1. 名谷教会
  2. 2023/12/22:神の愛が灯る
2023-12-22 14:55

2023/12/22:神の愛が灯る


2023/12/22:キャンドル・サービス

加藤満牧師


サマリー

暗闇の中で、ロウソクの光が生まれるクリスマスの行事について話し、人の心に灯る愛について考察しています。神の愛が灯るエピソードでは、羊飼いたちはイエス・キリストの誕生を知り、神の愛を受け入れる喜びと感動を経験しています。彼らは汚い仕事をしていますが、彼らの場所である獣舎に救い主が降りてこられたことを知り、心に火が灯っています。

クリスマスの行事とロウソクの光
皆さん、キャンドルサービスにようこそおいでくださいました。
本当に心から歓迎をいたします。
大垣さん、よければ横の電気も消してみていただけますか。
そして、この上の電気ちょっと消せるかな。
その上消してみてください。
はい、なんかやっとロウソクが見えてきたような気がします。
実は、私はクリスマスの行事の中で、キャンドルサービスが一番好きなんです。
なんか、この暗めの街道にロウソクが灯っているという光景が、何とも言えないほど好きなんですね。
私がキャンドルサービスに初めて参加した経験は、おそらく幼稚園の頃だったと思います。
私はクリスチャンホームで、家族が、両親がクリスチャンだったので、
母教会が、イブに職科礼拝を毎年していましたので、
家族でそろって、真っ暗な寒い夜、教会に向かって歩いていくんですね。
とても特別感がある夜でした。
そして、教会に着いて、みんな集まるんですけど、いつもだったら、やーって挨拶するんですけれども、
その時は、みんなシーンと静かにしていて、
礼拝堂が2階にあったんですけれども、2階に上がっていくと、
霊廃堂が2階にあったんですけれども、2階に上がっていくと、
真っ暗なんです。
ただ、街道の一番前に1本だけロウソクの火がついているんですね。
入る前に、手元に小さなロウソクを渡される。
そして、席について、キャンドルサービスが始まった後、
法師の方が前に1人行ってですね、
その前のロウソクの火を1本、その火をもらって、
それを座っている方々1人1人のロウソクに火を渡していくんです。
それを座っている方々1人1人のロウソクに火を渡していくんです。
すると、それぞれの手元にあるロウソクに火がともるわけですから、
街道がほのかに明るくなる。
その灯火が私の手元にも回ってきてですね、
幼な心にすごくほっとしたのを覚えています。
真っ暗な街道の中で、ちょっと怖かったんでしょうね。
でも、光がきて、ああ、ほっとしたという思いと、
そしてまた、当然、炎ですから、
当然、炎ですから、あったかいなという気持ちになったんですよ。
私にとってクリスマスの現体験ってそういうものでした。
クリスマスって何なのかなと思い浮かべるときに、
クリスマスってこういうことなんだなと教えられた経験でした。
それは、暗闇の中でロウソクが来て、
ああ、明るくなった、よかったと、何か温かいということを。
大人になってから、改めてこういう牧師という仕事について、
クリスマスって何かなという話をして、
クリスマスって何かなという話をして、
話をしなければならないときに。
けれども、クリスマスってやっぱりそういうものだよなと思うんです。
暗闇の中にぽっと光が出て、ああ、よかったという思いと、
ああ、ちょっと温かくて安心するなという思い。
クリスマスというのは、私の手元をほのかに温かく照らした、
あの灯火のように、
クリスマスにお生まれになったイエス様というお方が、
私たち一人一人の中に光を灯してくれたという、
そのことをお祝いする、その時ですよね。
そして、もしかしたら、まだ、いや、そんなことは、
まだそう思えないという人もいるかもしれませんが、
でしたら、その人にとって、イエス・キリストは、
あなたに光を灯すことのできるお方なんだ、
そのことをお伝えする季節です。
でも、ろうそくの灯火というのは、隣から私の方に、
隣から渡してもらったら、手元に残るわけですよね。
では、人の心に光を灯すには、どうしたらいいんでしょうか。
人間、燃やすわけにはいきませんよね。
ですから、何か違うわけです。
おそらく、私はこういうことだと思うんですね。
人の心に、本当に人の心を温めるものがあるとすれば、
これさえあったら、真っ暗な人生だけでも、
とりあえずどうにかやっていけると思えるようなものが、
もしも灯るとするならば、それは一体何によってなのか。
一言で言うならば、それは、愛です。
神様の愛。
それしか、人の心を本当に温めることはできない。
聖書はそのように語る。
先ほど、聖書朗読をしてまいりました。
皆様も聞かれてきたと思います。
その中に、一つ注目をしたい人がいます。
羊飼いと救い主の誕生
それは、羊飼いです。
イエス様のおもとに、礼拝に行った人たち、
博士たちもいましたが、羊飼いという人たちがいました。
この羊飼いという人たちは、どういう人であったかというと、
彼らは延べで羊を飼っていたわけです。
街中にいられない人たちだった。
簡単に言うならば、彼らは、
当時の社会において最底辺の人たちです。
彼らは、当時汚れているとされる動物のお世話をする人たちでした。
ですから、そのために彼らの身なりというのは、非常に汚かったんですね。
汚かったし、たぶん臭かったんだと思います。
街中に行くと、すぐに指さされるんです。
ああ、あいつら羊飼いだ。
軽蔑の目で見られるわけです。
彼らは、街に住むことが許されていませんでした。
しかも、羊という動物は非常に臆病なので、
彼らは、どこかの金持ちが持っている家畜を飼う仕事をしているわけです。
自分たちの家畜じゃないんですよ。
その臆病な羊というのは、すぐに何かショックがあると、
散ってしまったり、一人出て行くと、道に迷ってしまうわけです。
周りには羊を食べる野獣がいますから、
彼らは夜通し、命がけでその野獣と戦いながら、
羊を守らなければならなかった、
羊飼いをしながら命を落とすという記事は残っています。
命がけなんです。
そのようにしながら生きていかなければ、
日々の生活を支えられない人たち。
それが羊飼いでした。
当然、彼らは汚れた仕事をしている人たちですから、
当時大事にされていた、礼拝に参加できないんですね。
礼拝に参加ができないということは、
彼らは神から呪われていると考えられていました。
ですから、彼らは人々からも嫌われ、
そして神からも呪われていると思われていたんです。
そういう彼らですから、
彼ら自身もきっと自分のことをそう思っていたと思うのです。
ああ、人々からも嫌われ、そして神にも呪われている。
私なんかを一体誰が愛してくれるのだろうか。
いや、誰も愛してくれるものかと。
でも、クリスマスのストーリーで、
驚くのは、当時の人々がおそらく一番驚いたのは、
その羊飼いのもとに御使いが現れたということです。
突如として御使いが現れて、彼らに言いました。
今日、ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストですと、御使いは羊飼いにつけました。
羊飼いはおそらくびっくりしたんじゃないでしょうか。
御使いの言葉もおそらく全部わかんなかったでしょう。
いきなり天使が現れたらね、何を言ってるかって、
冷静に聞けないかもしれません。
けれども、おそらく彼らの耳に一つ残った言葉があるのだと思うのです。
それは、あなた方のために救い主が生まれたということです。
あなた方のために。
救い主が生まれた。私のために。
聞き間違いではないかと彼らは思ったかもしれません。
汚い仕事をしていた羊飼いたちの喜び
けれども、御使いが続けて言った言葉はもっと驚きでした。
続けて御使いはこう言いました。
布にくるまって、貝羽桶に寝ている緑子を見つけます。
それがあなた方のためのしるしですと、聖書の御使いは語りました。
羊飼いはもっと驚いたのだと思います。
え、貝羽桶?
貝羽桶というのは彼らの仕事道具ですから、よく知っていました。
貝羽桶というのは彼らの仕事道具ですから、よく知っていました。
貝羽桶というのは動物の餌箱です。
要はものすごく汚いんですよ。
唾液とさまざまなごみくずが入って。
とてもじゃないけれども、生まれたての子供がそこに置かれるべき場所では全くない。
はっきり言って、汚くて臭いんです。
でも、その貝羽桶という場所、汚くて臭いその場所。
しかし、その場所に生まれた御子だからこそ、
しかし、その場所に生まれた御子だからこそ、
人々から汚くて臭いと言われた彼ら、
町なかには住むことのできなかった彼らが唯一会いに行ける場所だったのです。
彼らはこぞって会いに行きました。
そして彼らは巫女・イエス様を見つけたと聖書は語ります。
このストーリーはこのように締めくくられています。
20節ですが、
羊飼いたちは身利きしたことすべて御使いの話通りだったので、
神をあがめ賛美しながら帰っていったと聖書は語るんです
巫女を見つけて礼拝をして
そして神様を賛美しながら
彼らはその家から帰っていったと言います
私は最初この言葉を読んで疑問でした
だってそうではないでしょうか
羊飼いは翌日からも羊飼いです
彼らの生活は絶対に変わりません
一生彼らは羊飼いです
神の愛を受け入れる喜び
彼らの生活が劇的に変わることでもないし
彼らの日々は明日からも過酷なことが続いていくんです
彼らの外見の世界は全く変わらないでしょう
でも彼らは喜びにあふれて
神への賛美をして帰っていったと聖書は語る
一体何が起きているのでしょうか
彼らの外の世界は劇的に変わったわけではないのですが
しかしおそらくきっと
彼らの外の世界は
彼らの心に火が灯ったと言っているのではないでしょうか
彼らの心に火が灯った
何が彼らを変えたのか
それは汚くて臭い解剖家です
しかし羊飼いたちの場である解剖家にまで
救い主が下ってきてくださったという事実です
あなた方のために救い主がお生まれになりましたと
お見つかりを告げました
神は汚い私を救われる
神は私を汚い臭い私を救わんと思うほどに
私を愛してくださっている
今日も明日も生活は何も変わらない
けれども神の愛を知った
神は私を確かに愛してくれている
彼らは私の救い主が生まれたことを知りました
その心は
絶望から喜びの賛美に変わったと明かしされています
でもなんとなく分かる気がするんです
そうではないでしょうか
どれほどこれまでの歩みの中で失敗をしようとも
嫌われようとも
いろいろな問題があろうとも
神が私をきっときれいも汚いも
併せ持っている私を愛してくださっている
確かに愛してくださっている
全宇宙を治め
私たち一人一人をその母の体にいるときから
作られた神様が
あなたのことは大事なんだと言ってくださっている
そのような事実を本当に受け止めることができるならば
どれほど私たちの心には安心があるでしょうか
温かな思いが与えられるでしょうか
クリスマスが言いたいことってそういうことだと思うんです
神があなたを愛している
あなたは神に対して
お答えになりますかということですね
私はキャンドルサービスが好きです
それはきれいだなということもあるんですが
それだけじゃなくて
私も心に火が灯されたという経験をしているからです
だからあの火を見ると
ああこれは神が私にくださった灯火だということを信じて
感動するんですよ
クリスチャンになったから暗闇がないなんてことはありません
暗闇はあるんです
翌日からも変わらない日々
あるかもしれません
でも確かにこの灯火は消えてはいない
私の中に神が
私を愛する神がいてくださる
ろうそくに火が灯る
これは象徴でしかありません
しかし知っていただきたいのは
神様は本当に私たちの心に
あなたの心に光を灯すことができるお方だということです
どれほど穢れ失敗し
自分で生きていけないのかということです
自分のことを許せなくとも
愛することができなかろうとも
羊飼いまでを愛した神様は
あなたをも愛しておられる
この事実をどのように受け入れられるでしょうか
願わくば私にもそして皆さんの心にも
本当に救い主がもたらしてくださる光が灯りますように
心から願っております
一言お祈りをいたします
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