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みなさん、おはようございます。
よい天皇の方、ゆっくりいらっしゃいました。感謝いたします。
それでは、メッセージの前に挨拶しましょうか。
ありがとうございます。一言お祈りをいたします。
イエスは言われた、そのままにしておきなさい。
マリアは、私の葬りの主のために、それを取っておこうとしていたのです。
アーメン、主よ。
主よ、今日もこの朝、私たちが他の場所ではなく、主の御前に集まって、
共に礼と誠をもって礼拝できますこの恵みを誇りから感謝いたします。
この世の中から、本当に主が私を選んでくださって、清めてくださって、
神のことを知ってくださったこの特権のゆえに、主よ、改めて主の御名を賛美いたします。
この朝も、どうか神様御自身が、私たち一人一人に語ってくださいますように、
深く耳を開いてください。悟る心を与えてください。
そしてその御言葉に謙遜になって従う、行うことができる礼の力も、
上からお与えくださいますように。
また、聖霊による、本当に御言葉を実行する強い意志も決心も、
お与えくださいますように、お願いいたします。
聖霊様どうぞ、一人一人にお語りください。
イエス様の御名によって、お祈りいたします。
アーメン、アーメン、感謝します。
四年の訓書のメッセージが続いています、三十二回目でして、
今日は、主のためなら、主のためなら、という題でございます。
もし皆さん、神様が皆さんに、何でもできるように、
能力も、力も、時間も、若さも、財政も、何でも与えてくださるんだったら、
主のために何かしたいんですか。
何でもできるとしたら、何がしたいんですか。
そんなこと考えたことありますか、皆さん。
水曜日抜きとかに、たまにそういう若さにもしたり、
あるいはね、午後の三日、礼拝の前にそういう若さにもしたりするんですけど、
もしですね、神様が私に能力をくださる、信仰をくださる、若さもくださる、制限がない、
何でもできるなら、何がしたいんですか。
今日、一人の女性が、自分にできる最高の剣士、愛をもって主を崇めた、主を宗徳した、
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というね、素晴らしい美しいストーリーが書かれているんですね。
今日の読んでくださいました御言葉に、とても対照的な人物、二人が登場します。
一人はマリアという女性で、もう一人はイスカリオテユダという、実はイエスの弟子であった男性でした。
この二人が私たちに教えてくれる教訓は、とても違って、また大きく教訓を私たちに教えていると思うんですね。
まずマリアのことを見ていきたいと思います。
イエス様がベタニアという町に、村に入って行かれました。
そしてある宴会のパーティーが開かれている、ある人の家に集まっていて、そこにもイエス様がおられたんですね。
そしてなんとそこにですね、二節を見たら、人々がイエスのために晩餐を用意してくれました。
ところがそんな中でですね、不思議なことが起きました。
三節、一緒に読みたいと思います。三節、聖書をお持ちの方はご一緒にお読みしましょう。
マリアは非常に高価な純粋なナルドの香油、三百グラムを取ってイエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足を拭った。
家は香油の香りでいっぱいになった。
普段は見られないような、ちょっと変わった不思議なことが起きました。
マリアは普段、マルタ、マザロ、三人兄弟として、イエス様といろいろよくよく交わりを持っていた人でした。
そしてイエス様がいよいよ十字架に向かって行かれるその一週間のうちに、同じ場所にいて晩餐のときに、
マリアはいざとしたかのように純粋なナルドの香油、三百グラムを取ってイエスの足にそれを塗って、
そしてまた自分の髪の毛でイエス様の足を拭って、そして当然ですね、香油の香りでいっぱいになりました。
当時のとても高価な香油だったそうです。
マリアは今までイエス様が自分自身に施してくださった恵みと愛、
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そしてまた死んでいた兄弟マザロを生かしてくださった恵みに感謝して、このようにしたほどではないでしょう。
この純粋なナルドの香油三百グラムは、後の後節でイスカリオという他の口からわかるように、
三百でなりに売って貧しい人々に施さなかったのかと言えたから、
三百でなりくらいそれに相当する高価なものであるということですね。
聖書に記載されている百中のある聖書は、三百でなりはどんなものなのか。
今風に言うならば、約十ヶ月分の生活費に相当する金額とありますね。
当時ですね、一でなりは労働者が一日の賃金ぐらいだったそうですね。
だから三百一年あるいは十ヶ月ぐらいの。
だから簡単に考えて、マリアという女性がほぼ一年間使わずに貯めておいたそのお金に相当する高価の香油だったんです。
今の縁にだったら何百万円に相当する香油だったんです。
それをイエス様のマリアは、今自分が持っている全財産のようなお金でそれを買って、それを捧げたということであります。
これはどういうことでしょうか。ただの無駄遣いなんでしょうか。浪費なんでしょうか。そうではない。
これはマリアは自分自身にとって、今自分にできるイエス様に対する最高の尊敬の表しと愛の告白だったんです。
つまり尊い方に尊い待遇をしてあげたということですね。
当時皆さんがご存知の方はご存知であるように、お客さんの足を洗うのはその家の下部、奴隷がする仕事だったそうですね。
ところがマリアは香油を注いで、イエス様の足の自分の髪の毛で、そういうにして自分自身をとても祝福したかですね。
そして主にお仕えしたわけなんです。イエス様の自分の主として最高の尊敬と最高の愛を表しました。
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誰からさせられてきたわけではないですね。これはあくまでも想像で推測ですけど、マリアはこの日のためにずっとずっと喜んでお金を貯めていたかもしれない。
そしてやっとイエス様の足に注いで、そしてそれぐらいの香油だったらこれぐらい必要だろうと思って、その日を期待して喜んでそれを準備してきたんじゃないか。
最高の尊敬と愛をこのマリアの行いは、彼女にできる主のためなら今のマリアにできる最高の礼拝でした。
最高の敬拝であって賛美であってまた捧げ物だったんですね。
皆さん、私たちは普段の人間関係においても、自分にとても大切な方にとても尊敬している方には、私たちはそれにふさわしい待遇をしてさせているでしょう。
例えば、皆さんのお家に天皇陛下が来てくださった。その方に百均のお菓子を買って、新聞紙に持って差し上げる人はいないでしょう。
大切な方には大切にして差し上げる。
マリアは今ここで、このイエス様は自分の人生で最高の方である。
一年分、十ヶ月分のお金がもう無くなったとしても、でも私はこの方を礼拝したい、お捧げしたい、お仕えしたいというこの心を私たちは、マリアはイエス様を主として愛しました。
自分のすべてのもののようなものを捧げて、愛と尊敬を、つまりイエス様をたっ飛びますかね。
皆さん、愛は何でしょうか。愛は兄弟を姉妹を、あるいはイエス様は神様をたっ飛ぶことであって、愛することであって、お仕えすることではない。
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人間の目で見れば、またこのイスカリオとユダのような目で見れば、そんな無駄遣いをする必要はないでしょう。
ほっぽした恋でいいんじゃないか、あるいはこんな晩餐をしたからそれでよかろうと思うかもしれない。
人間の目で見ればですね。しかしマリアは違いました。
そこに行った他の人々、もちろん晩餐がダメだというわけではありませんが、そこに行った人々の中で、マリアはお金のことだけではなく、
自分にあるすべてのものをイエス様に捧げてでも、それは惜しいと思いました。
喜んで、イエス様という稲にふさわしい時世を、彼女は喜んで払ったわけですね。
いつの時代もですね、素晴らしい偉大な愛には、それにふさわしい犠牲が伴われることではないでしょう。
ここで私たちからもう一つ。
マリアはイエス様を見る霊の目が開かれていた、霊の目を持っていたということがわかります。
彼女はただですね、衝動的に恋を注いだわけではありませんね。
あるいは誰かの足に引っかかって、ああああ、恋を避けたわけでもないんですよ。
あら、もったいないな、それで髪の毛でね、拭いたわけではない。
彼女はイエス様は自分の主であり、王の王であり、まだ自分のため十字架に架かられて死なれる救い主であることを確信を持って、
そして今日の七節のイエス様の言葉からわかるように、イエス様の葬りの日のためにそれを備えたことであります。
七節をご覧ください。一緒に読みたいと思います。
イエスは言われた、そのままにしておきなさい。マリアは私の葬りの日のためにそれをとっておこうとしていたのです。
イエス様はわかりました。マリアが今どんな霊を持って、どんな心を持ってこの行為をしたのか、イエス様はわかりました。
マリアはイエス様ご自分の十字架の葬りを備える霊の目を持ってそれを行ったこと、イエス様の目にはそれが見えたんですね。
しかしユダの目に、他の弟子たちの目にはそれが見えなかった。
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みなさん、私たちが普段どんな心を持って霊廃をするか、どんな心を持って死を賛美していて、どんな心を持って死に捧げているのか、まず自分自身がわかる。
そして神様が少なくともこの場所に、マリアがいるこの場所に、イエス様の十字架の死と葬りと復活をマリアのように備えて捧げて仕えた人はこの場所では誰もいませんでした。残念ながらね。
ところがみなさん、このマリアのように霊の目が開かれますと、イエス様が見えてきます。イエス様の歩みが、道が見えてくるんです。そして今自分に死のためなら何ができるんだろうか。
そしてマリアのように最高の霊廃を、最高の献身を捧げることができる。彼女は主の道を備えるために、その方が救い主であり王であることを信じて使えるために最高の犠牲を喜んで、これこそ誠の霊廃ではないでしょうか。
願わくは、会社中の一階一階の霊廃が、こういった霊廃でありたいんですね。最高の愛と最高の尊敬をもって、そして今お捧げできる最高のものをもって、主にお捧げするものであり。
日曜日になって、教会に来て、「すみません、こういうことがあって、適当にお金を出して、冒頭に入れて、お酒を飲んでください。」私の救い主神ならば、その方にふさわしい我々の最高の愛を尊敬を、霊廃を、賛美を捧げるべきではないでしょうか。
そして、本当に大切な自分に大切な人に対しても、私たちが最高のものを準備して準備して、何かをおもてなしするでしょう。
マリアを喜んで、そのための犠牲を喜んで、私たちも生きていく中で、いろんな人間として、親として、愛の犠牲を喜んで払っているのかなと思いますね。
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例えば、ご両親の方々は、お母さんが子供を産んで、そして育てていくために、どれだけ大きな愛と犠牲を払うでしょうか。
こういう言葉がありますね。お母さん、私を産んで、お父さん、私を育てて。数十年、子供を育てるために、時間や健康や精神や、栗ちゃんの愛は信仰も、愛はお金も、使い分けるんですね。
昨日ちょっと数えてみました。そこに座っていますけれども、うちの徒女が、1998年1月に生まれたんですね。だから、ハンナが妊娠したときから数えたら、20年。
そして、今年2018年だから、今20年、まだ子育て中。で、まだ子供が6年生だから、大学卒業するまで10年かかるとしたら、子供を3年育てるのに30年かかるわけなんですね。
皆さんもね、同じでしょうけれどもね。皆さん、愛には犠牲が伴われることであります。逆に、どんな犠牲をしたのかを見たら、その愛がどんな愛だったのかが分かってくるかもしれない。
マネアがイエス様の足に香油を注いで、神の手で洗ったということの、そこの大事な意味は、もう一度申しますと、それはイエス様を礼拝したことである。しかも、最高の愛と最高の尊敬をもって礼拝した。
そして、イエス様の足元に使礼をしたということは、最高の謙遜の表しでした。イエスは主である、私は下部であるという、皆さん、私たちの礼拝がこういうものでなければならない。主よ、私は下部です。主よ、私はあなたの下部です。
あなたは私の王です。あなたは私の主です。今日、最高の礼拝を主の御前にお捧げいたします。そういうふうに礼拝をすべきではないでしょうか。私はマリアからこの信仰の精神を学びたいんですね。
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もっと掘り下げて具体的に言うならば、まずは神を礼拝する我々の身体の心の態度です。姿勢です。マリアはイエス様を愛していました。主として、神として、救い主として、またイエス様も人間として肝心な人間ですから、その人間としてのイエス様もね、兄弟のように愛していました。
ですから、マリアのようにイエス様を愛する者であるならば、今、自分にできる最高の礼拝と最高の愛と尊敬と捧げ物をもって礼拝するのではないでしょうか。
何ででしょうか。イエス様はそれを受けられるにふさわしい方だから。最高の愛と最高の賛美と最高の捧げ物を受けられるにふさわしいお方だから。
私たちが子供の時は、親からもらうことも当然に思うんですね。食事を作ってくれること、お金をくれること、お弁当を作ってくれること、どこかの横にいたらお小遣いをくれること、やってくれることを当然と思うんですね、子供の時は。
子供が成人になって、自分も親になって大きくなったら、今までもらってばかりいた我々は、またその親にふさわしいおもてなしや回復をしてあげるのではないでしょうか。
もらってばかりしていた子供のようなクリチャンが、今度は神様に親子の成人としてお捧げする。マリアのようにではないでしょうか。親子もそうなんです。
2番目として、私たちが持つべき礼拝の姿勢、態度は、イエスは主である、私は下部であるという、いつも覚えてこのようにしていきたいんですね。
自分の人生の主は誰ですか。自分ではない。イエス様です。神様なんです。自分の人生を自分がコントロールできないんです。
あれがしたい、これがしたいと思っていろいろ頑張っているんだけれども、実は神の見所を知らないとですね、その道は失敗につながるかもしれない。
もちろんね、神様がすべてをえきにしてくださるんですけれどもね、下部は主人の命令通りに従います。その道が平和の道であって、安全な道であって、祝福の道であるから。
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みなさん覚えていてください。いつも口実はね、主よ、私は下部です。あなたは主です。主よ、私は下部です。
私の人生を主が導いてください。下部であるこの者が自分勝手に何かを決めていくことがないように主を示してください。教えてください。悟らせてくださいと。祈って、祈って。
そういう信仰を持って主を礼拝するものでありたい。
もう一つ、主に対する礼拝の我々の姿勢は、愛するならば惜しまずにお捧げする。
みなさんが誰か家族でも本当に親し大切にしている友人のためならば、何かを差し上げること、おもてなしすることをもったいないと思わないでしょう。
お金がなくていいものを買えない場合はあるかもしれませんが、お金があって、まあまあのお金があって、いいものを買って差し上げることができるならば、
いやあ、親父のためにこんな鯛を買って料理をするのがもったいないなあ、とか安いアジ一匹買って、それで何かをしようかなと。
そういうふうな人はいないのではないでしょうか。なぜでしょうか。愛するからです。愛するから。
マリアはイエス様を主として、救いとして、神として愛したから、
意思を集めることができるか、甘いかぐらいのお金に相当する行為をイエス様のために、それをイエス様に対する愛と尊敬の、みなさんいかがでしょうか。
私は心も体もどれだけの最高の愛と最高の尊敬をもって主を礼拝しているのでしょうか。あるいは主にお捧げしているのでしょうか。
マリアは信じていましたし、知っていました。この方が自分の罪を許してくださる方であって、そして本当に泥沼のような罪からあるから自分を救ってくださって、しかも永遠の命を与えてくださる方であることを知っていて、信じていたから、
その愛にその恵みに感謝して、主のためなら今できる最高の愛と最高の尊敬を表したんですね。しかも惜しまずに喜んででした。
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ユダからああ言われても関係ない。私はここで最高の礼拝を主にお捧げしたいんだからと。さわかることなく彼はそうしなくてはもうどうにもならない愛と尊敬が、礼拝が彼女の礼の心の中にいっぱいだったんですね。
今日の3節を見ると、家は香油の香りでいっぱいになったとありますよね。実際香りがいっぱいになったでしょうけれども、私はこれをこういうふうに考えました。そこにはイエス様に対するマリアの礼拝と愛と尊敬でいっぱいになった。どうでしょうかね。
日も同じです。イエス様は私たち一人一人を救うためにずっと死んでくださいました。住人であった私たちを救うために神なるイエス様が死んでくださった。そして永遠の命をその恵みと愛に感謝して礼拝をしている我々であります。
その神のために、主のためなら何でもさせていただく。そうしたいという思いで皆さんはここに来て座って礼拝していらっしゃるのではないでしょうか。ある教会で見た教会の標語です。最古のイエス様に最古の愛を捧げようと。いいなと思いました。最古のイエス様に最古の愛をお捧げしようと。マリアがそうでした。
最古のイエス様に最古の愛を捧げた。ところがユダはどうでしたか。彼は三年もイエス様について従っていました。彼はですね、どこを見ても彼は弟子の上辺を持っていましたけれども、イエス様についていましたけれども、
六説からも見てわかるように、ユダは彼のことを盗人であると。金入れを預かっていたが、その中に納められたものをいつも盗んでいたと。
ところが、三年のうちにしょっちゅう当たっているんですよ。今から自分が何が間違っているのかわからない。こんな場合にあってですね、よくもですね、こういう三百割なりに売って、貧しとびりなことがあったのか、そういうふうにして売って自分が預かって、そこからまた盗みたかったんですよね。
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彼はイエス様を信じているものじゃなかったんじゃないでしょうか。ユダの心にはイエス様に対する最高の尊敬も愛もなかったんですね。ただお金に関心があるだけでした。自分の心にしか関心がなかったんですね。
イエス様の十字架、埋葬、復活に対しては、弟子でもないマリアもより劣るものにすぎませんでした。本当に怠りの弟子でした。実は弟子ではなかったんでしょうね。弟子でしたけれども、残念ながらね。
皆さんここから見られるように、知ることができるように、大事なのは、私たちの何かの肩書ではないんです。大事なのは、私が牧師なのか役員なのか、どんな奉仕をしているのか、どれくらい何年くらい教会に通っているのか、その肩書、年数が大事なものではないんです。
大事なのは、一番大事なのは、神の御前で、イエスの御前で、私はどんなものなのか、どんな信者なのか、本当にイエス様を愛しているものなのか、本当にイエス様を信じて使いたいものなのか、それが一番大事であります。
皆さん、ではどうしてわかることは、弟子という名前を持って3年もついていたんですけれども、3年ついていたんだったら、自然にオートマチックに、本当にリアルな弟子になれるというわけではないということです。
ちょっと考えてみてください。時間が、年数が経ったとして、当然オートマチックで信仰が深くなって、イエス様に対する愛が深く熱くなっていくのでしょうか。当然そうなるのでしょうか。そうなる場合もありますけれども、そうできない場合も多く。
私たちは徹底に神の御前で、自分の罪を悔い改めて、徹底に自分の欲と自分の情欲を常時間に毎日釘付けて、そして自分の傲慢を悟って悔い改めて、自分を指定してイエス様についていかなければならないんです。毎日毎日そうしなければならないんです。
なぜでしょうか。我々の肉のこの性質は、イエス様よりお金の方が好きなんです。与えより受けるのが好きなんです。神よりイエス様より人より自分のことを先にやろうとする稽古が我々に強いものがあるからなんです。
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皆さんはそうでないでしょうか。私はそうなんです。だから私たちは本当に自分に迷惑を配って気を付けていなければならない。私は本当にイエス様の弟子なのか。私は本当にイエス様を信者なのか。
私は本当にイエス様をマリアのように最高の愛をもって、最高の尊敬をもって、最高の献身をもって捧げて使えているものなのか。このあたりイエス様が私に問いかけておられます。
あなたは私を最高の愛をもって愛していますか。最高の礼と最高の心をもって礼愛していますか。
皆さんメッセージをいただきたいと思います。イエス様にふさわしいお方に最高の礼拝と最高の尊敬と最高の愛と最高の捧げ物をもって捧げ、礼愛していこうではありませんか。イエス様はそれを受け入れられるにふさわしいお方であります。お祈りします。