1. 名谷教会
  2. 2013/07/07:聖日礼拝(旧音源)
2013-07-07 46:22

2013/07/07:聖日礼拝(旧音源)

2013/07/07 聖日礼拝(旧音源)




00:00
アーメン
レッスンに入る前に、お互いに握手しながら挨拶をしたいと思います。よろしくお願いいたします。
では一言お祈りをいたします。
めぐみ深い天の父の神様、新しい一月よ、私たちに新しい命よ、新しいめぐみを与えてくださっていることを、大きな心から感謝いたします。
どうかしよう、今から神様が語ってくださる御言葉に耳を傾けます。
どうぞ一人一人に、礼の中に神様が御言葉を持ってお語りください。
安らかになってくださいますように、お願いいたします。
二転二段に感謝して、イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン
今日はお子供の手紙第11章23から26節を中心にして、生産式の意味について御言葉から教えていただきたいと願っております。
月2回生産式を今行っているせいですから、その意味を正しくそして深く教えていただいて、そしてその生産に扱いたいと、そう願っております。
今日の聖書歌詞の23節のところをもう一度私がお読みいたします。
私は主から受けたことをあなた方に伝えたのです。すなわち主イエスは渡されるよ。パンを取り感謝を捧げていのし、それを先こう言われました。とあげます。
生産式のときにはパンと、それも大きな一個じゃなくて一匹ですけれどもパンと、それからぶどう汁をいただきます。しかもその杯も小さいものですが、
03:22
一見すれば単なるパンと汁、そしてぶどう汁、一杯飲むわけではありません。私たちは霊的な目、そして信仰の目をもってその生産の意味を深く知らなければなりません。
今日もメッセージにおいて三つの単語を覚えていただきました。それは一、信じるということです。信じる。二番目は告白する。告白する。三番目は確認することです。
信じる。告白する。確認する。この三つの動詞ですけれども、これをするときがこの生産式です。
今日簡単に六つをお話したいと思います。どんな意味があるのか。まず第一名、生産式は、この生産は皆さん、食べる福音です。食べる福音。食べ、飲む福音です。どういう意味なのか。
普段ですね、今もこの説教のときですが、それはメッセージを聞くわけではありません。聞くわけではありません。ですから聞く福音と言えるでしょう。
しかし皆さん、この生産式は、その生産そのものが家様のメッセージなんです。パンを焼き、杯をいただくそのものが福音のメッセージなんです。家様のメッセージです。
弟子たちもですね、家様と木曜日の夜、初めてパンを焼いて、そしてぶどう汁をいただいたわけですから、世界中で初めての生産式なんですね。ですから、家様はこれを行いながら、これを記念しなさいとおっしゃっている。
ですからですね、弟子たちはパンを焼いていただき、そしてぶどう汁をいただきながら、とても印象深く、インパクトが強かったと思うんですね。
06:01
家様は福音を見たらですね、なんと言うんでしょうか、立物教育の専門家なんですね。鳥があるときは、ほら、鳥を見なさいとか、桃、お花を見なさいとか、よく周りにあるものを持ってイメージをさせて、メッセージを記さえられた。
そうするとよく覚えられるんじゃないですか。覚えやすいんです。家様はこの家様の十字架で咲かれた、この家様の肉、そして流された血潮のその意味を、当時のユダヤ人が毎日毎食食べていた、まるでですね、なんと言うんですか、
インドの料理の中でナンがありますよね。同じそんなもののパンですね。それをちぎっていただく。そしてぶどう汁を、彼らは毎食それを食べているわけなんです。
身近なもの、親密なものなんですね。よくわかる。それを用いて、死は十字架の意味と、人、復活の意味をイメージ的に教えられる。
ですから皆さん、この生産はただの観念や理論では、理屈ではないんです。目で見て、手で触って、そして食べる、飲む、そこにメッセージが含まれているわけなんです。どういう意味でしょうか。
生産は、生産室は、まずはイエス様の十字架の死を記念することです。しかし、その死でイエス様が十字架で亡くなられて、それで終わりではないんですね。
そうしたら、キリスト教は十字架でイエス様が十字架で死なれて、それで終わりであれば、キリスト教は規模がない。お葬式の宗教になったかもしれません。でも、それではないんですね。
イエス様はその死を打ち破られて、蘇られたわけなんです。ですから、この生産室は不思議な二重構造を持っているわけです。死、それから命。まさにイエス様は、弟子たちとこの生産の時をもたれた後、簡単に言えば十字架で死ぬために行かれたわけなんです。
死に行きました。死に向かって行かれました。でも、その道は、イエス・キリストを信じる者には命が与えられる道なんですね。イエス様が死に行かれましたけれども、命が与えられる。この死と命が含まれている。これが生産室なんです。
09:24
つまり、イエス様が亡くなられた結果として、その死が私たちにもたらしたものは、すべてのこの死を打ち破った火球が、この生産に預かる私たちに与えられる。それが生産の素晴らしいメッセージであり、恵みなんです。
ですから、イエス様の肉を記念するパンをいただき、イエス様の血潮を記念する杯をいただくことを通して、イエス様がすべての罪を許して、死を打ち破って、闇を打ち破って、
そしてすべてのものに与えられる、すべての救いによる祝福と恵みを、私たちがいただく、食べる、飲む、血縛る祭りなんです。
ですから、生産に私たちが預かるたびに、罪許しの喜びと、また、そこにはすべての恵みが注がれているという平安と楽しみが、この中にあるわけです。
2番目に移りましょう。生産史には、神様の計り知れない愛がこもっているわけなんです。
みなさん、よくご存知の、ヨハネの三書十六説を、覚えていらっしゃる方は覚えていただいて、また、覚えていない方でも結構ですので、清書をいただきましょうか。
ヨハネの福音書第三書十六説です。では、ご一緒に、3、
神は実にその一人子をお与えになったほどに、要愛された。それは、御子を信じる者が、一人として滅びるなく、永遠の命を持つためである。
アーメン。ここにね、要愛された。
みなさん、神様の愛は、口先だけでの愛ではないんですよね。ただ、言葉で終わっちゃう愛ではないんです。
12:10
一人子なる、イエス・キリスト、この地にお送りになって、死なせて、そして、私たちに愛を確認させて下さい。
その愛を、私たちは、聖さんのファンと、杯をいただくことを通して、その愛を確認するわけなんです。
その愛を信じる。死の愛は、神様の愛は、変わることがない。それを信じる。
自分には、神様の素晴らしい愛が、もう既に与えられている。それを信じる。
そして、自分は、神様に愛されていると、告白する。
そして、ファンをいただき、杯をいただく度に、それを確認する。それが、聖三式の意味なんです。
ですから、皆さん、今日も聖三式が持たれますけれども、ファンをいただくときに、杯をいただくときに、
神様の、はかり知れない、その愛。
新世界にありますよね。大空を神として、海を住みとして、もうその愛を貸し尽くせない。
その愛を、ファンをいただくときに、杯をいただくときに、感謝をする。
そして、その愛を宣言して、告白して、確認する。それが、聖三の時なんです。
その愛を、私たちは、神様からいただいている。
自分がどんなものであろうが、救われた者に対する、神様の愛は、変わることがありますか、ないですか。
変わることは、絶対ありません。
信仰、告白して、救われた者は、神様は、見捨てることも、離れることもない。
その愛を確認する。
死を感謝します。
私はこんなものですけども、あなたの、私に対するあなたの愛は、変わることがないんですよね。
死を感謝します。
それを確認するときが、聖三式なんです。
では今度は、愛をいただいた者として、その愛を、私たちも、与えるものでありたいです。
15:04
愛をいただいて、自分ばかりで、ためたためておくんじゃなくて、その愛を与える、流す人でありたいと、そう願っております。
まずは皆さん、クリスチャンとして、特に家族に、皆さんのご家族に、目に見える家族に、神様からいただいた愛を与えて下さい。流して下さい。
そんなクリスチャンはいらっしゃらないんですけれども、祈りも熱心にして、教会の奉仕も熱心にするんだけれども、家族をほたらかす。
それは健康な、健全なクリスチャンのライフではありません。
まずは、目に見えるご両親やご家族や奥さんや、あるいはご主人様とか、あるいはお子様に、愛をあらわせて、愛を与えて下さい。
まずは、家族を大切にしていただきたい。また、愛を、あなたから愛を与えて下さい。
まず、私から聞かれて下さい。まず、私から伝わって下さい。
神様が、こんな私たちですけれども、主は惜しみなく、イエス・キリストを渡して下さったんですね。
それは、私たちが本当に立派なものだから、立派なクリスチャンだから、与えしのものだから、イエス・キリストを与えられたわけではないんですね。
愛するから、愛するがゆえに与えて下さい。条件がついていないんです。条件がついていない。
その愛をいただいたものとして、私たちもその愛を、まずは家族、また、教会の兄弟姉妹たちに、愛を与える、長く渡させてやりたいと、そう願っています。
そこまで行くことが、この聖三式の意味なんです。
三つ目に行きます。三つ目は、聖三式は、
創世記第三章に書かれている、アダムとエヴァによる人間の堕落、その罪による呪い、それがもう終わったことを信じて、そして告白して、それを確認する、それが聖三の恵みなんです。
18:09
皆さん、なぜ人間が不幸なんでしょうか。なぜ呪いがあるんでしょうか。なぜ戦争や堕落があるんでしょうか。さまざまな凶悪な犯罪があるんでしょうか。
その罪はどこから、いつから始まったんでしょうか。それは、この旧約聖書、創世記第三章におけるアダムとエヴァの堕落から、すべての人類の罪はそこから始まったわけなんですね。
それが今まで名えているわけです。苦しみや、病の苦しみ、暴力、殺人、あるいは性的な堕落、戦争等々、すべての罪悪はこの創世記第三章から始まったわけですが、
しかし、聖三に預かる時に、イエス・キリストの恵みによって救われた私たちは、そのこの創世記第三章のこの罪による呪いがもう終わった。
それをイエス・キリストの十字架の死、そしてよみがえりの勝利を通して、もう呪いは終わったと、神は来た。もう私には及んでいない。
それを信じる、告発する、敵にする時が聖三の恵みなんです。
聖書一箇所ですね。一緒にお読みいただきたいと思います。
新約聖書の中に、ガラテア書第三章十三節です。新約聖書三百六十六ページです。
ガラテア第三章十三節、カラディア書三章十三章です。
では、ご一緒にお読みしましょう。
三、キリストは私たちのために呪われたものとなって、私たちを立法の呪いからあがないだして下さいました。
なぜなら、火にかけられるものは、すべての呪われたものであると書いてあるからです。
この御言葉を信じることです。この御言葉を確認する、告白する。
皆さん、よく覚えていて下さい。
救われたものは、すべての呪いから解放されました。
21:05
どんな呪いも、私たちを縛ることはありません。
御言葉を信じて下さい。
キリストは私たちのために呪われたものとなって、立法の呪いからあがないだして下さいました。
と、過去官僚権も下さいました。
主が宣言して下さいました。
ですから皆さん、市民、あるいは生産に預かるときに、このように告白して宣言して下さい。
私はすべての罪から解放された。
私はすべての呪いから、災いから解放された。
私はすべての苦しみ、不幸から解放された。
私はすべての病から解放された。
それが生産の恵みなんです。
もう一箇所見てみましょう。
ローマ人への手紙、第8章、1節、2節です。
このローマ人への手紙、第8章は、私たちクリチャンに、イエス様を信じて救われたものに、どんなに素晴らしい福が与えられているのか、その信仰の宣言文なんですね。
300ページです。
ですから、信仰に対する疑いが少しでも思い出したり、諸さんの訴えられたり、そんなことがあるときには、このローマ8章を読みながら宣言して下さい。
確信を持っていただきたいんですね。
では、8章の1節、2節を一緒に読みたいと思います。よろしいですか。
こういうわけで、今は、キリストイエスにあるものが、罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリストイエスにある命の御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。アーメン。
みなさん、アーメンですか。
信じましょう。
確信を持ってください。
罪に定められることは決してありません。
どんな呪いも、私たちを害することはありません。
解放されました。
ですから、すべての先祖からの罪とか呪いとか、あるいは親からの呪いとか罪とかですね、あるいは自分の昔の罪の呪いとか、
24:03
そういったものは、私たちが救われた時に、もうすべてが断ち切られました。
何の関係もありません。
ここには、何の疑いも持ってはならない。
これを疑うということはですね、キリストの十字架の救いの力を疑うことになるでしょう。
しかし、ソタンは、悪魔は、私たちを訴えるんです。
何か突っ込んだ罪を犯ったり、過ちをした時に、悪魔は、ソタンはですね、
お前、そんなお前がクリストなの?と、そういうふうに訴えるんです。
千年受けたものなのか?本当に救われたものなのか?
今後あなた、死んでも天国に行ける自信がある?と、そういうふうにですね、ソタンは訴えに来るんです。
それを、ヨハネの目白十二章十節には、私たちにこのように教えています。
このところをですね、とても重要な箇所ですので、一緒にお見かけしたいと思います。
新約聖人の最後のところですね、ヨハネの目白十二章十節。
ヨハネの目白十二章十節です。
新約聖書四百八十九ページです。
十節ですよ。
一緒に、三杯。
その時、私は、天で大きな声が、こういうのを聞いた。
今や、私たちの神の救いと、力と国と、また、神のキリストの権威が現れた、
私たちの兄弟たちの告発者、日や彼らを、私たちの神の御前で訴えている者が、投げ落とされたからであるため、
ここの、訴える者、告発者が、悪魔、患者。
私を訴えるんですよ。告発してしまう。
しかし、落とされてしまいました。
救われた時に、その関係はなくなったわけなんです。
それを信じる、告白する、確認する、それが聖三式なんです。
ですから皆さん、私たちが耳を傾けるべき方は、神様なんです。
私たちを訴える者に、それを聞いて、
私、本当に救われたけど、大丈夫なんだろう、とか、じゃなくて、
27:04
全ての罪から、立法の法則から、解放されましたよ、といった神様の御声に耳を傾けて、御言葉を信じる。
そして私は、解放された、癒された、何の関係もないと告白する。
それを確認する、それが聖三の恵みなんです。
四番に移りましょう。
四番、聖三式は、イエス・キリストから出てくる、全ての恵みと祝福を、
それらが全て自分に与えられている、と信じて、告白して、確認する、と。
パンをいただきますね。
今日もパンをいただきますか。
パンをいただくというのは、家様の内傷によって癒された救苦を受けることなんです。
もう一度言いますね。
家様の内傷によって、私たちは癒されたという祝福を受けることです。
杯をいただくということは、家様の流された血潮によって、全ての罪は許されたという祝福を受けること。
癒された、祝福された、それはもう既に神に与えられているという意味なんですね。
ですから、パンをいただく、杯をいただくたびに、霊の祝福も肉の祝福も与えられている私のものである、
それを信じ、それを告白する、それを確認する、それが霊さんの恵みなんです。
ですから皆さん、例えば私たちは、皆さんがクリスタルになってから、悪いことをしたことをしましょう。
あるいは本当にひどい罪を犯したことをしましょう。
それを神様の御前に、本当に心から悔いを改めましょう。
そうしたらこの罪は許されないと信じること、それが信仰なんです。
10年前悔いを改めた罪をまた今日も悔いを改めて、来年もまた悔いを改めて、10年後また悔いを改めて、亡くなるまで悔いを改めることは、神様の罪許しの恵みを疑うことなんです。
30:13
そう、悔いを改めたら神様が、君、私は許したよ。何でまた悔いを改めるの?私の許しを疑っているの?という意味になってしまいます。
ですから皆さん、心から悔いを改めたとします。そうすると安心していいんです。感謝していいんです。
罪、許されました。それが恵みなんです。ですから自由であっていただきたい。
皆さん、私たち人間はですね、例えば誰かの悪いことを、その人が私にお詫びしたとしましょう。
で、忘れようと忘れようとしても、なかなか忘れられないんですね。人間はそうなんですよ。
しかし神様には忘れることができることがない。先祖の御言葉に覚えることがないとおっしゃる。
そうしたら神様にはそれができるんです。もう覚えていません。安心してください。自由であっていただきたい。
そも、罪疾患、罪悪感というものは神様から来たものではありません。それは私たちを訴えに来る悪魔から来るものです。
罪、十年前、二十年前、キリストの悪魔にこんな罪を、ひどい罪を犯したろう。大丈夫なのかと訴えに来るんです。
しかし神様は許された。あなたは私の子だ。大丈夫と宣言してくださるんですよ。
どっちの声を聞くべきでしょうか、皆さん。神様の声を聞くべきなんです。
ある先祖ですね、ある兄弟と会ってお話をしたことがあります。彼はアメリカで救われたんですけれども、27か28歳のうちに救われました。
アメリカに10年ほどいたみたいですけれども、本当にここでは言えない、本当にひどい罪を、男性としての罪をやってきました。
そんな彼が、神様を信じて救われたんですね。しかも信学者になりました。
でも、たまに昔の罪を自分が許したんだけれども、本当に許していただいたのか、こんなものが牧師になれるのか、そういう疑いの声がたまに湧いてくるんです。
33:23
それでなかなか自信がない。何か恐れているような。
それで私に、ユン先生に相談していただけますか、お話をさせていただくときに、今日のこのお話をさせていただきました。
何だ、神様に悔いがらせたならば大丈夫です。安心しないでください。自分自身に自信を持ってください。
神様は覚えていません。訴える者は神様ではなく、サタンの悪しき者だから、安心して二度と同じ罪を犯さないように、強みの道を歩んでいけばいいんです、と相談したことがありますけれども、
皆さん、もしも、皆さんの昔の過去からの罪とか、そういったものから、少しでも縛られている人がいらっしゃるでしょうか。悔いを払った。死は許してください。
ですから、ある意味ですね、神様の御前で救われた畑は、厚かましい態度をとってもいいと。
次に行きましょう。5番目です。
聖三式は、イエス様のパント、杯に預かる、私たちみんながキリストにあって一つであること、キリストにあって一つであるということを告白する、確認するときです。
いわば、正の体制を確かめて、固めて、告白する。それがこの聖三式なんです。
皆さん、私たちは聖にあってみんな一つです。弱い人も、強い人も、能力の多い人も、少ない人も、青年も、老人も、貧しい人も、金持ちも、健康な人も、健康じゃない人も、信仰の優れた人も、初心者も、すべては聖にあって一つである。
そして、みんながお互いを必要としている、それが聖三の恵みなんです。
36:03
これにときての手紙第1徳教17節にこういう書き方が書かれています。
まず読みますね。
パンは一つですから、私たちは多数であっても一つのパン。それは皆の者が共に一つのパンを食べるからです。
聖にあって私たちはみんな一つです。信仰も一つ、宗も一つ、教会も一つです。
ですから皆さん、聖さんにあずかるたびに、私たちは信仰ってこの明太に教会の私たちは一つなんだ、という確信を持つ。
お互いに必要としているんですよ。私にとっても皆さんが必要です。お互いが必要なんです。
それを確認する、そして感謝する、それが聖三の恵みなんです。
今日、聖さんにあずかりますけれども、そのときに心からこういうふうに告白させていただきたい。
主よ、愛する兄弟姉妹でともに信仰生活をできることを感謝します。
この明太に教会の恵みの中に私たちを入れてくださって、同じ恵みにあずからせてくれるこの恵みを感謝します。
一つであることを感謝します。
自分にこの兄弟、あの姉妹があることを感謝しますと、今日の場合の恵みを確認するときでありたいと、そう願っております。
最後です。六番目ですが、聖三式の恵みを私たちがいただいて、そしてそこで終わってはなります。
今日の箇所の二十六節を一緒に読みたいと思います。二十六節です。
大気孤輪と十一卿二十六節、ではご一緒に三回。
ですから、あなた方はこのパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の火を告げきらせるのです。
アーメン。
主が来られるまで何をするんですか?
主の火を告げきらせるのです。
自分が、あなたたちが、ああ恵まれてよかった、ここで終わってはなります。
この恵みを、この祝福を、今、一から五番までお話ししました。
この恵みを携えて、この世に、世界に出て行って、この世の中に入り込んで、そこで告げきらせるまで行かなくてはならないのです。
これが聖さんの恵みなのです。
39:01
これが聖さんの本当の意味なのです。
罪許しの恵み、また癒された恵み、この恵みを、あなたたちが恵んで、教会で恵んで、独り占めしてはいけない。
全ての世の人々とも共に味わうことができるように、喜びを味わうことができるように、告げきらせる責任が、あなたたちに与えられているのです。
ですから皆さん、フリちゃんは、教会で、あるいは教会も、この世と隠れてはいけないのです。
この世界に、世に、世の中に入っていかなければなりません。
こう言えるでしょう。
今日も集まりました、皆さん。
今日、礼拝を通して、聖さんを通して恵まれました。
その恵みを携えて、職場へ、学校へ、あるいは皆さんの町へ、お家へ、使わされるわけなのです。
派遣されるわけ。
そして、その中に入って、この恵みを告げ知らせる、そこまでしなければならないのです。
一生恵まれて、今日の恵みは良かった、それで、この門を出るときに、さっぱり忘れてしまって、何も言わない、何も告げ知らせない。
それは、独り占めに過ぎます。
告げ知らせる、そこまで私たちは、しなければならないのです。
ですから、教会に来て恵まれて、そこで終わったら、それは半分の信仰に過ぎないことです。
恵みを支えて、世に出て行って、告げ知らせること。
ですから皆さん、なるべくですね、未信者のノンクリチャンのお友達をたくさん作って下さい。
チャンスをたくさん作って下さい。
ノンクリチャンの方々と、なんとかして出会うチャンスを作って下さい。
そして、彼らの心を得て、そして、救いを述べて下さい。
それをしなかったら、いつ誰に連動ができるでしょう。
ですから皆さん、教会に、あるいはお家の中だけに、ほどまっていてはならないんですよね。
もし、ボランティアの活動ができる方は、たくさんやって下さい。
それもいいことです。ノンクリチャンの人と出会って、そこで連動するチャンスを設けなければならないんですよね。
42:07
そして、あたたたちがいただいた、皆さんがいただいた罪許しの恵み、
それを、この生産地の恵みと救苦は、いただいた恵みを携えて、この世界で、この世で、告げ知らせるときに完成されるわけなんです。
告げ知らせていないと、未完成のままで終わってしまう。
メッセージを終わりたいと思います。
生産地は、食べる、福音、また、と、よみがえりの祭り、フェスティバルなんです。
そして、この生産に飽きたるたびに、神様の愛がどんなに素晴らしい愛なのか、
それを信じて、告白して、これをする。
教会の中で、あたたちは一緒になって、一人であること。
お互いに許し合う、支え合う、励まし合うこと。それが一つという意味なんです。
そして、この恵みを、この世の中に出ていって、告げ知らせる。
そのときに、生産の恵みが完成される。
お祈りします。
ではですね、今日の御言葉を覚えて、神様から示された御言葉を覚えてですね、
あるいは信じて、告白して、確認して、感謝の祈り、あるいは悔えための祈りを、
応祷の祈りを、今しばらくご一緒にですね、神様に渡りたいと思います。
その後、最後に私がお祈りいたします。
では、ご一緒にお祈りいたしましょう。
神様、あなたの恵みの心から感謝いたします。
今日も神様が私たち一人一人を、このところに私たちを集めてくださいました。
心から感謝いたします。
どうかして私たち一人一人が、どんなに神様の素晴らしい愛が私に与えられているのか、
これを覚えて感謝し、また確認するときがありますように。
救われた、罪は赦された、全ての呪いから解放された、
そして神の素晴らしい愛が私たちに与えられている、その恵みを確認するときがありますように。
我々一人一人を、あなたが強くしてくださいますように、お願いをいたします。
神の恵みを豊かに豊かに祝して与えてくださいますように、お願いをいたします。
我々一人一人を、あなたの恵みを持って豊かに祝して恵んでくださいますように、お願いをいたします。
45:03
どうぞして我々一人一人に、あなたの愛を福にして、
そして本当にこの世の中で、あなたの証として生きることができますように、
どうぞ一人一人を強めてください。
信仰を強めてください。
どうぞ一人一人豊かに祝してください。
感謝いたします。どうぞ。
アーメン。
では一言お祈りいたします。
この酒は私の血による新しい聖薬です。
これを飲むたびに私を覚えてこれを行いなさい。
アーメン。
愛する神様、私たちを罪の泥沼からあらないだして、
全ての呪いからあらないだしてくださったあなたの恵みを心から感謝いたします。
今日も清算式に預かりますが、
飯を頂き、酒を頂くたびに、
死の人、そしてよみがえりの低く恵みを覚え、
信じ、告白し、確認するときでありますように。
そしてこの恵みがかざさえて、この世の中に入り込んで、
そこで告げ知らせることができますように、
私をどうぞお一人お一人を強めてください。
感謝しています。
神様の皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
46:22

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