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2019-07-14 34:47

2019/07/14:神に祝福された人生の法則21(5)種まきの法則

 2019/07/14 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ガラテヤ人への手紙 6:7-9

00:00
改めて皆さん、おはようございます。
今日も雨だったり、雲だりしますけれども、礼拝にようこそいらっしゃいました。
では、席の前に隣の方と挨拶をしましょうか。
よくいらっしゃいました。おはようございます。
ありがとうございました。お祈りします。
自分の肉のためにまく者は、肉から滅びを刈り取り、
貴様のためにまく者は、貴様から永遠の命を刈り取るのです。
主よ、御言葉を通りに、貴様のために、主のために、種まきをする者としてください。
そのための今日の御言葉が、私たちの心の板に深く刻み込まれ、
そしてその御言葉が命となり、希望となり、恵みとなって、
主の御言葉によって生かされて、主の足跡をついていく、従っていく、我らとなりますように。
子供も大人も、主の御声を聞くこの朝となりますように。
聖霊様どうぞ、あなたが悟りと知恵と恵みをお与え下さいますように。
イエス様の御願によってお祈り致します。
アーメン。
今日は、神に祝福される人生の法則21の5回目になります。
種まきの法則、種まきの法則です。
皆さんどうかで、お家のベランダとか、あるいはお庭とか、あるいはどうか畑を刈りて、
種をまいたことありますよね、皆さん。
玉ねぎとか、きゅうりとか、トマトとか、いろんなものを、皆さん栽培して、食べたりあげたりしていらっしゃるみたいですけどね。
土曜日の朝、その恵みにあずかって、きゅうりを食べたことがあったりしますけれども、
よく考えたら、皆さん、種は本当に小さいです。
大きい種もあるかもしれませんが、大体の種は1ミリ、2ミリくらい小さいんですよ。
でも、その小さい種の中から葉っぱが出て、
03:01
そこからトマトやら、きゅうりやら、いろんな野菜、あるいは果物がですね、
しかも1個だけじゃなくて、もう何十個、何百個もね、その小さい種からすべて始まるんですよ。
よく考えたら、不思議なことではないんですか、皆さん。不思議なんです。
あの小さい種の中に、こんなにもすごいものが入っているんですね。
この前、多分何週間前だと思うんですけど、
後ろの西ちゃんがね、ひとんよく出会いに来て、何か良いことがあったのを言ったら、
なんか種を植えてお花が咲いた、だったんですよね。
それで嬉しくね、嬉しい顔をしていましたけれども、
そういうお花とかですね、そんなものが、あの小さい種の中に何もないのに、
そこから不思議なようにね、お花とか実がなるんです。
種の中には、命の神秘が、あるいは成長する神秘が、あるいは祈る神秘が、命が含まれているんですね。
すごい命の可能性が入っていると思うんです。
ところが皆さん、植物の種がそうであるように、
これを信仰の種、あるいは祈りの種、あるいは福音伝道の種、あるいは二言葉の種にも、
私たちの考えを遥かに超える素晴らしい神の力が、神の神秘がそこに含まれている、入っているということなんです。
今日はその種まきの法則についてお話したいと思いますけれども、
その1、まず種をまいてください。
実はそれが大事なんです。
そこから畑を借りて、あるいは種をね、いい種をね、高い種を買ったとしても、
種をまかないと何も始まらないんです。
何にもまいていないなら、何にも得ることはできない。
しかし、まくと、まいたら何かが出てくるんですよ。
実が出てくるんです。
今日、例の種まきの話ですけれども、
まず第一は、種をまきましょう。
まず、種をまくことです。
まかないと実がならない。
06:01
しかし、種をまいたら、実を結ぼうと言います。
祈りの種を、福音の種を、みなさん、まいてください。
失望せずに、実が覚えてくださることを洗礼して、まき続けてください。
例えば、今年のね、さすまいとかきゅうりとか野菜、
でも、今年は実が小さかったり臭かったりしたら、
その翌年、もう一度やればいいんですよね。
できなかったら、その翌年またまけばいいんです。
祈りの種、福音の種も同じではないでしょうか。
祈りという種をまく人が、祈りの種から出てくるすごい実を味わうことができるんです。
当たり前なんですよね。
祈りの種をまいてますか、みなさん。
おうちに野菜の種をまいて、大事に大事に栽培して食べていらっしゃいますか。
それはいいことですよ。
礼のために、祈りの種を、神様は私たちの祈りを必ず築き入れてくださるからです。
神の心という畑、私たちの心という畑に、いや、生活のその生活、それがもう畑自体なんですね。
そこに祈りの種をまいて、まいて、まいて、またまいて。
それは、私たちの努力によって実が成るわけではないんです。
主を信頼するから、主が我々の祈りを聞いてくださって、そこから実を結ばせてくださるからです。
実を結ばせてくださるのは誰でしょう。神様です。
だから、祈りの種を、また福音の種も同じですね。
皆さんが今まで誰かに福音禅像の種をまいたんでしょうか。
後から、あるいはすぐに、あるいは何年、後、いつなのかわからないんですけど、
主はそれを見ていてくださる。覚えていてくださる。
その種をまいた人の労苦を、その福音の種を、そのまかれた人の魂の畑を、
全てを主は見ていてくださって、覚えていてくださる。
皆さん、これも同じですね。
09:00
福音の種をまいた人が、その福音の種の実を、魂の救いの、修学の喜びを味わえる特権は、その人にだけあるんです。
わからない人は、わからないんです。本当にそのとおりです。
まく人だけが、その味を味わえる。
とにかく、まけばいいんですよ、皆さん。
複雑に考えることは、必要じゃないでしょう。
もう、あれこれ、複雑に考えること、こんな、あの人のこと、あれだ、これだ、複雑に考えることではなくも、
子供のように、純粋に話せばいいんです。
ある巨大はね、ここにいらっしゃいますけど、道祖から抜いて、赤んじょこばされ、していらっしゃるそうですね。
まけばいいんです。福音の種には、命があるから。
死を信頼して、まきましょう。
その人が聞いてくれかどうか、それは神様の領域だからね。
神様にお任せして、まかないと何も始まらないんですね。
でも、間にから、何かが必ず起こるんです。
福音の種は決して、無駄になることは、決してないんです。
必ず、身を結びます。
一つお証しをしたいと思います。
皆さんにもぜひですね、一緒に喜んでいただきたい、うれしいお話ですけれども、
一人の魂が神様のもとに、大体で十二、三年ぶりに、死のもとに帰ってきたお証しなんです。
お話なんです。
私と関わりがある話ですが、今から大体十二、三年前の話だと思うんですが、
私が富山の富山の教会で奉仕をしているときに、
富山にいる日本人の全部のために、日本語礼拝部という部署の奉仕を、牧師としてね、しておりました。
そのときに、九州の福岡市の下にある大武蔵という市がありますけれど、
そこから日本の大学を卒業して、そしてもう韓国が大好きで、言葉を勉強したくてですね、
わざと富山に高官留学みたいに来ていた有留美久美さんという姉妹が、二十代の女の子がいました。
周りに、日本語礼拝部に来ている日本人の留学生が結構いましたから、
誘われて、韓国を習いに、また交わりに、友達を作りに、礼拝部に来始めて、
12:10
そして素直に政策の学びをして、ごとに餌も知るようになって、信じるようになって、専念を受けたんですね。
それで、信仰生活を一緒にして、その後、我が家が日本に来るより2年前か、先に九州の実家に戻ったんですね。
しばらく教会に行っていましたけれども、戻ったら家族はみんなノンクリスチャンで、周りにクリスチャンの友達は誰もいない。
それで、徐々に徐々に教会から離れるようになってしまったんですね。
そのうちに、韓国の男性と結婚もしましたけれども、残念ながらその旦那さんもノンクリスチャンの人でしたから、教会から遠く離れていていたんですよ。
でも、私はフェイスブックとかいろいろ、たまにでも彼女ことをずっと祈って心に留めていたわけですから、
あえて日本語の質問を彼女に言ったり、韓国語がとても流暢だから、そういうふうにもう少しずつコンタクトを取っていって、
また、私の後輩で、今、富山の西洋の教会で日本語を担当している高塾井博士も関わってくれて、そんなふうにしていたところ、ある不思議なきっかけが一つありました。
10年以上、教会から離れていた彼女が、YouTubeにCGAのテレビという、韓国で大きい教会がクリスチャン放送を流しているんですね。
ケーブルテレビもありましたが、YouTubeにも動画があって、そこに、韓国の有名なクリスチャン女優さんのお話のトークショーみたいなものが流れていて、
彼女はそれがクリスチャン系なのか知らずにそれを見ていたそうです。ところが、シネラというクリスチャンの女優さんですけれど、とても真実なクリスチャンですね。
彼女が信仰の話、いろんなそういう話を言っていて、そしてその有留さんがそれを聞いているうちに、もう涙が洪水みたいに止まらないほどものすごく涙をしていて、
そのうちに、まるで神様が私のもとに帰ってきなさい、みたいなね、そういう心になって、
ああ、あの10年前、あの武山で神様に出会って信仰を持って、みんなが温かく迎え入れて、私をこう愛してくれたあの時の人々、そして自分が信じて、もう信念を受けたあの神様のことが、もうそれが思い浮かんで複雑な感情になって、もう涙が止まらなくなった。
15:05
それで、今武山にいる光月、私の後輩の牧師に連絡が行ってですね、教会に帰りたいと、紹介してもらえませんか。
で、大向かに、私も知り合いの先生ですけれど、パプテス教会の村という先生ですが、その教会に導かれて、今教会にもう復帰できた、12、3年ぶり。
で、彼女はこういうメールを送ってくれました。
神様と離れてしまっている自分に、神様は私を見つけないでくださったという感謝と申し訳ない気持ち、いろんな感情がこみ上げて、涙が止まりませんでした。
昔、流行っていた西洋の教会が来て、あの時、私を引くして温かく迎えてくれた日本語レイヤー部の方々の温かさ、教会に戻りたいです。
そういうような連絡が来たんですけれども、それでね、12、3年ぶりに首脳元に帰ってきて、
今回、西洋の教会の大学生たちさんが九州に二百何十人、二十何教会に短期選挙に行っているうちに、
その教会にも行って、一昨日、一緒に写真撮って、彼女がそこに座っていて、後ろに両端に立っていた、こんどさんの後ろに止まっていた、西洋ちゃんも一緒に来て、とてもうれしかったんですね。
みなさん、神様が言っておられます。私たちが誰かの福音のために福音の種をまいたら、主はすべてを知っておられ、教会から離れた魂も主が返してくださる。
主のもとに戻らせてくださるんですね。ですからみなさん、失望せずに福音の種をまきつけてください。そうすれば身を結び、その身の祝福の恵みを味わうことができるんです。
種まき法則の2番ですが、良い種を良い地にまいてください。良い種を良い畑にまくことですね。みなさん、畑に種をまいても、不思議に同じ種ですが、ある畑では良い実を結びますけれども、ある畑ではなかなか実を結ばない場合もあります。
種をまくはまきますけれども、死んだ種、朽ちた種をまいたら、そこから何も期待できないですよね。元気な種をまくことが大事です。信仰の種も同じではないでしょうか、みなさん。
18:08
まず、良い種を元気な信仰の種をまくことが大事です。祈りの種も福音の種も御言葉の種も愛の種も、私たちが失望せずに真実に良い種をまいたら、神様は必ず良い収穫ができるようにしてくださるんですね。
第一コリント3の6節に、こういう言葉があります。私が植えて、アポロが水をほそぎました。しかし、成長させたのは、何でしょう、神です。成長させたのは神。成長させるのは神様なんですね。だから、私たちは元気な種を、良い種をまけばいいんです。
では、元気な種は、例的に元気な種は何なんでしょうか。今日の聖書、歌書、もう一度一緒に読みますね。ガラテア6章7節から9節。ちょっと長いですけれども、声を合わせて一緒に読みましょうか、みなさん。
ガラテア人への手紙6章7節から9節。前の画面もあるような聖書、どれでもいいですので、声を合わせて一緒に読みますね、7節から。
神様から滅びを借り取り、御霊のために蒔く者は御霊から永遠の命を借り取るのです。善を行うのに相手はいけません。失望せずにいれば、危機がして借り取ることになります。アメン。
みなさん、本当にこの通りなんです。
先行的に、例的に元気な種は何でしょうか。8節に書かれているように、御霊のために蒔かれる種ですね。逆の方は、自分の肉のために蒔かれるその種なんです。
いわゆる自己満足とか貪欲とか虚栄、あるいは偽り、あるいは汚れなどなど、そういった動機がある種は、それが信仰のためだとしても、それが祈りだとしても、
その出発の動機が良くない種であれば、神様は実らせていく。しかし御霊のために蒔く者、御霊のために蒔かれた種は、主が喜ばれる種ですね。
21:17
主に喜ばれる種であって、神様が必死で御霊さんみたいな神様でも、それを一生懸命に働いて下さって、身を結ばせて下さい。御霊のために祈りをして下さい。御霊のために福音伝道に関わって下さい。御霊のために奉仕をして下さい。御霊のために伝道をして下さい。
人とあるの言葉にあるように、生きるにしても死のため、死ぬにしても死のため。そういうふうに生きていきながら、蒔く種は御霊のための種なんですね。
その筋は、元気な種であっても、良い地に蒔くことが大事ですね。
御霊様の種蒔きの例え話、皆さんご存知でしょう。ちょっと整理をしていただきましょうか。すいませんが。
大野勲章十三章ですね。大野勲章十三章の二十三節。そのお話は十八節から始まりますけれどもね。十三章の十八節から始まっていますが、新薬聖書の二十五ページです。
ここにですね、種が蒔かれるんです。ところが、ある種は道端に、ある種は岩地に、ある種は茨の中に、ある種は良い地に蒔かれるんですね。種は一緒ですよ。
同じ種が、ある種は岩のところに、ある種は道端に、ある種は茨の中に、ある種は良い地に蒔かれてしまった。ところがどうでしょうか。良い地に蒔かれた種からどんなことが起こるんでしょうか。
二十三節。聖書をお持ちの方は一緒に読みましょうかね。二十三節。ところが、良い地に蒔かれるとは、御言葉を聞いて、それを悟る人のことで、その人は本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。
24:12
もう、イエス様がですね、わかりやすく説明してくださいました。良い地は何でしょうか。御言葉を聞いて、それを悟る人のことです。私たちの心なんです。私たちの心が良い畑、良い地でなければならないんですね。
もしも私たちの心が岩地であったり、道端であったり、茨であったりしたらどうなりますか。実を結びます。実を結びます。三十倍のところか、枯れて死んでしまいます。カラスにね、食われてしまいます。
良い地は御言葉を聞いて、それを悟る人のことです。そしてその人は本当に実を結び、また言えば教祖した方ですね、本当に実を結ぶ。大事なのは良い御言葉が語られました。そしたら私たちの霊のこの畑が良い地であることなんです。
素直に聞いて、素直に応答して、素直に従うことを悟る人のこと、それが良い地である。そこから百倍、六十倍、三十倍の実があるわけです。
振り返り考えてみました。私たちは宗会ごとに宗の御言葉が、この神の御言葉が私たちの心という畑に、地に巻かれてきました。
例えば、五十年間信仰生活をしたとしましょう。算数的ですけれども、五十年間としたら、一年五十二回の礼拝に出席して御言葉を聞いたならば、二千五百回の御言葉の種が、二千五百回巻かれたわけなんですよ、私たちの心。
そうしたならば、実を結ぶはずなんですよ。実を結ぶはずなんですよ。野菜の種もいくら畑が悪くても、二、三回繰り返したら、巻いたら、実を結ぶんじゃないでしょう。信仰的にも同じく適応できるのではないかなと思います。
なぜなら、宗の御言葉には力があり、実を結ばせる命があるんです。可能性があるんです。百倍も、六十倍も、三十倍も、実を結ばせる力が、宗の御言葉の種の中にある。
27:13
ですから、私たちが本当に謙遜な心や、悟る心、柔らかい心、本当にしたい求める心を持って聞いておれば、どうなりますか。本当に実を結びます。
実を結ばないはずがありません。なぜでしょうか。御言葉がその人の心の中に入ったならば、必ず働かれて、実を結ばせる力が、神の御言葉にあるから。神の約束だからなんですね。
しかし、もし実を結べない、なかなか実を結びにくい、なかなか実がならない、あるいは清掃しない、葉っぱは出るんだけれども、葉っぱは付けているんだけれども、実がない、あるいは実がなっているとしても、全部小さくて腐った実しか実らないならば、問題は一つだけだと思うんですね。
神の御言葉には問題はありません。そしたら結局、私たちの心の畑、そこが問題があるんじゃないでしょうか。
御言葉が浸透して生きにくいんです。生いて生きにくいんです。根を張るのが難しいんです。なぜですか。
岩地みたいだから。道端みたいに硬いから。あれもちろんね、雑草はね、シメントもアスファルトもそれも破って出てきますけれどもね。
もしも私たちの心が岩地であったり、道端であったり、岩田みたいであったりしたら、硬くて心配が多くて、高慢だったり汚れだったりしたら、いくら神の御言葉が素晴らしくてまかれても、実を結ばない。実を結ばないということなんですね。
覚えましょう。いい種は、いい畑にまかれた時に、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ。種まきの法則3番目。実を結ぶまで忍耐してください。耐え占うことです。
種まきの話をたくさんして、ひょっとしたら今日皆さんのところに行って、種を買うんじゃないでしょうかね。種を買わなくて、信仰の種をまけましょう。これを例えですよ。畑にきゅうりを食べたくて、きゅうりの種を買ってまいたとしましょう。
30:11
今日、まけました。それで明日、朝、早朝に行ってみたら、何も出てきていない。もうこれは悪い種だ。畑を全部捕捉して、種をほぐしている人はいません。そんな毛布はいないんです。種をまいたら、実を結ぶまで待つことが大事。
日本のことわざにも、桃くり三年、柿八年みたいなことわざがあるように、待つことが大事なんです。手入れしながら、水やりをしながら、雑草を抜いたり、時には桃の葉をかけたりするように、一人の魂が救われるために。
福音の種から実が成るまでには、祈って、祈って待つこと。愛を施して待つこと。天の下では何事にも定まった時期があり、すべての営みには時があるという御言葉がありますね。
天の下では何事にも定まった時期があり、すべての営みには時があるという御言葉がありますね。
巻く時があり、雑草を抜く時があり、待つ時があり、刈り取る時があるのです。
でも、はじめは、はじめはどこから始まりますか?種を巻くことから始まります。種を巻いたものだけに、刈り取る時を待つ至福が与えられるのです。
何も巻いていないように、ずっと待っても、百年待っても、何にも実らないのですよ。信仰の種も福音の種も聖書の種も巻いて、手入れして、祈って待つことが大事です。
皆さん、福音の種を巻きましたか?そしたら、実が成るまで、刈り取れるまで、祈りつつ待っていて下さい。絶えしのんで下さい。
種を巻きの時があり、刈り取りの時があります。
でも、待っている時間はですね、決して無駄な時間ではないのです。無意味な時間ではない。
神様が一生懸命に働いて下さい。先を貸したような、あの国さんのように、いろんな人を通して神様を関わらせて下さい。
33:05
彼女にはですね、旦那さんの実家が釜山だから、年に何回も釜山に行くんですね。子供、小5年生、6年生の息子もいますけど、いろいろ教育のために釜山に行って何ヶ月、他に何ヶ月、みたいに行ったりするたびに、
何か昔の国さんに偶然出会ったり、何かが起きたんですって、不思議だと思うんですよね。
神様が私たちが見えないところで、考えていないところ、寝ているところですわ、働いて下さい。
だから、種に期待しつつ待ち望む者は、必ず身を豊かに結びます。種が結ばせて下さい。
今日のお見事だと旧説に、禅を行うのに相手はいけません。その次大事ですね。失望せずにいれば、時期が来て、狩り取ることになります。失望せずにいれば、時期が来て、狩り取ることになります。
皆さん、祈りの種を、福音の種を、愛の種を、蒔いて下さい。あの魂のために、この魂のために、祈りの種を蒔いて下さい。御言葉の種を蒔いて下さい。福音の種を蒔いて下さい。蒔かないと何も始まらない。
しかし、蒔いたら必ず種が身を結ばせると信じて、蒔き続けて参りましょう。種を信頼しましょう。お祈りしましょう。
34:47

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