3つのポイントで少しご一緒に見させていただきますが、第一に、この大食財備とは一体何なのかということです。
大食財備、ヘブル語ではヨムキップルといいますけれども、このことが書かれていますのは、旧約聖書のレビキの16章というところに書かれてあります。
これは年に一度だけある日なんですけれども、お開きいただける方は、レビキの16章の30節をご一緒に見ていただけるでしょうか。
レビキの16章の30節。レビキは旧約聖書の最初の方にあります。
旧約聖書の207ページの下の段に、旧約聖書の207ページの下の段に、レビキ16章の30節がございますが、ちょっと読ませていただきますので、目で見ていただけたらと思います。
レビキの16章の30節ですね。お読みいたします。
この日は、あなた方を清めようと、あなた方のためになだめが行われるからである。あなた方は主の前で、すべての罪から清くなると言われるのです。
すべての罪から清くなる。これが大食財備の意義でした。
いわば、年に一度だけこういう日があるのですが、この年に一度の大食財備というのは、イスラエルの民、すべての民の罪、もしくは一年間かけて蓄積されてきた聖書の穢れ、そういうものが完全に清められる、いわばすべてが年に一度リセットされる日。
それがこの大食財備という日であったと言っていいと思います。
そのために、この16章全体をまた各自見ていただけたらと思うんですけれども、そこで書かれていることは何かというと、
大祭司、当時はアロンですが、大祭司はまず自分自身の身を清め、そして自分の家族を清め、そしてその後にイスラエルの民全員を清めるための儀式を行いました。
清めるために行われるものは何かというと、いわば動物犠牲が捧げられるということです。命が捧げられるということですね。
それぞれこの清めにふさわしい動物の血がここでは流されるのです。
ただ、この日はもう一つ特徴的なことがありました。それがこの16章の15節、16節を見ていただけるでしょうか。
15節、16節を見ていただくと、こういうことも書いてあるのです。
アロンは民のために罪の清めの捧げ物である親戚をほふり、その血を垂れ幕の内側に持って入り、この血を先のお牛の血にしたように、なだめの蓋の上となだめの蓋の前にかける。
彼はイスラエルの子らの穢れと背き、すなわちそのすべての罪を除いて、聖女のためのなだめを行う。
彼らの穢れのただ中に、彼らと共にある大権の天幕にもこのようにすると書かれています。
実はこの日の大切な特徴、もう一つは何かというと、民の穢れが清められるだけではなく、聖女が清められるという日なんです。
大祭司は自分の身を清めた後、動物の犠牲の血を持って行って、聖女の細部にふりかける。
それによって聖女までも清める。
ここで書かれているのは、なだめの蓋というのが特徴的に書いていますが、なだめの蓋というのはもうご存知でしょう。
実戒などが入れられている契約の箱ですね。
その契約の箱の上には、ケルビムがこうやって向き合ってついているわけですけれども、聖書出演したときには、この契約の箱の上のケルビムが向かい合うこの間から神は声を発せられるということが、出演したときの25章の22節に書いてあります。
これは何かというと、なだめの蓋というのは神様の王座なんです。
神がそこに座されて声を発せられる場所なんですね。
そこも清める。
大食財備というのはまさに大祭祀が祀祀所に入り、最も聖なる神の道具にも血をふりかけ、聖女を清める。
これはなぜ必要なのかというと、聖なる神様がイスラエルの民の中に居続けるためなんですね。
このような清めやリセットが必要なのはなぜかというと、実はこの聖女が清められることによって、神様は聖なる神様は聖女に居続けることができる。
そして、聖女だけではなくイスラエルの民が清められる、いわば性別されるためでした。
性別されるというのはどういうことかというと、聖なる神様と同じような聖なる民になるということです。
わかりますか。聖なる神様というのは普通とは違うから聖なる神様なんです。
それと同じように民が清められるというのは、聖なる民、神様と同じ聖なる民で居続けるための清めですね。
まさにレディキューにありますが、「あなた方は聖なる者とならなければならない。私が聖だからである。」と聖書は語りますね。
聖なる者になるというのは別に、完全人間になることではありません。
聖なるという言葉の意味の大切なものは何かというと、この世とは違うということです。
聖の大義語は穢れているじゃないです。聖の大義語は普通なんです。
この世と同じであるということが聖の大義語です。
聖なるというのはこの世とは違いますよということです。
そしてこの世とは違う民というのは、じゃあ具体的にどういうことなのか。
失敗はするけれども、実戒を守っていく民です。神を愛し、隣人を愛する民です。
イスラエルの民はそれを守り続けることができません。よく失敗しますね。
でも立法の中には、その民は何度も何度も、しかしそれでも清められて聖なる民に回復する手段も書かれてあります。
そのようにして聖書は、聖なる民が幕屋に居続けて、そしてイスラエルの民も聖なる民として性別され続けるということが大事だと語り続けています。
でもこれは破られるわけですね。
二つ目のポイントです。ここから大祭祀の祈りの意味が分かってきます。
大祭祀の祈りの意味はこれは何か。この世界に神の臨在が回復するようにという祈りです。
ちょっと遠回りをしましたが、今朝の祈りに戻っていきたいと思います。
この今朝の祈りはまさに大食財備の大祭祀の行事に重なるわけですね。
全部は読みませんが、さらっと見ていただくならば、17章の1節から5節では何が語られているのか。
17章の1節から5節で書いてあるのは、父よ時が来ました。子があなたの栄光を表すために、この栄光を表してください。
栄光という言葉は何か。それは旧約聖書の文脈で言うならば、死聖女の中にしかなかった神の臨在です。
あの栄光です。
そしてその栄光が、いわばイエス様を通して今この世界にでも表され始めている。
そしてそれは、あなたが与えてくださった人々に永遠の命を与えるためだったということが2節で書いてあります。
永遠の命とは、神と結ばれた命のことだと私は何度か申し上げますが、その通りです。
神と結ばれた、神のこととされた、神の契約共同体の中にいる、まさにその命、永遠の命ですね。
この栄光というのは幕や神殿に満ちた神の栄光のことでしょう。
それを表してくださいとイエス様はまずここで祈り始められる。
人々が神を知り、神を信じ、永遠の命を得るために、あなたの栄光を再びここに表してください。
そしてイエス様がこの世界で栄光を表されて、そのまさに暗闇の中に輝き始めた光を見て、人々は集まってきて、弟子たちが来たわけですよね。
イエス様のそばに来た弟子たちはそのようにイエス様を知り、神を知った人々。
その彼らに対しての取りなしがこの後続いていきます。
11節を見ていただくとまずイエス様が祈られたことはこういうことでした。
私はもう世にいなくなります。
彼らは世にいますが、私はあなたのもとに参ります。
聖なる父よ、私に下さったあなたの皆によって彼らをお守りください。
私たちと同じように彼らが一つになるためです。
まずイエス様がここで祈られたことは、お守りくださいです。
この後は迫害が待っている、海の苦しみがある。
そこで誰も脱落しないために、騎士よどうか彼らを守ってください。
しかしここからもっと踏み込んでいきます。
15節、17節ちょっとお読みしますと、続きにイエス様はこう祈られました。
私がお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
私がこの世の者でないように、彼らもこの世の者ではありません。
真理によって彼らを性別してください。
あなたの御言葉は真理ですと語られます。
イエス様が願われた二つ目は、性別してください。
彼らを性別してください。
先ほど言いました性別というのは、それはこの世の者ではない。
聖なる神の前に彼らを聖なる民としてくださいという祈りですね。
そのために、まさに聖なる民はこの世とは違う。
じゃあこの世とは違う今しめは何なのか。
イスラエルの民は実戒が与えられた。
でもイエス様は既に13章で言われましたね。
あなた方に新しい今しめとして与えるのは、互いに愛し合うことだ。
世界でパワーゲームが起きてますね。
力によるルール変更ということがよく言われます。
互いにやっぱりそうやってやっちゃうわけ。
でもこの世界の中で本当に互いに愛し合っているという交わりがあるというのは浮き出てきますよね。
普通じゃないんですよ。
でもだからこそ私たちは聖なる民です。
互いに愛し合いなさいという言葉。
それが守られていること自体がこの世とは違うという私たちの聖なる民である姿なんですね。
そしてそのように互いに愛し合うならばそれは聖なる民であって、
ブドウの木に結ばれた枝である、多くの実を結ぶ民である。
でもこの性別について進んでイエス様が言われた言葉、19節です。
今日のもう一つの中心です。
私は彼らのために私自身を性別します。
彼ら自身も真理によって性別されるためです。
大切なのはイエス様はここで私自身を性別しますと語られる。
よくよく考えると不思議な言葉なんです。
というのは、イエス様は聖なる神の子であり、
ヨハネの福音書はイエスキリストは聖なる神であると語ってきました。
本来であれば性別される必要などないお方です。
しかしここでご自身を性別すると言われた、なぜこのような祈りをされたのか、
実はこれこそがまさに死聖書、大祭祀の法書と重なるところです。
イエス様はここで二つのイメージを持って私は自分を性別すると語っている。
あの大食材日に大祭祀がすることは何か。
一つは大祭祀は自分の身を清めて死聖樹に入っていき、
動物の血をふりかけることによって聖女を清めるんです。
一つここでイエス様が性別をすると言われた一つのイメージは、
私はあの大祭祀だというイメージがあるんです。
私は今からこの世界の死聖樹に入っていって、
穢れによって輪際が失われたこの世界を清めて、神の輪際をこの世界に取り戻す。
そのために清めの身業をなすということを言われる。
しかしそのためにもう一つ必要なことは、動物の血が流されなければならない。
じゃあその動物は一体どこにいるのでしょうか。
それは神の子羊であるイエス・キリストご自身の血なんですね。
ここで言われることは、イエス様は私自身がその聖女を清めるために、
あの死聖樹に入っていく大祭祀であり、
しかしもう一つそこで捧げられる清めのための子羊の血。
それもまた私自身である。
だから私は自分自身を性別すると言われる。
そこで流される血、イエス様の十字架に架かられる血、
これは翌日にイエス様十字架に架かられるシーンですから、
まさにその死を予期されていたのだと思いますが、
そこで流される血はあたかもあの大聖祭祀に聖女を清めた血であると見ているのです。
まさに世界がリセットされるんですよ、この時から。
私は私自身を性別する。
それは大祭祀であり同時に犠牲になられるというイエス様ご自身の祈りです。
そしてあの大聖祭祀にはあの聖女が清められて、
全ての民が清められた、リセットされたということが語られますが、
ではイエス様の流される十字架の血を何を清めるのでしょうか。
それはまさにこの世界自身を清めるんです。
先ほど申し上げました南宇田の末期、神の臨済の神殿を去りました。
この世界には神の臨済はもはやどこにもない。
しかしこの世界にイエス様が来られたのです。
イエス様は誠の聖女として神の臨済を運ぶ誠の神殿でありました。
しかしその聖女であられたイエス様もご自身を犠牲の血として、
あの死聖女に自分を捧げられることによっていなくなります。
しかし私が去ることはあなた方にとっていいことである。
なぜなら私が去らなければあなた方のもとに助け主は来ない。
イエスキリストが流される血漿がこの世界を清めるならば、
実はこの世界は清められて神の臨済がこの世界にあふれる。
それは実は助け主である聖霊様がどこにでも現れるという、
いわばそのことと繋がっています。
もはやもう一人の助け主など聖霊様を通して、
この世界はあの死聖女だけではない。
イエスキリストだけが臨済を持ち運ぶのではない。
いやむしろこの世界で聖霊様が住まわれる全ての人の中に神の臨済は実は現れるようになったというのです。
またヤマルコの福音書ではそれがまさに神殿の幕が十字架の時に真っ二つに裂けたということで表現されています。
そしてペンテコステというのはまさにその衝撃だったのですね。
神はもはや死聖女には縛られてはいない。
聖霊なる神様はいわば神様を通して神の臨済は私たちがいるそのところに常に現れてくる。
そしてペンテコステで生み出された教会は何をしたでしょうか。
互いに愛し合ったんですよ。
言葉を変えるならば教会は聖霊に満たされて一つとなっていった。
そして互いに愛し合う教会を見て救われる人々が日々加えられていった。
使徒の働きの2章の43節から47節にあります。
これはまさにイエス様がこの大祭司の祈りの中で祈られた通りのことが起きている。
ちょっとだけ見ますがヨハネの福音書の17章の21節からイエス様の祈りの中の言葉です。
17章の21節からこういう言葉があります。
父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。
彼らも私たちの内にいるようにしてください。
あなたが私を使わされたことを、世が信じるようになるためです。
また私はあなたが下さった栄光を彼らに与えました。
私が一つであるように、彼らも一つになるためです。
私は彼らの内にいて、あなたは私の内におられます。
彼らが完全に一つになるためです。
また、あなたが私を使わされたことと、私を愛されたように、彼らも愛されたことを、世が知るためです。
これはまさにあのペンテコステボの教会で結ばれた約束であり、
そしてそれは今の教会に連なっているのです。
私たちはまさにイエス様によって、その始成所が切り出された、聖霊様の通しての神の臨在が私たちにあり、
そしてそれによって、私たちは一つとして歩んでいく民とされている。
ただ三つ目のポイントです。だからこそ、三つ目のポイント、今朝の説教題です。
始成所にいなさいと、私たちは招かれていると思います。始成所にいなさい。
イエス様の性別、弟子たちの性別、そしてこの世が父子聖霊と教会が一つにされることによって、
世が神様を知っていくようにと、そのように大祭司の祈りは、そのような順序に合致して祈られています。
ここで終わってよいような祈りなんですよ。正直言って。
しかし、ここからイエス様、重ねて最後にお願いをするんです。
重ねて死をお願いをしますという内容です。
それは何か17章の24節です。
24節。
父よ、私に下さったものについてお願いします。
私がいるところに、彼らも私と共にいるようにしてください。
私の栄光を彼らが見るためです。
世界のもとへが据えられる前から、私を愛されたゆえに、あなたが私に下さった栄光を。
今朝はこの御言葉をご一緒に胸に刻めたらなと思っています。
イエス様は最後、父なる神様に願われます。
私がいるところに、彼らも私と共にいるようにさせてください。
これは大祭司であるイエス様の祈りとして聞くならば、どういう祈りでしょうか。
その意味は、死聖所に入られた大祭司であるイエス様です。
しかし、父なる神よ、この私の愛する一人一人も、あなたの御前に、死聖所に入らせてください。
死聖所にいさせてください。
あなたの臨済の前に、彼らもいさせてくださいという祈りです。
死聖所にいさせてください。
清くないかもしれない。
本来は、聖なる神様の御前に立てば、討たれて当然のものなのかもしれない。
けれども、神様、聖なるあなたの御前に、彼らも私と共にいさせてください。
私は彼らのために、私自身を清別したのですから。
私たちは、父なる神様の臨済、父なる神様の栄光の御前に、いつも立ちなさいと招かれている。
いや、イエス様がそれを望まれるのです。
私はそこにいるから、彼らもそこにいさせてあげてください。
そして、ヘブルビトへの手紙は語りますね。
イエスキリストの十字架の支障において、今や私たちは大胆に神の聖女の中にいることができる。
そう約束されましたね。
私たちは、日本イエスキリスト教団という教団は、昔から臨済信仰というものを大事にしてきました。
私、これとても大事だなとつくづく思います。
臨済信仰です。
教団の牧師会で、私たちの教団の信仰って、都道のつまり何かなということをせんじつめていったときに、みんな共通するキーワードは、臨済信仰でした。
それは、まさに平たく言えば、どんなに孤独であろうと、どんなに苦難があろうと、神は今、私と共におられるという信仰ですよね。
神が共に行かれないならば、私を行かせないでください。
そう、跪いて御心を求める信仰ですよね。
そして、私の臨済が共に行き、あなたを休ませる、主の臨済があるならば、それで何もかも十分であるという信仰ではないでしょうか。
人間的な弱さが私たちはあります。
過ちも犯します。
しかし、主の十字架の御前にすがりながら、何度も何度も悔い改めながら、清められながら、それでも神のそばに私は居続けたいんですと願う信仰ではないでしょうか。
そしてそれは、主の栄光はまさに十字架で表されました。
十字架に主が包まれるならば、いや十字架に行けて言われるならば、私は十字架にもあなたと共に行きますという信仰ではないでしょうか。
そしてその前提は何か。
イエス様は私たちに対して、そばに居てほしいと思うのです。
私が居るこのところに彼らを共に立たせてください。
私が主の栄光を仰いでいるその場所に、私の栄光が表されているその場所に。
その御前に彼らも立たせ続けてください。
始聖所に居させ続けてください。
それは私たちがどこに居ようと。
私たちが居るその場所で、助け主なる聖霊様は確かに居られて、私たちが仰ぐその場所が今や始聖所になったんですよ。
私たちが礼拝するその場所が、いわば始聖所になった。
であるならば、私たちそれぞれ始聖所を持っているはずなんです。
ここで私は主を仰ぐという場所があるはずなんです。
それは家庭の中かもしれません。それぞれの戦いの現場かもしれない。
しかしそこで天は開かれて、神が目の前に居るという場所があるんですよ。
今週私たちは地難主を迎えて参ります。
木曽集もお渡しをいたしました。ぜひ活用していただけたらと思いますが。
その地難集を始めるにあたり、一人一人私たちが招かれているのは、死聖所に居なさいということです。
死聖所に居なさい。
日々の中で一人一人の天の戸が開かれて、あらゆる問題を差し貫いて、死の輪際が一人一人の中に現されていくことを願っていますし、
私の死聖所を見つけていただきたいと思います。
ここで私は主を仰ぐというそのところを見つけていただきたいと思います。
そのところで、私たちは結局のところを輪際信仰でやっていくしかないんだなということをつくつく受け止めながら、
しかしそこの道は既に開かれたという力強い約束を受け止めながら、私たちは休んじたいと思うのです。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。