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2023-12-24 26:46

2023/12/24:馬小屋で救い主と出会う


2023/12/24:クリスマス礼拝

加藤満牧師

ルカの福音書 2:1-20


サマリー

羊飼いたちは、自分たちが神から呪われていると思われ、礼拝できない存在とされていましたが、御使いが救い主の誕生を告げました。クリスマスの中心は、イエス・キリストが不衛生な馬小屋で生まれたことです。このことから、神様が私たちを愛していることや、私たちの内側で神様と出会いたいという意味が伝えられます。イエス様は汚い馬小屋に生まれ、救いをもたらすためではなく、私たちの汚い馬小屋に来るために生まれました。クリスマスは、私たちが救い主と出会う場所を考える時期であり、喜びを共有する時期です。

00:02
クリスマス礼拝にようこそおいでくださいました。
本当に心から歓迎をいたします。
ご一緒に主の御降誕を、このようにお祝いできることを感謝をしています。
短く最初にお祈りをさせていただきます。
手を合わせ、心を合わせていただければ幸いです。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
今日もまた主が、私たち一人ひとりの名を呼び、
この場へと集めてくださり、
あなたへの礼拝へと導いてくださったことを感謝をいたします。
特に今朝、私たちは一緒に、
私たちの救い主、主イエス様の御降誕をお祝いする、
クリスマスを覚えて、礼拝を捧げています。
本当にこの暗闇の世界の中に、
どこに救いがあるのかと思う中に、
2000年前に、救い主がお生まれくださったと聖書は語ります。
そしてそれは、2000年前だけのことではなくて、
今を生きている、私たちにも救いをもたらしてくださっている、
救い主であることを、私たちを覚えて皆を崇めています。
私たちを愛し抜いてくださり、
その御子が、あの十字架へと進み、血を流してくださいました。
そのために、私たちの罪が赦され、
三日目に甦えられた命によって、
私たちが今、主と共に、
永遠なる主と共に生きる命を与えられ、
歩ませていただいていることを感謝いたします。
神様、どうか、このクリスマスの時が、
本当に私たちに、あなたが与えてくださった良き知らせ、
その救いの素晴らしさを知る時となりますように、
この礼拝を豊かに祝してください。
そしてまた、それが誰かのことではなくて、
私のことであることを、
深く考えることができますよう、お導きください。
ここに来たくても来れない方々、
施設で礼拝を守っておられる方、
ご自宅で礼拝を守っておられる方々がいることを知っています。
どうかお一人一人の上に、主が届いてくださり、
心に慰めを与えてください。
また、全世界で持たれている礼拝、
特に、今日というクリスマスは、
戦場においてもクリスマスです。
神様、どうか、
戦地にいるお一人一人、
また、そこで起きている戦争によって、
また、本当に命を、
そうか、主がお一人一人の命を、
お守りくださいますように、
平和の主が、平和を実現してくださいますように、
どうかお導きください。
お願いいたします。
これからの時を御手に委ねます。
あなたが御言葉を開き、
私たちに必要なことを教えてください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
実はですね、私は小さい頃から、
物心ついた時から、
教会というところに行っていた人間でして、
このクリスマスの季節が本当に好きなんですね。
この教会でもそうですけれども、
クリスマスの装飾が至るところにありますし、
また見ていただいたらと思いますけど、
後ろの、本当にその人形が、
ここに来てすごいなと思って見ていました。
今朝は、前にあるロウソクも5本、
火が灯りました。
ロウソクの火ってきれいですよね。
私はこの火が本当にきれいで、
好きだなと思います。
また、今年は妙谷教会としては、
初の試みと言いましょうか、
マサイさんにリードしていただいて、
表の木にライトアップをしたんですね。
ずっとこの季節は明るく、
この教会を彩ってくれました。
そして、数日前にここでは、
キャンドルサービスも持たれました。
真っ暗な暗闇の中で、
ロウソクが灯るという光景を一緒に見て、
救いを覚えました。
私は本当に、
キャンドルサービスの光景が好きなんですね。
何とも言えない、
暗闇の中に火が灯っているだけなんだけれども、
何かそれに感動を覚える自分がいます。
数え上げれば、
きりがないほど実は、
クリスマスの光景というのは、
美しいわけです。
美しい光景がたくさんあります。
きっと皆さん、
この今日と明日、
街中に出て行っても、
きっときらびやかな、
クリスマスの光を目にすることが多いと思います。
そして、私たちはきっと、
このような光景に囲まれながら、
クリスマスの聖書も読みますから、
このクリスマスの聖書の物語を、
頭の中で想像するときに、
きっと美しい光景が浮かぶんじゃないかな、
と思うんです。
例えば、今日読んでいただいた箇所の中には、
羊飼いたちが出てきます。
羊飼いたちが述べて、
夜中ずっと仕事をしている。
彼らが見ていた空は、
満天の星空できっときれいだったんだろうな、
と思うかもしれませんし、
そしてまた、
馬小屋でイエス様がお生まれになった、
ということを私たちは聞きますから、
ああ、あの馬小屋でイエス様が生まれたときに、
何か、救い主イエス様は、
ちょっとぽやーっと光っているんじゃないかな、とか、
ヨーロッパの絵でね、そういう風に描かれますから、
そういうようなイメージがあるかもしれません。
きっと何か輝いて見える。
そういう美しい光景が、
クリスマスの光景である。
私たちは、クリスマスの出来事というのは、
実に美しく、そしてきらびやかなものである、
そのように思っている、
お互いであるかもしれません。
けれどもですね、
夢を砕くようで申し訳ないのですが、
実際のクリスマスの光景というのは、
それほど美しいものではありませんでした。
少なくとも、最初にこのルカの福音書で、
この物語を読んだ2000年くらい前の人たちが、
最初にこの物語を読んだときに、
たぶん持ったであるイメージは、
美しいというよりかは、むしろ汚いなんです。
ああ、汚い。
なんて汚い話なんだろうということ。
そう思う理由は、
実は今日読んでいただいたところに出てきました、
この羊飼という人たちの汚さを、
当時の人たちは知っているんです。
そしてもう一つ、
この馬小屋という場所の汚さを、
当時の人たちは知っている。
ああ、汚い。
そして、おそらく当時の人たちは、
同時にこう思ったと思うんですね。
ああ、本来はこうあるべきではないのに、
こんな物語が書かれている。
いったいこの物語は何なんだ。
なんて不思議な物語なんだ。
実はクリスマスの物語というのは、
たぶん最初に見た人はショックだったんです。
不思議で、そして汚い物語。
でも実は、クリスマスのストーリーを、
私たちが受け止めるときに、
その不思議さであったり、
むしろその汚さこそが、
大事だと言えるのかもしれません。
今朝は少しそのことを覚えたいと思うのです。
少し汚いと言ってしまって、
申し訳ありませんでしたが、
ただ、この羊飼いや馬小屋という場所が、
当時どう思われていたかということを、
ちょっとだけ確認をさせていただきますと、
救い主の誕生の告知
今日読んでいただいた箇所には、
羊飼いたちが、その地方で、
いわば述べて、
野宿をしながら、
羊の群れを見ていた。
そのところに、
光り輝く御使いが現れて、
救い主の誕生を告げられた。
お読みしますと、
2章の11節に、
今日、ダビデの町で、
あなた方のために、
救い主がお生まれになりました。
この方こそ、主キリストです。
あなた方は布にくるまって、
貝羽桶に寝ている緑子を見つけます。
それがあなた方のためのしるしですと、
そのように御使いに告げられて、
そして彼らは、
その貝羽桶、
彼らの仕事道具である貝羽桶、
彼らが知っている場所だから、
彼らは急いでそのことを確認をしに行って、
そして救い主に出会って、
礼拝をしたということが書かれてあります。
ただ、この羊飼いという人たちは、
どういう人たちであったかと言いますと、
簡単に言うならば、
当時の社会において、
最底辺の仕事をしている人たちです。
穢れていると思われ、
穢れていると思われていました。
彼らがお世話している羊という動物は、
当時の社会では汚いものなんですよ。
穢れているんです。
そしてその穢れている動物のお世話をしなければならない、
この羊も自分の家畜じゃないんですよ。
誰かのお金持ちが持っている財産の家畜を代わりに、
お世話をする。
でも羊という動物は非常に臆病な動物です。
羊飼いはある種、
夜通し、
見張りをしながら、
野獣に羊が襲われないように守らなければならない、
命がけの仕事なんです。
羊飼いをして命を落としたという記述はたくさん残っています。
そして、
ただそれほど過酷、
ある種、
汚くて危険で過酷な仕事なのですけれども、
彼らは街中に住むことが許されませんでした。
汚いからです。
そして汚いとされていた彼らは、
当時神様を礼拝する、
礼拝の場にも入ることが許されませんでした。
彼らは礼拝ができなかった。
礼拝ができないとどうなるかというと、
ああ、彼らは神様に呪われている人たちなんだと思われていました。
ですから、
人からも嫌われ、
神からも呪われていると思われている仕事。
それが羊飼い。
ただ、
その羊飼いのもとに、
御使いがやってきて救い主の誕生を告げた。
本来であればそうあるべきではないのです。
御使いはきっと、
救い主の誕生を
預言者であったり、
律法学者と言われる、
聖書のことに精通しているちゃんとした立派な人たち、
そういう人たちに、
救い主の誕生を伝えられるべきです。
しかし、
クリスマスは驚くことに、
この羊飼いに救い主の誕生を告げたと語る。
不思議な場所での生まれ
実にこれは不思議なのです。
不思議な話です。
もう一つ見ますと、
この御子は、
馬小屋に生まれたということが、
この物語に書いてある。
馬小屋なのです。
当時の家の構造を少しだけ言いますと、
当時は、
1階が動物の住むところで、
2階が人間の住むところ、
というイメージをしてくださったらいいと思います。
1階は動物の家畜の場所で、
2階が人間の住む場所なのです。
ベツレヘムに行って、
宿がなかったと言いますけれども、
宿屋が当時あるというのは、
当時は民泊なのです。
お客さんとして来たら、
みんながお互いに泊め合う。
でも、
宿屋がいっぱい、
住む、泊まる場所がいっぱいだから、
彼らは、
人間が生活する場所じゃなくて、
1階の人間が生活しない場所に
泊められたということです。
それが、
馬小屋で生まれたという意味です。
馬小屋、動物小屋、
何度もそういうことを言ってしまって、
申し訳ないのですけれども、
ここもまた不衛生で汚いのです。
汚くて、臭くて、
暗い場所です。
人間の居場所ではない場所です。
それが、
馬小屋でした。
本来であれば、
救い主、
イエス様がお生まれになるべき場所、
救い主と言われますが、
イエス様は、
まことの王としてお生まれになったと、
聖書が語りますから、
王様ですね。
王様が生まれるべき場所は、
王宮という場所が
ふさわしい、
ふさわしいのではないでしょうか。
でも、そうではなかった。
今朝読んでいただいた、
この2章の1節から7節という、
この箇所、
アウグストゥス等々の名前が出てきますが、
この箇所、
ルカは丁寧に、
二つの王様を比較して書いているのです。
皇帝アウグストゥスというのは、
当時の世界の覇者です。
その皇帝アウグストゥスが、
自分の力を知らしめるために、
人口調査をしている。
そのような世界の中で、
まことの王として生まれたイエス様は、
生まれる場所すら与えられなかった、
ということが書いてある。
そういう対比がはっきりと書いてある。
馬小屋で生まれたわけです。
これは不思議なんです。
本当であれば、
王宮で生まれるにふさわしいお方が、
なぜ馬小屋で生まれるのでしょうか。
けれども、
クリスマスの大事な点というのは、
この不思議さにあります。
なぜ神様は、
神様の愛の物差し
本来あるべき方法、
御使いは救い主の誕生を、
預言者や律法学者に伝えたのではなくて、
そして、
まことの王であるイエス様は、
なぜ王宮でお生まれにならないのか。
その方がきっと、
私たちが期待するような、
よほど美しいクリスマスなんです。
でも、そうはならない。
神様がそうはなされなかった。
ということは、
そこには必ず意味があるんです。
神様は必ず、
このことに意味を持っておられる。
御使いは、
汚い羊飼いに救いが告げられ、
御子は、
汚い馬小屋で生まれる。
これには意味があるんです。
どういう意味があるんでしょうか。
おそらく、
二つほど、
私は言えるのではないかなと思っています。
二つ。
一つは、
神様が、
この羊飼いに、
御自身の救い主の誕生を告げられたということは、
それは、
この世界の片隅で、
汚い、臭い、
誰にも愛されず、
神にも自分は愛されていないと思うような、
そういう一人一人に対し、
神はあなたを忘れていないし、
あなたを愛しているということを伝えたかったということです。
神はあなたを愛している。
それは言い換えるならば、
誰一人、
この神様の愛という眼差しから、
漏れ出ている人間は、
いないということです。
誰一人、
漏れ出てはいないということ。
それは、
私たちもそうなのです。
私たちは、
お互いに羊飼いじゃないですよね。
汚れていると言っても、
いや、
そんないやしい仕事はしていません、
ということがあるかもしれませんが、
しかし、
同時に私たちは、
きっと自分が純粋できれいだとも、
言い切れないお互いであるかもしれません。
人間はおそらく、
清濁がある。
きれいもあるんです。
汚いもあるんです。
でも、
私たちの、
その、
例えば汚いが、
どれほど汚かったとしても、
それはそれで、
自分自身を愛することができないほどに、
汚かったとしても、
でも、
実は、
神様は、
きれいな、
罪のない人間を愛しているんじゃない。
汚くて、
罪があって、
矛盾があって、
問題があって、
でも、
そのようなあなたに対して、
神様は、
愛を示しておられるんだよ。
実は、
そのことを語るために、
羊飼いのもとに現れたんです。
神様の愛というのは、
よく聞かれるかもしれませんが、
よく、
何々だからの愛ではない、
とよく言われるんです。
言い方を変えるならば、
条件付きの愛とでも言いましょうか。
あなたは、
何々ができるからいいですよね。
あなたは、
これだけのことが、
達成できたから素晴らしいですよね。
でも、
神様の愛は、
そんなものではありません。
私たちは、
結構、
自分の価値を、
それで測りがちです。
何かができる。
私は、
これだけのものを持っている。
これだけの学歴がある。
これだけの仕事をしてきた。
だから、
私は愛されるし、
大丈夫なんだと思いがちです。
でも、
神様は、
そのような物差しで、
あなたを見ているわけではない。
何かができてきたということは、
大事ですけれども、
でも、
自分を測る物差しが、
それだけしか持っていなかったら、
私たちは疲れ切っちゃうんですよ。
もっとできなきゃ、
できなきゃになるから。
でも、
大事なことは、
実は、
神様の物差しを、
忘れてはいけないということです。
神様の愛は、
〇〇であるにも関わらずの愛だと、
よく言われます。
〇〇であるにも関わらずの愛。
無条件の愛と言われます。
羊飼いであるにも関わらず、
愛された神様の愛。
私たちが、
罪人であるにも関わらずに、
愛された神様の愛。
あれをした、
これをした、
であるにも関わらず、
愛される神様の愛。
その事実があるということを、
私たちは、
決して忘れてはならないんです。
何があっても、
私は、
神に大丈夫だ、
大丈夫だと言われているということを、
決して忘れてはいけないということです。
私たちの内側での出会い
神様の愛は、
変わりません。
ただ、もう一つ。
今朝は、
一歩突っ込んでと言いますか、
もう一つ、
受け止めたい意味があります。
それは、
救い主が、
馬小屋でお生まれになった意味です。
なぜ、
救い主は、
馬小屋でお生まれになったのでしょうか。
それは、
救い主は、
私たちと、
美しい王宮で会いたいのではなく、
馬小屋でお会いしたいんです。
そう言えるのではないかなと、
私は思っています。
救い主が、
馬小屋に生まれたのはなぜか、
それは、
私たちが、
きれいな王宮で、
救い主にお会いするためではなくて、
私たちの馬小屋という場所で、
救い主がお会いするため、
なんとなく想像がつくでしょうか。
それは、
具体的な場所というよりも、
むしろ、
私たちの心と言いますか、
私たちの内側の話、
ではないかなと思う。
一つだけ、
お話をいたしますと、
私がクリスマスの時期に、
好きで読む本が、
一冊あります。
馬小屋にひれ伏してという、
説教集なんです。
クリスマス説教集。
もう古い本です。
その中に、
庭先生という先生が書かれた、
クリスマス説教集なんですけれども、
この本、
面白いのは、
先生が牧師として、
語ってこられた、
人生で語ってきた、
クリスマス説教が、
時系列で語られるんです。
若い時に語った、
クリスマス説教でも、
だんだん、
最晩年の説教になっていく。
一番最後に、
収録されている、
馬小屋にひれ伏してという説教は、
実は、
先生が召される、
直前に語った説教なんです。
その時に、
もう、
この先生は、
自分で説教原稿も、
準備することができない。
立って話すこともできない。
だから、
椅子に座って、
ただ、
その時、
神様が、
語らせてくださることを、
語った説教があるんですが、
その内容が、
私はとても好きです。
ちょっとだけ、
ご紹介しますと、
こういうことを、
先生が語るんです。
何か、
何度も何度も、
クリスマスについて、
イエス様の生まれる馬小屋
語ってきましたけれど、
この年になって、
自分が、
誰よりも、
罪が重く、
誰よりも、
いやしく、
誰よりも、
汚い、
ということを、
つくづく、
思います。
それで、
今まで、
何度も、
クリスマスについて、
話してまいりましたが、
今まで、
語った、
馬小屋は、
あの、
青瓦のような、
輝いた、
馬小屋でした。
あの、
青瓦のような、
輝いた、
馬小屋でしか、
なかったと、
思わされています。
でも、
実際は、
そうじゃない。
きれいな、
馬小屋じゃない。
輝いた、
馬小屋じゃない。
汚い、
ありのままの、
馬小屋。
人の、
入るところじゃない。
人の、
生まれるような、
場所ではない。
この世に、
おける、
最低の、
場所。
そこに、
主は、
誕生なさいました。
馬小屋にも、
等しい。
いいえ、
もしかして、
馬小屋は、
もっと汚い、
私のことを、
思うに、
つけ、
初めて、
主の、
お生まれになった、
馬小屋は、
私にとって、
現実で、
生々しい、
絵じゃない、
青瓦じゃない、
生々しい、
クリスマスのメッセージ
馬小屋になりました。
しかし、
そうあって、
初めて、
私は、
たとえ、
あの、
馬や、
牛の、
糞尿が、
流れていても、
そこに、
ひれ伏し、
ぼろ布に、
包まれる、
幼子イエス様を、
本当に、
心から、
感謝し、
拝むことが、
できると、
そういう、
思いに、
させられましたと、
そのような、
言葉を、
語って、
おられます。
私は、
この説教が、
好きです。
そして、
一つ、
教えられることが、
あります。
イエス様が、
馬小屋に、
生まれたのは、
きれいな、
部屋で、
あなたと、
会うためではない。
イエス様が、
馬小屋で、
生まれたのは、
汚い、
私たちの、
汚い、
馬小屋に、
来るために、
馬小屋に、
生まれたのだ、
ということです。
私たちも、
そうですが、
お客さんが、
家に来るときには、
部屋を、
きれいに、
しますよね。
でも、
開かずの間って、
一つぐらいは、
絶対、
あるはずなんです。
全部、
押し込んでね。
で、
そこで、
ああ、
ここ、
きれいですよ、
それは、
お客様を、
もてなすために、
お客さんとして、
来られたならば、
イエス様は、
決して、
きれいなお部屋で、
話したいんじゃないんです。
イエス様は、
むしろ、
あなたが、
その、
開かずの間に、
してしまっている、
心の奥底、
ぎゅうぎゅう詰めて、
いや、
これには、
人には、
見せられることには、
できない。
それは、
私は、
抱えて生きていきます。
でも、
そのことは、
別にいいじゃないですか。
ほっといてください。
それは、
私自身の問題ですから。
そう、
イエス様は、
なぜか、
私たちの、
その、
開かずの間にある、
ある種の、
悲しみ、
痛み、
苦しみ、
そのところに、
救いをもたらすためです。
御子は、
そこまで、
下ってきて、
来られてくださった、
というのが、
この、
クリスマスの、
メッセージなんです。
ここまで、
御子は、
下ってきてくださり、
そして、
あなたの、
その、
あなたの、
馬小屋にまで、
私は、
下ると言われた。
そこに、
それが、
この、
クリスマスの、
語っている、
メッセージ、
ですね。
解剖家に、
宿る御子、
それが、
あなたの、
救い主だと、
クリスマスは、
告げます。
私たちが、
御子と、
より深く、
出会う場所、
まあ、
私たちが、
深く、
神様と、
出会う場所が、
あると、
するのであれば、
まあ、
それは、
きっと、
ですね、
あの、
清めの果て、
あなた、
ってなったっていう、
先よりも、
むしろ、
私は、
私の、
馬小屋だと、
思うんですよ。
私の、
馬小屋で、
私たちは、
より深く、
御子と、
出会う。
そこに、
御子は、
従前に、
確かに、
救いを、
もたらすことが、
できる。
そこで、
私自身が、
否定している、
私に対して、
私は、
あなたを、
愛していると、
言われる。
それは、
クリスマスの、
メッセージの中で、
受け止めたい、
メッセージは、
私たちは、
救い主を、
お迎えするんですが、
それは、
私たちの、
どこで、
救い主を、
お迎えしますか、
ということ、
ではないでしょうか。
私たちは、
主に、
心を、
開くことが、
できるでしょうか。
できれば、
幸いだな、
と思います。
御子は、
イエス様は、
あなたの、
馬小屋にまで、
下られ、
あなたを、
救われる。
きれいな、
クリスマスではなく、
実は、
きれいな、
クリスマスを、
祝うだけではなくて、
この時期に、
私たちは、
本当の、
救いを、
喜ぶ、
クリスマスに、
したいな、
と思うんです。
本当に、
救われている、
本当に、
主が、
ここに、
愛と、
救いを、
もたらしてくれた、
そこに、
何か、
喜べる、
クリスマスは、
いいな、
私たちを、
深く愛し、
救い、
続けて、
くださっている。
今日、
ダビデの町で、
あなた方のために、
救い主が、
お生まれになりました。
この方こそ、
主キリストです。
主は、
私の、
救い主である。
この、
お方が、
おられる、
私を、
愛してくださっている。
その時に、
見せかけではない、
私たち、
自身の、
馬小屋に、
御子を、
お迎えいたしましょう。
そして、
そこに、
本当に、
御子という、
光が、
灯ることが、
できるのです。
一言、
お祈りをして、
メッセージを、
終わります。
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