00:02
おはようございます。
7月に入りまして、桜もちょうど満開で、見ごろというこの時期ですが、
今私たちは、新しい月と年度と、そしてまた今ありましたように、
この名谷教会も、ゆん先生をお送りした後、一年間新しい体制でもって、
犬塚先生の元でもって、教会が守られ、またこれからの歩みの中で、
主の導きを待ちながら、この時を一年間を過ごそうとしております。
今朝、私は、読んでいただきましたこのピリピリと言う手紙の2章ですが、
今私たちは、受難節、あるいは死状節とも言いますけれども、
4月17日のイースターに向けての40日間、そういうふうに教会の読みでは、
受難節、あるいは死状節と言って、日曜日はその時に関わる聖書を開いて、
受難日に向けての心を備えていく。
今朝は、そういう一環として、今読んでいただきましたこのピリピリと言う手紙の2章の1節から読んでいただきました。
特に今朝は、この6節から11節までを、特にその中においても、
イエス様のご受難に向かうその姿を、ここでご一緒に開き、
また、受難に向けての黙想する聖書の一つの箇所としてお読みしていきたいと願っております。
パウロは、このピリピリの教会に、教会のあるべき姿をまず示しながら、
教会のあるべき姿の最も基本的な大切なそれを、このイエス様のご生涯にこれを注目して、
そして私たちの教会は、このお方の歩まれたそれをしっかりと受け止めていくべきであると。
03:11
特にこの6節からは、教えたようにイエス様のご生涯といっても過言ではない、
それをこの6節、7節、8節という、この3つの節においてそれをよく表されております。
これはまさにクリスマスから十字架まで、この3つの節の中によく表されている。
クリスマスの時にもこの箇所が開かれ、申しておりますが、
この3節の中に私たちの救いに関わる、そしてまた救い主としておいてくださったそのお方の姿を、
この3節にまとめて、そして表しておられる。
イエス様のご生涯は、誕生の時に東方から来た証人たちが、ヘロデの王宮にこのお方の姿を見ようとして、愛しようとしていった。
確かにイエス様は王としておいでくださっている方ですから、
身体が星の導きの中で持って王宮を、そのお方の誕生の場所として求めたというのは、これは決して間違いではないでしょう。
しかしイエス様は、このお言葉にありますように、このお方は王としておいでくださいましたけれども、
しかしそれ以上にしもべとしておいでくださった方。
ですから私たちはイエス様のこのご生涯を見てきますとね、しもべとして、使えるものとしておいでくださったその姿を見ることができます。
一つ注目すべき大事なことは、このお方は神と等しくあられた、神の栄光をお持ちくださったそのお方が、キリストは神の見姿であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えるとあります。
06:30
本来神と等しくその栄光の座にあられるそのお方が、私たちの救いのために、王ではありますけれどもしかしながら彼は、使える下人としておいでくださったという、
私たちの人間の浅はかな知恵においては、悟ることのできないような神の知恵をもって、神が人に使えるしもべとしておいでくださった。
パウロもそう言います。あえてそのためには、神としての在り方を捨てられないとは考える。
以前の訳では、固執せずと書いてあったと思うんですけれどもね、そういう立場にあられるそのお方が、この立場だけを放棄しないとおっしゃらずに、あえて私たちの救いのためには、人としておいでくださって。
しかもそれは、使える下人としておいでくださった。パウロはここでそういうふうに表しております。
私たちがともすると与えられた立場というものを、そこにこだわりを持ってですね、いつまでもいつまでもそういう立場を大切にしたり、あるいは本来私はそういうものなんだというような、そういう思いを持つ、それが私たちなんですが、
しかし、イエス様は本来そういう方でありもかかわらず、その立場にこだわらず、あるいはその立場をどうして守らなくちゃいけないというような、そういうことではなくしてこともあろうに、私たちと同じ人としておいでくださった。
09:15
クリスマスの祝儀と言いましょうかね。私たちはイエス様のご誕生をそういう形でお迎えし、またお祝いもします。しかし、聖書はこの方が何に人としておいでくださっただけではない。
このヘブルビという手紙の4章の15節、ユン先生ですとここにね、その4章の15節のことを記すんですけれども、お読みしますのでお聞きください。
人としておいでくださっただけではない。この方は私たちの持つ弱さというものを同じように経験された。
罪を犯すこと以外の私たちが持ち合わせております、そういう弱さ、あるいはその弱さをつけ込んで、サタンの私たちを非常に厳しく試みてまいりますが、イエス様は私たちと同じような試みもお受けなさった。
それが一番象徴的に記されておりますのが、イエス様のお生涯の最初、イエス様は40日40夜、アラノにおいてサタンの試みにお会いなさったとあります。
まさにそこにおいてのイエス様の姿というのは、一つには人としてのそういう試みであったと思うんですね。
お前が神の子ならば、その辺の意思をパンに変えなさいと言う。その時のイエス様は40日40夜、断食の中に過ごしておられましたから、お自分の空腹を満たすためにそれをなそうとするならば負けたでしょう。できるから。
12:29
それはイエス様によって最初のサタンの試みであったんですね。私たちはパンを石のように固くほっといてすることがあっても、石をパンに変えるなんてことは考えられません。
ですからサタンは私たちにはそういう誘惑はしてこないんですね。最初からできないですから。もしそれが私たちにできることであれば、あれがそういう誘惑の声を私たちに向けたかもしれません。
けれどもイエス様は空腹の中で石をパンに変える。その時イエス様がおっしゃったのは、人が生きるのはパンだけではない。神の言葉によって私たちは生きるものとされているんだということを、あの神劇の言葉から引用して、そしてサタンを撃破しておりますよ。
そうかと思うと高いところに連れ出して、そして全てを見せながらここで取引しようと。もしお前が私を認めるならば、お前に全部この全てのものを与えるという、サタンの錯覚もいいところですよね。
全てのものをご所有なさっている方に、あたかも自分が持っているかのように見せながら、もし俺に、私に屈服するならば、見ているこれはもう千本前のものだという、何にもないところでサタンはそういう誘惑をしております。
あのアラノにおいてのそれは、まさにそこには人として誘惑を受けた時に、ともするとそれに乗ってしまう、そういう弱さ。
イエス様は最初から人としての誘惑を受けなさった。けれども御言葉によって勝利し、そして私たちは境界をかけて信頼のために使えるべきだということで、サタンを収束なさった、あの有名な出来事があります。
15:07
罪は犯しませんでしたが、全ての天において、同じような、そういう試みにイエス様は経験された。
あるいは同じヘブロピトの手紙の2章には、哀れみ深い忠実な大才人となるために、イエスは全ての天で教えた人を同じようにならなければなりませんでした。
それで、民の罪のなだめがなされる、あがらいがなされる。
さらに自話説を見ますとそこでは、イエスは自ら試みを受けられましたからこそ、試みられている者を助けることができなさる方だ、そのようにも書いてあります。
イエス様は人として使えるために来られた方ですが、そのように私たちが受ける、いや受けないかもしれないような、そういう試みにまでもイエス様はその身を置かれて受けなさった。
だからこの方の取りなしの前に、あなたのためにはもうこれ以上のことはできないと言って、私たちが受ける試みをそのままこういう中に置きなさる方ではない。
もうすでに私たちが受けているその試みの底には、イエス様の足跡がきちっとそこについているではないか。
決して私たちはこのお方のおられる中において、自然の中にもどれくらい苦しみの中に私たちが置かれても、私たちは決して一人ではない。
この方がいつも私たちに先にすでに歩み、そして即席をそこに残されていらっしゃる。
第二番目のことは、この七節を繰り返しまたお見せしますが、
ご自分を虚しくして下目の姿をとり、人間と同じようになられました。
18:05
人としての姿をもって現れ、自ら低くして死にまで、しかも十字架の死にまで従われました。
イエス様は、あのマタニョルフクイ賞で見るならば、この十六賞において、あのピリポカイザリアで、
あなたがたは一体私を誰と思っているのか、その時にペトロはですね、あなたこそ生きられる神の子キリストですと言って、
これはあなたに神が知恵を与えなさって、そしてそのことを示しなさったんだ、
教会はあなたが告白したそこに立つということをそこでおっしゃったんですね。
けどもペトロの理解の中には、あなたこそ生きられる神の子キリストですという大能の番号、
それこそ、わずかな魚を持って五千人の人々を養うとか、大きな力をお持ちなさる方、
ですから弟子たちは、そういう方についとったならば、万次元的な表現で言いますとね、
一生食いパクれはない、間違いはない、そういう思いを持ったでしょうし、
ですから彼らの思いは、この方と一緒ならばね、それこそその方の下でもって、私たちのうち誰が一番偉いのかっていう、
極めて人間的な計算でもって、イエス様に従う道を彼らは理解しようとしたんです。
せっかくあなたこそ神の子キリストですという、イエス様から喜ばれるような返事を、
あるいは回答を持ったんですけどね。
ところが、そこには、イエス様がどういう道筋を歩み、私たちのためにどういう生涯を歩み通されるか、
彼らはまだ、そういうイエスキリストに対する理解は、それはなかった。
ですから、ペトロの告白を持って初めてイエス様はね、
人の子は、やがて大勢の人々の妬みを受けて十字架につけられる、そして死んで葬られる、
21:10
でも蘇るということを初めてその時におっしゃった。
一つ要件をつけなさったのは、そのことを他の人々に言ってはいけない。
彼らのイエス様に対する理解は、そこには至っていなかった。
大きな技を持って大勢の人々を魅了する、そういう素晴らしいイエス様です。
ですから、お弟子の一人は、十字架抜きのキリストを見ようとしておりましたし、
ローマの力に代わる大きな力を持ってこのイデアを解放する、そういう方だというような理解をしたでしょう。
そこには、イエス様がそうではない人として、
使える下人として来られたという、そのお方の姿を彼らは全く見申しなかった。
ですから、十字架抜きのキリストの前に、この方に使えていくならば、
一体この中で誰が一番重んじられるのだろうかという、
これは同じ松井隆夫君賞の二次賞の方を見てまいりますので、
弟子たちのうちの、この二人の弟子たちの母親がね、
密かにやって来て、「イエス様、一つ私の息子たちを心に留めて下さい。
あなたが天の栄光の座につく好きになった時に、一人は右に、一人は左に。」
まあ、親の気持ちでしょうかね。
若子を想うそういう、その想いというのは、間違いじゃないんですけどもね、
彼女の中にも、十字架抜きのそのイエス様の姿だけを見て、
そのようなイエス様に取引をしてきたんですね。
その時にイエス様は、「あなた方の間では、そうであってはなりません。
24:00
あなた方の間で偉くなりたいと思うものは、皆に仕えるものになりなさい。
あなた方の間で先頭に立ちたいと思うものは、皆の仕事になりなさい。
人の子が来たのは、仕えられるためでなく、
仕えるためであり、また多くの人のための贖えの代価として、
自分の命を与えるために来たのだ。」
イエス様は、表現こそ違いますけども、
ここでもご自分が十字架に向かわれるところのことをおっしゃり、
そしてまた、「私はあなた方の中に立って、あなた方に仕えられるために来たのではない。
私は人々の中に入って、人々に仕えるために来たのだ。
だからあなた方の中で先頭に立ちたいと思うものならば、
皆に仕えるものになる。
あるいは皆の下人になる。
そのことが大切なんだということをおっしゃっているんです。
神の国においては、偉大な指導者も下人も同じ意味なんです。
イエス様の姿はまさに、それを私たちに表しています。
皆さん方もよくご存知のように、
この柔軟説の中において、もう一つ読まれる箇所は、
イエス様は弟子たちの足を、一人ひとりの泥で汚れたような足を洗いながら、
ペトラは勿体ないと言って断った。
けどもペトラよ、これがなかったら、私とあなたの係はなくなるんだと言ったら、
それじゃ足だけではない。もっと他も洗ってください。
そこにペトラの足がありますけどもね。
イエス様は、使えるということの姿を弟子たちの一人ひとりの足を洗いながら、
それをお示しなさった。
もちろんそこには銃弾も持ったわけですよ。
そのイエス様によって清められたその足を持って、
彼は裏地位のために大祭司のもとに向かうわけですよね。
27:01
けれどもイエス様はね、そのユダの足をも洗うということは、
イエス様の姿は誰かではない、
すべての人のチムベとしておいてくださった方は、わけ得らけなく、
まさにそういう姿があの場面にもあらわされております。
最後にもう一つのことを申し上げたいのは、
このお言葉が示すように、
十字架を栄光のゴールとされたイエス様の姿です。
繰り返しになりますけども、八節を見ますと、
自らを低くして死にまで、それも十字架の死にまで従われましたと。
我々はそこにイエス様の生涯、それを結んでおります。
この御言葉はクリスマスのメッセージとして読むこともできます。
つまりベスレヘムのカイバウケとカルバリーの十字架というのは、
実は直線で結ばれているんですね。
ベスレヘムでの抗タンの喜びは、
カルバリーのイエス様のご受難の痛みにつながっている。
ですからカルバリーのないベスレヘムは、
単なる一人の人の誕生のお祝い、ハッピーバースデーという、
そうにしない。
しかしイエス様の誕生は、
ここにはカルバリーの十字架をとらえていたところに、
私たちの救いというものがそこに意味されている。
パオロがここに記しておりますそのことは、
人としての姿をもって誕生なさった方は、
その生涯、しかも十字架の死に至るまで、
父なる神に従われ、
そして私たちの救いを、
あの十字架において成就してくださった方、
30:03
私たちはですから、
カルバリー抜きのベスレヘムに意味を見出せませんし、
しかしベスレヘムを通して私たちは、
この方が歩まれるその最後に、
やがて十字架におかかりなさる。
ですからベスレヘムは、
カルバリーにおいて全てが明らかになり、
私の救いがそこに成就される。
キリストは、
神の身姿であられるのに、
神としての在り方を捨てられないとは考えず、
ご自分を虚しくして、
しもべの姿をとり、
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、
自らを低くし死にまで、
それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ神はこの方を高くあげて、
全てのなにまさる名を与えられました。
どうぞ、この次男説の中において、
短い説ですけれども、
心に溜めながら、
主のご次男を覚えながら、
十字架に報われるイエス様の姿を、
しっかりととらえていきたいとお願います。
お祈りをいたします。