00:02
皆さん、おはようございます。寒い朝でしたけれども、このアドベントのシーズンの礼拝にお越しいらっしゃいました。
それでは、お座りの前に隣の方と挨拶しましょうか。
おはようございます。
それでは、一言お祈りします。
神様、感謝します。
あなたを愛するお一人お一人を、寒い朝ですけれども、
神様の御好談を、祈念し、感謝し、また、あの時の寄せるマリアが、あるいは羊飼い、あるいは博者たちが見たその栄光を、その恵みを、私たちも同じくお受けしたくて、この礼拝に努っております。
お一人お一人、どうか、今日の礼拝の中で、イエス・キリストに出会う時、神の栄光を見る時として祝福してください。
今日の礼拝の中から、あなたへの愛と、また、尊敬と、また、神様への従順の心を、主よ、決心し、また、聞きつたがっていくことを、主から強くされる時としてくださいますように、お願いいたします。
聞くうちに、本当にいらっしゃれますように、聞いているうちに恵まれますように、聞いているうちに信仰が奮い立たせられますように、聖霊様がどうか、働きかけて祝福してくださいますように、お願いいたします。
感謝して、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
感謝します。
クリスマスのメッセージを連続の箇所ではありませんが、テーマを決めてお話をしております。
03:01
今日はたまには変わったタイトルが出てきますね。
アドベント、そしてアドベンチャー。
何だろうと気になりますか。
見ていきたいと思いますけれども。
今年も私たちは対抗説といわれるアドベントのこの時期を過ごしています。
対抗説ですから、何かを待つわけなんですよね。
2つのことを、実は私たちは待ち望んでいるということになります。
1つは、約2000年前既に来られたイエス様、すなわちそのイエス様が来られたクリスマスを待ち望むということであります。
もう1つは、イエス様が再びこの地に再び来られるその日を待ち望むという意味もありましょう。
今日のタイトルに書かれているように、アドベントという言葉とアドベンチャー、冒険という言葉ですね。
その言葉の言語がラテン語ですけれども、それは同じ言葉なんです。
先日お話ししましたよね、アドベントの言語の意味は、来る、到来というお話をしました。
いわゆる官僚家、過去官僚家がアドベントなんです。
すでに過去に起きたことを、その日を、日が来ることを待つという意味があります。
そしてその未来系がアドベンチャーという言葉なんです。
ですので私たちが今としているアドベント、これは来るか来ないかわからないものを待っているのではなく、もう来たんですよということなんです。官僚系なんです。
イエス様はすでに2000年前に来て下さいました。
旧約聖書で来ることが約束されているその救いの日はもうすでに来られましたよ。
そして今日の御言葉にもありますように、今共にいて下さっていますよということ。
そのことを感謝して記念する時がアドベントなんです。
けれどもアドベンチャーという意味も念もあると思うんですね。
このアドベンチャーは未来系なんですから、イエス・キリストはこの地上をさられるときに、いつか再び来ますよと約束を言ってくださったんですね。
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例えば大の国教28章の20節ですね。
だからいつか必ずやって来られる。
その未来のあの日を私たちは待ち望んでいるということになります。
でも皆さん未来のことですから、どうなるかわからない部分も正直にありますよね。
だから冒険、アドベンチャーなんです。
でも必ず実現されることを私たちは信じているわけですから、
アドベンチャーは無謀な冒険ではなく、信仰による確実な冒険なんです。
皆さん今日のメッセージの中でこのフレーズが大事ですよ。
信仰による確実な冒険。
今日のお話のフォーカスをヨセフに当ててみたいと思うんですね。
イエス様の貴重屋にあたる人です。
国会の会長の代表だけ見るならば、イエス様の誕生についてヨセフを中心にして書いているんですね。
でもその場面がよく見てみますと、まさにヨセフのアドベンチャーなんです。
信仰による確実な冒険のストーリーなんです。
皆さん信仰とは何でしょうか。
いろいろと表現できると思いますけれども、信仰とは冒険だと言いたい。
一括、清書を開きましょうか。
ヘブル美典の手紙11章1節。一緒に清書をお持ちの方はお開きいたしましょう。
ヘブル美典の手紙11章1節。
私の清書では438ページです。
一緒に読みましょう。
3、信仰は望んでいる事柄を保障し、目に見えないものを確信させるものです。
ここに保障しという言葉があります。
信仰は望んでいる事柄を保障しとありますが、これは信仰は望んでいる事柄の実体でありという意味もあります。
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だから信仰は冒険なんです。まだ未来のことなんです。望んでいることなんです。
でもそれが確実実体であるという、我々は冒険をしています。
必ず実現されると信じて冒険するわけです。
今日の18節を読みます。
イエス・キリストの誕生は杉のようであった。その母マリアはヨセフの妻と決まっていたが、
二人がまだ一緒にならないうちに聖霊によって二重になったことがわかったとありました。
こんなシリアスなことがあるでしょうか。
ヨセフの立場に変えてみなさい。考えてみましょう。
これは大変なことなんです。
自分の婚約者が自分以外の何者かによって妊娠したわけなんです。
私たちが皆さんがヨセフだったらどうするでしょうか。
しかも今だったら結婚前に子供ができてそのまま結婚する聖書的にはよろしくないことですけれども、
あまりにも多くある時代になっているから平気に思ってしまうことがあるかもしれない。
ところが二千年前のこの特に神の立法を重んじて守っているユダヤ人の世界の中で、
まだ正式の結婚式を挙げていないうちに、
婚約者が自分ではない別物によって妊娠した。
それはわかった。これは大変なことなんです。
でも今日の十八節からもわかるように、
お互いのことをヨセフとマリア、お互いのことを妻、夫と既に呼ばれているんですね。
こういうことがもしも起こるならば、当時のユダヤ社会では色々記録を調べると、
もう裁判にかけられるわけなんです。
そして女性の場合は、もっと重大な場合は、
もう死刑に当たるんです。
いわゆるイシウキの刑で殺されるということなんです。
皆さんがこの事実をわかったヨセフだったとしたら、どうなさるんでしょうか。
12:00
もちろんですね、マリアの川に立って考えてみると、
自分は何者かによるんじゃない。
精霊によって見こもったんだ。
神の力によって自分のお腹に子供がたどっているんだと。
そういうこともできるんでしょうね、マリアはね。
でも正直にそのことをヨセフに伝えたとしても、
まず最初は、ヨセフは素直に受け入れることができるんでしょうか。
現実的に考えれば、マリアがヨセフを裏切ったとしか考えられない状況なんですね。
ヨセフとマリアは違います。
まずマリアは罪を犯していません。
そしてヨセフはこのことをどういうふうに受け止めるんでしょうか。
十九節をご覧ください。
これがヨセフの信仰による確実な冒険が始まるんですね。
十九節を一緒に読みたいと思います。
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、
内密にさらせようと決めた。
ヨセフは正しい人でした。義人でしたという意味なんですね。
だから、この間違ったことを見過ごすことはできないわけです。
でも、そこで全てをマリアのことをさらしてしまって、
マリアを訴えることをしないことに決めました。
実は冒険なんです。
もしヨセフが自己中心に考えていたならば、私は悪くない。
マリアが何かを言って間違っていると、自分の名誉を守ることもできたかもしれません。
そして自分は確かにいい人になっていないので、いくらでも婚約を破棄することもできるでしょう。
自己中心的に自分を守るためだったら。
でもヨセフはそうしなかった。
ヨセフはマリアもマリアの命も、そのお腹の子供の命も守ろうとする進行の冒険を調べるんです。
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でも、決めたとしてもよく考えますと、ヨセフは進行によってとんでもない、とても危ないアドベンチャーを選んだわけなんです。
でも無謀ではないんです。進行によるものでした。
これからどうなるかわからないんです。
皆さん、私たちにとってこのアドベンチャー、クリスマスシーズンは確かに楽しい時期なんですよね。
お生き物もケーキも食べたり、ローストチキンも食べたり、旅行にも行ったり、冬になったらスキー場にも行ったりですね、旅行にも行ったりですね。
そういうシーズンですけれども、でも世界で初めてこのアドベンチャーを少ししていくヨセフにとっては喜びなんかなかったんです。
もう危ない、もうやばいんです。
そして彼の心の中には、もうこの十九節の決断をするまでにヨセフはもう想像もできないほど苦しんでいたに違いないと思います。
このように皆さん、イエス様の誕生の裏には、実はこのような苦しみと進行による冒険の決断が裏側にあったんですよ。
ところが、それでお話は終わってないんですよね。
その次の二十節から見てみると、ヨセフの彼に天使が現れるんですね。
そしてヨセフにとって到底受け入れがたい、そういうことが言われるんですね。
それが二十節からです。私は読みますのでご覧ください。
二十節、彼がこのことを思い巡らしていた時、主の使いが夢に現れていった。
ダビネの子ヨセフ、恐れないで、あなたの妻マリアを迎えなさい。その胎に宿っている者は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスと付けなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
という言葉が夢の中でわーっと語られたんです。
夢の中でこんな話を聞いた時、ヨセフは最初にどんなふうに反応したんでしょうか。
自分を裏切ったとしか思えないマリアを迎え入れる、そんなことはできません。しかもその子をイエスと名付けなさいと言われています。
名前を付けるということは、あなたの子供ですよ、自分の子供であることを認めるということなんですね。
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でもそれは事実ではないんです。自分の子供ではないんです。
普通に考えれば、こんな話を受け入れる必要もないかもしれません。無理としてもいいかもしれません。
それでもヨセフは全てとんでもない重荷を担うことになるかもしれない。
この後何が起こるかわからない、そういう冒険ということを彼は背負うことを決めて、言われた通りに進めました。
ヨセフはこの時の社会的な一般的な考え方や人々のやり方とは違った。
これが神の御心だとヨセフはそれを受け止めて、世の価値観も捨てました。
自分の考えも捨てました。自分を守らなくちゃという保護本能みたいなものも捨てました。
そしてただ神の御心のみ掴んで受け入れた。
世界で初めてのアドベントのことは、信仰による冒険からアドベンチャーから始まったということであります。
これも福音書の、丸子の福音書ですけれども、第一章のね。
みなさんよく聖書を新年になったら1月から旧約はちょっと重たいから軽い新約から読もうと思ってですね。
福音書から読み始められる方々もおられるかもしれませんが、最初にこの経図が出てくるんですよね。
たくさんの名前がね、しかもカタカナだから読みづらいところもありますけれども、並んでいますけれども、
これはある意味でヨセフの経図でもあるんです。
イエス様の経図ですけれども、イエス様の父親がヨセウだからヨセフの経図でもあるわけですよね。
つまりヨセウがイエス様を自分の子供であると認めてくれたから、イエス様はそこに名前を連ねることができたということであります。
21:00
これは意味のあることなんです。
救い主はダビデという王様の家系に生まれると通訳聖書に現されていたからです。
だから今日の読みました二十節のところにもですね、ダビデの子と呼びかけているわけであります。
イエス様からすればダビデの子孫であれば誰でもいいわけではありますけれども、
でもここでヨセフという人が選ばれたということであります。
誰か他にこのようなことを受け入れることができる人がいるでしょうか。
こんなとんでもない危ない危険を背負わなくならないこの冒険をしてくれる人がいたんでしょうか。
最古の人物がヨセフだったんです。
神のために自分のすべてを捨てて冒険するかのようにこの道を選んでくれる人はヨセフだったんです。
だからヨセフはイエス様の父親に選ばれたということなんです。
もしヨセフがですね、この天使から言われた時にあるいはマリアのことをわかった時に、
いやいや私はもうできません、もう怖いですよ、もうお断りします、いやもうなかったことにしましょうとしたならば、
ヨセフは神の栄光、奇跡を見ることはできなかったならないでしょう。
常識的に動いていたならば、ということなんです。
だからこそ神様は他の人ではなく、死のために信仰による冒険をしてくれるヨセフを神様が選んでくださったんです。
皆さん私たちはたまに自分自身もそう思うんですけれども、
神様なんで私に低く知ってくださらないんでしょうか、なんで私はこんなもんでしょうか、
あるいはなんで私は神の心が知らないんでしょうか、という祈りをする時があります。
ただ今日の御言葉ヨセフからまず考えていただきますと、
祝福されるにふさわしいものなのか。
ヨセフがイエス様の父親になるにふさわしい人物だったから選ばれたと。
神様も神の祝福を与えて、それを受けるにふさわしい人物を選んで、主は祝福を与えてください。
神の心を教えてくださるということなんです。
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神様が言ってくださらないわけではなく、私たちがそれを受けるにふさわしい信仰のものになっているかどうかが実は大事なことであります。
そういった意味としては、神のためのチャレンジ、アドベンチャーをするための面においてヨセフは合格でした。
これがアドベントの出来事なんです。
よく考えますと、神様が人間ヨセフに、もちろんマリアもそうですけど、ヨセフにイエス様のことを委ねたわけなんです。
マリアも受け入れてください。この子イエスと名前をつけてください。育ててくださいと、神様が人間ヨセフに委ねたんです。
神様も実は、冒険をしたわけなんですよ。アドベンチャーをしたわけなんですよ。神様の人類を人間に全く託したわけなんです。
あらゆる言い方をすれば、神様は人間に出来事をしたわけです。かけたわけですね。
なぜでしょうか。ヨセフはそれにふさわしい人物だったからなんです。
皆さん、私たちも信頼できる人に何かをお願いするでしょう。
例えばね、私がそんなお金ないんですけれども、100万円を全然知らない明宝石の誰かにお願いして、
これちょっと僕の口座に入れてもらえますかと頼むことは信頼できないんですよ。知らないから、信頼できないから。
でも、あんなに子供にはお願いできる。信頼できるから。
神様もヨセフとマリアが信頼できたから、そういうふさわしい正しい人物だったからイエス様を託したわけです。
イエスという名前の意味は何でしょうか。それは、神は救いという意味なんです。
神様は人々を罪から救う働きを人間に委ねたということになるんです。
とっても素晴らしいことが起きたんです。戦死に続いてこれはもう大事件なんです。
でもその時、委ねられたその人は大きな苦しみに突き落とされる。
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そしてもう終わり、おしまいではないんです。苦しみに突き落とされた。こんなひどいことが起こるなんかと思ったかもしれません。
ありえないんじゃないかと。
でもヨセフは世の常識を後にして、自分のこだわりも後にして、見心ならばと考えて素直に受け入れたんですね。
これがヨセフの信仰による確実なアドベンチャー、冒険だったんです。
だから彼は神の救いの見業を見ることができたんです。
そして彼から救いの見業が始まったということになります。
それから今日の23節を読みますかね。
神様が私たちと共におられる。
神様が私たちと共にいてくださるという意味です。
それが実現されたということであります。
ヨセフが自分の考えを捨てて、世の常識を捨てて、見心を受け入れたからこれが起きたんです。
苦しみの向こうに信仰のアドベンチャーを乗り越えたところにアドベントはあるんですね。
神は我々と共におられる。
この言葉の意味は単に神様が共にいて私たちを守ってくださる、助けてくださるというだけのことではないんですね。
神様は私たちにご自身の業を委ねてくださるという大事なことをされたということであります。
ヨセフにイエス様の事を委ねられた神様が、
今度は私たちに皆さんにご自分の身業を委ねようとしておられるんです。
それくらい私たちは神様に信頼されており愛されているということなんです。
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どれだけ感謝のことなんでしょうか。
神様があの素晴らしい救いの身業の一部分を私に皆さんにあなたに委ねようとしておられるんです。
まるでヨセフにマリアにあの赤ちゃんを委ねた同じくらいなんです。
だからここから私たちの信仰のアドベンチャーが始まるわけなんです。
そしてマリアとヨセフのように信仰によるアドベンチャーを、冒険をするかしないか、
神の御言葉の方を掴むか捨てるかによって神の身業を見るか見れないか、
神の素晴らしい救いの身業を経験させていただけるかどうかがここから始まる、渡れるということであります。
皆さん、私のこのアドベントはヨセフのようにマリアのように信仰によるアドベンチャーをしようではないでしょうか。
もう一歩今まで踏み出したことがないそこに一歩でも二歩でも踏み出していくアドベンチャーをしてみようではないでしょうか。
階段を登っていくようにもう一段の上、もう二段の上のところに信仰によるアドベンチャーをしてみようではないでしょうか。
その時に神の奇跡を、神の恵みや神の福福を私たちは経験できるということであります。
その時に今の神様を私たちはリアルに、実際に実現的に私たちはそれを経験できる、目の前で見ることができるということです。
皆さん覚えていてください。神様は私たちに賭けておられるんです。
そして私たちが信仰のアドベンチャーの末に身心を受け入れる決断をするはずだと神様は信頼して見せておられるんです。
すごいことなんですよ、皆さん。
ご自分の技をご自分の命までも私たちに託してくださったということなんですね。
皆さんいかがでしょうか。神様の見所を受け入れることができるのでしょうか。
33:04
信仰のアドベンチャーを乗り越えることができるのでしょうか。
私たちには皆それぞれに重い悩み苦しみがあるかと思います。
そういう時ほど私たちは自分の考えにこだわりやすいです。あるいはわがままになりやすいです。
自己中心的になりやすいです。人間は防御本能があるわけですからね。
でもそんな時にマリアがヨシエウがそうしたように自分の考えをしていて
自分の川に立つのではなく神の川に立つ、つくことができたらなんと素晴らしいことなんでしょうか。
私たちが重い悩む時、苦しむ時、神様は私たちに神様の御業を共になってほしいと願っておられるんです。
それは何も口先だけのことではないんですよね。
今日もこのあたりの福音書18節からの御言葉から皆さんが読みになった通りに
神様は実際に御自分の技を御自分の命をつまり御自分の全てを二人の人に託されたということなんです。
そしてその人を通して自分の民を罪から救う神の救いの大作戦が始まったわけです。
神様もとんでもない冒険をしたわけなんですよ。ヨシエウもそうですけれど。
皆さん覚えていただきたいです。神様も川について行ってください。
そして神様がこう私に語っておられるんですよ。
私のこの技を友になってほしいと。一緒に働きませんかと。
声をかけておられるんですよ。ヨシエウやマリアに語りかけた神様が。
今度は皆さんに一緒に働いてほしい。私のこの技を友になってほしい。
くれませんかと。くれないかと。
皆さんは何と応答するんですか。神様忙しいですよ。
36:02
くれないですか。神様ちょっと腰が痛いですから。
神様もう歳戻せない。
どう言いたいんでしょうか。ヨシエウのようになりたい。
いいよ。大丈夫です。任せてください。
命を尽くして、この体が血のためなら吸い減ってでも、
私は神の川について、どこまでもついていきますと。
その人を神様が探し求めておられる。
そしてこの身技を持っていってください。
そうするとそこに奇跡が起こるんです。
わかりますか。皆さん信じますか。
皆さん、信仰の旅というものが時としては楽なものではないんです。
時としては、ヨシエウがしたように、マリアがしたように、
アドベンチャー、冒険の旅にもなるんですね。
皆さん今はですね、真骨の種、他にもいろんな冒険をされたかもしれません。
結婚というものもある意味で冒険じゃないでしょうかね。
作り尽くしていない男性と女性と一緒に暮らす、生きるという冒険をしただけなんです。
あるいは、どこかの大学を卒業して、どこかの会社に受かった。
そこで仕事を30年、40年するということは、まだこれから何があるかわからないけれども、
それも冒険を皆さんされただけなんです。
あるいは、皆様を信じる決心をして、洗練を受けてですね、真骨に入られたこともある意味で冒険の旅だったんじゃないでしょうか。
今度は、私たちが自分の人生のためにいろいろ冒険をしたならば、アドベンチャーをしたならば、
今度こそ種のためのアドベンチャーをしていこうではないでしょうか。
ヨシエウのように、マリアのようになんです。
愛する皆さん、神様の川に着きましょう。
実際もう私たちは神の川に着いているんじゃないでしょう。
ここに集まって、アドベントを祝って、礼拝しているんじゃないでしょう。
神の川には私たちは立っているということなんです。
そしたら、これから主が、頼むねってね、一緒に歩んで欲しいよ、
39:04
働いて欲しいと、担って欲しいと言われたときにおこたわりするんじゃなくて、
喜んで大きに受け入れる、死のための冒険、アドベンチャーをするものでありたい。
確かに恐れることがあるかもしれません。ヨシエウも恐れおののにいたわけなんですよね。
だから二十節に、恐れないで、と言葉があるんじゃないでしょうか。
確かにこの中に、新しい年が来て、死のための新しい働きが、あるいは新しい何かを一歩踏み出すところには、
勇気がなくなるんですよ、でしょう。
恐れが、心配が、先走るかもしれませんね。
でもそんなときに、こんなものに神様が、自分の素晴らしいあのことを大事に、
重大なことを任せてくれたんだから、感謝して、そして心を尽くして、力を尽くして、
命を尽くして、死をさせていただきましょう、と答えるものでありたい。
アドベント、それは私たちのアドベンチャー、冒険だけではありません。
私たちにイエス様を委ねてくださった、神様のアドベンチャーも、
そして神様が人間になられるアドベンチャーもなさったわけ。
皆さん、私たちが政府のように信仰によるアドベンチャーをするときこそ、
神様が本当にすぐ私のそばにおられる、こんな奇跡が起こる、
不思議にもうできないと思ったことができるようになった、ということを信じる、
目で見る、肌で感じる、その声を聞く、そういう素晴らしいことが起こるんです。
アドベントは、神様がアドベンチャーされたこと。
それから、その神様を信じる者たちのアドベンチャーの時期でもあると考えられますね、皆さん。
愛してる皆さん、今年のアドベントにもどんなアドベンチャーをしてみたいのでしょうか。
種のために、神の国のために、人参のために、兄弟姉妹のために、アドベンチャーをしようではないでしょうか。
42:07
信仰は冒険なんです。アドベンチャーなんです。
さっき読みましたけれども、ひらかなくていいんですが、セブルヴィトのデカール21を見ますと、
本当に信仰による確実な冒険をした信仰の人物の名前がずらりと並んでますね。
アブルハムは故郷から離れる信仰によるアドベンチャーをしました。
一人の息子を生贄として捧げる、そういうアドベンチャーをしました。
ノアは信仰によって何十年も山の上に運ぶのを作るアドベンチャーをしました。
しかも何十年間なんですよ。
ヨシアは信仰によってエリコの城壁を7日間回るアドベンチャーをします。
無謀なアドベンチャー、冒険ではないんです。信仰による確実な冒険。
だからその冒険がワクワクしているんです。神様は信じるから。
こんなものを神様がパートナーに言ってくださった、なんと素晴らしいことなんだろうと思うのではないでしょうか。
皆さん、アブラム、ノア、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨシア、その他の親子の先人たちは
みんな信仰によって神を信頼し切って冒険の旅を歩まれました。
そして彼らはそのアドベンチャーをした者こそ、神の祝福と奇跡をリアルに、現実的に、実際的に経験した幸いな人物でした。
メッセージを頂きたいと思います。
今年こそ、このアドベンチャーの時期に、私たちもこのマリア、ヨセフのように、アブラムのように、ノアのように、親子によって神のためにアドベンチャーをしようではないでしょうか。
その親子の道を歩んでいこうではないでしょうか。お祈りします。