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本日の聖書の箇所は、マタイの福音書11章の20節から30節まで、新約聖書の20ページです。
マタイによる福音書11章の20節より拝得いたします。
それからイエスは、数々の力ある技の行われたマチマチが食い改めなかったので、攻め始められた。
ああコラジン、ああエッサイダ、お前たちのうちで行われた力ある技が、もしも鶴とシドンで行われたのだったら、彼らは当の昔に荒布をまとい、灰をかぶって食い改めていたことだろう。
しかし、その鶴とシドンのほうが、お前たちに言うが、裁きの日には、まだお前たちよりは罰が軽いのだ。
カペナウム、どうしてお前が天にあげられることがありえよ、破裂に落とされるのだ。
イエスはこう言われた。天地の主であられる父よ、あなたを褒めたたえます。
小屋のことを賢い者や知恵のある者に隠して、幼子たちに表してくださいました。
そうです父よ、これが御心にかなったことでした。
すべてのものが私の父から私に渡されています。
それで父のほかには子を知る者がなく、子と子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、誰も父を知る者がありません。
すべて疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。
私があなた方を休ませてあげます。
私は心を優しくへり下っているから、あなた方も私の首を負って、私からの目なみなさい。
そうすれば魂に安らぎが来ます。
私の首気が負いやすく、私の身は軽いからです。
聖火隊の方々に、新聖火の203番を賛美していただいて、高取牧師よりキリストの警告と招きと題して、説教をしていただきます。
03:41
聖火隊の方々に、新聖火の203番を賛美していただいて、高取牧師よりキリストの警告と招きと題して、説教をしていただいて、高取牧師よりキリストの警告と招きと題して、聖火隊の方々に、新聖火の203番を賛美していただいて、高取牧師よりキリストの警告と招きと題して、説教をしていただいて、高取牧師よりキリストの警告と招きと題して、聖火隊の方々に、新聖火隊の方々に、高取牧師よりキリストの警告と招きと題して、聖火隊の方々に、新聖火隊の方々に、高取牧師よりキリストの警
氏
目に何も見えぬようにみを 唐突にうたわせるよ。
おこしがえの つまりのうたを はぐいをかき みすくいろ。
そはちにかく もらせたまえや。 そはちにかく とこしえみ。
あいごのいき ひきこるときも なんだこれを きかまおし。
こころ さむるときには ほうりにさかえろ。
そはちにかく もらせたまえや。 そはちにかく とこしえみ。
06:38
ひとびとにみことばをかたり、 はげましなぐさめ、またあるときはけいこくをあたえられます。
そしてあんそくへのまねきを いまもなさっておられます。
イエスさまのけいこくには こころのみみをたむけて ひかなければなりません。
ひかないでなおざりにしていますと あとでこうかいしなければならない そのようなときがやってきます。
イエスさまのことばは にんげんのことばではなく かみのみことば。
かみのことばはぜったいであり けいのあるおことばであります。
いのちのみことばであり しんりのみことばです。
イエスさまのけいこくをきいて イエスさまのまねきにおうじるものとなることが しゅくうくにつながっていきます。
ですからしんけんなおもいをもって みことばをおきき なおかみさまのみまえにへりくだって
そしてイエスさまのおことばに みみをかたむけ かみのしゅくうくにあずかっていくという そのことがたいせつであります。
しゅくうくそれはさいわいを わたしたちにあたえてくださる。
そのことをイエスさまは よくごぞんじであります。
いまよんでいただきました このところをみますと
ふしんこうにたいするさばき くえあためることもたいせつであることが いわれています。
にじゅうせつからにじゅうよんせつをみますと イエスさまはがいらやこうしゅうへんにあるまちまちで
めしやすくいぬしをしめす いろいろなきせきをおこなわれました。
それはイエスさまがめしやであることを ひとびとにしんじてすくわれてほしいとめがってのことであったわけです。
けれどもひとびとはふしんこうで おうじようとはしませんでした。
このことはイエスさまのおこころを きゆうつけ またかなしませることとなりました。
そればかりかイエスさまはいきどうりをこめて かいらにこだろうとしているかみのいかりとさばきについて
かたらずにはいられないことであります。
こいらのまちまちとはべっさいだ、こらじん、 そしてかぺなごのまちまちです。
このこらじんというまちはがいらやこのふくせい 3キロほどのはなれたところにあるおかのまちです。
べっさいだはがいらやこのきたのはしから やはり3キロメートルほどひがしにあるまちです。
イエスさまはこいらのまちのじゅうみんが こころをかたくなでイエスさまをしんじないため
09:06
フェニキアのしょうようとしでぐうぞう すうはいでなだかい、つろとしどん、
このまちはおもにたかぶっていたまちで ありますが、こいらのまちとくらべています。
もしつろとしどんでイエスさまが きせきをおこなわれるとしたならば
こいらのまちのひとみとは くやはためていたかもしれない。
それほどまでにこらじんやべっさいだのじゅうみんは がんこでありごうまんであったということをしめしています。
イエスさまはこのつろやしどんのちほうにも いかれたことがありました。
けれども、そうなんどもいかれたわけでは なかったのです。
一方、こらじんやべっさいだには イエスさまはしばしばおとずれてはきせきをおおくおこなわれました。
きせきをおこなわれたということは、かみのくにが こいらのまちにはちかいというそのことをあらわしていたのであります。
しかしこいらのまちにすんでいたひとみとは かみのくにからとおくはなれていたところでせいかつをしておりました。
イエスさまにたいしてはあまりにも れいたんであったのです。
かみのめぐみにたいしてまったくむかんしんでありました。
これがこのまちのじゅうみにとって つみとなることであったのです。
こいらのまちのひとみとはイエスさまのはたらきにたいして ことさらにはんたいしたりさからったりしたというのではなかったのです。
しかしこいらのまちのひとみとは イエスさまのちからあるそのみわざやそのおしえにたいして なんのはんのうもしめしませんでした。
ちからあるしのみわざをとおしてなされたしのめぐみを こころでほんとにしんじてこのうけれようとはしなかったのです。
イエスさまのおしえをきいてもそのおしえにしたがって あたらしくかみのくにのせいかつにはいろうとはしませんでした。
イエスさまはぱいさいびとのように じぶんをじぶんでたらしいとみなすじこぎにん そしてじこまんずくしていることにたいして
またこらじんやべつさいだのまちのひとみとのような しのみわざやしのめぐみにたいしてむかんしんであることを どのようなつみよりもきびしくついきゅうされておられます。
このことはこんにちもどうようであります。 ほうもんをでんどうしてみますと いちおうにことわりがおおくあります。
きうとのふくいんにたいしてむかんしんのひとみとが いかにおいうことであるかそのことをしらされます。
こらじんべつさいだカフェナームという このみっつのまちまちはいきょうのまちではありません。
つろしどんといういきょうのまちはむかし あくとくでなだかいそういうまちであります。
このそどもとどうようふはいだらくしていたまちでありました。
そしてこれらのまちまちはそのざいあくのために ついにほろぼされてしまったのであります。
12:03
しかしこれらのまちはきうとのふくいんをきいたことがなかったために そうなったのですけれども
それはしかたのないことでした。
けれどもこらじんやべつさいだカフェナームでは 主のめぐみがしめされたのにもかかわらず
それをなおうけりようとはしなかった。
そこでこれらのまちまちはみずからのうえに おそるべきさばきをまねくことになることを
やがてしるにいたるようになると イエス様はここでけいこくをされています。
とくにカフェナームはイエス様のでんどうの こんきょちとされていたまちでありましたので
つみのせきにんはさらにおもいとみられます。
カフェナームはけいざいてきにははんえいしておりました。
そのうえイエス様がでんどうのまちとされていたということから
イエス様がおられることだけで かれらはもうてんにあげられるとまで
おもいあがっていたわけであります。
しかしイエス様はそのぎゃくのことをせんげんしておられます。
はですこれはよみにまでおつされるであろうと イエス様はいわれました。
カフェナームのばあいにはそのつみふかい このつみのいえにほろぼされた
このソドムがひきあいになされています。
にじゅうさんせつをみますと
カフェナームどうひとおまえが てんにあげられることがありえよう
はですにおとされるのだ。
おまえのなかでなされたちからあるわさが もしもソドムでなされたのだったら
ソドムはきょうまでのこっていたことだろう。
あのあくみをだかいソドムのまち
しゅによってほろぼされたまちでありましたが
そのソドムのほうがカフェナームよりもばつがかるいと
イエス様はいわれます。
カフェナームのつみがいかにたいえんなものであったか
ということをイエス様はここでかたっておられます。
とうだいもとくらしということわざがあります。
イエス様のあしもとのまちまちが
このきゅうやくせいしょうにでてくるほろぼされたまちまちよりも
そのつみがおもいばつがおもいというのは
じつにひにくなことでありました。
イエス様のじだいにいきイエス様からそのおしえを
じっさいにきいたひとびとはたくさんおりました。
またイエス様のきせきをまなあたりにしたひとびとも
おおくおりました。けれどもこのようなひとびとが
みなイエス様をメッシアであるとしんじたかというと
けしてそうではなかったのです。
こころのかたくななひとはどんなにイエス様のおしえをきいても
またそのすばらしいきせきをみたとしましても
しんじません。クリスチャンになるには
こころへるくだりすなおになって
こころをほんとにひらかないかぎりなることができないのです。
クリスチャンホームにうまれてそだったからとか
キリッジ教主義のがっこうミッションスクールで
せいしょうをまなんだからとかきょうかいにでいりしていたから
とかいいましてもそれだけでクリスチャンになれるか
というとそうではありません。それだけでは
クリスチャンにはなることができません。それだけでは
すくわれているということはできないのです。
すくわれるためにはどんなひとでも
15:02
ひとりひとりがこころをひらいて
イエス様のじゅうじかとふっかつをしんじ
イエス様をじぶんのこころにむかえれること
そのためにはまずほんとにじぶんのつみをくりあがためて
そしてそのつみをしょうじきにかみさまのまえに
こくあくしひとのまえにもこくあくし
そしてじゅうじかのちしょうによってこころをきよめられて
それからイエス様をこころにむかえれるという
そういうことをほんとにけっしんしなければなりません。
こじんてきにイエスキリトをじぶんのすくいにし
またはじんせいのしゅうとしてこころにうけえれることなくして
だれもクリスチャンになることはできません。
そのことをしてこころをひらいてキリトをこころにうけえれる人は
すくわれてクリスチャンになることができます。
イエス様はけいこくをなさっておられます。
イエス様のおしえをきくそのきかいがおうかわる
なおこころをかたくないにしてすくいのおことばを
かみのめぐみをつめたくききながし
しんじないでいるならば
やがてかみからのきびしいさばきがくることを
イエス様はけいこくしておられます。
かみのまえにたつそのときがすべてのひとにかならずやってきます。
そのときキリトのことばをとおしすくいがていきょうされていたのにもかかわらず
しんじないでうけれなかったひとは
そのせきにんがついきょうされます。
わたしたちはかみのめぐみをうけています。めぐみをうけているからには
それにただしくおうとうするそのせきにんがあることを
しらなければなりません。
これにと第二の手紙の六章二節に
ひまはめぐみのときひまはすくいの日ですとそのようにかかれています。
いまはかみさまのめぐみが
あたえられているじだいであります。かみのあいと
キリトの十字架のすくいはかんせいしています。
そしてこのキリトはふくかつしてせいれいをそいでいてくださいます。
かみのめぐみをわたしたちにあたえめてくださるところの
せいれいはみことばとともにはたらかれています。
ですからいまはめぐみのときひまはすくいの日です。
ですからいまはどんなひとでも
キリトをほんとうにこころをへりくだって
うけいれるそういうこころがあるならば
またしんじることがほんとうにできる
そのようなひとになるならばすくわれることができます。
こころをふたくないしないでごうじょうにならないで
がんこにならないでしんじるひとは
かみのめぐみをうけかみのあいとまたはかみの
しゅくうくにあずかっていくことができるのです。
わたしたちはほんとうにそうしたものと
いまされているということをほんとうにこころから
かんしゃしようではないでしょうか。
つぎにこの二十五節から二十七節をみますと
へりくだるものめぐみについて書かれてあります。
イエス様はがいらいにおけるてんどうがひとびとの
ふしんこうにちょくめんしてあんしょうにのりあげて
いるようにおもわれるときにもけしてしつぼうなさることは
ありませんでした。むしろちちなるかみさまをさんびして
二十五節でこのようにいわれています。
そのときイエスはこういわれた
てんちのしゅであられるちちをあなたをほめたたいます。
こいらのことをかしこいものはちえのあるものにはかくして
18:00
おさなごたちにあらわしてくださいました。
ふくいんのしんではじぶんはかしこくてちえがあると
かくしているそういうひとにはかくされています。
そのようなひとはきりとのふくいんをりかいすることができません。
ふくいんをうけいれるにあたってじゅうようなことは
おさなごのようなじゅんしんさであります。
おさなごはじゅうしんやへんけんをもっていません。
けんきょうですなおです。こころをひくぐするものだけが
ふくいんをほんとにただしくうけとめ
りかいししんじることができます。
かみのくにはこころをひくぐしへりくだっているひとだけの
どんなひとであってもごうまんであっては
かみのくににはいることはできません。
またいじゅうはしおのさんせつよんせつにも
こどもたちのようにならないかぎりけして
てんのみくににははいることができませんと
いやしさまはかたっておられます。
おさなごのようなじゅんしんなへりくだったこころだけのひとが
かみのめぐみをうけいれます。ですからちちなるかみは
このようなひとびとにかみのめぐみをあらわしてくださいました。
これはちちなるかみのみこころにかなうことでありました。
りっぽうしゅぐのりっぽうがくしゃまた
パリサイ人そういうひとびとはじそんしんと
ほこるこころがあるためにめがくらまされています。
イエスさまがメシアであることをただしくみとめることが
できません。ちちなるかみはかいらに
イエスさまがメシアであることをかこされました。
ですからりっぽうがくしゃパリサイのひとたちは
うけいのあるひとかしこいひとたちであるため
かみのくにからしめだされます。けれどもでしたちのような
おさなごのようなおとなはうけいられて
かみのめぐみがなおしめされます。
このふくいんのしんりはちちなるかみさまから
このあるかみであるイエスさまにゆだねられました。
にじゅうなわせつにすべてのものとは
ふくいんのしんりをさしています。イエスさまは
わたしはみちでありしんりでありいのちであるわたしを
まさにイエスさまをおとおしでなければまことに
かみさまをしることはできません。
みこイエスキリトはちちなるかみのえいこうの
かがやきです。ですからイエスキリトにあって
さしだされているてんのこのちえは
にんげんのちえによってはうけいれることはできません。
にんげんはかみをみとめないでいるときは
みずからをかみとしてこうまんであるため
かみのちえをうけいれることができません。
しかしかみのめぐみはすなごにうけいれる
おさなごのようなこころのひとにこそふさわしいものです。
このようなひとをしゅはあいしてなおよろこんで
くださいます。
このまぬきのみことばはちちなるかみをけいじされる
ただひとりのおかたとしてのけいぎのもとに
ふくいんのしんりはイエス様にのみあります。
イエス様のところにいかずたのところにいっては
しんりはけいじされないことを知ります。
イエス様いがいのどんなところにいってもそこには
21:01
まことのすくいもなければまことのやすみ
あんそくもありません。
じんせいにおけるすべてのながいみやくりしみは
イエス様のふくいんをしんじることによってはじめて
そのかいけつがあたえられやすみがあたえられます。
この言葉によってたくさんの人が キリトの救いに預かり喜びと平安
な人生をキリトと共に送っています 私が新学校で学んでおりました
頃一つ学年では下の人で年齢では 私よりも上の新学生がおりました
彼はこの又井十四章二十八節の 御言葉を通して救われた人であります
この人は救われる前は神などいない 神を頼りにするような人は力のない
弱い人だとそのように言っていました 彼は若い頃都会に憧れて出ていき
ました夜の街をぶらつきいつしか 悪い仲間ができてその数が増して
いきました繁華街をのし歩き酒に浸り 暴力を振るい人を脅して何も
怖いものはないというそういう 生活を送っていたのですそんな
ある日彼は突然不治の病にかか って倒れてしまいましたその途端
仲間は一人残らず皆離れて去って いきました親の元に帰ると変わらない
愛で見舞ってくれる両親に感謝 をしたそうですちょうど入院して
三年目になって病状が悪化し二十日間 意識不明に陥り視線をさまよって
しまいましたこのような時悪い ことは重なるものでそのお母さん
が脳卒中のため亡くなってしまい ました意識を取り戻して一か月
後にその母の死を聞かされたと 言いますいつも見舞ってくれた
母早く私が元気になるようにと 祈り続けてくれたその母がもう
いない死ぬ目に会うことすらでき なかったその上この病気は治らない
かもしれないそうだもう死んで しまおう死ねばこんな悲しむことも
苦しむそのこともなくて済む彼 はそう思って全く絶望し切って
死を決意したのですそしてこの 自殺をしようとして鉄道線路に
向かいましたするとその途中に キリト教会がありましたその前
を通りかかりました教会の掲示板 にはまた十四章二十八節のこの
御言葉が書かれてありましたその 御言葉を読んだときに心に温かい
ものを感じたそうです今までに このような温かい言葉をかけて
くれる人は一人もいなかった彼 は教会の門をくぐり礼拝に出席
するようになりました心が渇いて いましたそのため求め続けました
そしてこの聖会に出席することが できましたそのとき説教者の言葉
が心にこの残りましたあなたは 罪を犯しているあなたはその罪
のために神に裁かれなければならない 誰もあなたを救うことはできない
あなたは罪のせいで永遠の滅び 地獄に行かなければならないそれ
24:02
まで死んだら全て終わりだと思 っていたことでありましたけれども
しかし死んでもそれで終わりなの ではないというそのことを知ら
されて恐れに震えたそうです説教者 は続いてこう語りましたしかし
あなたの許されていないその罪 のために神は御自分の独り子を
この世に送ってくださったのです 罪のない勢い神の御子イエスキー
人はあなたの罪の生まれとして 十字架で死なれ三日目に墓から
蘇られましたそして私たちの 罪を取り除いてくださったのです
今晩あなたがこのお方をイエス キー人を自分の罪からの救いの
人を信じるならあなたの罪は許 されます今はキー人を信じ受け
るようとする人は立ち上がって 前に出てきてくださいその招き
に応じてもうお花と涙でぐちゃ ぐちゃになって彼は神様の前に
自分の罪をですね告白しイエス 様を心から信じて受けたのであります
御言葉の約束の通り罪の許しと 神との和解の恵みが与えられ心
に平安と喜びが与えられてきました そしてこのイエス様を信じ受け
れたのですっかり変えられてきました それまでは自分に対しては悪い
ことをしている者や自分の気に 触る者がいたら口で言葉で言う
前に手が本当に飛んでいたと言います けれどもキー人を信じてからは
そのような人に対してもこの人 のためにもイエス様は十字架で
死なれたんだこの人も救われなければ 滅んでしまうと心が痛むようになった
と言います神の愛と恵みが与え られたことを本当に証明しています
本当にイエス様のこの招きの言葉 に応答してイエス様のところに
行くならばどんな人であっても 本当に罪が許され心の中に安らん
が与えられます私たちの人生には 悩みがなくなるということはありません
一つの悩みが解決したと思ったら 次の悩みが起きてきますそれは
生きている限り仕方のないこと であるかもしれませんしかしイエス
様はこのような現実の悩みに対して いい加減にあしらうことをなさ
いませんイエス様ははっきりと その回答を言葉から与えて下さい
ます私のところに行きなさいと 仰っていますどんな悩み重いので
あってもイエス様のところに行く ならばイエス様が本当にそれを
引き受けて下さって解決を与え 身を軽くして下さいますですから
イエス様の招きの言葉に応じて 従う人は幸いですイエス様は
きしなる神から権威を委ねられて その権威ある御言葉を私たちに
語っておられます私たちはこの イエス様によってあらゆる種類
の悩みを解決していただくことが できます幼い子供はお母さんの
ところにいつもともにいることを 求めますそして一緒に一緒にいる
と安心しています人々のたくさん いるところにいたとき迷子になったり
すると不安になりお母さんを探 して走り回りますそしてお母さん
27:00
を見つけると泣きながらお母さん の胸の中に飛び込んでいきます
イエス様は疲れている人やおもに 追っている人にとって母親のような
そういう存在ですただイエス 様のところに走っていくだけで
イエス様は愛をもって迎えて下さい ますそして心に安らぎを与えて
下さい魂に満足を平安を与えて 下さいますそれだけではありません
イエス様は私たちに強くして鍛 えて一人歩きできるところの大人
の本当にクリスチャンとして見 心を本当に行っていくそのような
クリスチャンとして私たち一人 一人を尚導いて下さいますそれは
切り戸の首輝きを追うことと切り 戸に学ぶことによってなされます
私たちは何かといつも首輝きを 追っているものではないでしょうか
このようなものと首輝きを共に することもできるし切り戸とこの
首輝きを共にすることもできます しかしこのような首輝きは悩み
疲労重いとなって生きることが 辛くなりますしかし切り戸の首輝き
は重くありません軽いものです 楽々とした首輝きです私たちは
クリスチャンとして追うべき二 があります首輝きがありますそれは
一人一人が追っている十字架です 人と比較してあの人の十字架の
方が軽そうだと思って自分に それを追わせてもらうならば自分
には重く感じるものですですから 一人一人追うべき十字架は一人
一人がイエス様と共に担うように 導かれています私たちには果たさ
なければならない使命があります この世に対して世の光地の塩と
ならればなりませんイエス様に 従うことによってイエス様と教会
に奉仕しイエス様の見足の跡を 踏んでいく人生を送りますその
力をイエス様は与えてくださいます ですからそれは決して重いでは
ありません軽い身でありますその 首輝きは楽ですそれは自分一人
で追うのではなく切り戸を共に 追う首輝きであるからですあなた
の身を主に委ねよう主はあなた を支えられる主に委ねることによって
私たちは心に平安が与えられます そうしてこの切り戸の身元に来る
人は切り戸に学ぶことができます 切り戸の入話と謙遜を学びます
このところでは心優しくへるく だっていると書いてありますが
イエス様は本当に入話な方です また謙遜な方ですイエス様は御
生涯を通して入話と謙遜の何で あるかをお示しになりました神
であらゆる方が人となられたということ だけでも十分に私たちは慰められ
ます励まされますけれどもそれ だけではなく人に誤解され中傷
され詐欺されあざけられてもまた 持たやさまれることがあっても
イエス様は入話の限りを尽くし 病人を癒され悪人を立ち返らせ
困っている人を助けられて謙遜 の限りを尽くされましたイエス
様は本当に心優しくへるくだって おられるお方ですにもかかわらず
人はイエス様を十字架にかけて しまいましたいかに人間が本当に
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罪深い者であるかということを 思わせられますしかしイエス様
は十字架ながらを成し遂げ私たち のために救いを全うしてくださ
いましたイエス様は賢いあるその 御言葉によって悔やためない人々
に警告を与えるとともに愛をもって 御自身のもとへ招いておられます
私たちにとって唯一の平安安らぎ 安息はイエス様のもとに来てお
もにをおろすときに与えられます 愛のままのその姿でイエス様の
もとに行こうではないでしょうか そしてこの心を開いてイエス様
と呼んで受け入れていただきましょう そうするとき私たちの心は主によって
救測と平安安息が与えられ魂に 安らぎが与えられますそれでは
御祈りをいたします 愛する天の父なる神様今日も
神様の御言葉この聖書を通して 私たちに語ってくださりありが
とうございます 本当に冷淡であり無関心である
ことが神様の御前に罪となることを 本当に主を思うときに私たちの
周りには多くの人々がそのような 人々であることを思いますけれども
私たちは世の光地の塩としてこの 教会に導かれイエス様のその光
を掲げるべくまたその塩の利き 目を表すべく私たち一人一人が
導かれていますことをありがとうございます どうぞこの愛のお言葉を持って
招いておられるイエス様をなお 人々に差し示すことができるように
どうぞ私たち一人一人に精霊を 豊かに満たして地の果てまでも
その承認となるであろうと言われている そのお言葉がどうぞ私たち一人
一人を通してどうぞそれぞれの 使わされているその場所でなさ
れていくことができますように どうぞ主を導いてください
そしてこの教会がなお本当に 人の教会として神の教会として
清められまた愛に本当に満ちて いよいよ主を祝福されていくところ
の教会であることができますよう なお導いてくださいこのお祈り
をイエス様のお名前によって信じて お祈りをいたします
アーメン