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2016-11-27 36:06

2016/11/27:預言と成就(1)治め主、イエス・キリスト

2016/11/27 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ミカ書 5:1-9 

00:01
今日は、アドベントシリーズ説教の第1回目として、
預言と成就、第1、治め主、イエス・キリストという題にして、
めぐみをともにしたいと思います。
それでは、その前に隣の方と挨拶しましょうか。
よくいらっしゃいましょうか。
はい、それでは一旦お世話になりまーす。
神様、ここにいる、主のめぐみを待ち望みつつ、
あなたのめぐみを期待している一人一人に、
主をご自身がお語りくださいますように、お願いいたします。
このものを隠して、主の霊が、主の御栄光が、
この肌中に、主を望まれあふれますように、
主を豊かに祝福してください。
イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン。
はい、今日からですね、今年のアドベントが始まります。
今年は、このアドベントの25日、クリスマスがちょうどね、
あの、日曜日の礼拝になりますけれども、
今日から、5つの預言と成就という題にして、
メッセージをさせていただいたと思います。
今日は、おさめの日イエス・キリスト、
それから次は、主要にありますので、ご参考にしてくださればと思います。
それは、イエス・キリストに対する、
特に旧約聖徒に、どのようにイエス様の誕生、
あるいは受難、あるいは復活、
それがどのように預言されているのか、
それを、今回のアドベントには旧約聖章がメインの課題になりますけれども、
次第いただきまして、また学んでいきたいと思います。
そして、この旧約聖章に書かれていた、はるかに昔の預言が、
どのようにそれが上手されたのか、
それをまた学んで、
そこから、私たちの主なるイエス・キリストに対する信仰を、
確かめていきたいと思いますし、
そして、何より大事なのは、
そのイエス様のお誕生が、ご幸誕が、
03:00
それでお祝い、うれしい、それで終わりじゃなくて、
それが自分の生活に、自分の信仰に、自分の人生に、
あるいは教会にどういう意味があるのか、
適応していきたい。
そして、また恵みを受けていきたい。
あるいは、変えるべきところがあれば、変えていきたい。
そういう願いを持って、
今年のアドベントを、ご一緒に過ごしていきたいと思います。
まず、聖書のことを簡単に学んでいきたいと思います。
聖書は旧約聖書、それから新約聖書になっています。
旧約聖書は全部で何冊でしょうか。
39冊です。
それから新約聖書は全部で何冊でしょうか。
27冊です。39・27で覚えていただけたら分かりやすいです。
旧約聖書は何なのか、新約聖書は何なのか、
もっとも簡単に分かりやすく話したいと思います。
旧約聖書が来られるイエス・キリストを書いています。
来たるイエス・キリスト、
それは旧約聖書の聞くことで言うならば、そのメッセージです。
新約聖書が何なのか、来られたイエス・キリストです。
分かりますよね、皆さん。
旧約聖書はイエス・キリストは来られますよという予言のメッセージ。
そしてそれが上手されて来られましたよ、それが新約聖書なんです。
ですから皆さん、普段皆さん聖書はお読みになっているから、
若いになると思いますけれども、
旧約聖書は数多くのところに来られるイエス・キリストに対する
予言の言葉がとても多くあります。
直接に書いてある見言葉もたくさんありますし、
ある人物を通して、例えばモーセとかヨセズとか人物を通して、
あるいは何かの出来事を通して、
イエス様のことを全て予言しているんです。
そしてもっと驚くべきことは、
その予言一つ一つ全てが気に陥ることなく、
誤りなく全てその通りに成就されたということであります。
これが私たちが旧約と新約聖書を信じる聖書信仰です。
この上に我々の信仰が立っているのです。
これを否定する意なんだら、キリスト教はもうキリスト教じゃないんです。
意味がないんです。ただの本に過ぎない昔話です。
06:04
今日はその中で、たくさん予言のある中で二ヶ所を開いてきました。
二ヶという名前の予言者が予言を打った二言葉です。
その予言者二ヶのことをちょっと考えて学んでいきましょうか。
普段あまり開かれていない聖書ですけれども、二ヶ、名前が二ヶです。
この二ヶという予言者は、南ユダ王朝に対して予言をした予言者です。
それだけ一つ学んでおかないといけないと思うんですね。
次のアドベンツは旧約聖書を主に開きますので、皆さんの知識を創造員させて考えてください。
イスラエルの第一代の王様はサウルです。
二代目の王はダビデです。
三代目の王はソロモンです。
四代目からイスラエルは分断されて、分かれてしまいました。
南ユダ王国、南ユダ王朝はレハブアムという人に王になっていきます。
北イスラエル王朝はヤロブアムという人が王になって、国は北とイスラエルが分かれていくんです。
南ユダ王朝にも北イスラエルにも多くの予言者たちが活動しました。
その御言葉を代言する、予言する、時には希望のメッセージを、時には悔やかめのメッセージを語りました。
例えば、よく知られている二代予言者は、主に南ユダ王国に対して予言をした予言者です。
今日のこのミカという人がどの時代に予言をしたのかが、今日ミカ諸の一章一節に書かれていますので、そこをちょっと比較しましょうか。
ミカ諸一章一節。
私が読みますのでご覧ください。
ユダの王ですね。ユダですよ。イスラエルじゃない。
ユダの王、ヨタム、アハズ、ヒゼキアの時代にあります。
ですから、この予言者ミカが活動した時代は、その時のユダの王様が誰なのか。ヨタム、アハズ、ヒゼキア。
ヒゼキアくらいは皆さん、何とか知っておられると思うんですね。
その時代に、モレシュテイビジン、ミカにあった主の言葉、これは彼がサマリアとエルサレムについて見た幻であるとありました。
09:08
ですから、このミカがですね、予言者ミカが活動した時代は、王様がヨタム、アハズ、ヒゼキアです。
大体で、年代で言うならば、BC742年から735年です。
大体で740年から730年くらいです。
その時代ですよ。BC742年から735年に活動した、予言をしたミカという予言者が、南ユダ王朝に対して予言した言葉、
彼が見た幻、主の言葉の中に、なんと約700年の後、大真似になるミシア、イエス・キリストに対する御言葉があったということであります。
皆さん考えてみてください。1年、2年ほどではありませんよ。
700年前なんですよ。
700年前に皆さんご自分の誕生が予言された人、いらっしゃらないです。
たぶん10年前までに予言されないんです。考えられないです。
でも不思議にも、イエス様がお生まれになる、さかのぼって730年前に、お生まれになるイエス・キリスト、ミシアに対する予言が語られて、そしてその御言葉が記録されていた。
それが今日の御書の2節から始まる御言葉であります。ご覧いただけますか。
それでは一緒に読みたいと思います。2節だけでよろしいです。
2節を一緒に読みましょう。
ベスレム・エブラテよ、あなたはユダの氏族の中で最も小さい者だが、あなたのうちから私のためにイスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは昔から、永遠の昔からの定めである。アメン。
これなんですよ。皆さんすごいでしょ。素晴らしい。不思議で不思議でたがらなかったんです。
730年前、約740年前に活動して生きていたミカという人が、700年の後に大生まれになる方が、どこで生まれるのか。ベスレムで生まれになること。
そしてその方はイスラエルの支配者になること。そしてその生まれること、出ることはもう永遠の昔から定めていること。それが予言されて、それがこのミカの口を通して語られたんですね。
12:19
この御言葉を語っているミカは、来たるイエス・キリストにお会いしているかもしれない。見ているかもしれない。あるいはあるいはこの御言葉を語られてそれを聞いているうちに、イエス様は昔も今も永遠から永遠までおられる方ですから、そのイエス・キリストを見ていたかもしれない。
そしてその予言の言葉が間違いなくその通りに成就されたことなんです。これは私にとても大事な真理を教えています。
イエス・キリストは自然にこの地上に生まれた存在だとか、あるいは偶然に生まれた存在だとか、そういうことではなく、
イエス・キリストは約700年前に現されたメシアであれ、そしてすべての聖徒が証言している、証しているキリスト、すなわちメシアであること、その方であることを確実に私たちに教えていることであります。
一括ですね、新約の聖書を開きたいと思います。
ヨハネノ福音書第5章39節です。ヨハネノ福音書第5章39節、新約の183ページです。
それではご一緒にお読みしたいと思います。39節、よろしいですか。
あなた方は聖書の中に永遠の命があると思うので、聖書を調べています。その聖書が私について表現しているのです。アメン。
皆さん、イエス様が言っておられたこの時代にはまだ新約聖書はありませんよ。だからこの時代に聖書というのは旧約聖書なんです。
つまりこの聖書が旧約聖書が私について誰についてですか。イエス・キリスト、私について表現しているのです。その通りなんです。
15:02
皆さん、この世のどの宗教を見てもこのような神を信じる宗教はありません。700年前に予言された方がその予言通りに生まれになって、そしてその予言が成就されたこのような宗教は世界にはありません。
あえてこんな宗教を作ろうとしても、あるいはこういう文を作ろうとしても、例えば700年間ずっと生きていて、こんなことを予言しましたよ、これが成就しましたよ、700年間長生きできないわけなんです。
このイエス様が今日の三河朝、二節を見たら、ベスレヘムエプラセオと呼んで、あなたはユダの種族の中で最も小さい者だが、あなたのうちから私のためにイスラエルの支配者になる者が出るとなります。
皆さん、イエス様がどの街で大馬になりましたか?ベスレヘムなんです。その通りなんです。
まさしくこの御言葉こそイエス様のお誕生に対する確実な予言なんですね。
そして大事なのは、そのベスレヘムで出る、生まれるそのものがどんなものなのか。
一節の下の3行目にイスラエルの支配者とあります。これが大事です。今日のポイントはこれなんです。イスラエルの支配者。それをおさめ口と書かせていただきましたけれども、そうなんです。
ベスレヘムで大馬になるイエス・キリストは、ただ生まれる方じゃなくて、意味がある。それはイスラエルの支配者、つまり私をおさめられる種を召し上げるということであります。
今日のメッセージのキーワードは、支配者あるいはおさめ口、それを覚えていただきたい。
イエス様のご好誕を、クリスマスをお祝いすることは良いことです。ところが、そのお祝いする段階でずっとととまっているんじゃなくて、そこからもっと深い恵みの世界に入っていきたい。
そしてイエス・キリストが支配者であれれば、おさめ主であれば、本当に自分のマコットの唯一の支配者であること、そしてさらに自分は果たしてそのマコットであり唯一の支配者であるおさめ主であるその方におさめているんだろうか。
18:19
おさめられているんだろうか。その結晶を共にしていきたいという風に願っております。
イエス様のご好誕が、私によって、皆さんお一人お一人にとってその誕生が、意味があるためには、支配者こっちでおさめ主として来られたイエス・キリストのそのご支配を全くお受けすることではないでしょう。
イエス様が支配者である、おさめ主である、でも私はあんまり支配されていない。そしたら感情がなくなってしまうわけなんですよね。いくら立派なすごい支配者であっても。
その支配者であるイエス様のその支配者という意味が私のものになるためには、支配していただく、おさめいただくことであります。そのときにイエス様のご好誕が意味あるものになるわけなんです。
そうしたら、世の人々も既に町にはキャロルが流れています。ものすごく盛大に意味をわからずお祝いをしているんですけれども、私たちもただお祝いをしているだけで終わってはいけないんじゃないですか。
イエス様が支配者として来られたならば、その支配を受けることです。支配を受けることです。
では、具体的にイエス様に自分の何をどこを支配していただければいいのでしょうか。おさめていただかなければならないのでしょうか。
今日は多くの中で二つだけを共に考えていきたいと思います。
まず一つは、私たちの心をおさめていただくことです。心をイエス様に支配していただくことです。
皆さんいかがでしょうか。自分自身の心はよくうまく完璧にコントロールできるでしょうか。難しいときもあるんじゃないですかね。
人の心というものは時にはコントロールしやすい、だけど時にはコントロールし難いときもたくさんあるかなと思います。
イエス・キリストは私たちを納める方としてお生まれになりました。納める方ですよ。
21:04
だから私たちはイエス・キリストにまずは自分のこの心を納めていただく信者になっていただきたいと願っております。
そのためには自分の心をすべて絶えずイエス・キリストに明け渡すことなんです。明け渡す。すべてを明け渡すことなんです。
隠さないで表すことです。委ねることです。人はどっちかですね。よく隠す人か、よく表す、明け渡す人なのか。
人間関係においてはですね、適切に隠していいかもしれません。
ところがイエス様に対しても神様に対しても納めて支配していただかなければならないのに隠して隠して隠して何重の心の服を着ていたらどうなるんですか。
特に上手な人じゃなくて明け渡す上手な徒弟さんになっていただきたい。
時には、主よイエス様、自分の心をコントロールできるのは難しいです。本当に難しいです。
愛したいんだけれども愛せない自分がありますとか、もう怒りたくないんだけれども怒ってしまった自分がありますとか、
許したいんだけれども許せない自分がありますとか、
イエス様、私のこんな心をイエス様納めてください。
納めてくださいと、祈ろうではありません。手を挙げて納めていただくこと。
その時にイエス様のこのご好感が自分にとって意味あるものになるのですよ。
いくらクリスマスケーキを100年食べても、そのところで止まったら実は何の意味もない。
太る意味があるかもしれない。
イエス様、まずこの者の心を納めてください。
あなたは支配者として来られたわけですから、私をまるまる全人格を全く支配してくださいと委ねなければならないんじゃないでしょうか。
イエス様は納めるし、支配者です。そのために来られたわけですから。
ですからイエス様のお誕生が自分にとって意味あるお誕生になる第一のステップは、
イエス様に自分の心、人格をすべてあけ渡して、絶えずあけ渡して納めていただくことであります。
24:05
ですから皆さん、今年のこのアドベントには、日々イエス様に心を納めていただく実践、訓練をしていきたいなと思います。
今日から実践していこうでありませんか、と心をあけ渡します。
これは実は訓練が必要です。
ですから人間は本能的に光に出たくない、隠したいという罪の性質があるわけですから、そのままほったらかくしたらあけ渡す方向に行くんじゃなくて、隠してしまう方向に行くわけなんです。
だからそれを隠さないであけ渡していざめるためには、訓練が必要です。
今年のアドベントはまず第一のステップとして、主に心をあけ渡し、隠さないであけ渡しましょう。
そのために祈りましょう。御言葉に向かいましょう。
そして主よ、常にイエス様、私の心を納めてください。私の心を納め支配してくださいと、イエス様のあなたの心のようにしてくださいとですね、
支配を受けて、訓練をして、そして変えられますようにですね、祈っていきたいと思います。
二つ目は、私たちの行い、あるいは歩みと言っていいと思います。行いを納めていただきたいと願います。
私たちが何をして、何を食べて、どこで行こうが、何をしようが、自由ですね。自由なんです。
神様は、イエス様は、私たちの行い一つ一つを講座とする方ではありません。
いつもですね、神様は電話して、あなた今どこにいるの、何をしているの、何を食べているの、そういう一々ですね、尋問する方ではない。
しかし、イエス・キリストが支配者として、治め主としてこの地上にお生まれになったならば、
そしてその方のご支配を受けることが、まことに私たちの幸福と直結したものであるならば、
私たちの行い、歩みもすべて支配していただかなければならないのではないでしょうか。
自分の一日一日の行いが、イエス様を愛する者という名にふさわしい行いなのか、点検して治めていただくことであります。
27:01
自由ではありますが、法従にならないための。
神様を礼拝する者として、自分の一日一日の行い、歩みは、神を礼拝する者という名にふさわしい歩み、行いなのか、を治めていただく必要があります。
そのようにして私たちは、軽減な生き様ができるわけなんです。
そして私たちがこれから歩んでいこうとするその日、その歩みが、イエス様を愛する者という名にふさわしい歩みなのか、行いなのか、計画なのかを、イエス・キリストに支配していただくことであります。
それを今年のアドベントに、またその訓練をしていこうではありませんか。
自分の一日一日の行い、歩みをイエス様に治めていただくことであります。これからの夢もそうです。計画もそうなんです。
私が大学生のときにやっていなくて、一つ、後悔するものが一つあります。それは学校ですね、1年とか休学をして世界旅行をするのではなく、東南アジアとか、あるいは中国、あるいは日本だったかもしれない。
そこに行って、宣教師に行って、人生の最も素晴らしい黄金期という、一番健康な青年のときに何でもできる、そういう青春の時間を神様にまるまるお捧げすること。
それが私にはできなかったんですね。落ち着いてくれる人もあのときはなかったかなと思います。
そこにも青年が何人かいらっしゃいますけれども、皆さんの人生の黄金期であるその20代のこの青春の一番価値あるその人生をまるまる神様に捧げていただきたい。
勉強して、就職して、一日一日、仕事や様々なものに落ち流れていく20代のそういった人生ではなく、それももちろん価値はありますけれども、それよりたった一年であっても、いいや半年であっても、まるまる自分のために生きるのではなくて、
神様のためにその人生を捧げる、その歩みを委ねる、そういう青春のときを送ってほしいなと思うんですね。
30:03
私はそれができなかったので、残念だなとは思わないんですけれども、私が母教会にいるときに、そのときはすでに伝道師でしたけれども、教育大学、これから教学生の先生になるその学校の姉妹でした。
2年生のときかな、3年生のときに学校を休学して、バイトをして、お金を貯めるんじゃなくて、アフリカに行きました。姉妹なんですよ。
1年間、アフリカに教会とサポートしている選挙師のところに行って、1年間、選挙師のために、その現地の住民のために選挙の働きを、小さなことであろうが、それを働いて放棄させてもらって、1年間立派に働きをしました。
帰ってきて、そしたら自分の同時生とは1年遅れているわけですね。でも全然かまわない。そしてまた卒業して、もう受かって教師になって、立派な教師になっていました。
神様はそういう人々を祝福されないはずがないと思います。皆さんいかがでしょうか。日々の行い、歩みをイエス・キリストに納めて支配していただいているのでしょうか。
そういうふうにいって、私たちの行いと歩みがさらに清められるわけなんです。経験な行い、経験な歩みこそ、おさめの日イエス・キリストに納めていただくとき、あなたの人生が清い経験なものになるのであります。
そしてその行い、その歩みは、神の国と神の義のために生きる歩みになります。
この前、2月末に武藩にいたときに、そのセミナー以外に、とても意味ある集まりがありました。
なので、それぞれ違う教会で奉仕をしている30代の青年、それから前道士、あるいは牧師先生たちに8人会いました。私の仲間3人含めて11人の集まりでしたけれども、そこの共通点は、
なんと、その向こうにいた8人は、青年、前道士、牧師先生、8人は、みんな日本選挙を夢見て準備をしている人々でした。これから、出席に来てもらっても、私より最も素晴らしい若手の青年、前道士、牧師が8人もいて、
33:09
それぞれ、もうその1日、月曜日でしたけれども、1日朝から晩まで、本当に日本選挙のことを共に祈ったり、また、これからネットワークを組んでやっていきましょうと。
もうすでに来年に、どこかの教会で派遣されて、日本に当たってくる青年、前道士もいました。私は、もうすでに選挙を取って日本に来ていらっしゃるんですけれども、本当に嬉しかったです。
神様が、こんなに立派な素晴らしい若い青年や前道士、牧師先生を主が備えてくださって、世界に多くの200何百の国があるんですけれども、その中でこの日本に対する夢を神様がビジョンを与えてくださって、
そして、よく準備して、お役に出したいという願いを持って、自分の歩みを将来を神様に委ねて歩んでいるその人々を見て、神様が何と喜んで微笑んでおられるだろうかと思いました。
皆さんはわかるでしょうか。皆さんの歩みは、自己満足の歩みでしょうか。神様満足の歩みなんでしょうか。
今年のこのアドベントの時に、私たちの日々の一つ一つの行い、歩みが、神様に収めていただいて、経験なものになって、そして、神のために、みくにのために用いられるものになっていただけたらと願っております。
メッセージを終わりたいと思います。
イエス・キリストは、予言通りに、この地上にお生まれになりました。予言は成就されます。それだけ見ても、イエス様の御降臣だけ見ても、聖書のすべての予言はその通りに成就されます。
世の終わりのこともそうでしょう。裁きのこともそうでしょう。救いのこともそうでしょう。
イエス・キリストは、唯一のまことの神様であられます。その方は、永遠から永遠まで私たちを治めておられる、まことの唯一の支配者であられます。
そして、その方に治めていただくときに、そのときにこそ、私の人生が輝く、美しくなるのです。日々、私たちの心と行いと歩み、全人格を明け渡して、そして、治めて、治めていこうではありませんか。そこに、我々の人生の恵みがあります。
36:03
お祈りしたいと思います。
36:06

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