1. 名谷教会 podcast
  2. 2011/03/27:聖日礼拝(旧音源)
2011-03-27 31:11

2011/03/27:聖日礼拝(旧音源)

2011/03/27 聖日礼拝(旧音源)


00:04
改めて皆さん、おはようございます。
もう既にお交わりをさせていただいています方には、本当に感謝をし、楽しくこの数日、過ごさせていただきました。
しかし、今日初めてお会いする皆さんには、改めて初めましてよろしくと、ご挨拶申し上げたいと思います。
内田雅春と申します。よろしくお願いいたします。
特に一年の年度変わり、いろんなことが変化する時であります。
子どもたちも進級したり、進学したり、年度変わりというのは、そういういろんなものが変わる。
教会にとりましても、この度、牧師が変わるということ、これは教会にとって大きな変化であろうと思うんですね。
私自身の生涯の中でも、こうして使わされる教会が変わるということは、大きな変化だと思います。
しかし私たちのこの周り、いろんな様々なことが変わっていく。
それに目を奪われてしまうと、もう目を回してしまう。
しかし、私たちがどこで何をしようが、あるいはどのような変化があろうが、いつも変わらないお方がいてくださる。
そのお方にさえしっかりと目をとめて、そのお方を仰ぎ見ていくならば、私たちは常に平安を得て、そして正しきに導いてくださるんだということも覚えて。
今日からまた、ここで皆さんと一緒に礼拝を捧げていきたいと思っております。よろしくお願いいたします。
それでは、今日の御言葉をいただく前に、お祈りをいたします。
恵み深い天の父なる神様、あなたの皆を褒め讃えます。
こうして私たちに命を与えて、今日もあなたを礼拝するために、この御堂に集まることができたことをありがとうございます。
世にあっては様々なものが変わりますけれども、常に変わり保うことのないあなたを今拝しています。
この礼拝の主であられるあなたが今ここに御臨在くださり、私たちもその方を仰ぎ見て、祈り賛美と礼拝を捧げています。
どうぞ清めてお受け取りくださいますようお願いいたします。
また特に御教会にありまして、牧師が変わるという大きな変化の時でありましたけれども、
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あなたはそこに常に慰めと励ましを与え、またその信仰にあなたは豊かに報いてくださることを信じて皆をあがめます。
この小さきものをもあなたがお使わしくださり、またここで勤めをなぞんとしておりますが、
本当に穢れたまた小さきもの、また足らざるものでありますけれども、皆さんが承知の上でお受け入れくださったことを覚えてありがとうございます。
どうぞ主の御前にあって、心一つにしてあなたを賛美し、また礼拝をなし、そしてこの教会が福音の基地として、
そしてあなたが精霊を通して豊かに働かれる神の宮として、豊かに祝福をもって前進していくことができるように、
神様これまでと変わらずにあなたがこの教会の主として、また頭なるキリストを前面に押し出して、
そしてあなたに栄光が現れるように、私たちをどうぞ用いてくださるようお願いをいたします。
この礼拝をあなたが受け入れてくださっていることを信じて、一つ一つのプログラムが進められております。
今日こうして私たちがともに礼拝を捧げることができたことを心からありがとうございます。
中にはいろんな事情で、あるいは弱気を覚え、ここに集えなかった兄弟姉妹方も覚えます。
神様どうぞそれ一人一人をあなたが覚え行きめぐってくださって、その場を神様との交わりの場、礼拝のときとしてくださるようお願いをいたします。
今から御言葉をいただきますが、御言葉を通してあなたの身旨を教えてくださり、また私たちもそれを悟ることができるように心をこだえてください。
一切を御手にゆだねて、主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン。
私たちが聖書を読む上で大切なことはいくつかあるんですけれども、そのうちの一つは神様は聖書を通して全ての人に語っていてください。
まず全ての人に神様が願っておられること、皆さんの祝福のために、私たちの祝福のために語っていてください。
いわば全体論というのでしょうか。
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全ての人にまず神様は語っていてくださるんだということを覚えるわけですね。
しかしその聖書の御言葉の中に、どうしても自分個人的には今はそれがちょっとそぐわない、そういう御言葉に当たる時があるんですね。
聖書はそういうけれども、私の今の状況はそんなところじゃないんだという、そういうことが出てきます。
しかし神様はまず全ての人に語られて、そして個人的にその言葉を通して、またいろいろと私たちにチャレンジを与えたり、
そしてたとえその時、その状況がこの御言葉にそぐわなくても、神様は別の箇所で、またそれにふさわしくその人に応じた御言葉を備えていてくださるということも覚えておく必要があるんですね。
例えば一つの戒めとして、父と母を敬いなさい、子どもたちにもそういうふうに私たちは聖書が語っていることを教えるわけですが、
それは全ての人がそうなるように、そうすることが祝福なんだということを全ての人にまず伝えているわけですね。
しかし中にはそんなことを言いますけれども、お父さんのいない人はどうするんですか。お母さんのいない人はどうするんですか。
あるいはうやまうことのできない、誰が見てもうやまえない父、母がいたらどうするんですか。
でもそれはそれとして、個人的なその状況に応じて神様はまた別の箇所で、それにふさわしく語っていてくださるということを私たちは覚えて、
たとえその箇所が自分に今はそぐわなくてもそれでいいんだ、それはそっとして、しかしまた個人的なこととして、
聖書の中から慰め励まし、そして正しく導いてくださる御言葉が備えられていますから、
決してその御言葉に対して抵抗する必要もありませんし、苛立つ必要もないんだということを覚えておいていくべきであります。
もう一つは、私たちは一つのテキストを取り上げてみるわけですね。
今日もエペソビトへの5章の22節から33節テキストとしてそこを見ているんですが、
私たちはそのテキストの前後も合わせて見ていくことが必要だということです。
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いわゆる文脈の中でその部分がどういう位置を占めているのか、何を言っているのかということをしっかりと把握してそのテキストに向かうということ。
これが大事だと思うんですね。
今日の箇所で言いますならば、5章の前半、そして5章後半、そしてできたら6章の前半のところ、
そういう一つの文脈の中で今日の箇所が取り上げられているということですね。
いきなり妻たちよと来ましたから、今日は結婚式でもないのにどうしたんだろうというふうになってしまいますけれど、決してそうではなくて、
5章の前半の部分では、光と闇、あるいは愚かさと賢さというそういう対比が語られているわけです。
これは神様がこうあるように、こうしないようにという神様の祝福を全ての人に与えたいというそういう思いが最初に託されているわけですね。
光の子供らしく歩みなさい、8節。そして11節で、暗闇の業に仲間入りしないで、そういうことを語りながら、そして15節、賢い人のように歩んでいるかどうか。
17節では愚かにならないで、そういうふうにして神様は私たちが主にあって祝福された日々を生きるようにと願っておられるんだということがここからわかるわけです。
そういう前置きをして、そして妻たちよ、夫たちよ、あるいは6章で子供たちよ、父たちよ、奴隷たちよ、主人たちよ、私たちの実際の生活の場でのそれぞれの立場に応じて神様はこのパウロの手紙を通して語っていて下さる。
そういう全体の流れ、その中で今日は22節から33節を取り上げられているという、そのことを覚えていただきたいと思っております。
しかし先ほども言いましたが、結婚式でもないのにということでありますが、確かにこの箇所は結婚式でよく取り上げられる箇所です。
しかし神様がここで言いたいことは、今日の中心、聖句でありますが、それゆえ人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となる。この奥義は偉大です。私はキリストと教会とを指して言っているのです。
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いわゆる男女のその結婚ということを通して、その関係はキリストと教会との関係を言っている。あるいは男女の結婚というものがわかれば、キリストと教会の関係ということもわかるし、逆にキリストと教会との関係というものを正しくわかれば、
男女の結婚の夫婦の関係もよくわかってくる。そういうことをここでは言っているわけであります。
そういう中で私たちは、この箇所から、結婚とキリストと教会との関係、それを見ていくわけですが、私たちが結婚ということを通して、そこには目的があるということを神様から教えられています。
だいたい三つの目的があると言われています。
一つは新しい家庭の創造。
二つ目が新しい命の創造。
三つ目が新しい人格の創造。
新しい家庭の創造。
男女が結婚することによって、そこに一つの小動体が生まれる。
共に生きるわけですから、小動体。
そういうものが男女の結婚によってそこに生まれる。
そしてその小動体、そこには夫ということです。
先ほども御言葉を通して語られていましたように、
妻たちはあなた方は父に従うように自分の夫に従いなさい。
なぜなら、夫は教会の頭であって、ご自身がその体の救い主であられるように夫は妻の頭であるからです。
夫は頭であるということがここで書かれてあります。
すなわち結婚によって、誰が頭でそれに誰が従っていくかという一つの秩序がそこになければいけない。
これは決して男尊女卑のような、そういう思想ではありません。
秩序ということを先生が言っているわけですね。
中には、妻が頭で夫がという、そういう祝福された、その方が祝福されたご家庭もあるようですね。
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それはそれでいい。
誰が頭なのか。
よく戸籍でいう世代主は誰なのか。
あるいは主人という種になる人は誰なのかということをはっきり言って、それに従っていく。
そういう秩序が大事なのであるということですね。
ですから教会におきましても、誰が頭なのか、それはキリストである。
キリストは教会の頭であって、という。
そのことがここで言われているわけです。
ですから小さな共同体でありますけれども、秩序がそこになければいけない。
頭が二人からうまくいかないということですね。
頭をしっかりと私たちを覚えて、誰に従っていくのかということを覚えていきたいと思っております。
キリストは教会の頭であって、そして教会がキリストに従っていく。
結婚について言いますと、もし夫がその頭であるならば妻はそれに従いなさい。
そして夫たちを、頭である夫たちは妻を愛しなさい。
どういうふうに、自分を愛するように妻を愛しなさい。
それはキリストが教会を愛し、教会のためにご自身を捧げられたように愛するんですよ、というふうに私たちに言っているわけです。
これが祝福された、小さいけれども共同体のあるべき姿なのだ、ということをここから教えられるわけであります。
一つの家庭が結婚によって生まれていく、それは祝福されたものとなる家庭と言われる。
そういうものがそこに生み出される。
それと同じようにキリストによってあがなに取られたその群れである教会も神の家族と言われる。
そこまで神様は生きてくださる、そういう親しいお互い、教会につながるお互いであるということが本当に祝福であると言えるわけです。
二つ目の創造、それは新しい命の創造。
男女の結婚によって新しい命が生み出されてくる。
それは自然の摂理だと言えるわけです。
そしてその命を父であり母であり、つまり妻であり夫である者が育てていく。
愛情を持ってそれを成長へと向かっていく、そういうことをしているわけですね。
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それは非常に神様の祝福であります。
それと同じようにキリストにあってそこに群れてくる人たちが古き自分に進んで新しい命、魂がそこで生み出されてくる。
この教会におきましても新しい魂が生み出されてきます。
いわゆるクリスチャンとなってベビークリスチャンが生まれてきたわけですね。
そして教会はそのベビークリスチャンを一つ一つにまた育てて
そして宿に間に合う器になるように成長になっていく。
そのように結婚を通して新しい命が生み出されそれが成長していくように
教会にも新しい魂が生み出されていく。
そして育つまで育てられていく。
それが教会のスルーズであります。
クリスチャンにとって何が幸いか
それは誕生日が二つあるということです。
言えますか、自分の誕生日。
一つは父母を通してこの世に私の命が生み出された誕生日があって
これはしょっちゅう書きますからすぐに言えるわけですし
また言えないといけないのですが
もう一つの自分の魂が新しく生まれ変わった
その魂の誕生日皆さんは覚えていますか
それは洗礼を受けた時でもいいですし
あの時私は神様に出会って
そしてあの時私は古い所に住んで
新しい命がお腹に宿ったんだという
そういう記念の
しっかりと持って
そしてどちらも大事ですから
この二つの誕生日をお祝いするようにしてください
私たちもそのことを覚えて
それぞれのバースデート
そして魂がいつもそこに帰ることができるように
いろんな信仰の戦い困難
あるいは信仰が苗えてしまう
そういう時に
そうだあの時
あの時神様に出会って
私は古い自分に死んで新しくされたんだ
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あのバースデーをいつも心に留めて
そして一人で静かにそれをお祝いするのもいいですし
あるいは教会にありましては
例えば受禅記念日というようなものを
皆さんに深刻告白し
あるいはそのことをもう一度振り返って
お祝いする
記念とするという
そういうことをすることも大事なことだと思うんですね
こういう二つのバースデーは
教会に来なければ
神様の救いをいただかなければいただけない貴重なものです
そのことを覚えておきたいと思うんですね
それともう一つ新しい命がそこで生み出されるという
そのことの中には
教会がまたその教会を生み出すという
そのことも生まれていると思うんですね
キリストにあって
アガナに取られた群れ
それが教会
そしてその教会がまたキリストにあって
新しい教会を生んでいく
それは開拓の教会であるとか
あるいは株分けの教会とか
そういう形を通して
新しいまた群れがそこで生み育てられていく
これも本当に幸いなことであると思うわけであります
三つ目の新しい人格の創造
これは結婚ということをまず考えますときに
そこに新しい人格
その男女が新しい人格をそこで
作られていくということですね
国のときではなかった
そういうさまざまなことが
そこで起こってくるわけですね
男性女性と言われるぐらいですから
性が違うということですね
そういう異質のものが
一つ屋根の下で進んでいくわけですから
当然そこに男性の人って
そういうふうに考えるのか
そんなことをそういうふうにとるのかとか
驚きの連続でありました
いまだになじめないでいる方も
おられるかもしれないというぐらい
一人のときでは
一人の気楽さと寂しさもあるんですが
24:00
一人のときはそれぞれ自分の持っている物差しで
測るわけです
よくたとえで言われるように
相手の人が何か茶碗を割れば
平気があります
ところが自分が一人で住んでいて
そして茶碗をすぐ壊せば
割っちゃった
また買えばいいやっていう
これぐらいの物差しで
さばいていくということですよね
でもやっぱり
例えば認体もしなければいけない
あるいは心配りもしなければいけない
夫のため妻のためあるいは子供のために
自分を犠牲にして
また私たちのお勤めをなしていくわけです
交わりをする
そんな中で
29:02
キリストは私たちを愛し
教会のために
ご自身を捧げてくださった
そして26
キリストが通されたのは
無言により水の愛をもって
教会に進めて
聖なるものとしてのためである
ご自身で国や川や
このようなものの
何ひとつない
清く水のないものとなった
栄光の教会を
ご自分の前に立たせるためです
それはまるでキリストが
花嫁を迎えるように
今ここに立たせて
お前を
この教会を
私は受け入れたのだ
私はお前を贖ったのだ
お前は私のものだと
神様は私たちに語りかけてくれ
私たちはただ委ねて
こんなものでもいいでしょう
30:02
神様は私のようなものをも
認めてくださる
その具合に
ただ
ただ
ただ
お祈りをします
天の父なる神様
罪深い穢れたものをさえ
聖なるものとしてくださる
その十字架の上で表された
キリストの御愛に感謝をいたします
さらに私たちを
また教会を
主の花嫁にふさわしく
整えてくださるよう
お願いをいたします
また結婚を通して
どうか男女それぞれが
神様の豊かな祝福に
預かることができるよう
お導きください
全てを委ねて
主キリストの皆によって
お祈りいたします
アーメン
31:11

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