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みなさん、あらためておはようございます。
ようこそいらっしゃいました。
今日、誠実礼拝、またこのウェルカム礼拝で捧げていますけれども、
共に礼拝できますこと、本当に嬉しく思います。
メッセージの前ですけれども、
今日は初めての方もおられますし、
また、お久しぶりの方もおられること、本当に感謝いたします。
おちのび姉妹の知人の方々、
あるいは、今、2階にいらっしゃいますけれども、
ゆかさんと、また子どもたち、お二人も来てくれました。
また、柳川さんのご親さんも、
娘さんも、またお孫さんも来ていただいて、
田中さんのご長男さんも、大村姉妹のお母さんも、
心から本当に歓迎申し上げます。
今日の礼拝を通して、本当に皆さんお一人お一人の上に、
唯一の神から来る、誠に喜びと癒しと平安が豊かにありますように、
心からお祈り申し上げます。
今日は、喜びと癒しはどこから来るのか、
という対応をもって、メッセージに入りたいと思います。
皆さん、最近皆さんには、嬉しいことが多いですか、悲しいことが多いですか。
私たちは生きていく中で、人生にいろんなことが起きると思います。
時には、とても嬉しいことがあったりします。
あるいは、不意に事故に遭うこともあったり、
時には、突然重い病気にかかることもあったりします。
あるいは、今の時代は、もう年齢関係なく、
前世代にストレスがはるかのように思われます。
20代の若い方々には、恋愛の問題とか、学業、あるいは就職の課題で、
本当に悩んで、あるいはストレスがたまっているかなと思います。
子育て中、歳中のお母さん、お父さんの方々には、
子どもの勉強のことや、将来のことや、今の時代は、
子どもたちのスマホの使い方の問題や、ネットの問題や、さまざまな問題があったりします。
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あるいは、退職された方々には、その退職後の虚しさと言いましょうかね、
そういった課題、経済的なこと。
あるいは、お年寄りの方々には、体のあちらこちらに病気ができたり、入院されたり、
手術をされたり、いろんなことが起きたりします。
ニュースで見ましたけれども、最近は、20代、30代の若い方々にも、
ストレスのせいか分かりませんけれども、脳臓中で倒れる場合も非常に多くなってきたというニュースを見たことがあります。
あるいは、クリスチャンの方々は、自分の信仰だけではなく、
家族の救いのために祈ること、時にはその信仰のことで、
夫婦間であるいは親子間でトラブルが起きたり、
反対があって悲しんだり、辛い日々を送ることもあったりします。
ところがですね、考えてみたら、そんなことが人生じゃないの?
そもそも人生ってそんなもんだよ?って言ってしまえば、そこまでだと思うんですね。
確かにそうかもしれません。
時には健康だったり、時には病気だったり、時には余裕があったり、時には乏しかったり。
それが人生なのよ?って言ったら、そこまでかもしれません。
しかし、この日本だけではなく、世界に何か違った生き方をする人たちがいます。
その生き方が違う。何か考え方が違う。
例えば、病気や事故、死、それに対応するその死方、生き方が、他の人々と何かが違う。
それこそクリスチャンの生き方であり、聖書が語る生き方であります。
唯一の神、創造主なる神様を信じるその人々には、その生き方が違います。
何が違いますか、教えてくださいと。
うまく言えないかもしれませんけど、何かが違います。
唯一の神を信じる方々には、本当にみんな悲しんでいる状況の中にあっても、みんなダメだダメだと言われる状況の中にあっても、悲しんでおりません。
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みんな気落ちしている状況の中に置かれていても、気落ちしません。
しばらく悲しんでいるように、辛いそうに見えるかもしれませんが、しかし彼らには何かが違う生き方が、力があるんですね。
日本をはじめ、世界に大体でおよそ6億人のクリスチャンがいると言われています。
世界中に6億名ですよ。
とても多いんじゃないですか。
そのクリスチャンの生活、人生の中で、本当に小さなことから大きなことまで、神様によって、あるいは生きていく中で、
これこそ神の助けだ、あるいはこれこそ喜びだ、あるいはこれこそ癒しだと言える、一般的な言葉で言うならば、信仰体験談があります。
数え切れないほど多くあります。私たちが知らないだけですね。
それを教会では証と言います。承認、証言という意味なんですよね。
私が去年、全部網羅することはできませんし、そしてその中で、この時に、この2021年、今日5月16日、今日というこの日に、またこの神戸、この明丹教会に、私という小さき者がおりまして、
今日は、今私が問うているこの答弁、その中で神様が、唯一の神様が、私に起こしてくださった神の喜びを、癒しを、そのお証をさせていただきたいと願っております。
まったく初めてお聞きになる方もおられるかと思いますけれども、それはそれとして聞いていただけたらと思います。
あるいは、最初からそのプロセスを見守ってくださった方々には、改まった心を持って聞いていただけたらと願っております。
それから何より、この証を通して、私は隠されて、もう徹底的に隠されて、私たちが信じる、想像中の唯一の神様だけが、栄光を受け取られますように願っております。
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そして今日の礼拝が終わって、あるいは皆さんがお家に帰って、云々牧師じゃなくて、神様が、神様が、神様が、そういうふうに言われてほしいですね。
私は去年の12月、秋から少し症状はありましたけれども、とてもひどい咳をしておりました。
一日中咳をするような感じでした。
そしてそれがどんどんひどくなって、後からは咳をするたびに、痰と、痰に混じった血が出てきました。
結構な血がですね、出てきたわけなんです。
普段もめちゃくちゃ、わかる方はわかりませんが、めちゃくちゃ健康なタイプの男ではないんですけれども、
その12月は本当にだいぶ違ってました。私の体の調子が。
それでですね、心の中では、これはちょっと尋常じゃない、何か違う、何か起こるかもしれないと、そんなふうにですね、心に思っていました。
そしてですね、誰にも言っていなかったんですけれども、12月にですね、一人で密かに身分整理をし始めました、実は。
捨てていいものはもう全部捨てて、処分していいものは全部処分して、そしてもしかしてわからないかもと思ってですね、
後任の先生のために引き継ぎの準備も全部終わりました。そんなふうに年末を送りました。
皆さん、私たちはですね、今、今日、大体皆さんお聞きそうに見えますけれども、実は明日、何が起こるか誰も知らないんじゃないですか。
明日の朝、5月17日の朝、目が覚めたら私たちは生きていることですし、目が覚めなかったら亡くなったわけなんです。
でしょうね。その中でですね、そういうふうに身分整理をしながら、症状はもっともっとひどくなってきました。
そしてですね、1月になって、到底その咳やその血痰をですね、耐えることができなくてですね、兄弟とも相談をして、
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妻にある病院でですね、手術の撮影をした。その結果はですね、そこでは肺癌が強く疑われる。
だから大きな病院に行って精密検査を是非してくださいと強く勧められました。そして病院も紹介してもらいました。
肺癌が疑われますよと。その見せてくれたシティの写真のですね、右の肺の大きな部分が真っ白くなっていて、これが癌でしょうみたいに、女性の先生でしたけれども言われました。
そのことをまず妻に言って、そして神戸大病院でですね、1月にいくつかの癌の検査を受けました。
そしてその結果がですね、1月29日に出たんですよ。実は私の、知らなくていいんですけれども、1月27日が私の誕生日なんですね。
それで誕生日の2日後に結果を聞くことは、ある意味で非常に辛かったんですね。
余計な考えだったのかもしれませんが、この誕生日のお祝いが私の人生で最高かもしれません、みたいなですね、そんな思いまでしましたけれども。
それで妻と一緒にですね、2人で神戸大病院に結果を聞きに来ました。
家庭の男性の先生でしたけれども、主治医の担当医の先生は、外来の先生は意外と淡々と検査結果を言ってくれました。
肺癌でした。ステージから言いますと、4期Bでした。
これですね、この右の肺の四角に入っていると、あそこがですね、がんの悪性腫瘍です。
4期Bですと言われました。もう診断書、A文にですね、もらいましたけれども、はっきりと書かれていました。
1期、2期、3期、4期、4期の中でも一番最後。
今はそういうふうな言葉を使いませんが、いわゆる末期ですね。
それからですね、組織検査結果、肺多形癌という、OE形癌という癌です。
これはですね、肺癌の中でもとても稀な悪性腫瘍で、肺癌の中でも0.1から0.3%しかない、珍しい癌だそうなんです。
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私も専門医じゃないので分かりませんが、先生言うには、とにかく毒性が強い、転移が早い。
そして腫瘍の塊も大きくて、手術は不可、根治も不可と言われました。
しかも最初はですね、膵臓と腹腎にも一部転移が見つかりました。
幸いに脳は大丈夫だったんですね。
そしてその主治医の先生は、担当医の先生はもう、なるべく早く抗がん治療を始めた方が良いでしょうと、そういうふうに言われました。
その時にですね、妻はですね、外では驚いていないような姿をしてましたけれども、
その心はどうしようもなかったみたいだったんですね。
普段は低血圧のものでしたけれども、突然高血圧が来てしまってですね、
150、70まで上がって、多分夫の病気で少なくともショックを受けたかもしれません。
そこでですね、だいぶ今は治まっていますけれども、そんなことにもなりました。
そこで私は一人のクリシャンとして、この結果をもって神様の前に祈り始めました。
そして普段私が信じている信仰通りに、命を下さる方も神様ですし、それを取るのも神様です。
神様がもし私を生かしてくだされば、私は生きるようになり、私の命を取ってくだされば、私は神のもとに行くのです。
もし神様が私の命を伸ばしてくだされば、この地で私が成すべき使命がまだ残っていることですし、
もし神様が私の命を取ってくださるならば、私の使命は、人生はそこまでだというふうに主は私の心に語ってくださいました。
皆さんこれは決して宿命論、運命論みたいなものではないんです。
目がちょっとこもっていますね。運命論じゃないんです。
例えば患者さんがお医者さんに治療のために自分の体を委ねるんじゃないですか。
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全能の神様、私を作られた神様、私の生と死を納められる神様に、私の命もすべてをお預けすることなんです。
人は自分が信頼できる、信頼している人に、自分や何かを預ける、委ねること。委ねていると、とても心がほっとするんですよね。
安らぎを得ることができるんですよ。
キリスト教の考え方と言いましょうか、教え、世界観はこういうものなんです。
わかりやすく話をしましょう。
神様の心という巨大な枠があるんですね。目には見えない大きな枠があります。
それは人には計り知れません。知り尽くすこともできない神様の心という大きな枠があります。
それを教会では節理と言いますけれども、枠という言葉にしましょう。
この大きな神の枠の中で、人生のすべてのことが、世界のすべてのことが、その枠の中で、神の主観の中で起きたり消えたりするわけです。
嬉しいことも、悲しいことも、事故も、事件も、病気も、疫病も、自然災害も、戦争も起きたりします。
そして、その巨大な枠の中で、そのすべてを納められる神様は、私たち一人一人、
それはクリスチャンであろうが、じゃないであろうが、すべての人類に対する神の心は、愛と恵み、憐れみというものなんです。
私はこのような信仰に基づいて、肺がん末期という状況の中で、自分自身を変えりみるようになりました。始めました。
以前には見えてなかった自分自身の醜い様子が見えてきました。
以前には見えなかった暗い自分自身の心が見えてきました。
ここには醜い自分、傲慢な自分、心が堅い自分、慈しみも憐れみもない自分、穢れた心を持っている私、
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罪と悪と毒でいっぱいになっている自分自身、偽りと偽善でいっぱいである自分自身、神様を恐れていない自分自身など、
そのような今までは見えなかった、霞んでいたような自分自身のことが発表してから、くっきりはっきり見えるように、もう気づくように、わかるようになりました。
神様が示して教えてくださったんですね。本当にある意味で、朽ちている私の心、魂が見えてきたんですよ。
そこでですね、私は本当に神様に悔い改めの祈りをし始めました。
自分自身の罪と悪、穢れを悔い改める祈りでした。
主よ、神様、私の魂を癒してください。きれいにしてください。この汚れを、この汚いものを、主よ、洗い流してくださいと切に祈りました。
私が先に祈ったのは、神様、私の病気を癒してください、ではありませんでした。
私の魂を癒してください。それが先の祈りでした。
皆さん、聖書が言う悔い改めの祈りは、ただ自分自身を責めなさい、自分の人生をもろいなさい、そういったものとはですね、全く違うものなんです。
聖書が語る悔い改めは、神の心に私の心を一致させる行いです。
わかりやすく例えで言うならば、ラジオの周波数ありますよね。
昔のラジオは、つまみを回したり、今のラジオもバンドをボタンを押すんですけれども、
その周波数が、私が持っているラジオとその放送局の周波数があったら、きれいな音が聞こえるでしょう。
でも放送局でいくらすごいですね、世界第一のピアニストが演奏していても、その周波数が合わなかったら聞けないんです。
放送局に問題があるんじゃなくて、私が周波数を合わせてないから問題です。
悔い改めは、自分勝手に生きてきた生き方から、神様が喜ばれる生き方に合わせる、変えることなんですね。
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悔い改めは、人生の最後は終わりは死と苦しみ、他にはないんだ、といった生き方から、そういった考え方からですね、
いや違う、永遠の命と祝福をくださる神様がおられる、そしてその神様のもとに帰るんだ、そしてそこで安らぐんだ、というふうに言い方を変えることなんです。
そういうふうに、私は肺癌という病気を持って、悔い改めの祈りと、また同時に感謝の祈りを捧げる、という日々を送りましたし、今も送っています。
さっきも言いましたようにですね、神様は私にもうちょっと生かしてください。今年51なんだけれども、少なくとも65まではいかがですか、そんなような祈りではなかったんですね。
ただこの病気、肺癌が治ってですね、健康に生きることはある意味で何の意味もないと思いました。
そしてそれは神様が願うことではないと私は信じます。
たとい私の癌が治らなくても、よそより早く死んだとしても、私が今、私のこの罪を悔い改めて、神様の前に清い綺麗な心を持って魂を持って立つことができれば、
それで神の前にですね、喜びを持っていくことができれば、私はそれで十分だと、そういうふうにですね、そういう心を持って、今もそういうふうに日々を過ごしております。
聖書にはこういう御言葉があります。歴代史第2七章14節ですけれども、私がお読みします。
私の名で呼ばれている私の民が、水から減り下り、祈りを捧げ、私の顔を死体求めて、その悪の道から立ち帰るなら、私は親しく天から聞いて、彼らの罪を許し、彼らの血を癒す。
もう一度読みますね。
私の名で呼ばれている私の民が、水から減り下り、祈りを捧げ、私の顔を死体求めて、その悪の道から立ち帰るなら、私は親しく天から聞いて、彼らの罪を許し、彼らの血を癒す。
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という素晴らしい御言葉があります。
私が診断を受けたときに、神様からいただいた御言葉がこれでした。
そして私は本当に、さらにもっともっと減り下って、そして貧しい心を持って、12週間の抗がん治療を始めました。
誤解しないでほしいのは皆さん、信仰を持つということは、科学や医学やそういったものを無視する生き方を言うのではないんですね。
神様が許してくださった道具、神様が人間に知恵をくださって、その人が人間が開発したそういった薬であろうが、治療方法であろうが、さまざまな機会があったりしますよね。
そういったことを感謝をもって受けるんです。
これもまた信仰を持った人の姿勢だと思います。
そんな中で、究極的に私を癒してくださるのは神様であると。
だから不安せずに、その結果を感謝をもって受け入れることができる、喜ぶことができるということなんですね。
そういうふうに喜びをもって感謝をもって治療をしてきました。
そしてですね、一通り12週間の治療が完全に終わったわけではありませんが、12週間の抗がん治療の検査をしましてですね、脳のMRIと腹部のCTの検査をしまして、
そのある意味で中間としての大きな結果が先週の水曜日に出ました。
さあ、果たしてどうなったと思いますか皆さん。
あまり関心ないですか。
神様が私の病気を癒しておられると、そういうふうに思いますか。
神様に捧げる祈りは聞かれるんでしょうか。
砕かれた心を持って悔いやるための祈りを持って祈っている、あるいは多くの方に祈っていただいているこのことを、神様はどういうふうに答えておられるんでしょうか。
そのCTの写真をお見せしたいと思います。
2番目の写真を見せてください。
これですね、皆さんから見て左の方が先のと最初診断の時のがんですね。
だいたい9センチぐらいと言われていました。
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それが12週間の抗がん治療をして、今は右の方に小さくなりました。
あまり感動も感激もないですか。他人の病気だからもう何とかなったみたいですね。
今はもう2センチ以下の小さいがんになってしまいました。
主治医の先生はですね、若手の先生ですけれども、
いやユンさんすごいですね、この薬もめっちゃ効いてるんですね。
もう主治医の先生も驚いて、私も驚いて、皆さんは驚いてなくて。
これもすごいなと思いますね。
祈ってくださっておられること本当に感謝いたします。
はい、いいです。
まだ治療は終わってないです。
残っていますしね、治療中ですけれども、私は信じます。
癒しの神様が、全て収めておられる神様が、主の御心であれば癒してくださると。
また今日ですね、全部は話し切れませんが、いつかチャンスがあればですね、
主がまた私を感知して本当にきれいに癒してくださればですね、
私を含めて、私と一番近い愛する人、2人のもの、それぞれ違う癌ですけれども、
癌の癒しの奇跡の若しを察していただきたいなと思いますね。
私の母、私の妻、それから私。
不思議に、私は一番最後の癌の列車に乗ったような気がしますけれどもね。
全てですね、省略して、母も癒されました。全く癒されました。
そして10年前、胃がんを診断されて手術をした妻もですね、
感知と言いましょうか、薬も飲まずですね、元気に過ごしています。
それでですね、母と妻と私3人は、癌の仲間になりました。
2人は癒されて、私はまだ治療中ではありますけれどもね。
だからですね、本当に今はですね、特に夫婦間の中でですね、
本当に互いを何と言いますかね、
憐れみ合うような夫婦になって、
今年で結婚して25年目ですけれども、どの時より今の時が一番互いに愛し合っているんだなと、
そういうふうに思っております。
皆さん、誠の喜びと癒しはどこから来るのでしょうか。
今日の聖書の見言葉が、こういうふうに語っているんです。
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私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。
この山に向かって目を上げるという意味は、山は神様なんですね。
だから神様に向かって目を上げる。
私の助けは主から来る。神様から来る。
天地を作られたお方から来るんですよ。
その方はですね、私の皆さんの足をゆろけさせることもない。
私たちを、皆さんを守られる方は、まどろむこともない。
眠ることもない。
ちゃんと守ってくださるんですよ、という話です。
菩薩を見ますと、主はあなたを守る方。主はあなたの右手を覆う陰。
昼も日があなたを打つことがなく、夜も月があなたを打つことはない。
主はすべての災いからあなたを守り、あなたの魂を守られる。
主はあなたを行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。
アーメン。
私の肺がんが、まだ治療中ではありますが、
私は今ですね、会う方々に、みんなにこういうふうに言っていますよ。
私は肉体の、体の病気は得ましたけれども、私の魂は癒やされて、回復されているんだと。
そして、この肺がんという病気は、ただの運が悪い、難しい、そんな災いではなく、私の魂の癒やしの薬なんだと、
私は自信を持って会うたびに、多くの方々にこういうふうに言っているんです。
嘘ではありません。本当なんです。
この病気は呪いでも不幸でもありません。
神様がくださる、私の魂、あるいは私の人格、品性、人間関係、使命、希望に対する癒やしの薬であり、回復の薬であると、私は確信しております。
今私はですね、皆さんもそうですけれども、コロナのことがあるから、マスクをかけているから、私の表情があまり見えないかもしれませんが、
一瞬黙ってマスクを外しますから、不幸そうに見えるか、幸せそうに見えるか、ちょっと見てくださいね。
どうですか。マッキー癌で不幸そうに自分の人生を呪っている人のように見えますか。そうではないでしょう。
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ある意味でマッキー癌患者としては見えないんじゃないですか。
近くにいるある牧師がですね、「ユン先生、あのね、ちょっとこういうことは悪いけど、あなたはもう前よりもっと元気になっているみたいよ。」
そろそろメッセージを終わりたいと思います。
人生って辛いものなんだ。しょうがないんだ。そういったものなんだよ。そういうふうに言わないでいただきたいですね。
ここに違った生き方があるんです。
どんな難しさの中に置かれていても、そこで喜びに満ちあふれ、感謝に満ちて、幸せに満ちて、希望に満ちて生きる生き方があります。
そしてそれを持っている人、味わっている人々が世界中に大勢います。
その生き方は、唯一の作り主なる神様の中にあります。
そしてその方は今日の御言葉にもありますように、私たちに幸福を、癒しを、希望を、平和を与えたいと願っておられるお方です。
愛する皆さん、誠の喜びと誠の癒しは、ただ作り主なる唯一の神様から来ます。他にはありません。
どうかこの神様に出会っていただきたいです。この神様を求めていただきたいです。
聖書は、私たちが求めれば、探せば、必ず会ってくださると言われています。この方こそ誠の神様です。
私が今、体は陶別でありますが、神様からいただいたように、皆さんにも神様による誠の喜びと誠の癒しと誠の平安が豊かに注がれますように、心からお祈り申し上げます。
お祈りしましょう。メッセージはここまでです。