2023-02-19 34:14

#六つの徳目 23/2/19

ピリピ4:8-9からの礼拝説教。2023年2月19日録音。私たちは社会生活の中で迷います。家庭で、職場や学校で人間関係に悩みます。或いは、正しいことや成すべきことを分かっていてもそれができない。自動車事故を起こしたときに逃げてしまうケースがそれにあたるかもしれません。また成すべきことをするならば、前向きに取り組みたいと思うものです。今日のパウロの教えは、私たちがとっさの判断を迫られるときの指針となります。また日常生活のルーチーンワークにさえ意味や喜びを見出す言葉です。

そのようなことを目指して8節の徳目のリストと、その前提から、1.平和の神が共にいて下さる約束。2.パウロの教え、キリストに倣う生き方の具体的な指針として。最後に、3.6つの徳目のリスト。以上の3点から学びましょう。

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頭から読みますね。 最後に兄弟たち、すべて真実なこと、すべて
たっとくべきこと、すべて正しいこと、すべて 清いこと、すべて愛すべきこと、すべて
評判の良いことに、また何か得とされることや 称賛に値することがあれば、そのようなことに心を止めなさい。
あなた方が私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、 見たことを行いなさい。
そうすれば、平和の神があなた方と共にいてくださいます。 以上です。
今日はこのところから、6つの徳目と題して 御言葉を取り継ぎます。
みなさん、おはようございます。 2月も半ばを過ぎました。
私は、日の出、日の入りを気にしているんですが、 昨日の日の入りはですね、5時26分だったと思いますね。
埼玉県に座指揮官、指揮者あたり。 先週の、ちょっと記憶にないんですが、火曜日あたりでしょうか、
日の出もですね、6時半より前になってですね、 6時20分台に少なくとも、もう今なっているはずです。
そうやってですね、本当に日が1日1日長くなって、 寒いながらも春の訪れを感じる今日この頃であります。
そんな中、一緒に神様の御言葉から聞けることを嬉しく思います。 さて、突然ですね、最初にある新聞投稿をちょっと紹介したいと思います。
高齢者のですね、自死が増えていることを嘆いた 12歳の小学生の女の子が、先週ある新聞にこういう投稿をしてたんですが、その一部を紹介します。
はい。
彼女はこう言っているんですね。冒頭、ここに書いています。 生きるということ、それは共に笑い合ったり、助け合ったりすること。
私はそう思いながら生きています。 私の夢は世界中の人を笑顔にすることです。
そして、生きることはいいことだと実感してほしいです。
このように生きるということは、一人一人違った意味があるので考えてみてほしいです。
自ら命を絶つ前に、ということを考えてほしいと。 12歳の小学生の女の子の純粋な気持ちが表れていると思います。
と同時に、この言葉は、私たち人間が社会的な存在だということを上手に捉えていると思ったんですね。
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人との関わりの中で私たちは生きざるを得ないし、社会活動、家であれば家事とか、学校であれば勉強や部活、クラブ活動、そして当然仕事など。
そのような社会活動の中で、私たちは生きているということを上手に表している言葉だなと感じたわけです。
でも私たちは実際、悩むわけですね。 家庭でまた職場で人間関係に、学校でも人間関係にその中で悩みます。
また、あるいは何かをしようとした時、それが仕事であればなすべきことを分かっている。
一般的に正しいことだと分かっていても、それができない時があったり、そうしたらいいのかどうかって迷うことがあると思うんですよね。
例えばその一つに、先週も何回か私テレビで見たんですが、よくニュースでドライブレコーダーの様子が映っていて、
先週も神奈川県横浜市の金沢区で自動車事故が起こって、ドライバーの人が車を衝突しても逃げてしまった。
当て逃げの様子がテレビで映っていました。こういう交通事故を起こしても逃げてしまうということが、こういう正しいことができない、迷いを生じるということにもつながると思うんですね。
そんな時、私たちが社会生活を送る中で、いろんな試練に直面した時に、この心の支えになるような言葉というのが必要なんですね。
そしてあるいはですね、どうせ仕事でも勉強でも家事でも、なすべきことをするのであれば、喜んでとか前向きにやってみたいと思うのではないでしょうか。
そんな中で今日パウロの教え、後で細かく見ますが、6つの特目というのはですね、この試練の中で迷う私たちに力を与えるような言葉であったり、
とっさの判断で迷う時に、この良い判断基準になる言葉、あるいはなすべきことを喜んで前向きにする、そういう助けになるような言葉が出てくるわけです。
そんなことを目指して、8節の特目のリストと言われるんですけれども、そこから学んでいきましょう。
ただですね、この8つの特目、6つの特目を学ぶ上で、2つ前提があるんですね。
その2つの前提というのは、ここにも書いてありますけれども、滞在中のパウロから学んだことを実践する具体的な指針として8節の言葉があるんです。
それを後で見ていきます。 具体的にイエス様の教えに従う、そういう中でこの8つのリストが出てくる、6つのリストが出てくるということがあります。
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またもう一つはですね、 今日は取り上げていませんけれども、先週から見た6節から続く、
神の平安が心に宿るということと関係した中で、この特目が語られているということがあるので、
まずその前提を最初2つ学んで、そして特目という3つの点から学んでいきたいと思います。
バランス的にですね、最初の2つが割と簡単で、3つ目の特目で、6つありますから長くなりますけど、
それを思いで見てみてください。 まず一番最初、
平和の神がともにいてくださるという約束です。 ちょっと長いんですが、9節を読んでみましょう。
あなた方が私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。
そうすれば平和の神があなた方とともにいてください。 この9節の最後の言葉の約束、それは
平和の神があなた方とともにいてください。
ちょっと細かいことなんですけど、そうすればという言葉は元々の言葉では、英語のいわゆる&という言葉、
かいという言葉なので、条件的に訳すのか、そしてって訳すのか、いろいろ迷いがあるんですけども、とにかく最後の約束は
平和の神があなた方とともにいるという言葉。 実はこの平和がありますようにというのは、今までみなさんで学んだパウロの手紙の最後に語られた、
平安があなた方とともにありますようにという、手紙の締めくりの挨拶の言葉でもあるんです。 あるいは、
イエス様がこの弟子たちにですね、復活の後初めて会って、この驚く弟子たちに平安があなた方にありますようにという、
そういう挨拶を送っている部分があります。 そうやってですね、挨拶とか相手の上に神様の平安があるようにという願いを込めた、
祈りと挨拶が一緒になった言葉であって、 パウロは手紙の締めくりとしても、この言葉を述べているという前提があるんです。
その上でですね、この言葉はですね、非常に大切なことがあってですね、
この神の平安が私たちと一緒に宿るという約束、どういうことか。 イエス様を信じる人たちの中に、
精霊が宿るという約束があるんですね。神の霊と、その精霊の実が平安と言うんです。 だからパウロは、イエス様信じているあなた方の中に、精霊がおられるから平安があるんですよ、
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その平安が分かりますようにありますようにと告げているわけなんです。 ガラディアの5章22節ありますね。さらに、
この4章8節、後で見る特目を私たちが思い巡らして実践するときにですね、 私たちの心にやはり平安が訪れます。
先週言いましたね。 困った時、切羽詰まった時、思いがまとまらないですよね。
その時に、この8つの特目を考えた時にですね、 神の平安を体験しますし、具体的にどう生きたらいいかというアイディアも多分与えられるでしょう。
あるいは、皆さんどうでしょうね。私よくあるんですけど、切羽詰まった状況になると、 イライラしちゃったりする。
いわゆるプレッシャーがのしかかってくると、 人間関係がギスギスしてしまうということがあるかもしれません。
そんな時に、それを思いとどまらせる。 そして、私たちの心だけじゃなくて、私たちの周りの人間関係にも神の平安をもたらす。
その約束が、この6つの特目と連なっているということを覚えておいてください。
さあ、その上でもう一つの、あ、ありましたね。 この8つの特目の中で私たちは平安を与える。
ちょっとこれ、あれですよね。 パワーポイントが間違えてしまいましたね。
それではですね、2番目。 このパウロの教え。それはキリストの教えになろう生き方の具体的な例として、このパウロの教えがあるということを覚えておいてください。
ちょっとこちらの パワーポイントの方には掲載されてないんですけども、皆さんのレジュメのですね
2番、パウロの教え。キリストになろう生き方の具体的な指針として、この教えがあります。
で、先ほど読んだこの 4章9節の前半部分ですね。前にもありますけれども
この、あなた方が私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。
それは、これまでパウロが手紙の中で書いてきた様々な教えを指します。 また、パウロがフィリピンの教会に電動旅行行った時にですね
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パウロが例えば投獄されて、鞭打たれて、苦しんだ時の彼の生き様、そういう彼の生き様や彼から聞いた教え
そういうものを具体的に実践する指針として、この特目がありますよとパウロは言っています。 あるいは、この手紙の中で繰り返し言われているのはですね
福音にふさわしく生活しなさい。イエス様の足跡に従いなさい。 自分を使えるものの姿、しもべとしてですね、イエス様は神であったのに人となって
しもべになって人々に使えました。そして十字架に至りました。 それをあなた方の模範としなさいとパウロ言ってますけれども、それをもっと具体的に私たちは日常生活の中で
生きていくための指針として、この8つの特目があるということを、 6つなんですけどね、特目があるということを覚えておいてください。
私たちや ピリピ教会の人々が日常の中で直面する試練の中で、具体的に生きるヒントがこの特目の中にあるということなんですね。
それではこの 6つと限定しましたが、その特目を見ていきましょう。
4章8節。 前にあります、ちょっと長いんですが、読める方一緒に読んでみましょうか。
最後に兄弟たち、全て真実なこと、全てたっとうべきこと、全て正しいこと、全て清いこと、全て愛すべきこと、全て評判の良いことに、
また何が得とされることや、称賛に値することがあれば、そのようなことに心を止めなさい。
最初にさらっと言いますけれども、ここのですね、 評判の良いことにまでの6つが主な特目となっているので、それを一個一個ちょっと見ていきます。
さらっと見るので、 今日掴み切れないかもしれませんが、レジュメを皆さんに渡したのでですね、
それを後々ですね、復習しながらちょっと考えていただきたいと思います。 その前にですね、この6つの特目の特徴があるんですけれども、
これはですね、当時のローマの社会、 ピリピの人たちが生きていた社会の中で、広く浸透していて、
いろんなところで言われていた、多分学校とかで学んでいた、 彼らがクリスチャンであろうとなかろうと慣れ親しんでいた特目のリストだったんですね。
例えばですね、ちょっと性格に際ってよりも、私たちにとって古いかもしれませんが、 日本人にとってはですね、ニトベイナゾウの武士道という本とかですね、
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あるいはですね、江戸時代に滝沢馬琴という人がですね、 南宗里見八犬伝というのを書いたんですね。
多分、見たことない方も思いますけど、私が小学生の頃ですね、NHKでこの人形劇でですね、 新八犬伝というのをやったんですね。
その中で、8つの特目が出てくるんですね。 仁、義、礼、智、忠、信、公、廷という。
この8特、こういう武士道に通ずる特というのは、 もしかしたら日本人に馴染み深いかもしれません。
ですから、パールは実はこういうものを用いて、 具体的にこう生きなさい。
クリスチャンらしく、福音にふさわしく生きなさいと、 今日の箇所で教えていると思ってください。
実は、さっきも言いましたが、こういう特目が、 私たちが試練に合う時に、心の支えになる言葉であり、
また、私たちがですね、 何か迷った時に、今で言えば、カーナビですね。
あるいは、GoogleのGPSのように、なすべき、 行くべきところを示す指針になる、
そういう言葉や特目であるというふうに、 覚えてもらえればと思います。
ですからですね、そういう言葉を、 心を止めなさい。
注意深く、それらの言葉を見つめて、 よくよく考えなさい。
パールは、心を止めなさいという言葉で教えています。 じゃあ1個ずつ。まず一番最初は、真実なことです。
これは、ギリシャ語ではですね、アレーセイヤという、 真理という言葉と関係していることで、
真理とも言い換えられるんですね。 大事なことは、何が真理かというのは、
聖書の誠の神様や福音の基準によってのみ、 判断されることです。
ギリシャの哲学で、真・善・美といって、 真という言葉を言われていますけれども、
いろんな真理があるけど、 聖書の神様にある真理が一番、私たちは大事だ。
福音の真理が大事だ。 その基準で真理を見極めなさいと言っているんですね。
それはもっと言い換えるとですね、 パールがそれを逆にですね、
間違った例として、こういう言葉をローマ人の手紙、 1章25節に挙げています。反対の例。
彼らは、神の真理を偽りと取り替え、 作り主の代わりに作られたものを拝み、
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これに使えました。 作り主こそ、常しえに褒めたたえられる方です。
アーメン。 この言葉にあるように、第一に、真実の神様や救いに関わる真理ということを、
パールは目に留めるように教えているわけです。
まあ、悲しいことに、去年からある
カルトのことがですね、話題になっています。 いろんなご利益とか自分の悩みということで、
カルトの信仰にですね、囚われてしまうということの恐ろしさが分かったと思いますが、 私たち大事なことはですね、
この偽物の宗教に騙されないために、
本当の神様、 聖書の神様以外を神としない、
ということが大事。 そしてですね、私たちはともすると、
人を神様のように崇拝してしまいます。 あと出てきますが、尊敬はいいんですけど、
あたかも誰かを神のように崇拝するということは、避けなければならないわけですね。 ですから、この言葉、これから挙げる特務部のリストの中で、
基本の既定もあると言われているわけです。 2番目、
「たっとうべきこと」 これ、
日本語の別の聖書では、 「ひんいがある」
と訳されているんですね。 まあ、品性の感性って、
不感哲学の 木野先生が言いますけれども、
ひんいがあるかどうか、あなたの言動に、
ひんいがあるかどうか、また目の前のものにひんいがあるかどうかということを、 よく考えなさい。
そして、そういう意味で尊敬に値する事柄や、 そのような人に心を向けるべきだと教えているわけです。
今、ネット社会では、いろんな情報が はびこっていますね。
WBCが今度行われますけども、 大谷昌平選手みたいな、ああいう人の生き様を見て励まされるというのは、
素晴らしいことだと思います。 同時に、そういうWBCの選手に関わるゴシップなんかもですね、
報道されてまいがるかもしれません。 ですから、私たちはどういう情報を、
目を止めるか、心を止めるかということも大事であって、 その中でこの人のひんいということ、自分のひんいってことを、
その中で見極めて、そこに心を寄せていくということが大事だということですね。
それと同時にですね、そういうことでまた、 人を崇拝しないようにということも大事です。
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2番目、3番目ですね。 正しいこと。
これ直訳すると、ディカイオスという、 義という言葉に関わる、英語のrighteousnessに関わる言葉です。
これは、正義、特に神ご自身のご性質に関わることです。
正義という言葉はよく聞きます。 正義の戦争なんていう人いますけども、その正義について、
福音とか、神様の視点から私たちは吟味する必要があるわけなんですね。 その中でも特に、
神様の正義が人との関わりの中で実行されているかを 見極める必要があるというんですね。どういうことか。
例えば、新約聖書ができる前にですね、神の民の中で 受け継がれたある格言があるんですけども、こういうことなんですよね。
分別ある貧しい人を恥ずかしめることは正しくないし、 罪深い人が敬われることもあってはならない。
これはですね、その人の貧富の差とかですね、 社会的地位によって人を差別して扱うことは、
正義ではないんですよってことを教えているわけですね。 あるいは、この先ほどが言ってます二戸部稲造の武士道の中で、義ということについて、
こういうことが言われているんですね。これ神章って読むんです。 ちょっと読める方は難しいかもしれませんが、頑張って読んでみましょうか。
侍にとって卑怯な行動や不正な行動ほど、はずべきものはない。 そうした神章が義である。
私たちが、何か社会活動の中で迷った時に、これしていいのかな、 していちゃいけないのかなっていう時に、
これらにあがっている義ということを、その判断の基準にするということも大事なんではないか。 それが福音を具体的に生きることに役立つのではないかということなんですね。
次、 清いこと。
それはですね、 宗教的清さを指して、道徳的な清さを意味して、この動機の清さということに関係することなんですね。
フィリピンの1章17節のあたりで学んだんですけども、 パウロはローマで統合されている時に、パウロの敵がいたんですね。
でもある面、福音の真理は語っていた。でも彼らの動機は、 パウロに対抗して、パウロを苦しめるために、彼ら彼女らは福音を語った。
パウロはそこではっきり不純な動機で語っていると言っている。 良いとされることでも、動機の清さということを問うわけですね。
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その中でですね、 例えば先ほど見た、
八犬伝の中という言葉があるんですけども、 その中についてこういうふうに言ってるんですね。ちょっと読めることを読んでみましょうか。
3、 心の中に偽りがないこと、主君に精神尽くそうとする真心。
心の中に偽りがない、侍ですから主君に心からそうとする真心ということ。 例えば私たちクリスチャンなら、私たちの真事の主君はイエス様、神様ですから、
私たちが真心から純粋な動機で神様に使えると捉えることもできるわけですよね。
私たちがこの何かするときに、 皆さん大丈夫と思いますけれども、
動機の純粋さを吟味して、自分の行動の清さとか品位を吟味するときに、私たちは自分の心に平安が訪れる。
やましい心がない。 そして、
そのような純粋な動機で何かを成すときに、他の人との関係においても平和を保つことができる。
平和の神がそこにいてくださる、そういうことを体験するというわけですね。
次、愛すべきこと。 英語の聖書ではラブリーという言葉です。
イギリスに留学していたクリスチャンの先輩が、 イギリス人の男性がラブリーって言うんです。
日本人が聞くと可愛いって聞くかもしれませんね。 それがすごく違和感があったんですけども、
このラブリーという、愛らしいと感じたり、友好的な感情を抱くことです。
例えば、美しい音楽を聴くとか、
また貧しい人々に奉仕したマザーテレザーの働きとかですね。 あるいは、
猫や犬とか、こういう可愛らしい動物が話題になりますけども、 そういうものを見て可愛いと思うことも、
パオロに言わせれば、聖書に言わせれば、
良いことだ。 私たちがここで見られるように、何か試練の中にあるときに、
この愛らしいものに目を向けたり、犬をなぜたりとかね、 また自分の行動が尊敬に値するものかを義務にするときに、心の平安を体験します。
今朝のニュースで言ってましたけどね。 今日、
日本で初めてある国家試験が実施されるんですよね。 愛顔動物ペットの、愛顔動物の看護師さん。
今、獣医さんのところに行くと看護師さんがいるんです。 それの国家試験が初めて今日なされる。
看護師さんが驚いたのは、病院にセラピー犬というのを連れて行くときも、 その人は同伴できるんですよね。
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よく子ども病院なんかも、パシリードッグとか行って、 手術に向かう子どもと一緒に、
ラブラドルレトリバーが付き添っていくと、 子どもが平安な気持ちで手術に行けるところがあります。
そういう愛らしいものというのは、私たちに神の平安を体験させてくれる賜物であると、 捉えることもできるわけですよね。
そして最後、評判の良いこと。 これまさに読んで字の通りで、
美徳に関わる言葉で、人からの良い評判評価です。 私たちがですね、
家事や仕事、学業で、もしかしたらルーティンワークになって、 つまらないなと思ってやることがあるかもしれません。
でも、しかしそれはですね、見てない人が見ててくれて、 あなたの評価を評価してくれているかもしれませんし、
たとえ人もそうでなくても、 神様ご自身はですね、私たちの成すべき良い技をですね、
よくやった、忠実な下部だと評価してください。 そういうことでですね、自分のこの
日々のルーティンワークに、この神の良い評価というものがあると思えたり、 あるいは、
私もこう自分を吟味しなきゃいけないんですけども、 自分の言動がですね、この
あんまり人目を気にすることはいけませんけども、この悪い評判になる。 それによってイエス様の名がちょっと恥になる。
そういうことがないように慎むと。 そういうので自分の
言動の評判ということを考えるということも、 神に従っていく上で有意義だと言えるわけです。
イエス様はですね、福音書を読むと、 あらゆるところからイエス様の評判を引きつけて、人が集まってきた。
そのように自分の言動、それが美徳の面で、評判の面でどうかと吟味することも、
神の民として歩む上で大事だということになるわけです。 そのようにざっとですね、この
8節の御言葉の6つの特目を見てきました。 その6つの特目の最後にですね、
また何か得とされることや、賞賛に値することがあればと言っています。 いろんな説があるんですけど、おそらくこの最後の2つというのは、
これらの6つの特目に条件や制限を与えていると考えられるんですね。 何でもこの世の中で良しとされているものを、私たちが無批判に
受け入れるというのではないんですよと。 つまり、イエス様や
神の福音の中で考えて、それらが得となる、賞賛に値するかどうかということを吟味した上で、
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世の中の良きものに触れ、またこの特目、 世間一般で言われている良いものに関わっていく、そういう基準としてですね、
この何か得とされることや賞賛に値するかどうかということを考えながら 接していく、そういう最後の
判断基準に条件をつけていると考えることができるんですね。 このですね
高潔で賞賛に値するものに限ると、そのような基準に沿って吟味しなさいと私たちに教えていると考えられるわけですね。
実はニトベイナゾーという人は クリスチャンであったんですね。彼は武士道の中で
神という言葉についてこう説明しています。 神というのは愛情、寛容、他者への情愛、
同情、憐憫、それは常に最高の得をバーチューズ。 つまり人間の魂に備わったあらゆる性質の中で、最も高いものとして
認められるって言うのです。 言い換えれば、あれらの6つの特質、あるいは8つのこの特目もですね、
愛という基準の中でも吟味して考えることができるとも言えるかもしれません。 またパウロは他の箇所でですね
愛は結び延びとして完全ですという言い方をして、これらの6つの特目を考える上で愛ということも欠かせない要素だと。
判断基準だと言われているというわけですね。 まあ今日最後はですね、リストを並べただけになりましたけれども、ぜひ皆さん
それぞれですね、6つの特目をちょっと考えながらですね 過ごしていかれたらイエス様に従う上での趣旨になるかと思います。
そして最後にですね、パウロは私たちがこの世の良きものを取り入れる上で大事なことを教えているその見事を読んで終わりたいと思います。
ポリントビートの手紙第1、10章の23節。 ちょっと
長いんですけど読んでみましょう。 全てのことが許されていると言いますが、全てのことが駅になるわけではありません。
全てのことが許されていると言いますが、全てのことが人を育てるとは限りません。 このような中でですね、この
愛に根差しながら、この6つの特目を考えてですね、私たちが日々の生活の中でイエス様に従っていく、また人々に使えていく、そういうお互いでありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。 今日はパウロが
具体的に私たちが神の民として、福音の市民として生きる上での指針、そのリストから学びました。
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どうぞ私たちが日々の生活の中で様々な判断を迫られる時、あるいは心に憂いを覚える時、これらの
御言葉に心を寄せながら、あなたからの平安を
体験し、またどうかこの世の中であなたの平和を実現していく、そのようなお互いであり、
教会でありますように。 そのような思い、またこれからの我々の歩みをあなたに委ねて、私たちの救い主、
主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。 それではしばらく
黙祷してですね、1分ほど祈りの中で御言葉に応える時間を持ちましょう。
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