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2024-03-31 28:23

2024/03/31:今も、心が燃えている

2024/03/31 イースター礼拝

加藤満牧師

ルカの福音書 -35


00:01
では一言、お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
また今日は、本当に死の復活を祝うイースターの時を与えてくださって、
本当に幸いな賛美と、お手におりとともに、死の復活を今仰げている幸いを感謝をいたします。
あなたが私たち一人ひとりを憐れんでくださり、
私たちが死の痛みに、そのすべての痛みに、苦しむところを耐えられず、
その死に怒り、ご自身あの十字架に捧げてくださり、
罪と死に勝利をし、そのすべてを引き受けて十字架で死なれ、
三日目に甦ってくださいました。
死と悪魔に勝ち死と賛美をいたしましたが、
本当にそのようなことを主がなしてくださった恵みを心から賛美をいたします。
どうか主よ、今日も私たちにその恵みの豊かさを教えてください。
御言葉を通し主が語りかけてください。
そして本当に、あなたが私たち一人ひとりのために御子をも十字架に捧げ、
その捧げられた地首によって完全に罪許され、
復活の主と今共に生きているその恵みの幸いを、
本当にその豊かさを知ることができますように、
この一時を祝し導いてください。
復活というのは本当に信じがたいことですし、
また、そのようなことを聞いても、
なんだと思われる方もいらっしゃるかもしれません。
どうか聖霊様が働いてください。
あなたの真実を表してくださいますように。
そして、ここに来たくても来れない兄弟姉妹を、
家で礼拝を守っておられるお一人ひとりを、
どうか主が憐れんでください。
今日は、普段集っておられる先生方は、
他の教会でイスターの御用もなさっています。
先生方の御奉仕を主がお支えくださいますように、
お願いいたします。
また、年度末の本当に今日です。
本当に多くの感謝を祈ってくださいましたが、
私たちの群れでも、この年度の中で、
兄弟姉妹があなたのもとへと帰っていきました。
どうかその御遺族の方々に、
あなたの慰めと、またあなたの語りかけを、
お願いいたします。
これからのひと時を身手に委ねます。
御言葉を開き、私たちを導きください。
イエス様のお名前によって、お祈りをいたします。
アーメン。
改めまして皆さん、イスターおめでとうございます。
ありがとうございます。
心から復活の衆を賛美をいたします。
本当にイスターというのは、十字架で死なれた
イエス様の復活を覚える日です。
03:00
最近、巷ではよくスーパーで卵のところに
イースターフェアという名前があったりだとか、
ちょっとさっき彩名先生が教えてもらった
USJでも今日はイースターフェスティバルをやっているそうで、
だいぶそういう名前が身近になったんだなと思いながら、
ただ同時に、その意味がね、理解されたらなと思うんです。
イースターというのは、イエス様が十字架で死なれ、
しかめによみがえられた日、その復活を覚えている日です。
ただですね、最初に少しだけご一緒に考えたいのですが、
イエスは死から復活された。死人がよみがえった。
私たちは本当に信じられるでしょうか。
私はイースターの日というのが、子供の頃から教会に行っていますから、
イースターの日ってすごく好きだったんです。
イースターの日に教会に行ったら、子供用に特別なお菓子があってですね、
卵探しをやるんですよ。
そこで見つけただけ卵を食べてよくて、
私はその日は毎年4つまでならいいよと言われて、
毎回4つ卵を食べていた記憶がありますが、
ただその時に教会学校の先生が言うんです。
十字架で死なれたイエス様、僕たち私たちのために死なれたイエス様は、
3日目によみがえられたんですよと言われる。
私は子供心に、えーっと思って聞いていました。
全然信じられなかったです。
え、死者がよみがえる、何を言っているんだ。
よく聖書を読んでみたという方にお話を聞きました。
いや、聖書っていい話書いてますよねと。
でも復活は…という方が多いです。
キリスト教の中にも保守とリベラルという立場がありまして、
私は新学校、最初は保守の新学校を出て、今はリベラルの新学校で学んでいます。
リベラルの新学校でもイースターを祝うのですが、
こういう言われ方がされます。
私たちはよく、亡くなったあの人が今も私の中で生きているって表現しますよねと。
あの人の生き様が、あの人が私に与えてくれた影響が、
今も私の中に生きているって表現をしますよねと。
復活はそういうことです。
復活というのは弟子たちの心の中に起きたことであって、
イエス・キリストが実際によみがえったわけではないです。
そういうお話をされます。
皆さんどう思われるでしょうか。
なるほど、確かに。
その方が現実的で理性的ですね。
意味に納得しやすい理解だと思います。
ただですね、そうは言いながら、復活を信じないのも無理があるんです。
06:03
無理がある理由はこういうことです。
イエス様の死後、弟子たちはその教えを広めるべく活動をするんです。
その時彼らは自分たちのことをこう名乗りました。
私たちはイエス・キリストの復活の証人だって彼らは言うんです。
復活の証人だ。
そしてイエスは復活し、そのまま本当に復活し、
誠の王としてこの世界を治め始めたんだということを彼らは主張し始めるんです。
この主張というのは当時はとても危険なんです。
ユダヤ人にとっては神への冒涜です。
ローマ人にとっては皇帝への侮辱です。
だから彼ら、そんなことを主張する彼らは次々と命を落としていきます。
しかし命を落とし、命を脅かされて、なおも彼らはイエスが復活したと言い続けたんです。
死んだあの人のため、私に良くしてくれたあの人のために、
いや、死人が復活したという嘘を守るために、
自分の命や人生を本当に賭けることができるのでしょうか。
その方が不可解、その方が合理的ではないですね。
イエスは復活した。
私たちから見るならば、そう述べ続ける彼らの異常な熱と言いましょうか。
それは一体どこから来ているのか。
ただこれは私たちも経験することなんです。
何かよく分かりますか。イエス様を信じていて、何か心が燃える時ってありませんか。
何か燃える時ってある。
そして信じる前は復活という信じがたいことを、今は不思議と信じている私たちがいる。
そうでしょう。これは何なのか。
この熱は一体何なのか。
実に不思議なんです。
でも今朝は、今日お開きした聖書の箇所から、ある種その秘密について、
ご一緒に聞きたいと願っております。
さて、今朝の箇所は、この13節から読んでいただきました長い箇所を読んでいただいてありがとうございます。
今朝の箇所は、このエマ王の登場と呼ばれる箇所です。
簡単に流れを確認させていただきますと、
イエス様の二人の弟子がエルサレムという町から、
エマ王へという町のその途中の道をテクテクと歩いていたと。
13節にちょうどこの日とありますから、前の文脈から見るならば、
この日はイエス様が十字架で死なれて3日目のお昼頃かなということです。
エルサレムという町はご存知の通り、イエス様が十字架で死なれた場所ですね。
09:07
そこからやってきたこのイエス様の弟子たちは、
おそらくきっとイエス様が十字架にかかられて死なれたというその光景を遠めながらにも実際に見ていたのだと思います。
イエスが十字架で死んだ。
あ、イエス様が死なれたんだということを見ていた弟子たちかもしれません。
二人はそのことを歩きながらお話をしていました。
ああ、こんなことがあったねと。
すると不思議なことに、その会話の中に復活されたイエス様が加わってくるという話なんですね。
そして不思議なことに、この二人の弟子はそれがイエス様だと気づかないまま会話が続いていくということです。
イエス様は聞かれるんです。
あなた方が話しているその話は一体何なんですか。
そのイエス様に弟子はこう答えます。
ちょっと聖書の言葉を読みますと、19節から24節の彼らの言葉を読みします。
何を話しているんですか、19節。
ナザレジンイエス様のことです。
この方は神と民全体の前で行いにも言葉にも力ある預言者でした。
それなのに私たちの最首長たちや議員たちはこの方を死刑にするために引き渡して十字架につけてしまいました。
私たちはこの方こそイスラエルを解放する方だと望みをかけていました。
実際そればかりではありません。
そのことがあってから3日目になりますが、仲間の女たちの何人かが私たちを驚かせました。
彼女たちは朝早く墓に行きましたが、イエス様の体が見当たらず戻ってきました。
そして自分たちは見つかりたちの幻を見た彼らはイエス様が生きておられると告げたというのです。
それで仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言った通りであの方は見当たりませんでした。
キリストだと信じていたイエスは十字架で死んだ。ただ不可解なことに。
墓からイエスの遺体が消えた。
墓に行った女性はイエスは蘇ったという見つかりの声を聞いたのだという。
実に不可解でしょう。おかしなことでしょう。
けれども墓に行った女性の言葉も信じがたい。
だってそうでしょう。普通に考えて死者が蘇るわけないじゃないですか。
そんなこと現実的でも理性的でもなんでもない。
ただこの復活、それを信じられない弟子たちに向かって、まさに現実的で理性的な弟子たちに向かって、
12:10
イエス様はこのような言葉をかけました。25節26節。
ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
キリストは必ずそのような苦しみを受け、それからその栄光に入るはずだったのではありませんか?というのです。
預言者の言葉、つまりそれは神様の言葉ですけれども、その言葉がキリストについて語っていたでしょう。
キリストが栄光に入る、キリストが本当に素晴らしい技を成すためには、そこの前に苦しみがあるって聖書に書いていたでしょう。
けれども、いいことばかり聞いて嫌なことが聞けないような、そのすべてを信じられないのは、あなた方が愚かで心が鈍いからだ。
この愚かと心が鈍いという言葉、愚かというのは、これは理解が足りないという意味です。理解が足りない。
心が鈍いというのは、これは心が鈍重である、重たいという意味です。心が重たい。
つまり、神様の見技は大きいんだけども、そのあまりの大きさゆえにそれを理解しようともせずに、その大きさをつかむことができないほど心が重たい。
そういうことをイエズ様は言われる。
当然のことを言いますが、私たちは信じたいことを信じます。
いや、もっと正確に言うならば、自分が信じられることを信じます。
難しく言うならば、それは自分の理性の範囲内なら信じられるということなのかもしれません。
これは信じられそうだから信じる。
確かに、人間に与えられた理性というのは、神様が与えてくださったとても大切なものですから、それを否定しなくてもよいのです。
しかし、誤解をしてはならないのは、理性は神様が私たちに与えてくれたプレゼント、賜物であって、理性は神ではないということです。
理性は神ではない。
そして、神というお方は人間の理性よりもはるかに大きいということです。
神ですからね。
人間が作ったのではなくて、神が人間を作ったとするならば、人間の理性で神の大きさは全部はかりきれません。
神様の大きさは把握できませんけれども、それは当然できないのですが、
15:06
ただ、あまりにも私たちが現実的、ある種理性的という枠の中だけで神様を計ろうとする時に、それはあまりにも心が重い。
そう言えるのかもしれません。
あまりにも心が重たい。
復活したイエス様がこの時、弟子たちの目の前にいました。
けれども不思議なことに、弟子たちはそれに気づけません。
でも当然で言ったら当然でしょう。復活などありえないと彼ら自身が思っているからです。
目の前に主がいても気づくことができない。心が重いから。
しかし、そのようなある主、愚かで鈍いという厳しいことを言ったイエス様ですけれども、しかし彼らに対してイエス様は続けてこう言われるのですね。
27節。
それからイエスは、モーセや全ての預言者たちから始めて、自分について聖書全体に書いてあることを彼らに解き明かされたというのです。
御言葉を解き明かされた。聖書の言葉を旧約聖書から順に解き明かされた。
聖書のあの話はね、こういう話なんだよと。これはきっと楽しい時間だったのではないでしょうか。
おそらく私はこういう話をされたんじゃないかなということを想像するんです。
それは聖書の旧約聖書から言うならば、神はこの世界と人間を良いものとして創造をした。
神はこの世界と私たちを作った。けれども人間が罪を犯し、その罪の力が世界も人間も歪めてしまった。
神様は世界と人間をどうしても救いたくて、あのアブラハムやモーセやダビデや預言者たちと一緒に何度も何度もこの世界に働きかけ、この世界と私たちを救おうとした。
けれども罪の力は根深くて、それは全部失敗した。
そこで神様は神の独り子であるイエス様を使わし、世界と人間を救おうとした。
けれども独り子であるイエス様ですら、罪の力に囚われた人間によってあの十字架につけられてしまった。
イエス様も死んでしまった。
しかし神はイエスを復活させた。
神はイエス様によって罪と死を滅ぼして、今やイエスキリストがこの世を治める王となられた。
そういう話をされたんじゃないでしょうか。
私たちもそうですが、聖書を紐解かれて心がワクワクする時ってないですかね。
18:08
私本当にそういう感覚が好きな人間で。
聖書を紐解かれてワクワクする感覚がある。
ここがこう繋がっていた、ここがこんな景色で、
ああ、なんてこった、神様はこんなにもすごいことを始められたのかということを感動するということが、
聖書を読んでてないでしょうかね。私はあると思うんです。
イエス様が解き明かす聖書の全体像、そこには愛に痛みながらも熱情的にこの世界を救いたくて働き続けておられる神様の姿がある。
そしてその愛の神様の姿を思う時に弟子たちもワクワクしたんじゃないでしょうか。
うわ、すごい、そうだ確かに、聖書ってこんなにすごいことを言っているんだ。
そしてもっともっとイエス様を教えてくださいと、彼らはイエス様を手放したくなかったのではないでしょうか。
宿屋にまで彼らはイエス様を招いていきました。
そして一緒に食事をします。30節、31節にこういうことがありますね。
そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神を褒めたたえ、咲いて彼らに渡された。
すると彼らの目が開かれ、イエスだとわかったが、その姿は見えなくなった。
弟子の目がこの時初めて開かれて、そしてイエス様だと気づき、それと同時にイエス様はもはや目には見えなくなってしまいました。
この光景も不思議なシーンですよね。
神学的に説明するならば、これは愛産と生産の交わりである教会にイエスは目に見えずとも臨在しているんだ、そういう説明の仕方ができます。
ただ、こうも考えられるのではないでしょうか。
神を賛美しながらパンを咲くという光景は弟子たちが一番目にしたイエス様の姿だったんです。
そうではないでしょうか。
毎日弟子たちと一緒にいる時も、神様に感謝をしてパンを咲いたイエス様。
あの五千人の給食の時も、神様を褒めたたいて賛美をしてパンを咲いたイエス様。
あの十字架に架かられる前日の最後の晩餐の時も、神を褒めたたいてパンを咲いたイエス様。
その時に弟子たちは、その姿をじっと見ていた弟子たちは、この時も、ああイエス様だと気づいたのではないでしょうか。
そして言うのです、三十二節。
二人は話し合った。
21:01
道々お話し下さる間、私たちに聖書を解き明かして下さる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。
燃えていたではないか。
もはやイエス様は目の前には見えないんです。見えない。
けれども残り火のように確かに実感とし残っているのは、ああ今私たちの心は燃えているじゃないか。燃えている。
なぜ心が燃えるのでしょうか。
なぜイエス様は復活し、今も生きて王になったという、実に不可解なことを信じて、時に反対すらされて命まで狙われて、
それでもこのイエス様に人生を命のかけるのは一体なぜなんでしょうか。
その熱はどこからくるんでしょうか。
彼らは言います。復活された主が私たちの歩む人生の道のりで、聖書、神の言葉を解き明かして下さるからだ。
神の言葉を今も私たちに語って下さるからだ。
燃えたというこの言葉は、元の言葉を見ますと、点火したという言葉です。点火した。
それまで燃えていなかった心が熱を帯びて、死からの復活という、実に信じがたいことを信じるようになった。
聖書は実に信じがたいことを語りますね。
私たちはそれに納得したから神様を信じたんでしょうか。死から甦ったんです。ああ、そうですか。よくわかりました。
そうではないと思うんですよ。
けれども不思議と神様を信じている、不思議とイエス様が死から甦られたということをここまで信じているのは、見言葉を通して何かを感じたからじゃないでしょうか。
聖書の言葉を通して何か胸に熱いものを受け取ったからじゃないでしょうか。
私たちそれぞれそうなんじゃないでしょうか。
そのような経験が私たちを信仰へと導いたのではないでしょうか。
復活の主が、今も生きておられる主が見言葉を解き明かしてくださったから、私たちは今がある。
見言葉、聖書の言葉というのは色々な力がありますね。
聖書の言葉というのは人を救う言葉です。人を救うことのできる言葉です。
聖書の中でペテローがこういうことを言いました。
あなた方が新しく生まれたのは、生きたいつまでも残る神の言葉によるのです。
24:04
第一ペテローの日曜の23節という言葉にあります。
あなた方が新しく生まれるのは、生きたいつまでも残る神の言葉によるのだということを言いました。
また、聖書の言葉というのは、先ほどの表現で言うならば、私たちの重い心を軽くすることができるのだと思います。
ある種、私たちの理解できる範囲に神様を小さくするのではなくて、
神様の大きさに私たちを驚かせ、私たちを感動させ、私たちを跪かせるのが聖書の言葉です。
聖書を読んでいないとこの逆が起きるのですよ。
神様を自分の範囲でも理解できるところに小さくしていくのです。
違いますよ。御言葉は逆です。
神の大きさに私たちを跪かせる。
そして最後、そして聖書の言葉は、この世界に実に混沌としている。
戦争も終わらない。傷ついている人が助けられない。
ある種、そのような罪に囚われた世界を、それでも一番諦めずに、
その世界を癒すために働き続けておられる、三味一体の神様御自身の熱情、聖書は語ります。
そのことを知るときに、そこに私たちも連なるように招かれていることを知るときに、
私たちの心もワクワクさせられるのですよ。
私たちの心も燃やされるのですよ。
聖書の言葉はそのように私たちに働きかけます。
そしてそれは、まさにこの聖書という2000年前の言葉を、今も生き生きと私たちに語りかけられるのは、不思議ですよね。
でもこの古い言葉は今も私たちに語りかけるのは、なおも熱を帯びさせられるのは、
復活の主イエス様が今も私たち一人一人の人生の旅路に同伴して、御言葉を語り続けてくださっているからです。
今も主が生きておられるから。
私たち一人一人の人生の旅路、そしてまた先ほどの理解をとるならばそれは、
ニョダニ教会という共同体の旅路、山尾の途上というのはよくその旅路に同伴したイエス様の話だとよく言われます。
私たち一人一人の人生、教会の旅路というものも、そこにはおそらく緑の牧場のような時もあれば、死の影の谷を歩くような時もおそらくあるんです。
しかし、今朝ご一緒に覚えたいのは、確かに死に打ち勝ってイエス様は復活をなさったんです。
27:01
今も生きておうとして私たちを導いておられるんです。
そして死にまで下り、3日目によみがえられた主だからこそ、私たちが死へ向かう時も、よみがえりの朝を迎える時も、主はいつまでも私たちの傍らにいることができるんです。
おられるんです、そこに。
いつまでも私たちの隣にいることができる。
その言葉を解き明かして、どれほど私たちの心が重たくなったりだとか、冷え切ったりしてしまっていたとしても、何度も何度もそこに火を灯すことができる。
ご一緒に覚えたいです。主は生きておられます。主はよみがえられました。
私たちの希望は、この生きるお方にだけある。そのことをご一緒に覚えたいと思いますし、
前よ駄足かもしれませんが、ぜひ聖書を読んでください。
本当に主の素晴らしさというのは、そこから始まってきますし、そこで私たちは主の道からを一番覚えるのではないでしょうか。
復活の主を仰ぎます。一言お祈りいたします。
28:23

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