2023-02-05 23:21

#消せない喜び 23/2/5

ピリピ4:4-5からの礼拝説教。2023年2月5日録音。AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」という曲があります。フォーチュンとは幸運のことです。幸運をつかみ取ることは難しいでしょう。しあわせになることも今では簡単ではないかもしれません。一方、消せない喜びがあるのです。今日の箇所、パウロの最後の教えをもとに、1.どんなときにも喜ぶ、2.どんな人にも柔和さを知らしめる、3.喜びの拠り所としての主イエス様、の3つの点を学びましょう。

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約聖書 フィリピ人への手紙4章4節5節
いつも主に会って喜びなさい もう一度言います喜びなさい
あなた方の寛容な心がすべての人に知られるようにしなさい 主は近いのです
以上です。 今日はこのところから、消せない喜び、消せない喜びと題して言葉を取り継ぎます。
みなさんおはようございます。 2月最初の礼拝です。
こないだの金曜日2月3日が日本の暦では節分ですね。 暦の上では昨日から一応春となりました。
寒い日が続いていますが、日は長くなってますよね。 さっき調べたら埼玉県の日の入りはですね
1月24日の水曜日から5時になりました。 今、今日ですねちょっと誤差があるんですけど、新潟市の日の入り時刻はですね
5時13分ですね。 本当に寒いですけども、特に日が長くなったなぁと感じるときにですね
春の訪れをなんとなく感じる 老梅の匂いなんかしましてね
なんか待ち遠しい感じがします。 良いことが起こりそうな気もしなくもないとも言えますけれども、そのまま良いことが起こりそうと言えばラッキーですけど
AKB48のですね恋するフォーチュンクッキーという歌がしばらく前にありました。 このフォーチュンというのは幸運という意味ですね。
幸運をね掴み取るそれは難しいと思います。 あるいは幸せになるって言葉簡単ではないかもしれません。
しかし喜びは消すことができない。 今日の歌唱でパウルはですねそのようなことに通ずる
いつも喜んでいなさいということを教えています。 この最後のピリピリ人の手紙、ピリピリ人の手紙の最後の教えのシリーズ
短い教えがいっぱい続く音楽に名づらえてスタッカードのですね 教えが続くと言われていますけれども、その中の今日はこの2節をもって3つの点から
学びましょう。 実はこれはしばらくですね9節まで続く
段落でもあるんですけれども、やはりですね とても有名ないつも喜んでいなさいというね
主にあって喜びなさいというとても有名な命令であり大事な教えで、おそらくもうこれから 積極することないかなと思ったのでちょっとじっくり
学んでみたいと思って短く区切っていました。 最初ですねどんな時にも喜ぶということですね。
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ちょっともう一度皆さんで4章4節前にあるものを読んでみましょう。 いつも主にあって喜びなさい。
もう一度言います。喜びなさい。 パウロはこの幸せを求める幸せを求めることよりもどんな時でも喜んでいなさいと
命じています。 その理由を知るために幸せを求めることと喜ぶことを比べてみたいと思うんですね。
神明界ここ時点を見ますと幸せというのはですねこう説明しています。 幸せとは運命の巡り合わせ
幸運であることと解説しています。 それで幸運というのを調べたらですね同じ辞書でそれは物事が偶然自分にとって
都合の良いように運ぶことと説明しています。まさにラッキーですよね。 このようにまあ幸せをこう定義するならば
まさに運命の巡り合わせや偶然に左右されてしまうというのが幸せです。 それをよくですね表しているものがあって実は幸せの女神って言うじゃないですか。
その由来があるのをご存知です。 ローマの神話にフォルトゥーナという女神が登場します。
フォルトゥーナここに絵がありますけれども この彼女はですね
不安定な球体に乗っている不安定なボールに乗っているんです。 なぜかそれは運命が定まらないことを象徴している。
あるいはですね 幸運の
逃げやすさを象徴する羽の生えた靴を履いている。 ナイキじゃないですけどね。羽の生えた靴を履いて幸運が
逃げやすいということを象徴しています。 そしてちょっとこの絵には見つからないんですけども
底が抜けたツボを持っているというんです。底抜けのツボなぜかそれは 幸福が満ち足りることがないということをそれによって象徴しているって言うんですね
このフォルトゥーナはいわゆる英語のフォーチュン 幸運の語源になっているというわけです。
ちなみに今話題の相手いませんがカルト、多くのカルトそうですけども、それの 象徴手段はですね
幸せを約束して金銭を騙し取るというんです。 この間私ある記事見てびっくりしたんですけど
先祖を供養すれば運命が変わり幸せが訪れる。 何代先まで供養するかによって金額が変わるって言うんですね。
このフォルトゥーナの例に倣って言えばその幸せというのは満ちることがないわけです。
だからそういうのでお金を騙し取られてしまうという連鎖が続くのであるかもしれません。
それはそれとしまして、このような幸せということと比べて一方パウロはですね
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いつも喜んでいなさいと今日のところで命じています。 この言葉読み飛ばしてしまいますけども
2回言ってるんです。 もう一度言います。喜びなさい。
これはですね著名な学者によると非常に珍しい言い方で、最後の最後にパウロは本当にこの喜ぶということを
ピリピの人たちに身につけて欲しいと考えたって言われてるんですね。 余談ですが喜びなさい。喜びについてピリピリの手紙に16回出てくるそうです。
半分ずつパウロの喜びとピリピ教会の人の喜びとで分け合っているようなんです。
それともかくとても重要な教えとしてこの喜びなさいということを2回も言っている。最後の締めくくり。
実は 聖書をよく知っている人に気づいたと思うんですけどもこれは
テサロニケ人への手紙の第1の最後5章16節でもですね全く同じようにいつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさいというスタッカートの詩が出てくる。 このテサロニケっていうのはピリピと同じ
マケドニア地方当時の今のギリシャ地方の隣同士の教会のようなものです。
そういう教会に 同じ地域の教会に
命じています。なぜかというとどちらもですね この近い地域でいつも言っているようにローマ帝国の支配下にあって
ローマ皇帝の名のもとこのクリスチャンが苦しめられていた同じ
テサロニケの方がもっと強い迫害にあっていたそういう背景があったからそんなところで それでもいつも喜びなさいどんな時も喜びなさい
パウロは命じていたわけです この喜ぶということ
非常に重要な教えだということがわかると思います。 その苦しみに預かっていた
クリスチャンたちに対して状況が変わらなくてもいつでもどんな時でも 喜びなさいとパウロは
命じたって言うんですねこれは オプションではない
必ずそうしてくださいという 命令です
言い換えれば自分の意思をもって喜ぶ あるいは喜ぶことを選んで喜ぶということです
先ほど見ましたように幸せや幸運は状況や偶然に左右されてしまいますよね でも喜びはこのように考えるならば
たとえどんなことがあってもあるいは誰によっても消すことができない 私たちが選び取ることができるもの
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それはそれが喜ぶことである そのことをパウロは
前提としていつも喜んでいなさい どんな時でも喜んでいなさいと
命じたわけです そして続けてパウロは今日の箇所で2つ目の命令をしています
それは2番目 どんな人にも
ニューワザを知らしめなさいと言っています 4章5節前半読める方読んでみましょう
あなた方の寛容な心がすべての人に知られるようにしなさい もちろんですねこのハラスメントに対して今話題のあるいはまあ
dv のなどに対しては適切な対応する必要があります それは大前提としてそれはそれとしましてパウロの言葉から学びましょう
ここで言われる 寛容な頃とは何でしょうそれは
ある状態と反対の 感情ですそれは
怒りを中心とする 激しい感情と反対それがニューはな
態度ということなんですね で
先ほど申し上げたようにこの背景には ピリピ教会がノーマローマの市民でありながらクリスチャンでありながら様々な
社会的なあるいは人間関係の圧力やまあ白外とまで言えないですけども 白外に至るような苦しみを味合わされていたというそういう背景がありました
それに対してパウロはですね怒りを持って対抗しないようにというそういうニュアンスで 入馬な頃すべての人に特にクリスチャンでない人たちに知らせなさいと
もちろん教会の人に対しても知らせなさい どんな人に対してもニューはなあなた方のに噂を知らしめなさいと教えているわけです
実はこのニューはな 姿
それを考え時に私たちはまず イエス様を思い出しますよね
そのイエス様のニューはさ 受難の時のイエス様のニューはさについて
弟子の一人であるペテロが この十字架へ向かうイエス様の姿を
こう伝えているんですね 第1ペテロ2章の22から23節
ちょっと長いんですけど読めるかで読んでみましょうさんはい キリストは罪を犯したことがなくその口には欺きもなかった
の知られても罵り返さず苦しめられても脅すことをせず 正しく裁かれる方にお任せになった
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この後そうして私たちの罪を担ったと続くんですけど まあ聖書読んだり皆さん何かイエス様の映画ジーザスってビデオ見たらわかると思いますけど
本当にローマの兵士たちに 虐待されたイエス様それでも罵り返さない
苦しめられても 脅しかえさないイエス様の姿これがまさに
ニューはなお姿だったということですね さあその
イエス様の姿に見られる 苦しみの中でのニューはな態度
実はそれはですね イエスさんも知らない人に対して
強いインパクトを与える そういうものなんですね
実はそのことパウロ自身が ピリピで迫害した体験した迫害に
その様子を見て取れるわけです その中でパウロが喜んでいた姿をピリピ教会の人々が思い出したに違いないですね
皆さんはピンとききましたでしょうかそれは 使徒の16章に記されています簡単に言うとパウロは当時その地域の有力者であり
経済的にこの裕福な この人のですね簡単に言うと経済的な利害に
利害をですね損なうようなことをした 悪霊につかれたこの占いの少女から悪霊を追い出してその少女が占いができなくなってですね
その主人がこのことをパウロのしたことをですね 町の役人に訴えました
そしてパウロともう一人同行の知らずは捉えられて無知打たれたわけですよね そしてこの2人は無知打たれて
牢屋に入れるように 命じられたわけです
それでそのことがですね使徒の16章に自己説こう書いてありますね この命令を受けた看守は2人を奥の牢に入れ足には木の足枷をはめた
夜中頃パウロと知らずは祈りつつ神を賛美する歌を歌っていた 他の囚人たちはそれに聞きしたが聞いていたということです
皆さんご存知ですねこの後何が起こりましたか 全体地震が地震が起こって牢が開いてしまったで囚人が全部逃げたと思ったけれども
パウロと知らずがですね 逃げなかったで囚人が逃げると看守は死刑になりますから
自害しようとしたところパウロは誰も逃げてない私たちはここにいるよと言う そう伝えてですねこの看守とその一家が信仰を持ってバブティズムを受けた
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まさに彼らの喜びその入場さがですね この看守に大きなインパクトを与えて
この家族の会心を生み出したというこの物語ですよね このように
苦しみの中にあっても喜んでいる姿まさにニュアな姿です そしてその姿はですね
キリストを知らない人に対して大きなインパクトを与えるわけです そんな中でパウロはいつも喜んでいてあなた方の入場さをすべての人に
知らしめなさいと教えているわけです最後 喜びのよりどころとしてイエス様がいらっしゃるということです
今日の歌詞を 全部読んでみましょう3はいいつも主にあって喜びなさい
もう一度言います喜びなさいあなた方の関与な頃がすべての人に知られるようにし なさい
主は近いのです どんな時にも喜び続け
どんな人に対しても関与を知らしめる それ私たちの力では不可能です
パウロはそのよりどころとしてイエス様を 掲げているわけですよね
どんな時にも喜びなさいどんな人にも関与を示しなさい 主は近いのですから
この揺るがない根拠よりどころとしてのイエス様を繰り返し掲げているわけですね 実はこの
最後の主は近いのですって言葉 これはどういう意味かということで学者の間で議論されています
主に2つのことがあって一つはですね 主はいつも近くにおられますいわゆるインマネールの進歩ですね
そしてもう一つはパウロもこの手紙でよく言っている 主イエス様は間もなく来られるのです
そういう意味です 特にこの間もなく来られる主は近くにおられるという間もなく来られるということはですね
こういうことで関係していくんです 悪を働く人に対して主が
来られる時終わりの時に必ずその悪に対して報いを与える その悪に悪を働くあなた方に悪を働く人に対して必ず主が裁きを下され
間近に起こることがあるでしょう それはですねもちろん私たちが知る範囲でその神の裁きがその人に下ることがあるかもしれません
そうではなくても 主が再認されるときに必ずその悪は裁かれるって言うんですね
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そして その
神を知らずにですねまあ 傲慢に振る舞い弱者を強いてあげている人たちはですね
やがて自分も資料を免れないということを知らしめられる そしてその自分の誤魔化しが暴かれる日が来る
そのようにまあ 弱いものに弱な者たちは信じる
そういう 主の最後の裁きというものを信じるが故に
自分で復讐するのではなくて この主の怒りの手に
悪人の裁きを見られる 相手に怒りをぶつけるのではなく
主にあって喜び 入馬さを知らしめるというところにつながるわけなんですね
そしてもう一つ 私たちには喜ぶ理由が必要だということと関係します
何か私たちが喜ぶその 根拠としていろんなものがありますけれども
揺るがない根拠として 変わることがないイエス様が側におられるんですよという
そういうことを教えているんですね この
私たちはですね まあクリスチャン生活長い方は特にそうかもしれませんが
試練に合うその中でも自分のそばにイエス様がいてくださる あるいは気がつかなかったけどイエス様いたいてくださったっていうことに目が開かれる時に
喜ぶことができるって言うんですよね それはある人はですね視点視点が変わる
視座が転換するって言うんです そのことをですねある学者がこう説明しているんですね
私たちは神から見放されていたと思われた自分が実は神様にしっかりとつかまれ 神様のもとに生かされていた
神様の支えによって自分は生かされている そのように自分自身に寄り添う神を発見するときに
私たちの視点が変えられるのです ということですね
この今での神様 近くにおられるイエス様の存在に気づくときに私たちの視点が変えられて
どんな時にも主にあってそれこそ主にあって イエス様を根拠に喜ぶことができるということですね
最後にこの今日のことと関わるでしょうか その進行に
21:00
寄り添う支援 読んで終わりたいと思います
73編の21節から28節抜粋しますね この祈りです
私の心が苦しみに満ち 私の内なる思いが突き刺されたとき
私は愚かで考えもなくあなたの前で 獣のようでした
しかし私が絶えずあなたとともにいました あなたは私の右の手をしっかりとつかんでくださいました
最後読んでみましょう3私にとって神のみそばにいることが幸せです 私は神である主を私の避け所として
あなたのすべての宮座を語りつけます 祈りしましょう
天の神様皆を賛美いたします いつも喜んでいなさい
どんな時でも喜びなさいパウロが 大きな声を持って
フィリピンの人たちに私たちに教えて語りかけています 私たちはそれを聞くときに自分の思いの中でそれができない
そんなことができる人いないと 考えてしまいますが
どうかイエス様にあって喜ぶことを私たちが学ぶことができますように 共におられるイエス様に目が開かれ
私たちがあらゆる状況の中でイエス様のゆえに喜ぶ そのように決断することができるよう
どうかおちなる精霊様が助け私たちをまさに あなたの喜びで満たしてください
どうかそのようにして私たちの思いを超えた あなたの
ニュー朝が私たちを通して世の人々に明かしされますよ どうか弱い私たちを持ちください
この願いと感謝を私たちの救い主 主イエス様のお名前によってお祈りします
アーメン それでは御言葉に応えてそれぞれ1分ほどお祈りしてください
23:21

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