2022-10-23 22:27

#129 最も美しい謙遜 22/10/23

ビリピ2:5-11からの礼拝説教。2022年10月23日録音。先週見た箇所には聖書でも有名な格言「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」(2:3-4)が記されていました。そこから続く今日の箇所でパウロは、「この言葉を心掛け、そのように生きなさい。この態度はキリストの内にもみられるのです」(2:5)と呼びかけています。この模範としてキリストの謙遜を深く知るべく、1.神の在り方を捨てて人間に―利己心ではなく無視無欲、2.人間として歩み、しもべの姿に―虚栄ではなく謙遜、3.しもべから十字架へ―最大の謙遜と従順の3つの点から学びましょう。

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00:03
聖書 ピリピジンへの手紙 2章5節から11節です。
ピリピジンへの手紙2章の5節から11節を朗読します。
キリストイエスの内にあるこの思いを、あなた方の間でも抱きなさい。
キリストは神の見姿であられるのに、神としての在り方を捨てることは考えず、
ご自分を虚しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ、神はこの方を高く上げて、すべての名に勝る名を与えられました。
それはイエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
すべての人がイエス・キリストは主ですと告白して、父なる神に栄光を期するためです。
今日はこのところから、最も美しい謙遜と題して、見事場の取り継ぎをします。
改めましておはようございます。
昨日ラジオを聞いていましたら、驚くべきことに、今日から10週間後、もう大晦日です。
もうあと10週間で大晦日になってしまう。もうあと残り今年は10週間だと差し迫ってきました。
いろんなことが起こった1年でありますけれども、私たちは神様の言葉から学んできました。
今日、先週の続きで、先週見た箇所には最も有名な格言が記されていましたけれども、
その前に、今日見たところを簡単に説明しますと、今日の5節、特に6節から11節は、
2000年のキリスト教の歴史の中でも、たくさんの学者がいろいろな議論を尽くしてきた箇所です。
イエス様について書かれたところです。そこには、いろんな学術的な注目点がたくさんあるんですけれども、
たくさんの本も書かれているんですけれども、簡単に言うと、謙遜の模範としてイエス様の姿が書かれています。
しかも美しい詩文で書かれています。賛美家だったんじゃないかとも言われています。
全て語り尽くせないので、今日は前後の流れの中だけで語るんですね。
その前後の流れで、先週見た大事な言葉がありますので、読んでみますね。2章の3節4節です。
03:07
前にあります、「何事も利己的な思いや虚栄からすのではなく、へり下って互いに人を自分より優れたものと思いなさい。」
ここから読んでみましょう。3、はい。
それぞれ自分のことだけでなく、他の人のことも変えりみなさい。
そこから続いて今日の箇所になるんですけども、パウロはそこで今日の冒頭の5節でですね、こう呼びかけているんですね。
イエス様の名前をあげながら、こう述べているんです。
この言葉を、この3節4節の言葉を心がけ、そのように生きなさい。
この態度はキリストのうちにも見られるものですから、というところで話を展開していきます。
今日は長いというか、中身がすごく詰まっているので、8節までを取り上げて学んでいきます。
3つの点から、キリストの謙遜ということを学んでいきたいと思います。
1番、イエス様はどんなお方?イエス様がこの地上に歩まれたということはどういうことだ?
クリスマスがあってイースターがあった、どういうことだ?
それはですね、まずイエス様は神の在り方を捨てて人間になられた。利己心ではなく無私無欲なお方だった。
6節の言葉、前にもあります。読める方読んでみましょう。
キリストは神の見姿であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えず。
ここではですね、この2章3節の利己的な思い、先週見た利己心、自己中心的な考え、自分の必要ばかり優先する考え方、
それと対比されて反対の無私無欲なイエス様の姿が描かれていますから、学んでいきましょう。
実は今日の歌詞はですね、キリスト教の専門用語でキリストの顕微、顕微って言ってですね。
顕微って言うと芋顕微とか思い出すかもしれませんけど、そういう美味しい顕微じゃなくて、
この謙遜の謙に、これはですね、癒やしいという意味、身分が低いというちょっとネガティブなイメージがある言葉ですが、
キリストの神聖の美しさで、キリストの顕微を覚えておいてください、と言われています。
つまりこういうことなんですね。イエス様がこの地に下られたということは、イエス様は神様の身分であられたのに、
それにしがみついて人間になることを好むことはしなかったということなんですね。
つまりですね、これはイエス様が人間となったということを表して言い方なんです。
06:04
で、ちょっとね難しいんですけど、イエス様は地上に来る前も神と共にいて神だった。
そして地上に降りて人間になったけども、人間だったけども神だったっていうね、
そういうキリストの受肉という、やっぱりとても深遠な心理が語られているんですね。
ただですね、人間としてこの地上に来たけれども、人間としての限界を感じたんです。
別の言い方をすると、神様であったら感じたり、体験しない苦しみを預かった、を体験したんです。
神様っていうのはですね、こういうお方だって、いざや書でこうあるんですね。
読んでみましょうか。読める方。
あなたはさんはい、あなたは知らないのか、聞いたことがないのか、主は永遠の神、
地の果てまで創造した方、疲れることなく、弱ることなく、その英知は計り知れない。
こうやってですね、神様っていうのは疲れることがないけど、地上を歩まれたイエス様は疲れたり、空腹を覚えられた。
人間として限界を、神であれば感じない限界を体験された。
さらにですね、イエス様は、ご自分について子も祝ってるんですね。読んでみましょうか。
狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。
人の子っていうのは、自分のことイエス様がさせて言う時なんですけど、
動物や鳥にも住むところがあるのにもかかわらず、私は寝るところさえないんですよ。
つまりこれは何が言ってるかというと、イエス様は神様としての特権に固執しなかった。しがみつかなかったんですね。
よく皆さん、そこにトイザらスとかあるでしょ。
あいうとこ行くとね、子供が、買ってよ、買ってよって泣き叫んだりする。
欲しいものにしがみついちゃう。そういうことはもちろんイエス様はなかった。
あるいは皆さんなんとなくニュース見てるとわかりますけども、
会社の中で大きな問題が起こって、社長さんとかCEOが問題を起こしても、なかなかやめない。
あるいは政治家でですね、今いろいろ言いませんけど、瀬戸際になってですね、やめない方がいいって言われてるのに、瀬戸際でもやめない政治家の人がいる。
なぜか、それは会社のトップとか政治家であれば持っておられるですね、名誉というものが、その名誉を捨てられないとか、その特権が捨てられない。
愛知県でしたか、ある議員の人がね、元議員さんがこういうことが起こったでしょ。
09:05
国会議員っていうのは新幹線、ただで乗れるんです。
国会議員辞めたにも関わらず、そのただ乗りのためのパスを返さなかった。何年か。
そういう人がいて、大騒ぎに何年か、しばらく前になりましたけども、そういう自分の地位にあるがゆえの特権に普通はしがみつきたい。
でもイエス様は、そういう神様であるゆえに持っていた特権とか地位をしがみつかないで、あえて言えば人間という身分にまで下ってこられたということです。
それはまさに、この2章の3節4節の利己的な思いということと、正反対のイエス様の生き様だったということです。
2番目、イエス様の人間としての愛美は、さらに人間だけではなくて、下辺の姿になられた。虚栄ではなくて謙遜ということです。
読めるかと読んでみましょう。2章7節のA3。
ご自分を虚しくして下辺の姿をとり、人間と同じようになられました。
神様から人間の身分に下ってこられただけでなくて、イエス様は人間でも下辺、あえて言えば奴隷のような生き様を、奴隷として生きたということなんです。
よく言われるのは、上昇志向ですね。上に上に自分が上がっていきたいという。それとは反対にイエス様は下へ下へと下ってこられたお方です。
この虚しくするというのはですね、この虚しくするね。ご自分を虚しくする。
ギリシャ語でケノオオって言うんです。この難しい字が書いてあります。ギリシャ語でケノオオって言うんですね。
それはね、動詞なんですけど、ギリシャ語のケノスという名詞、虚無。虚無というね、ということを表す名詞から生まれた動詞です。
自分を虚しくする、自らを虚しくするという意味で使われています。
実はちょっと難しいことを言うんですけど、先週学んだこの虚影ですね。
実はこの虚影という言葉はですね、虚影は同じこのケノスという言葉から生まれたケノドクシア。
このケノドクシアってギリシャ語なんですけど、ドクシアっていうのはですね、栄光という、ドクサって栄光って意味なんです。
ドクサっていうのは栄光だって覚えておいてください。ギリシャ語の。
このドクサがケノ、虚しい。この虚しい栄光が、この先週注意した虚影心を捨てなさいという虚影です。
12:10
何が言いたいか。人はですね、自分が立派でもないのに自分を立派に見せたいという虚影心を持ちやすいけれども、それを持ってはいけないと言われてますけれども、
イエス様は栄光を輝く、本当の栄光を持った神様であったのに、その栄光を虚しくして捨てて、自らを虚しくして奴隷にさえなりましたということを伝えて、
伝えているんです。先ほどの利己心と反対だけでなく、ここではこの虚影心と反対の姿が描かれているわけです。
で、この虚しい姿、家の王という言葉で、この虚影と反対のことをパウロはイエス様について言っています。
それでですね、この手紙書かれた2000年前のローマの社会では、誰も奴隷になんかなりたくなかったんです。
前もちょっと言ったんですけど、当時の下部はね、家で主人から大臣された人たちもいたんです。家庭教師とか家族扱いされた。
でも自由が制限されたから、あえて奴隷になりたいという人はほとんどいなかった。そうです。
しかしイエス様はあえて奴隷になられた。ちょっと奴隷という言葉は否定的な響きがあるので下部と言いますけども、
ただちょっと覚えておきたいことはですね、イエス様は地上の生涯を歩んだ時に、実際奴隷としてではなかったですよね。
この福音を伝えて歩いた。 だから見える姿はこのイエス様だったけど、そのイエス様の生き様や本質が下部の姿だったということをここで言いたいんです。
実はそのちょっとここでまた難しい話しますけれども、下部の姿の姿という言葉はギリシャ語でモルフェーという
形、神の形のモルフェーという言葉と同じなんですけど、実はこれはさっきのイエスは神の見姿であったにも関わらずそれを捨てられないということと同じこの言葉が使われているんですね。
学者はどんな意味があるかってすごく議論をしてるんですけども、ともあれそれはですねモルフェーというのは人間のありを表しているとも言えるですね。
もうちょっと言うと、ここでは目に見えるあり様と違ったその人の本質を言う時にこのモルフェーという言葉を使うんですね。
15:00
つまりイエス様は地上の生涯、教師として歩んだけれども、旅をしてたけれどもイエス様の本質は下部だった。
温泉卓球ってありますけど、この間テレビでですね、おそらく渋谷の卓球場にですね、いろんな人が来るんですね。
いろんな人が卓球するんだけども、知らない人と試合したりするんですよ。
小学生の女の子はね、お姉ちゃん試合しようってやるんだけど勝てないの、その小学生。
そういうの何回かあって、実はその女の子はハリモトミワちゃんという女の子で、ハリモトミワちゃんというのはこの卓球のハリモト選手の妹です。
小学校1年生で、小学生2年生1年生の部で全国一番になる。
小学校3年の時だったかな、今度は4年以下のところで一番になる。
彼女はですね、10歳にも関わらずプロの卓球選手になって、全能のコマーシャル出ている石川霞さんとですね、同じチームに入ったりしている。
そういう人なんだけども、小学生の普段着を着て、このお店に来るお兄さんお姉さんと卓球やって勝ってしまって、実はこういう子ですって驚かせるというテレビ番組をやったんですけども、
見た目は普通の女の子だけれども、彼女は全日本チャンピオン。同じようにイエス様は地上障害を歩まれたけれども、その中身は使える下目の姿だったということを、このモルフェーという言葉で表している。
ちょっとここは話が長くなりましたけれども、そのイエス様は自らの生き様を語ってるんですね、こうやって。
マルコの10章45節で、人の子ということで自分のことを語っています。
読める方はこれを読んでみましょう。
人の子も使えられるためではなく、使えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるために来たのです。
使える下目としてイエス様は来て、そしてそれは自分の命を人々のために捧げるために来たと言っておられます。
その最後がその究極の姿。
下目から今度は十字架へ、最大の謙遜と従順へとイエス様は向かわれた。
最後2章8節読めるかで読んでみましょう。
人としての姿を持って現れ、自らを低くして死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
イエス様は神様から人間の身分になられた、そしてその真上まで身分を低くした、そしてその究極の姿が十字架だったとパウロは言っているんですね。
十字架系というのは最も恐ろしく、最も人を詐欺すむ系でした。
18:04
だからその悲惨さまた不名誉の故に当時はこのローマ帝国のローマ市民の人は十字架で死刑にしてはいけないという決まりがあったぐらいなんですね。
皆さんも聞いたことがあると思うんですけれども、紀元前のローマの有名な政治家で有名な有弁家のキケロという人がいるんです。
彼がこういうふうに表現しているんですね。
ローマ市民を縛り上げることは犯罪、ローマ市民を鞭打つことは侮辱、ローマ市民を殺すことは殺人罪にあたる。
しかしローマ市民を十字架にかけることは何にあたるかといえば、それほど身の毛が立つような恐ろしいことを表す言葉は見当たらない。
表現に尽くせないほど十字架というのは悲惨なものだと、このキケロという人が言うほどのものだったんですね。
ですから実は、今、教会に十字架がありますね。
当時のクリスチャンは自分の教会とか、あるいはキリスト教のシンボルで十字架を使おうなんてことは絶対に考えなかったそうです。
あえて過激な表現すれば、その当時の死刑の道具を自分たちの信仰のアイコンにするということは考えなかった。
それほど十字架というのは当時の人々にとって意味嫌うべきものだったわけなんですね。
ましてや十字架のアクセサリーということなんかも言語道断だったわけです。
そのイエス様ですけれども、イエス様は神としての身分にしがみつくことをしなかった。
そして人としてこの地上に下ってこられましたね。
そしてそのさらに人間でありながらも、しもべというところまで自らを低くして、その究極の姿が十字架であったということなんです。
そしてこの十字架、それは他でもない私たちへの愛の印だった。
このイエス様の生き様にぜひ思いを馳せてですね、このイエス様のありをもう一度思い巡らし深く考える日々を今週過ごせたら幸いだと思います。
最後にもう一度、今日の歌詞を読んで終わりにします。
最後ですね。
キリストは神の見姿であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えず、
21:05
ご自分を虚しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
イエス様の十字架、今の私たちには当たり前のような出来事として捉えていますけれども、
パウロのこの御言葉にあったように、イエス様のこのありを私たちがどうか深く心に刻み、
その十字架の意味をさらに心に留めることができるように、
御精霊によって私たちの心の目を開いてください。
あなたのイエス様のこの大きな愛に感謝して、私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
それでは1分ほど、神の御言葉に応えて、しばらく黙祷する時間を持ちましょう。
22:27

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