1. 名谷教会
  2. 2025/06/15:アバ、父よ
2025-06-15 34:04

2025/06/15:アバ、父よ

2025/06/15 三位一体主日礼拝

加藤満牧師

ガラテヤ人への手紙 4:1-7


サマリー

このエピソードでは、父の日と三位一体の神についての教えが語られています。近藤由美著の「親との関係を見つめるシャロムへの招き」を通じて、親子関係が人間関係に与える影響が探求されています。父と子の関係の重要性とその複雑さ、そして神であるアバ父との関係が取り上げられています。ヨセフの例を通じて、彼らも神の祝福の相続人であり、父との親しい関係を築くことの意味に焦点が当てられています。また、三位一体の神が持つ交わりと愛の重要性について考察され、父なる神を知ることができる理由が説明されています。特に、イエス・キリストが示す父と子の関係が、信仰の基盤となることが強調されています。

父と子の関係の教え
それでは一言お祈りをさせていただきます。
恵み深い天の父なる神様、今日も私たちを主の御前へと招いてくださり、あなた仰ぎ礼拝ができます幸いを感謝いたします。
今日は三味一体手術、また父の日であります。
改めて、父なる神、子なるイエスキリスト、そして聖霊なる神が、私たちを救うために、この世界を贖い出すために、すべての力をもって、その交わりのうちに救いの見業を成し遂げてくださったことを覚えて、心からありがとうございます。
そして主よ、あなたはその交わりの中に私たちをも加えて下さいます。私たちを子と呼び、私たちがアバ父よと呼び、その世に呼ばせる御霊を私たちに与えて下さっているという、まさに親しい愛の交わりの中に私たちも入れ、私たちを罪から許し、あなたの子として生かすその恵みの中へと招き入れて下さったことを、心からありがとうございます。
その交わりの中で私たちは言われます。
もはやあなたは、自分の足ではなく、私の恵みによって歩みなさいと、死を超えてまで私はあなたと共にいると、そのように語って下さる主であることを、そのような約束を与えられていることを、心からありがとうございます。
神様、私たちはあなたの恵みを知りたく思います。どれほどの恵みの中に、どれほどのあなたの身力の中にあるのか、そのことをまた今日も御言葉を通し、教えて下さいますようにお願いいたします。
全世界において、特にアメリカでは今、軍事パレードが行われております。
主よ、本当にそれぞれが自国主義に走り、力を表し、自分の権威を表すために、多くの力と多くの富を見せるという、何千年も前から変わらない営みを人間は繰り返します。
しかし、力と富によって支配するのではない。愛と謙遜と、あの十字架に進まれた姿によって、私たちに王の姿を示して下さったイエス・キリストこそ、私たちの、そしてこの世界の誠の王です。
私たちはあなたを主と告白し、ここに集っております。どうか憐れんで下さい。私たちはこの世界に目が奪われるのではなくて、誠の王である主の御心を主体に求め、尋ね求めるものとならして下さいますようにお願いいたします。
神様、ここに来たくても来れない方々、ご自宅で礼拝を守り、施設におられ、また心が痛んで来れないお一人一人がいらっしゃいます。どうか主がお支え下さいますように。
ゆえがわからず、いらしていない方もいらっしゃいます。どうか主よ、交わりを開き、その方が痛んでいるのであれば、慰める手足とさせて下さい。お願いいたします。
これからの時を御手によだれます。御言葉を開いて下さいますように。あなたに期待をして、イエス様のお名前によってお祈りを致します。アーメン。
親との関係を考える
主報でアピールをしていますが、最近、水曜祈祷会では一作の本を御一緒に読み進めております。
近藤由美さんという方が書かれた、「親との関係を見つめるシャロムへの招き」という本を一章ずつ読み進めています。
タイトルの通り、これは、親と子の関係を考えるという本です。
いや、もうちょっと先日めて言うならば、人が人間関係を築く時に、その根幹にあるのは、その人と親との関係がベースにありますよという本なんですね。
人によって、まさにその人間関係のベースになるほど根幹に存在するのが親であると。
親との関係といいますのは非常にデリケートなものですね。
親が大好きだという方もいらっしゃるでしょうし、人によっては痛みを覚える関係ですという方はいらっしゃると思います。
けれども近藤先生は、そのような方々に配慮をしつつも、だいぶ鋭く切り込むんですね。
それはわかる。でも、あなたが父と母と向き合わなければ、もしくは聖書のあなたの父と母を敬えという御言葉に向き合わなければ、進めない一歩がありますよということをはっきり書かれます。
私は最初この本を読んでいい本だなと思いながらも、祈祷会でこれを読んで大丈夫かなという心配があったんですね。
デリケートな問題だし、近藤先生の本は鋭いです。
けれども、始めてみて驚いたことは、皆さん結構ご自身の親の話をし始めると止まらないということですね。
最初私3章ずつぐらい読みながらで、5週か6週で終わろうと思っていたんですけれども、いや1週ずつやりましょうということであったり、
最初分かち合いをとったら1時間ぐらいあったのが全然みんな収まらないくらい。
親のことについて語りたい。それは親に対する喜び感謝もあれば、親に対する怒りも当然あります。
けれども、親に対して、親について語りたい。
それを見て改めて私思わされました。
いつまでも親の存在というのは、切ろうとしても切り離せない。私たちにとってはそうなんだろうなということです。
それは自分にとって良いものも、そして自分にとって良くないものも含めて、なかなか切り離しがたい存在であると。
今朝は三密一体手術であり、父の日であります。
今朝はご一緒にしたいことは、聖書の父と子の関係について改めて少し目を止めていきたいということです。
そこには喜びもあれば痛みもある。
しかしもう一つ見たいことは、そういう私たちは三密一体の手に包まれながら、
あば父よと呼ぶものにされた、その恵みの中にいるということです。
それをご一緒に今朝は覚えていきたいと思います。
聖書の親子関係の描写
最初に言っておきます。ちょっと今日はパラパラいろんな箇所に飛びますので、しんどかったら途中から聞いてくださればと思います。
三つのポイントで今日も少しメッセージをさせていただきますが、
一つ目のポイント、それは聖書は子供は父親を繰り返すものとして描かれているということです。
子供は父親を繰り返すものとして描かれています。
聖書の中でそのことが顕著に書かれてありますのは創世記です。
創世記はまさに子供が父親のパターンを繰り返すという形で描かれています。
皆さん思い返していただきたいのですが、例えば信仰の父アブラハムという人がいます。
彼の人生の中で一番の失敗は何だったでしょうか。
おそらくそれは自分の住んでいるところに基金があってエジプトに逃れていったときに、自分の妻サライがすごく美しい女性だったんですね。
この美しい女性を当時旦那を殺して略奪する人って多かったので、
アブラハムは自分の身を守るためにサライに対して、
サライごめんと、このときだけあなたは私の妻じゃなくて妹ってことにしといてくれませんかっていうことがありましたね。
これダメなんですよ。
サライをもっと危険にさらす、いわば夫として妻を守る責任を放棄しているわけですね。
これは大きなアブラハムにとっての過ちなのですが、
しかし創世紀の平和に結構ですが、26章というところには、
アブラハムの息子であるイサクが妻リベカに対して全く同じことをするんです。
リベカに対して、ああごめん私は自分の身が可愛いから私の妻じゃなくて妹と言ってくれっていうことを、同じことを繰り返すんですね。
そしてもう一つこれは、イサクとヤコブの親子関係にもありました。
イサクの妻はリベカですね。
この夫婦関係の一番の問題は何であったかというと、子供に対する偏愛です。
聖書ははっきりと、父イサクは兄エサウを可愛がって、母リベカは弟のヤコブを可愛がったってはっきりと書いてあるんです。
しかしこの親が両方じゃなくて片方だけを愛するみたいな偏愛によって、結果これはエサウとヤコブの兄弟関係の争いに発展していくわけですね。
ただ皆さんよくご存知でしょう。これは息子のヤコブも同じことを繰り返すんです。
ヤコブも四人の妻からたくさんの息子ができますが、しかしヤコブが可愛がったのは、自分の愛した妻ラケルの息子のヨセフだけでした。
ヨセフをことのほか可愛がって、他の兄弟はヨセフに対して嫉妬をして、最終的にヨセフをエジプトに売り渡すということがありましたね。
これは同じようなことは、例えばダビデとアムノンでも同じでしょう。
ダビデがバテシェバを略奪したように、アムノンは異母姉妹の異母兄弟のタマルを略奪しようとしますよね。
悲しいぐらい子供は父親の過ちを繰り返しています。
創世紀は子供が父親の過ちを繰り返すということ、そしてそのような繰り返される過ちを通して子供同士の関係が悪化するということ、実はそのことが繰り返し書かれているのですね。
いわばそれは、親のある種の歪みが、もしくは罪と言ってもいいでしょうか、それが世代を超えて連鎖するというような描き方をするのです。
ただこれは創世紀に限った話ではありませんで、聖書の罪理解はまさにそういうものですね。
ちょっと一箇所開かせていただきたいのですが、旧約聖書の出エジプト記の34章の6節からというところを読みします。
出エジプト記の34章の6節からというところを読みしますと、こういう言葉がありますね。
6節、7節を読みします。これも有名な大事な箇所ですが。
旧約聖書の161ページの下段になりますが、出エジプト記の34章の6節、こういう言葉があります。
主は彼の前を通り過ぎる時こう宣言された。主は憐み深く情け深い神、怒るのに遅く恵みと誠に富み、恵みを千代まで保ち、戸賀と背きと罪を許す。
しかし罰すべきものは必ず罰して、父の戸賀を子に、さらにこの子に、三代四代に報いるものである。
そのように描きます。恵みは千代までって素晴らしいのですが、ネガティブなところを見ると、神は罰すべきものを必ず罰して、三代四代報いるという言葉があるのです。
これはどこから来ているのか、まさにアブラハムからヨセフが四代なんですよ。
いわば父の罪が子に、もしくは子が父を繰り返す、どちらでもいいですが、そういうことが連鎖していき、そしてそれが不思議なように父から子に表されてしまう。
親子関係で表されてしまう。そういうことが描かれていると言っているのではないでしょうか。
これに関連するかもしれませんが、新約聖書のエペソビトへの手紙の6章というところ。
エペソの6章の1節というところには、新約聖書でパウロが父と子の関係について語っている箇所ですけれども、新約聖書の391ページの下段になりますが、
エペソビトへの手紙の6章の1節からこういう言葉をパウロは書いています。
お読みしますと、
子供たちよ、主にあって自分の良心に従いなさい。これは正しいことなのです。
あなたの父と母を敬え。これは約束の伴う第一の言いましめです。
そうすればあなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続くという約束です。
父たちよ、自分の子供たちを怒らせてはいけません。むしろ主の教育と勲会によって育てなさいという言葉があります。
子供たちよと、あなたの父と母を敬いなさい。
これは実会に書かれている言葉なので、パウロからすると当たり前のことを子供に語っているわけです。
しかしここでわざわざ書き加えられるのは父たちよという言葉です。
子供を怒らせてはいけません。これは挑発するなという言葉です。
子供をイラつかせるなという言葉ですね。
エペソビトリの手紙は巡回書簡と言われますから、様々な教会に読まれることを想定して書かれた言葉ですが、
父と子の関係の複雑さ
それだけ色々な教会から父と子の関係の悩みが寄せられていたのかもしれませんね。
何が言いたいのか。これらを見るときに、私たちは父と子の関係というものが実はある意味複雑であって、
同時に影響力の弱いものではないということに気づかされるんです。影響力は弱いものではない。
当然、父親はいい影響を私たちに与えてくれます。しかし、父がこう怒らせてしまうという現実はある。
なぜなのでしょうか。そこには様々な理由もおありでしょう。
ただ、父親が祖父から受けたものがもしかしたらあるかもしれません。
その前には、祖父が曹祖父から受けたものがあるかもしれません。
ヨセフの影響は、アブラハムから始まっているのであれば、曹祖父でしょう。
そこにある種、父親でなくとも、そこに生きている私たちもまた、
ある種そのような連綿と続く父と子の系譜の中でうめいている。
そういう実情がお互いにあるのではないでしょうか。
ただ、続けて考えていきたいのですが、2つ目のポイントです。
そういう私たちが、アバ・チチというお方を知っていきます。
知っていきましたね。
実は、創世記というところを思い返すときに、そのように父との関係に痛みながら、歪みを引き継ぎながら、うめきながら、
しかしそのパターンを突破した人物がいます。
それはヨセフ。ヨセフですね。
創世記というのは、実に広くは父との関係の破れと、それが和解していくという、そのような構成を持っていますけれども、
兄弟との和解の際に、ヨセフがこういうことを言うんですね。
ちょっと開くと申し訳ないので、私を見ますけれども。
創世記の50章の20節というところに、ヨセフが兄弟たちに向かって言った言葉がありました。
このような言葉ですね。創世記の50章の20節。
あなた方は私に悪を図りましたが、神はそれを良いことのための計らいとして下さいました。
それは、今日のように多くの人が生かされるためだったのです。という言葉が語られています。
あなた方は悪を計らった。兄弟の仲が悪くて、エジプトに私を売り飛ばした。
でもその原因は父との関係。
でもそのような悪の最中にヨセフは、神はそれを良いことのために用いて下さったという、
神がその私の人生に入り込んだということを語るのです。
そして神が働かれるときに、その身業を信じたときに、
そのような連鎖が良いことのために結ばれていったということを彼は語るのですね。
私たちは互いに神様を信じていると思いますけれども、
神様を信じるとき、私たちはどうなるのでしょうか。
実はそのことを語っているのが、
今日読んでいただいたガラティア書の4章の1節から7節のところです。
これはちょっと全部話すとややこしいので、
簡単にちょっとこの箇所を話しますと、
この4章の1節から7節と言いますのは、
いわば神の祝福の相続人にあなたたちはなったんですよという、
簡単に言うとそういう話ですね。
救われたあなたたちは神の祝福の相続人になった。
これまでイスラエルの民だけに与えられていた祝福だったけれども、
違法人であるあなた方も祝福を受け継げるようになった。
その資格はただ一つ。
あなたたちも聖霊を受けて、
同じ神を阿波父よと呼ぶようになったでしょう。
あなたたちも同じ神を父なる神阿波父よと呼ぶようになったでしょう。
神様を阿波父。
阿波というのはこれは簡単に言うとパパです。
パパ。
パパ、天のお父さんと呼ぶものにされているということは、
あなたは父なる神様と親しい子供となる、
父と子の親しい関係の中に入ったんだよということを言っているわけです。
聖霊様によってあなたはそうなった。
それはあなたが違法人であろうとも、
あなたがどんな人間であろうともイエス・キリストを信じたときから、
あなたは神の子とされ、神の祝福の相続者となりましたよということをこの歌詞は語ります。
改めて私たちも思いますのは、
神様を信じて救われるというのは何かというと、
神の子となるということです。
父なる神の子とされるということ。
ここで私たちはみんな神の子なんです。
みんな神の子です。
そしてその神の子とされている人たちの特権は何かというと、
シンプルに言うならば、
父なる神様がどういう方か知ることができるということですよ。
父がどういうお方かわかる。
それは言い方を変えるならば、
人間の父親より先に、
私たちを母の体の中で形づくり、
私たちに命を与え、私たちの人生を捉えている、
誠の父と言ってもいいかもしれません。
本当の父。
天の父というお方があなたにはいて、
あなたはそのお方を知ることができるということが言われるのです。
あば父、パパ、天のお父さんというお方はどのようなお方でしょう。
私たちは聖書から知っていると思います。
天のお父さんは、
我が子に対して決して悪いものを与える父ではない。
天の父は子供に対して良いものを与えたいと常に願っている父である。
マタイの福音書の7章に書かれてあります。
天のお父さんは、
我が子が道を誤っていたらそっちじゃないよと言って
訓誡を与えてくださる父です。
ヘブル人への手紙の12章に書いてあります。
しかし天のお父さんは、
そうは言いながらも願った通りに歩めない。
我が子に対してそれでも走り寄って抱きしめて許し、
その子のために盛大な喜びを表す父である。
ルカの15章に書いてあります。
そして天のお父さんは、
私たち一人一人をまさに神の子として召し出すために、
神の子とするために、
自分自身の宝物である愛する一人子を、
この世に送ってしまわれる宝物を捧げてしまう父です。
ヨハネの3章の16節に書いてあります。
私たちは聖書を読んでいくときに何を知るのか、
天のお父さんが本当にどういう方か、
私にとっての本当の父がどういう方なのかということを知っていく。
天の父の姿を通して、
父の根源的な姿を知るという恵み、
その中に私たちはいる。
クリスチャンというのは、
天のお父さんの懐の中で、
先ほど父の懐の中で以降以上の憩いはないと賛美をしましたが、
信仰の重要性
あなたは私の愛する子、
私はあなたを喜んでいるという、
マタイの3章のあの御言葉の通りに、
その懐で憩う子供とされている。
その声を聞くものです。
私たちはそこに本当に休んじに行く。
そこに完全に休んじることができることが、
私は清めだと思っていますが、
私は牧師をしながら、
多くの人たちの祈りを聞きます。
祈りを聞けば大概という言い方は失礼ですが、
その人が神様をどうイメージしているかということがよく分かるときがあります。
そして時に、いつまでも神様は怖い、
神様は厳しいお方だというイメージで祈られる方はいらっしゃいます。
もしくは、神様は無力である、
私に対して無関心であるというイメージで祈られる方の祈りを聞くこともあります。
ただよく言われますのは、
その根本にあるのもまた、
その人自身と父親との関係だと言われます。
自分の父親が私に対して無関心であったから、
神は私に対して関心なんかないだろう。
自分の父親がすごく怖かった。
父なる神はだから怖いんだろうと。
でも、私たちが御言葉から招かれることは、
自分の父親の姿を神様に投影するのではなくて、
御言葉から誠の父なる神様の温かさを知りながら、
自分の父親を見つめ直す勇気を得るということです。
私たちはそこが逆転する必要があるかもしれませんね。
ただ、そういう道筋に私たちは招かれているのではないでしょうか。
そういうことを覚えながら、
今朝最後のポイントでご一緒に目を止めたいのは、
私たちはそういう父を受け止めるという歩みを、
三味一体の神の交わりの中でうめきながら行うということです。
パウロは、天皇お父さんを、彼はローマ書でも言いますが、
あなた方は、あば父よと呼ぶものにされたんだと言うんですよ。
あなた方は、へだてなく神を、
パパと天皇お父さんと呼ぶ交わりに入れられたんですよと。
そしてローマ人への発祥というところには、
全非造物が私たちもパパと呼べるものになった私たちも含めて、
なおも私たちは心からあば父よと神を呼ぶことができるようにと、
うめき続けている。
そういう言葉がローマ書の8章の23節にあります。
我々は神様を父なる神、あば父よと呼ぶものとされて、
そしてまた心から安心して遠慮なく、へだてなく、
あば父よと呼ぶものになっていくようにと、
その過程の中に私たちはあるわけです。
しかしそこにはうめきがあると聖書は語ります。
うめきがある。
私たちのそのあば父よと呼んでいくためのうめきとは一体何でしょうか。
まさに自分の父親と対峙するということではないでしょうか。
自分の父を神様に投影するのではなく、
見言葉から誠の父なる神様を知っていくこと。
それができたら万々歳ですね。
ただ可能であればもう一歩、
自分の父親を見つめ直す勇気を得ることです。
でもこれは簡単ではありません。
簡単ではありません。
鬼道界で読んでいる近藤先生の本の中で、
実は一つのレクリエーションがあります。
両親の年表を書いてみましょうというのがあるんですね。
あなたの両親の年表を書いてみてくださいと。
ただその年表を書くときのその進めの言葉に先生があるんですね。
もしかしたら書こうとして筆が進まない人がいるかもしれません。
腹が立ってこんなことやってられるかって
ペンを投げたい人もいるかもしれません。
いますね。それはよくわかります。
私たちは親を見つめるときに、
感謝しかないという親子関係ならば本当に感謝すべきですね。
ただそれだけではないうめきがあってもおかしくはない。
ただ今朝読んでいただいた箇所のこの中心聖句の4章の6節というところ。
私今朝この言葉が大事だなと思っております。
そしてあなた方が子であるので、
神はあば父よと叫ぶ御子の御霊を私たちの心に使わされましたと。
ここには三味一体の神がすべて出てまいります。
父なる神よ、あなた方が子であるので、
三味一体の神と交わり
神はあば父よと叫ぶ御子の御霊を私たちの心に使わされた。
神が三味一体であるということが意味すること、
それは神というお方自身が隔てのない交わりをずっと続けておられる神であるということです。
父なる神、子なるキリスト、そして聖霊様が隔てない交わりを続けておられる。
父なる神はイエスキリスト、子なるイエス様をこれは私の愛する子、私の喜びだと言われ、
子なるイエス様は父なる神様をあば父よと呼びかけ、
そしてそのような父と子の愛の交わりの中に聖霊様は私たちを加えてくださる。
それが聖書の書いてあることですね。
いろいろ開いて申し訳ないんですが、
ヨハネの福音書の17章の21節というところにこういう言葉があります。
まさに三味一体について語られていることです。
ヨハネの福音書の17章の21節からお読みしますと、こういう言葉があります。
ヨハネの17章の21節からお読みしますと、
父よ、あなたが私のうちにおられ、私があなたのうちにいるように、
すべての人を一つにしてください。
彼らも私たちのうちにいるようにしてください。
あなたが私を使わされたことを、世が信じるようになるためです。
また私は、あなたがくださった栄光を彼らに与えました、
私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
三味一体の神にならって、一つになっていくということが、
栄光を表すということがここにも書いていますが、
ただ書いてあることは、この交わりの中に主は加えてくださいと言っている。
まさに私たちが、あば父よと神様を呼べるというのは、
あのイエス・キリストと同じように、あば父よと呼ぶものとしてくださって、
あのイエス・キリストが父から愛されたように、愛する子と呼ばれるようになって、
そのような交わりの中にあなたは今入っている。
だからその中でまさに、あば父よと呼びながら、父を知り続ける。
父なる神を知る
父を知り続ける。
そのようなことへと私たちは加えられている。
聖霊様が私たちに導いてくださるのは、そういうところですね。
もう終わりますが、子供は父親を繰り返す。
重たい言葉だと思っています。
そこには祝福と呪いがあります。
そのような系譜の中で、私たちはうめき続けているお互いであるかもしれません。
しかしその系譜に神様が入られた、あのヨセフのように系譜の最中に神が入って来られた。
聖霊様がすでに私たちの内に生き、聖霊様が私たちの内から叫ばせる、
あば父よという父へを叫び、父を知る声を叫ばせてくださる。
イエス様と同じようにあば父よと叫ぶその交わりの中で、
父なる神と子なるイエス様の隔てのない愛の交わりの中に、
私たちは愛そのものである父なる神様を知る。
そして知り続けていく時に聖書は語るのは、私たちは神に似るものにされていく。
それは言い方を変えるならば、ちょっと雑な言い方をします。
系譜が変わるということです。
私たちが連綿と引き継いできているものがある。
しかし私は違う父を知った、いや誠の父を知った。
それは無慈悲でも意地悪でも私たちに暴力的でもない。
そして私たちは二つの父どちらにも似ることができる。
でも私たちは神を知る時に誠の天の父に似ていくことができる。
私たちは改めて地上の私の父の痛みやうめきというものをある種繰り返すことをやめながら、
同時にその父を理解する、そのような意味へと進むことができるのではないでしょうか。
親は切ろうとしても切り離せない関係です。
そこには私たちは互いに傷もうめきもあるかもしれません。
しかしそのようにうめいている私、同じことをまたやっているなあと、
いやですね、父親と自分は似ていると気づかされる時に、
嫌なところで似ていると気づかされる時にがっかりしますね。
でもそのようなうめきを三味一体の神は受け止めてくださっているということです。
その中で私を知りなさいと、父なる神は招いてくださっている。
神の懐で癒されなさい。そして、阿波父王と隔てなく叫びなさい。
あなたは天の父を知ることができるのだ。
私たちの回復はそこから始まっていくものがあるのではないかと思っております。
長くなりましたが、これでおメッセージを終わります。
34:04

コメント

スクロール