受肉のキリスト論の導入
それでは、ヨハネの福音書1章の1節、14節、18節をお読みします。
はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。 言葉は神であった。
言葉は人となって、私たちの間にすまわれた。 私たちはこの方の栄光を見た。
父の身元から来られた、独り子としての栄光である。 この方は恵みと誠に満ちておられた。
未だかつて神を見た者はいない。 父の懐におられる独り子の神が、神を解き明かされたのである。
以上です。今日はこのところから、受肉のキリスト論と題して御言葉を取り付けます。
みなさんも新年明けましておめでとうございます。 今年2025年初めての礼拝です。
来週から、ヨハネの3章に入ります。 新しい年の初めに、新しい章に入っていくんですけれども、その前に繰り返し言っておきますけれども、
1章の18節までの部分ですね。非常に読み進めていく上で、大事なことが詰まっております。
中でもキリストの受肉という、難しい言葉で言うと、心学的な内容が詰まった部分です。
それを理解することが、3章以降のイエス様の言葉、御業とよく言いますけれども、行動を理解する上でとても重要です。
そういうこともありまして、いくら説明しても時間が足りないぐらいなんですが、この3節を中心にキリストの受肉ということを考えていきたいと思います。
ロゴスの概念
それはどういうことかというと、なぜイエス様が人でありながら神であるのか、それはどういうことか。
なぜそのような神性と人性の両性を備えてなければいけなかったのか、そのことを考えていきたいと思います。
5世紀には既に議論がされていて、詳細は詰められなかったのですが、その両性を持っておられるということを信じていこうということで、既に合意がなされているわけです。
少し難しい話なんですけれども、そういう理屈と言いますかね、専門用語で言うと信学と言うんですけれども、それを理解することによって、私たちが当たり前に信じていることを、もうちょっと広く、そして深く知ることができます。
そして、私たちの信仰も根が広く深くなるという、そういう幸いなことでもあります。
そして、繰り返しになりますが、これから読み進めていく上での良い準備となりますから、そのところを見ていきます。
ロゴスという言葉が新語であったということが1つ目。2番目は、なぜイエス様は神でなければならなかったのかということ。
それで最後には、じゃあなぜイエス様は人でなければならなかったのかという、その3点を見ていきます。
ちょっと難しいかもしれませんので、手元のレジュメ、完全原稿をですね、また読んでいただいたり、また修正したものをですね、後でホームページとか音声のところに、いわゆるアップしますので見ていただいても結構です。
このようにですね、イエス様が人でありながら神であるとはどういうことか。イエス様がそのような形であることが、なぜ私たちにとって必要なのかということを見ていきます。
まず、新語としてのロゴスということです。 新しい言葉ですね。
一章一節、初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。言うまでもなく、この言葉という言葉が、元のギリシャ語ではロゴスとなっているわけですね。
イエスキリストが人であり、神である。
繰り返しますが、それは神学の専門用語では受肉と言います。 そして、ある学者はですね、この受肉についてこういうことを言ってるんですね。
イエスキリストが神であり、人であるという、根本的なキリスト教の信仰を要約し、明確に主張している。それが受肉という言葉なんですね。
英語でインカネーションと言います。 それをヨハネの福音書では、ロゴスという言葉で一言で言い表していることが見事だと言うんですね。
2024年、毎年ユーキャンがですね、新語流行語大賞を決めますよね。
大賞が不手ほどということだったんですけど、それ触れませんが、 10個トップ10の中に
5050という言葉が入りました。もう何か皆さんもご存知ですよね。 大谷翔平選手のホームランと投類数が50を超えたというその異形をですね、表す言葉が
5050です。 で、ちょっと考えてみると、50という数字は単純なもので誰でも知っていますよね。
でもそれがですね、 5050という言葉を2つ合わせることによって
誰もそれまで成し遂げたことがない、歴史的異形を表す新しい言葉になっているという、そういう仕組みなんですよね。
で、いわば誰でも知っていた言葉が新たな意味を持つ、 その実例として5050というのがありました。
実は、ヨハネの1章で使われているロゴス言葉も同じことなんですね。 似ています。
このロゴス言葉という、ちょっとややこしいんですが、ロゴス言葉という単語はですね、
イエス様が先ほどもここで言ってますように、本物の人間であって、本物の神であるということをピタリと言い当てるのに、
最適な言葉だって言うんですね。 実はこのロゴスという言葉は
いまだかつてなかったその受肉ということを表す新しい意味を持つ言葉なんですけれども、まず
福音書を書いた当時のユダヤ人、特に旧約聖書に精通していた人々にとっては、ロゴスという言葉は神を示す言葉だということを
理解していたんですね。 どういうことかというと、よく時代劇なんか見ると、オカミとかという言葉を使いますよね。
あるいはコウギ、幕府なんかを言う。それは君主とか幕府を別の言葉で言い表す言葉ですよね。
オカミ、コウギ。いろんな意味がありますけど、その中の一つには直接口にするのが恐れ多い。
そういう敬意や威風の念が入っていて、オカミやコウギという使い方をするわけですね。
で、それ以上に旧約聖書の時代の人々は、神という言葉を直接口にすることを威風の念からしなかったんですよね。
よく知ってるように。それでいろんな呼び方がある中の一つに、例えば、マタイの福音書ではテンという言葉を言うんです。
神って言わないで。 テンというのは神という意味があるんです。
そして実はその中でロゴスという言葉、もともとはアラム語だそうなんですけども、言葉という単語をもって神を指し示すという、そういう信仰と言いますかね、表現ができたそうです。
アラム語の旧約聖書の翻訳の一部なんですけど。ですから当時旧約聖書を知っていた人たちは、ギリシャ語ではロゴスですけれども、それを聞くと神だということがピンときたわけなんですね。
もう一つは、実はですね、最適な新語だとロゴスをヨハネは考えたんですけれども、
ギリシャ的な背景というのが当時の一般的な考えが思想だったんですね。 ギリシャ、聖書もギリシャ語で書かれていますから、ですから
クリスチャンとか神の民でない人、一般の考えでギリシャ文化に来ている人にとってロゴスという言葉は、宇宙を支配し全ての出発点だという、そういう理解もあったんです。
そしてそれも踏まえながら旧約聖書の信仰を引き継いで、
ヨハネは神を表す言葉として最適な新語として、ギリシャ人の文化を持つ人たちにとってもピンとくるようにあえてロゴスという言葉を使ったそうです。
しかし彼はですね、ギリシャ文化の背景、この宇宙の支配とかすべての出発点ということを考えながらも
ロゴスということで、このことは絶対失ってはいけないという大切な信仰と言いますか、理念も込めていました。それがこの改革にあるような言葉、ことなんですけれども。
ヨハネにとってロゴスはですね、生きた存在、命の源、それは擬人化した言葉ではなくて、人格を持つ神的な存在で、神以下ではなかった。
そういう意味も込めて新しい言葉としてロゴスということをヨハネは使ったわけなんです。
まあ要約しますと、ロゴス、つまり言葉というその単語を用いて、ヨハネはこの福音書の中で独特の新しい言葉としてそれを使った。
そしてそれによってイエス様が本物の人間なりながら本物の神であるという、繰り返しますが、受肉、神性、人性の両性を備えた特別な方だということを、このロゴスという言葉で表している。
神である理由の探求
ちょっと難しいんですけど、そのことをぜひご理解ください。覚えておいてください。
では2番目。では、両性のうちになぜイエス様は神でなければならなかったのか。
当たり前ですけども、これを少し掘り下げていきましょう。18節は空いてあげておきましたけど、ちょっと読んでみましょうか。
いまだかつて神を見た者はいない。父の懐におられる独り子の神が、神を解き明かされたのである。
ここの言葉の解説だけでも、一時期があっても足りませんけどね。この時の
説教原稿などを振り返っていただけようと思いますが、イエスはなぜ神でなければならなかったのかということをお話ししていきましょう。
それはですね、ある信学者がこのように言ってるんですね。もしキリストがただの人間に過ぎなかったのであれば、その時彼は
神についてどんな考えを述べようと全く不適格だ。彼がただの人間に過ぎなかったのであれば、その時彼イエスは神についてどんな考えを述べようと、どんな証言をしようと全く不適格だったって言ってるんですね。
繰り返しになりますがイエス様は神様でなかったのならば、イエス様が述べる神についての言葉は聞くに値しないんだと言っています。
当たり前ですけど、なぜかそれをちょっと追い下げていきたいと思います。
昨年ですね、いろんな事件がありましたが、一つ、冤罪ということが問題になりましたよね。
長らく続いた冤罪が解決したというかと思います。あるいはまた、あるメーカーが訴えられて、
獄中でガンであったのに、死んだ方まで怒ったという冤罪のことも話題になりました。
冤罪と関係あることの一つに、ありもしないことを事実のように証言する、証言させるということがあるかと思います。
証言とは何ですか?ということを辞書でいろいろ調べますと、証言とは事実を証明すること。
また、体験した事実を話すこと、またその話。 事実の証明、事実の体験を話すということなんですね。
そうしたらもう皆さん分かると思いますけれども、
じゃあイエス様がなぜ神について証言するにあたって、神でなければならなかったかということは、ここからわかるわけなんです。
なぜなら、神については神様以外証言できないというのが当然だということが、ここからわかるわけなんですね。
神についての事実と神様として体験したことを証言するのであれば、神以外に本当の証言ができないということです。
だから原稿にないんですけれども、ヨハネ一書一節には、はじめに言葉があった。
言葉は神であった、と書いてあります。
すべてのものはこの言葉によってできた、と書いてあるじゃないですか。
だからさっき言ったロゴス、はっきり言うとイエス様が天地万物を想像されたお方であるからこそ、
その神の御心を私たちに証言することができるという理屈になるわけなんですね。
当然誰も神様を見たことがないということも理由になります。
この1章18節にはっきり書いてありますよね。
未だかつて神を見た者は誰もいない、と書いてあるんですね。
さらに第一手もて6章16節にはこのようなことが書いてあるんですね。
神様についてこういうふうに書かれています。
死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、
ここから読んでみましょうか。
神の証言とイエスの必要性
人間が誰一人見たことはなく、見ることもできない方、この方に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。
人間は見ることができないし、見たことがなくて、近づくこともできないのが本当の神なんだという。
だから歴史上今も私が神だというようなことを言う人、軽々しくそのように言う人というのはやはり怪しい。
それほど神について、神だということ、私は神だということが厳粛だということがこの聖書の言葉からわかるわけですね。
そしてイエス様自身も、自分の証言、神についての証言、そして自分が神であるということが真実だということを、このようにちょっと難しい言い回しですけれども、述べています。
ちょっと頑張って読んでみましょうか、この3文。
私については他にも明かしをする方がおられます。 そしてその方が私について明かしする証言が真実であることを私は知っています。
ここはその方というのは、父なる神様です。 だからちょっと後でゆっくり読んでいただきたいんですけれども、
父なる神様もイエス様がする神についての証言が真実だということを証言しているということなんですね。
今日ちょっと取り上げようとして省きましたけれども、ここにはイエス様が神の御子であるということの、イエス様と父なる神様の親密さということもここに込められているわけですよね。
このような理由から、神のことは神しか正しい証言ができないという理由から、イエス様が神でなければならないということがわかるわけなんですね。
わかるというか、言えるというか、言えなきゃいけないわけなんですね。
人間としてのイエスの意義
最後、次に神だけではなくて3番目、イエス様が人となる必要があったのかということなんですね。
14節、クリスマスの時も見ましたけれども、この言葉ですよね。
言葉は人となって私たちの間に住まわれた、私たちはこの方の栄光を見た、父の身元から来られた、独り子としての栄光である、この方は恵みと誠に見知っておられた。
この先ほど引用した信学者は、イエス様が神でなければならないといった後に続けて、このようにも言っているんですね。
また、もしキリストが神であるだけなら、その時彼は人間生活のどんな経験にとっても全く無関係です。
彼が人間ではなく神だけであるのであれば、人間生活のどんな経験にとっても全く無関係だよ、と言っているんですね。
それは皆さんがよく信仰者としてご存知のことと思います。
イエス様がただ神様だけであるのであれば、人間が経験する苦しみについて述べる資格はない、ということですよね。
うちの教会でガン哲学外来カフェというのをやっているんですけれども、病気や落ち込んだ人が元気な人のところに行くと、かえって落ち込むというんですね。
それを数式でマイナスかけるプラスがマイナスになっているんです。
だけど、病気や元気がない時に同じように痛みをかえている人のところに行くと元気になる。それをマイナスかけるマイナスはプラスと言っています。
このイエス様が人間となったからこそ、人間の悲哀を知って人間に同情できるということは、皆さんがよく知っている信仰の真髄であられるわけですよね。
さらに続けて、こういうことを見ていきましょう。
ビジュアルにはないんですけれども、イエス様がなんでわざわざ人間になったかというと、これは通訳みたいなものだと言うんです。
神が人間にわかるように、この人間の言葉で、難しく言うとご自分を啓示する明らかにするためには、そして
人間がわかるような形で神を見るためには、やっぱり人間にならなきゃいけなかったって言うんですね。
昔あるバカバカしいなぁと思いながらなるほどと思った例えを聞いたことがあるんですけども、あるキリスト教の説教者が言ってたんですけどね。
アリがいると、洪水が迫っていて、どんなに人間が洪水が来るぞって言ってもアリには通じない。どうしたらいいか。それはその人がアリンコになるしかないって言ったんです。
バカバカしいなと思いながら、すごいなと思ったんですけども、それと似ていて人間が見たこともない知ることもできない神様を、人間が知るためには人間の言葉で
それを明かす。そして人間がわかる姿でそれを明かす必要がある。だからイエス様は人間が認識できる人としての姿を取らなければならなかったということなんですね。
そして実はイエス様が神であって人間であるというのはどういうことかというと、実はイエス様は目の前に、当時の人であれば目の前にいる人間でありながら、実は
イエス様は何をしているか。人としての姿を取りながらイエス様は神様として神に代わって行動しているんだ。
そして神様として神に代わって人間に語っている。それがイエス様である。
そして実はその神として語り、神として行動する、御業を行っているイエス様の姿が、これからヨハネの福音書の3章からずっと書かれていくわけなんですよね。
そのイエス様の言動を通して私たちは、神様について考えるようにイエス様について考える。逆に言うとイエス様について考えながら、神について考えるということを経験し学んでいくことになるわけです。
そのことを期待して、ヨハネの福音書をこれからも読み進めていきましょう。
いわゆる受肉について、パウロが表現した有名な聖書の言葉の一つを引用して終わりたいと思います。
ピリビビトの手紙の2章の6節から7節ですね。ちょっと読める方、最後に読んでみましょうか。
キリストは神の見姿であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えず、ご自分を虚しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
あなたは愛する御子をこの地に使わせてくださり、私たちがわかるお姿でこの地に使わせてくださり、あなたご自身を明らかにしてくださったことを感謝いたします。
そして救いの道を開いてくださったことを感謝いたします。
ローカ、人となられた真事の神であるイエス様、そのお姿を見たり、想像したり、聖書を通して知ることによって、私たちの新しい歳の歩みが、あなたに導かれ、あなたと共に歩む、そのような一年となりますよう、ローカ、導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
それでは一分ほど黙祷する時間を持ちましょう。