことを思いがちですけれども
これ元の言葉は
自分の魂に注意して主を愛しなさい
魂というのは
心を尽くし知性を尽くし力を尽くしの中に
入ってくる言葉
いわばヘブロ語では
全存在を意味するんです
あなたたちは全存在に注意をして
主を愛しなさい
この背景に響いてくるのは
言うまでもありません
新明紀の6章の5節です
あなたは心を尽くし命を尽くし力を尽くして
あなたの神主を愛しなさい
いわば全存在を傾けて
あなたを愛してきた神
今も守り支えている神様に対して
あなたは全存在でその主に向き合っているか
そのことを注意しなさい
注意して
全てを傾けて主を愛せるように
本当にこの神様を知っているのなら
ということです
選択の責任
今朝は24章の15節を中心成句にいたしましたが
ヨシアは
民が神様を愛して生きるか
それとも
違う神様を愛して生きるか
どうするのかということをこの場所では問いかけます
14節は先ほどの前半の話ですけれども
これほどの神様があなたたちの神なんであれば
今あなた方は主を恐れ
誠実と真実をもって死に仕え
あなた方の先祖たちがあのタイガの向こうエジプトに
仕えた神々を取り除き死に仕えなさい
いわばあなた方は心を尽くし主を愛せ
ただ
主に仕えることが不満なら
あのタイガの向こうにいた
あなた方の先祖が仕えた神々でも
今あなた方が住んでいる地のアモリ人の神々でも
あなた方が仕えようと思うものを
今日選ぶがよいと
最後にヨシアは民に言います
ヨシアが100年生きてきた中で
おそらく何度も目にした光景それは
神様は変わらないけれども
人の心は変わるということです
彼が何度もおそらく人生で
目にしてきた現実でしょう
神様は変わらないけれども
自分自身も含めて
人の心は変わるということです
良いことが続けば
これは主の祝福だと喜び
苦難が襲えば
なんで神様は私たちをエジプトから
導き出したんだということを言う
何度も何度もありますね
そういう光景は
自分を顧みるよりも
不幸は無責任に誰かのせいにする
これは人間の罪深さの
一つの現れでしょうね
そういうことを何度も何度も
民は繰り返してきました
けれどもそういうことを繰り返し続ける日々に
どこかでけじめをつけなければならない
そしてヨシアはこれから民とは
共に歩めない
ここで彼らに決断を迫るのですね
あなた方は誰かのせいにせず
自分自身の責任で
自分の人生を最終的に
誰に使えるかを選ばなければならない
ということですよね
この14節から15節の中には
使えるという言葉が7回出てくるんです
7回も出てきます
この使えるという言葉
ヘブル語はもともとは
働くであったり
奴隷になるという言葉です
でも奴隷になるという言葉は
過激に聞こえるかもしれませんが
これはおそらく
何かをするということではなくて
もう少し根本的なところですね
あなたの人生において
誰を主人として
王として生きていきますかという
そのような問いかけです
誰に使えるかというのは
あなたの人生において
根本的に誰に使えますか
ヨシワははっきりと言うんです
私と私の家は主に使えると
はっきりと彼は言います
ではあなた方は
誰に使えるのかということです
あなた方は誰に使えるのか
誰をあなたの人生の
王として主として従うのか
これは
他人が誰かから
人に対して
教養できることではないんです
宗教ということはそうです
宗教も教養なんかできません
主を選んで
二十四章の二十二節にも
ヨシワは言っていますが
主を選んで主に使えることの承認は
あなた方自身ですとも
ヨシワはここで語りました
民に対して
誰に使えるか
あなたたちの責任だよというんです
自分の人生
何を誰を神として生きるか
今日あなたたちは
選ばなければならない
イスラエルの民の前には
たくさんの神々がありました
あなたの先祖が
使えた神と言われるのは
おそらく金の工事でしょうか
わかりませんけれども
そして今あなた方が住んでいる
アモリ人の神々がいる
詩式をまた見ていきますが
詩式では何度も
いろんな神様に
イスラエルの民は使えます
いろんな神様が
彼らの周りにはいる
私たちの周りにも
神になるものは
あふれています
私たちが持っている
お金も何も悪くないですね
ただお金が
神になることがあります
経歴というものが
お金になる時があります
SNSの時代に
宗教は衰退したと
言われますがとんでもないですね
形を変えてあふれて
今ほどそれぞれにとって
真理があるよ
それを信じたらいいんだよ
ということが
勧められる時代は
なかったでしょう
人間というのは
自分に見合った真理を
自分の主人
王として定めて
この見通しの悪い
不安定で困難な時代を
必死に生き抜こうとします
何か神がいなければ
私たちは生きていけないんですよ
だから自覚もせずに
でも何かを神にしながら
私たちは互いに生きていくんです
何かに使えなければ
何かを主としなければ
誰も彼も人間は
生きていけない
ただ
聖書がはっきり語るのは
どんな真理でも
いいわけではない
あなたが王とすべきなのは
あなたを支配し
あなたから奪い
あなたに対して
何も責任を負わないような
生きていない神に
あなたの人生を賭けてはならない
そうではない
あなたが王とすべきなのは
あなたを罪の奴隷から
解放して自由にし
あなたにマナも
日々の戦いの守りも
あらゆる恵みをあなたに与え
あなたの人生に
最後まで責任を持って
決して見捨てずに
最後まで共に歩み続けてくださる
生ける神でなければ
あなたの王にしてはならない
信仰の背中
ヨシワは投げかけるんです
あなた方は
使えようと思うものを
今日選ぶがよい
ここに来ている皆さんはね
神様信じておられると思いますが
でも私たちは何度も
おそらく選び続けていく
ただこの選ぶがよいという言葉は
突き放すかのように聞こえますが
おそらくでもこの言葉の背景にも
神明紀の孟子の言葉が響いているんです
神明紀30章の19節にありました
私は命と死
祝福と呪いをあなたの前に置く
あなたは命を選びなさい
でしたね
何の神に使えるのか
今選べと言いながらも
ヨシワの中には
でもここまで命の生きている神を
あなたたちに示してきたでしょう
この神を選びなさい
ヨシワはある種
カレブと同じように
イスラエルの民に
信仰を強要するのではなく
信仰の背中を見せたとでも
言いましょうか
それぞれ自分の責任で選ぶんですよと
でも私と私の家は
主に使える
私と私の家は主に使えると
ヨシワが言うときそれは
私は主に使える
だからあなたも一緒に主に使えよう
言葉にあせずとも
背中でそう語っているんですよ
もう終わりますが
ヨシワが残したのは
神様を明かしする言葉と
私はあなたがどうあろうと
私は最後まで主に従います
最後まで私と私の家は
主に使えるといった
信仰の背中でした
ヨシワはその人生を通して
明かしをするのです
そう言い切っていいほどに
この神の言葉と
神に私の人生を懸けても
いいと言い切ってしまえるほどに
神というお方は素晴らしい
主は生きておられる
私たちも
これは私自身もそうですが
本当に聖書を読むたびに問われます
私は本当に神を知っているのか
でももしもこの神様を
私たちも知っているならば
ヨシワの言葉に
そうだって言って続きたいんですよ
アーメンその通りだ
私と私の家は主に使える
そうだ私もそうします
どうか主よ最後まで
あなたを王としてあなたを主として
歩む人生をお支えください
この言葉に励まされた後に
続きたいと思います
一言お祈りをしてメッセージを終わります
28:04

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