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皆さん、おはようございます。暑い中、よくいらっしゃいました。
それでは、今日もメッセージに入る前に隣の方に挨拶しましょうか。
よくいらっしゃいました。ありがとうございます。一応、お祈りいたします。
天の力神様、この朝、私たちが他の場所ではなく、主の御前に敷き寄せていただき、
この世に集まって御前に礼拝を捧げております。
お菓子よ、あなたの御恵みをあふれるほどお与えくださいまして、
私たち一人一人があなたの礼に燃え、礼に満たされ、そしてこの世の中で勝利する、
このうれしさに正体を、お菓子を贈らせてくださいますように、お願いいたします。
一応、どうぞ一人一人に、その魂に、あなたの御言葉を今からお語りくださいますように。
身を低くして、心を開いて、謙遜に引きまして、そしてまたその御言葉通りに生きる、実践できる、
礼の力も、心の力も、上からお与えくださいますように、お願いいたします。
信じて、また期待して、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン
はい、今日は読んでいただきました、コリンドみたいな手紙、5章に入りましたけれども、
強い聖徒が受ける祝という題にして、共に恵みをお受けしたいと思います。
私たちの神様は聖なるお方です。
神様は、旧約聖書の中にあるレビティ11章45節を見ますと、
あなた方は聖なるものとなりなさい。私が聖であるからと言われます。
もう一度言いますね。あなた方は聖なるものとなりなさい。私が聖であるから。
神様は、私たちが強く歩む時、私たちをご覧になって、
親子供になり、また私たちを通して、その強い聖徒のその歩みを通して、
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ご自分の偉大な技を成してくださるということであります。
いつの時代も、神様は、強く生きる人、強い聖徒、その人をお選びになって、
その人を通して、ご自身の素晴らしい技を、働きを、それをなされるということであります。
ですから、天世論でもそうですし、今日の私たちの周りを見ても、
同じ神様を信じていても、同じ家様を信じていても、同じ教会に通っていても、
その人生が、その生涯が、神様に素晴らしく立派に用いられる聖徒がある反面、
そうでない信者もいるということであります。
今日のこの来世コリント御所を見ますと、コリント教会、
エイル70年、80年頃でしょう。
このギリシャにあった、このコリントという市にある教会は、
とても悲しいことですけれども、教会の神父の中に、不信仰の罪のある人がいたということであります。
しかも、一人二人ではなかったようです。
そして、さらに深刻なことは、その罪が正しく処理されていないまま過ごしていたということでありました。
もちろん、コリント教会の神父みんなが、そういう罪を犯してはいなかったでした。
何人だったのかは知りませんけれども、
そういった不信仰の罪を犯した人々が、悔い改めないまま、
偉そうに、今日もですね、2節にあるように、誇り高ぶって偉そうに、
教会で奉祝したり礼拝したり、声を出していたわけなんです。
それでパオル先生は、主の教会を、イエス様のからである教会を正しく建て直すために、
簡単に言うならば、この不信仰の罪を処理して、徹底に悔い改めなさい。
そして、もう一度、神の栄光に満ちる教会、
精霊様が働かれる教会、つまり清い教会となりなさい、というメッセージを語られたということであります。
今日、このコリント教会に向かうメッセージですけれども、このメッセージを私たちはこの朝聞いております。
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私たちは、自分自身へのメッセージ、あるいは妙大に教会へのメッセージとして受け止めていただいて、
もしも悔い改めるべき罪があるならば、ともに悔い改め、ともにこの正義、清めを回復していただく時でありたいと、
そういうふうに進みながっております。
では皆さん、まず、私たちがどのようにして強く生きられるのでしょうか。
強い精度のこの生き方をすることができるのでしょうか。
その1、罪の誘惑を光り、罪を遠ざけることです。
皆さん、私たちの周りを見たら、どれだけ多くの罪の誘惑がたくさんあるのでしょうか。
テレビを、CMさえ見ても、ドラマ、映画、街の看板を見ても、知らしを見ても、雑誌を見ても、インターネットのサイトを見ても、
その他に言いつれないほどの堕落の罪が、
今日どこの国であろうが、あの旧約のソドムとコモーラのように蔓延している時代です。
このような時代に生きている、この世の中で生きている私たちは、実は皆さん、常に罪の誘惑に狙われているということであります。
あなたなら、サタンは常に神の人を制御と堕落させて、ダメにしようとして狙っているからです。
様々な罪の誘惑があります。私たちを飲み込もうとしています。倒そうとしている時に、適当に生ぬるく対処してはいけません。
許したり妥協してはいけません。適当に処理してはいけません。
その罪の誘惑の背後には、私たちを堕落させようとする悪霊サタンがあるということ、それをわきまえして、
罪の誘惑をしっかり、そして、そこから遠ざけなければならない。そして、できる限り、力ある限り、すべてのあらゆる罪と堕落、誘惑からも避けなければならない。
見てもいけませんし、触ってもいけませんし、味をしてもいけませんし、持ってもいけません。
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ちょっと制御をいただきましょうか。新約の第一テサロニケ五章二十二節。新約制御の四百一ページ。第一テサロニケ五章二十二節。
一緒に読みたいと思います。三、悪はどんな悪でも避けなさい。
皆さん、悪は悪みたいなものではありません。悪を少し。不貧困は不貧困。貪欲は貪欲。むしゃぼりはむしゃぼり。
妬みは妬みであって、悪は悪です。神様はこの朝、私たちに、悪はどんな悪でも、どんな形でも避けなさい。避けるべきである。皆さんは避けていますか。避けていますか。
ところが、この墨の誘惑を考えるときに、この墨の誘惑は、私たちの思い、心から始まるということであります。
エヴァが善悪を知るあの日の身を食べてしまった墨も、一度食べてみようかな。
まあ、食べてもよくあろう。一個くらい、一口くらい食べていいんじゃないか。そういうふうに思った思いから墨が始まりました。
あの王様ダビレがパテセバを掘ってしまった墨も、あのきれいな女性をこの王宮に呼んでみようかな。どれくらいきれいなのか顔だけ見ましょう。
これだけかけてみよう。そういうふうに思った思いから墨が始まってしまったんです。
イスカリオテユダがイエス様を銀三十枚で打ってしまいました。
サターは彼に何を、どういうふうに仕掛けたんでしょうか。
新約聖書のヨハネノ福音書13章2節、207ページ。ヨハネノ福音書第13章2節です。
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ご一緒に読みますね。
夕食の間のことであった。悪魔はすでに指紋の子イスカリオテユダの心にイエスを売ろうとする思いを入れていたが。
皆さんここよくご覧ください。
イエス様の弟子だったあのユダがイエス様を銀三十枚で打ってしまったあの墨は一体どこから始まったんでしょうか。
悪魔サターンが弟子だったユダのところに、心に。これを覚えていただきたいんですね。
心にイエスを売ろうとする何を入れましたか。何を?思いを入れました。
これが悪魔サターンの仕掛けなんです。策略なんです。
私たちの心の中に罪の思いを入れるんですよ。
だから皆さん私たちは常に24時間365日イエス様が再び来られるその日まで、まず私たちの心の扉の前に見張りを立てて守らなければならないんです。
旧約聖徒に登場するソロモン王は神様に油注がれて働かれた神の王でした。
強い王にもかかわらず、彼は違法の女性を妻として数百人以上持っていました。
支援の王と言われていましたけれども、ソロモンの老年はもう堕落一方の王でした。
ソロモンがもう食い改めて降下して、油に残したくて精霊に満たされて書き記した聖書が神言なんですよね。
その神言にこういう言葉があります。一緒に開きましょうか。旧約聖書、神言4章23節、1062ページです。
神言第4章23節、ではご一緒に。
力の限り見張ってあなたの心を見守れ。命の泉はこれから沸く。アーメン。
15:08
皆さん、何を見張るんですか。何を見守るんですか。心。
罪も堕落も誘惑も、実は心の思いから始まるんです。
生きどおりも、喧嘩も、戦いも、様々な罪は実はですね、心の思いから始まる。
だから私たちはもう力の限り見張って、この叫んでいるソロモンの声をお聞きしたい。
自分が堕落して堕落して、神の油注がれて立たれた王だったのに、自分がこれほど堕落した後、
悔い改めて私たちに叫んでいるソロモンの声を、彼が私たちに、皆さん、力のある限り皆さんの心を見張って守ってくださいよ。
心から命の泉が沸くか、罪の穢れが沸くか、どっちかですよ、という声であります。
どうか皆さん、力の限り見張ってください。皆さんの心を見守ってください。
神様が作られた、その神様がお住まいにしておられる我々のこの心が、
神の愛、神の憐れみ、目覚まれ、この心の平和を神によって満たして下さい。
力の限り見張って、あなたの心を見守れ、という言葉です。
大きい2番として、私たちが清く生きるためには、
罪の誘惑を避けるだけではなく、遠ざけるだけではなく、積極的に神様と交わりを持つことであります。
その1、教会生活に成功して下さい。教会生活に励んで下さい。
教会生活、礼拝生活に失敗したら、罪の誘惑が心の中に入ってしまいます。
いや、教会生活をルーズにしているのは、逆に、「いらっしゃいませ。どうぞお入り下さい。」とお迎えしていると同じなんです。
ゼロではありませんよ。マイナスなんです。
ヘブル人への手紙、10章、25節。新約聖書の437ページです。
18:34
ある人々のように、一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、彼の日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。アメン。
この照らされているヘブル人、彼らがあちらこちらに、教会があったわけなんですよね。
ところが、その群れの中に、ある人々は、「もう一緒に集まるの、これくらいでいいじゃないですか。ほとんどしましょうよ。毎日教会に行く必要はないでしょう。もうこれくらいで十分じゃないですか。神様は僕にもらえるから。」と、そういうふうに言う人がいたわけなんですね。
それでこの神の御言葉は、私たちにある人々のように、一緒に集まることをやめたりしないで、やめていた人がいたわけなんですよね。かえって励まし合い、彼の日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。ますます集まろうではありませんか。
そういう御声をとらえていた人たち。
皆さん、礼拝、祈祷会、あるいは聖書の学び、あるいはおまじわりに、積極的に参加していただきたい。
なんとかして恵みをいただこうとする心の姿勢。なんとかしてイエス様と交わって、なんとかして兄弟次第たちと交わって、そこでそういうふうにして、自分の心と自分の礼をお守りください。
教会生活に成功する人が清く生きられます。これはどの時代においても、これはもう真理のような言葉であります。
ところが皆さん、教会生活に勝利するためには、負けないためには、どういうふうにしたらいいんでしょうか。
この自分の肉の思いと肉の欲望と戦って打ち勝たなければならないんです。
なんででしょうか。
罪のある、この罪の性質、あるこの肉の思いを綺麗に、もう休もう、適当にしましょう、これで十分でしょう。
あんなほど飯にしなくてもいいじゃないか、そういうふうな適当さという、とても甘い誘惑の武器を持って私たちに攻めに来るんです。
21:12
罪の性質、甘いんです。
そして妥協しましょう、妥協するように。
皆さんはこの甘い妥協の誘惑に、適当さという誘惑に立っていらっしゃいますか。
もしも負けてはいませんか。
清く生きる生徒は、その肉の誘惑を打ち破るという生徒であります。
適当さ、妥協という誘惑で戦って、肉の本性を打ち破る人が強く生きられるんです。
皆さん、言うこともなく、皆さん自分自身がわかるでしょう。
肉のこの本性は、肉のこの罪の性質は、とても強いです。
やけやすい、みんなやけやすいです。
だから、私たちはその肉として、神様のあふれる恵みを従い求めていただかなければなりません。
生徒とは何でしょう。一言で言うならば、神の恵みによって生きる者です。
他のものではない。ただ、神の恵みによって生きる者、彼が生徒なんです。
神の人たちに、神の恵みとは、強く生きるための原動力です。
神様のあふれる恵みは、私たちを清く生きるように、そしてこの清さを、この性を守ってくれる力なんです。
そして、神様のこのあふれる恵みは、罪のあらゆる誘惑から私たちを守ってくれるという力であります。
だからですね、清く生きる生徒はいつも、あふれる恵みを従い求めます。
そして、それをいただいています。あふれる恵みを従い求めて。
そしたら、神様が恵みをあふれるほど与えてください。
そうすると、誘惑と、あるいは妥協、あるいは罪のその誘惑と戦って勝利ができる。
そしたら、さらに清く生きられるようになる。
そうすると、あの恵み、あの勝利の味がわかるから、さらにさらに恵みを求めるようになる。
だから、自分の内側に良い循環が、良いサイクルが起こるんです。
24:02
恵まれて清く生きるようになる。罪の誘惑を戦って勝利するようになる。
そして、さらに恵みを求める。さらに清く生きるようになるという、この全循環が起こるわけです。
皆さんいかがでしょうか。皆さんの日々のこの生活は、礼の歩みは良いサイクルでしょうか。どうなんでしょうか。
このように、清く生きるせいと、私たちが清く生きるときに、神様は私たちを覚えて、心を込めてくださって、祝福してくださるということです。
どういうふうに神様が祝福してくださるのでしょうか。
まず、この意気は、神様に用いられる人になります。その人生が神様によって用いられます。
皆さん、私たちクリスチャンが、いや、人が、神様から受ける祝福の中で最も素晴らしい大事な祝福は、神様の御手にとらえられて用いられることです。
皆さん、そういう良い意味での願望を持っていますか。
私は神様に用いられたい。尊く用いられたい。神の御手にとらえられて立派に用いられたい。
そういう良い意味での貪欲を持ってほしいです。
神様は聖なるお方だから、清い人は聖なるものを用いてください。
皆さん、お年と関係ありません。
みんなですね、こういう風に祈っていただきたい。
神様、私の人生がさらに清められて、神様に、神様によってとごとく用いられたいです。
私をさらに強くしてくださって、私の人生をお持ちくださいと、祈ろうではありませんか、皆さん。
祈ろうではありませんか。
そして、このような祈りを、皆さん自分自身のためにだけではなく、皆さんの子供のために、子孫のために、孫のために、このように祈ってほしいです。
こういう風に強く生きる生徒は、その子孫が祝福されます。
たしかそれは、親として、あるいはおじいちゃんおばさんとして、皆さんの子供が、あるいはお孫さんが、神様から祝福を受ける、それをみんな願って祈っておられると思うんですね。
救いの祝福、家庭の祝福、あるいは精神や体の祝福、社会においても、あらゆる面において、祝福されるように、皆さん祈っておられるでしょう。
27:05
願っていない人は、一人もいないと思います。
ところが皆さん、誰の子孫が、どのような人の子孫が、祝福を受けるのでしょうか。
それは、強い親の子供が、その子孫が強く生きられるようになり、そして小さい時からこの姿勢を、清めを習って、身に着けて、そしてその子孫が祝福を受ける。
ちょっと聖書を開きましょう。中略聖書の、伊沢諸44章3節です。
1196ページです。伊沢諸44章3節。
私は潤いのない地に水を注ぎ、乾いた地に豊かな流れを注ぎ、私の霊をあなたの杖に、私の祝福をあなたの子孫に注ごう。
ここに、私の祝福をあなたの子孫に注ごう。神様は祝福の神様であって、その祝福を与えられる方は、我々の神様です。
ところがその神様は聖なるお方だから、聖なる人に、聖なる清い子孫に、ご自分の祝福を与えられるということであります。
よく生きる人の、よく生きる生徒の子孫を、祝福の根源であらゆる神様が覚えてくださって、心に留めてくださって、
ああ、この人の子孫、この人の孫、この人の子孫を私は祝福をしようと、そして祝福を注いでくださるわけです。
それから皆さん、皆さん自分自身のために、あるいは子孫のために祈るときに、何かただ成功のために、ただ元気に過ごせるために、
いい仕事を持って、いい家庭を持って、そういうふうに求める以前に、清く生きるために求めていただきたい。
これが先である。清く生きる。
いい大学に入ること、いい仕事を持って、ある程度の金持ちになること、それより大事なのは清く生きる私。
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清い生き方、これが最も大事なことであります。
これを忘れてしまったら、これを失ってしまったら、後のものは、それは祝福じゃなくて、むしろ呪いになってしまいます。
日立教の歴史の中で、最も強くて聖賢な旨があるならば、それは日本語でならば聖教徒、ピューリーさんだと私は思います。
彼らは一言で言うならば、世の穢れから隔離して、そこで清く生きる信仰者でした。
皆さんの歴史はご存知でしょうけれども、ピューリーさんたちは、イギリスのエリザベス女王の時に、
あの堕落したカトリック教会、それとほぼ一緒であったイギリスの国教会を改革しようとしていましたけれども、
それがもう弾圧されて、破壊されて、彼らは信仰を守るために、アメリカに移住したわけなんですよね。信仰の自由を求めて。
それが1620年、クガスでした。
彼らはこのアメリカで、ピューリーさんたちは、経験者、器用者を命のように守って、
その子孫に経験者を受け継がせたわけなんです。
そして子孫に、この信仰、この経験な信仰を受け継がせるのを、最も大きな価値として、誇りとして思っていた。
このピューリーさんが命のように守っていた信仰が、7つありますけれども、簡単にお話したいと思います。
それをぜひ、覚えていただけたんですけれども。
1、神中心の信仰です。
彼らの関心は人や世のものではない。ただ、神様にいつもフォーカスを与えていました。
神様中心の信仰。
2、説理の信仰。つまりピューリーさんたちは、神様が永遠から永遠まで、神様の御説理の中に全てを守られ、救われ、あがなってくださる、その説理を彼らは堅く信じていました。
3番目、契約の信仰でした。
ピューリーさんたちは、救いに対する神様の契約とその成就を契約、カーバナントと言うんですね。その契約という概念として理解していました。
そして自分たちは、このアブラウムの信仰の契約によって選ばれた神だという確信を持っていました。それをとても大事にしていました。
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4番、戒心の信仰でした。
聖霊改めと信仰をとても非常に強調して、そしてその聖霊様が、ペテロが滅絶して、心を刺されて救われた人々のように、聖霊様の救いの働きを堅く信じていました。
5番、これは義人の信仰ですね。
信仰によって義となるという信仰を堅く信じていました。
6番、聖化の信仰。ここも聖化が大事なんですけれども、聖霊様によって自分自身の罪ある性質をもうなくすだけではなく、そして聖霊によって清く生きる、その両面を強調していました。
最後の7番ですが、それは旅人の信仰でした。この地上では旅人である、そしてあれはみんな天国を待ち望んでいました。
このような立派な信仰を持っていた旧日さんたちの子孫の中には、本当に素晴らしく持ちたい人々が、山ほど数え切れないほどたくさんありますけれども、その中の一人を紹介したいと思います。
それは18世紀、アメリカの大覚醒運動リバイバルの出発の人物だったジョナーサン・エドワーズという牧師でした。
日本ではあまり知られていないような気がしますけれども、このジョナーサン先生は、とても厳格にピュリテンシンクを守っていました。
彼は、今日は読めませんが、70課上の自分の決意文を作成して、毎週それを繰り返して読みました。
そこのいくつかをちょっと紹介しますね。もし欲しい人がいらっしゃれば教えてください。私が文章に作って、きれいに作ってさせていますので。
1番、この命の続く限り、たとえ永遠の年月をかけようと、最も神に栄光をきし、最も自分自身の幸福や利益、喜びに寄与するであろうあらゆることを行うこと、
また自分の義務と思うこと、全ての人の幸福と利益のためになろうと思うことは、全てこれを行うこと。
そのことは、どれほど大きな困難を伴うともやり通すこととありました。
4番にはこういう言葉がありました。肉体においてであれ、話においてであれ、神の栄光のためにならぬいかなることをも、自分の力の及ぶ限り、決して行わないこと。
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また、10番にはですね、苦しいことがあるときには、殉家たちの苦しみや、地獄における苦しみのことを思い出すこと。
例えばこのこともありますね。決して腹中心から行動しないこと。あるいは、18番は、自分が最も信仰に萌え、福音と来世について最もはっきりした考えを抱くおりに、最上と思うような生き方を常にしていくこと。
暴食、暴飲は厳に慎むことなどとありますけれども、こういうふうにして厳格にこの経験さを守ろうとした、このジョナサン・エズワーズ先生の子孫をですね、ある方がそれを調査をしてみました。
そして今に至るまでですね、その子孫が、約1394人の子孫が生まれてきましたが、その中に13人の大学総長、65人の大学教授、3人の国家議員、3人の州知事、30人の藩次、102人の弁護士、56人の医師、75人の文書庫、100人の選挙士、牧師、
1人の副大統領が、このジョナサン・牧師の家系から排出された。しかしみんな真実なクリスタンである。大事なのは、先が何が先なんでしょうか。信仰と強く生きる生き方であります。
皆さん、メッセージを述べたいと思います。神様は、聖なるものを愛しておられ、聖なる人を祝福し、聖なる人を申し入れてください。
ですから皆さん、願わくは、私たちみんなが清く生きて、清く歩んで、神の手にとらえられて、道徳を大いに、一派に申し入られるために、願って信仰を守っていこうではありませんか。この清い信仰を守っていこうではありませんか。
そして、私たちだけではなく、子供の世代が、孫の世代が、しじほんと祝福されるために、清く生きることです。お祈りします。