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おはようございます。
12月のクリスマスの月を迎えておりますが、
こうして、アドベントの大聖日として、
礼拝をご一緒に守れることを感謝しております。
今朝は、このルカノ福音書から、
聖霊によるクリスマスと題して、
クリスマスの言葉をご一緒に見ていきたいと願っております。
このクリスマスに関する記事は、
マタイとルカノ福音書を中心に、
この物語が展開してまいります。
マタイは、ヨセフを中心に、
このクリスマスの出来事を書いているようでありますし、
そのために、マタイの福音書の一章を見てまいりますと、
私もそうでしたが、どういう人なのか。
初めて読んだときには、音読で読むならば、
素直には読めないような名前が出せると出てまいります。
聖書を読みなさいと言われて、
じゃあ読みましょうと思って開いたところが、
そういうマタイの一章で、
なんだこれはということで、
一向に先へ進まないというような、
そういう経験をされた方も、
皆さんの中にはおられるかもしれませんが、
私はそうでした。
ある人はですから、
この聖書のつまずきは、
まずマタイの福音書の一章にあるのではないかと、
どうして聖書はこのような、
一人から始まったこのペーズを、
ズラズラと記しているのだろうか。
よく言われますことは、
このマタイの福音書は、
特にマタイは、
イデア人を、
特にマタイは、
イデア人を、
意識して、そして、
イエス様のご生涯を、
まとめた。
そのために、
その冒頭に、
イエス・キリストのケースを持ちなさるというのは、
これは、
当時のイデアの習慣から言っても、
当然であったのかもわからない。
ルカはそうじゃないんですよね。
ルカという人はどうもギリシャ人のようですから、
非常に、
我々、
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違法人に、
わかりやすいタッチでもって、
このクリスマスの物語を、
ずっと展開しております。
今朝は、
このルカによる福音書から、
このマリアを中心に、
クリスマスの出来事を、
見ていきたい。
ルカは、
大変美しい描写で、
渋滞告示に始まるのです。
キリスト誕生までの記事を、
そこに書いております。
今朝、私は、
特にこの、
読んでいただきました中の、
一章の38節、
ご覧ください。
私は主の足ためです。
どうぞあなたのお言葉通り、
この身になりますように、
という、
彼女の、
素朴な祈り、
このことを、
覚えながら、
このクリスマスへの、
出来事を、
見ていきたい、
こう願っております。
まず私たちが、
ここに見出しますのは、
このマリアへの、
渋滞告示という、
この言葉です。
実は、
この旧約聖書、
最後の預言者であります、
その絵の、
預言が、
それから、
なんと400年、
神様は、
預言者を立てず、
あるいは、
神様がその御言葉を、
解きなさる、
あるいは委ねなさる、
そういうことがなくて、
400年を費やした。
そして、
その400年という、
時間の経過が、
その沈黙の時が、
終わり、
神は再び私たちに、
語りかけてくださる。
従来であるならば、
預言者を通して、
あるいは、
新約聖書によく見ます、
立法学者とか、
大祭司とか、
そういうこの、
選ばれた人たちを通して、
神様がお方になる、
というのが、
旧約聖書から読んでまいりますと、
それが通常のように、
理解できます。
それはですね、
そういう預言者でもなければ、
大祭司でもない、
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立法学者でもない。
立法学者は、
党から来た数人の赤人たちによって、
辺野寺が、
じゃあ、
その救い主はどこに生まれたのか、
調べなさいということで、
一生懸命、立法学者たちは、
それを調べて、
そして、
目箇所にこういう言葉があります、
と言って、
彼らは初めてそこで思ってですね、
既に旧約聖書において預言されたことが、
ここに明らかにされつつある、
ということを説いたんです。
その立法学者も、
全く、
神様の声を聞くことなくて、
過ごしてきた、
大祭司属にある人たちもそうです。
ところが、
神様はここに、
今でこそですね、
なされと言ったら、
すぐ私たちが思い浮かべますけれども、
名もない、
一人の乙女に、
400年の沈黙を破られた神様は、
この一人の女性に、
語り始められた。
こういう経過を見てまいりましても、
私たちは、
この時のマリアの驚きというものは、
想像を超えたと言えます。
同じ一章の十二節には、
やがて生まれるであろう、
パステスマンのヨハネの誕生の予告が、
その父ザカリアに向けられた。
彼の、
その同期の様がそこに書いてありますけれども、
ザカリアは取り乱し、
恐怖に襲われた、
と書いてありますよ。
一番近く神様の見事を聞くべき、
あるいは取り成しすべき、
ということを、
一番近く神様の見事を聞くべき、
あるいは取り成しすべき、
そういう立場の者が、
その彼でも、
ガブリエルからの、
その男の子を、
あなたのスマイレージだけでも生む、
ということを聞いた時に、
彼はそのようにですね、
恐怖に襲われた。
そんなことがあり得ますか、
ということでしょう。
そういうことを考えますと、
マリアへの時代告知は、
ザカリアの驚き以上の驚きと、
不安が、
彼女の心に、
重くのしかかってきた、
と、
想像することは、
容易でありますよ。
マリアは、
その天使の、
彼のお見つけでもって、
あなたはやがて、
こう宿す。
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しかも、
精霊によって、
宿す、
ということを言われた時、
それまでの彼女の理解は、
当たり前の結婚でもって、
ここは宿す、
という、
ですから、
私は男の人を知りませんのに、
どうしてそんなことが、
あり得ましょうか、
という、
当然の不安を、
疑いを、
それを彼女は、
言っていますね。
一つにはですね、
立法を犯すことですから、
当時の立法においては、
そのような、
正当な結婚でもって、
結ばれた中で、
誕生するのならば、
それは、
とでのことですけれども、
しかし、そういうことではない。
ガブリエルがつけてきたことは、
それを向きにして、
あなたは、
やがて男の子を産む、
実際どうして、
というのが、
彼女の思いですよ。
しかも彼女には、
既に婚約者、
という、
ヨセフの存在がそこにあります。
こんなことが起きたならば、
一体ヨセフさんは私を、
どう思うだろうか、
それらに関する、
このヨセフに関する記事は、
このマタヤニの服にしながら見たら、
よくわかると思いますよ。
マリアさんは、
どういうふうに、
これから起ころうとしていることなら、
ということの前に、
どういうふうにして、
婚約者のヨセフに話したら、
話せる言葉もない。
突然ガブリエルから、
あなたはやがて男の子を産む、
イエスという名前だ、
というところまで、
全部汚染されて、
一体私は、
どういう関わりの中で、
どういう立ちの中で、
そこに関わっていくんだろうか、
それは、
婚約者のヨセフ、
彼にこのことを、
どのようにつけたらいいんだろうか、
考えれば考えるほど、
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しかも時間が経てば経つほど、
そして現実に彼女の身に置きつつある、
事柄の前に、
いつまでも隠し通せるわけではない。
一体どういうふうにして、
愛する夫、この夫となるべき、
ヨセフにこのことを伝えたらいいんだろうか、
というですね、
当然の疑問、不安、恐怖、
ヨセフに対するところの、
裏切りの怖い、
というふうにも、
映ってくるわけです。
私たちが、
知ることのできる神様の身、
心というのを、
全部が全部だと、
分かって、
そりゃあ、というわけではないんですよね。
ほんの一つのことを知って、
ああ、それが神様の心ですか、
ということで、
後はこう、
信じて歩むだけですよ。
名前を言ってもいいんですが、
中島修一っていうね、
一緒にこう、
献身して同じ、
鎌の飯を食べてきた、
彼が、
当時、多明教会は、
三浦先生が校長で、
あの、
牧師で、
そしてその後で、
副牧師のようにして、
三島常夫っていう先生が、
そこでこう、教えられていたんです。
で、中島先生は、
三島先生に、
献身のことについて相談したときに、
変わりますね。
あの、経済的には、
ちゃんとできてるんでしょうか、
そういう意味合いのことを聞いたそうですよ。
いろんな保障についてね。
まあ、そういうところを聞くように、
計算の高い先生ですからね、
ほーっと思って、
そこまで減ってきたな、
と言って、
まあ、
若者のいたりで、いろんなそういう考えをしました。
で、私は、
全くそういうことの心配っていうんでしょうかね。
中島先生は、
日本家族基地の教団ですから、
奨学金が出ました。
で、私は、
何関係もない単立の、
そういう教会から、
献身する。
経済的な保障とか、
じゃあ選挙団体が、
じゃああなたの、
3年4年のそれを保障しましょう、
ということで、
新学校への、
この援助を、
受けてくれたわけではないんですね。
ただ、私は、
まあ、今考えればですね、
なんでそういうふうに、
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気がつかなかったのかな、
中島先生と話をしたときに、
私はあんまりそこまでは、
考えられなかったよ。
で、そういうことも全くない。
しかも私の家庭は、
ノンプリシアンですからね、
新学校へ行くって、
お金がかかるわけですよ。
教会が学校が普通なわけではない。
だけどそういうこと、
全く無知って言えば無知なんです。
考えもしないし、
じゃあどういうふうにしようか、
ということでおって、
やったこともない。
ただ、分かったことは、
その高校2年生のときに、
何も分かっていませんが、
吉明の遺書の旧説になる。
我が父に、
御弟子にあらずや、
というこの一句なんですよ。
それが決まった。
私に分かったことは、
それだけなんですよ。
あと何がある?
どういう保障がある?
どういう道が開ける?
母親がこんな話をしたときに、
それで結婚できるのか、
そういう気持ちなんでしょうね。
結婚、
そうやな、
今は何も分からないけど、
また後々、
そういうことになるのかも分からないし、
ならないかも分からない。
そんな母親との会話を
したことがありますよ。
だから母親は、
何とか私が新学校に行ったり、
何かするということについて、
反対で。
だから新学校で、
2年間学んで、
そして帰りましたらね、
そしたら、
新洋金庫に就職を頼んでいたから、
だからもうこれから帰ってきたら、
安心して、
新洋金庫に行ったらいい、
と言われたんですよね。
まあ、親の気持ちでしょうがね、
こっちはそういうことに全く
考えたことがないのに、
ところが、
母親はそういう風に先、先と、
ところが神様はもっと先を考えて、
しかも私が、
新学校の3年生のときだったでしょうか、
東京におります、
私の姉の一人がですね、
玄関に配られてきた一枚の
ビラを見て、
それでその近くの教会に
行くようになった。
そしてそこで思って、
その姉もクリシアンになったんですよ。
そしたら私が新学校に行く
ということを、
母親が帰ってきたときに、
じゃあもう私が、
新学校に行く、
そのお金を出してあげる。
当時ですね、
職費と業費全部入れて、
2600円だったんですね。
で、教会が出してくれるわけじゃないんですよ。
だけれども、
その姉がそういうことを
言ってくれたもんですからね。
だから、1年に入って、
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そしてそれの間はどうしたのかなと、
今はもう思い出せない。
まあ、新学校に行くんで、
みんなそれぞれお金を出してくれて、
そしてそれで
どうぞ間に合ったのかなと。
そうなんでですね、
私にすれば、
よしやきの一生の救世、
そのお言葉という、
それだけ。
けれども神様は、
そこから私の家庭の中に、
私が必要とするものを提供する、
そういう姉をお越しなさり、
まただんだんと理解もできるようになって、
そして、
新学校を無事に卒業した。
今でも忘れませんけどね、
卒業するにあたって、
私は、
まだ日本イエスキリスト教団ではなかったもんですから。
当時、
小先生が
諸教なさっていたんでしょうか。
あるとき呼ばれてですね、
西部教会に行きました。
その時誰もおられなくてね、
先生と私と二人きりだったのかな、
そしたら、
最初からまた、
まだ何か食べてないかな、
じゃあ今私も食べるから、
と言ってですね、
七輪に火を起こしてね、
そこでパン、トーストですよ。
へえ、と思ってね、
後にこういうね、
パンと飛び上がるような、
あのトーストを見ましたけども、
その時は西部教会の小先生が、
七輪に網を置いて、
餅屋を焼くようにこうしてですね、
焼いて、
そして一緒に食べたことを覚えております。
そしてその時にね、
斎藤さんが、
あなたは日本家康に入ったらいいよ、
日本家康基礎教団という名前は知ってますけどね、
ああそうですか、
別に行くところはあるわけではないので、
分かりましたと言って、
その時にそう言う。
当時私はもう一つ、
池田中央教会という、
四学校の四年生の時に行きました。
それでそこで、
やっておりました時に、
その岸本翔三という先生ですけどもね、
そういうお誘いを受けて、
ああ二人の先生が、
こんなね、右も左も分からないようなものを、
招いてくださって、
そして日本家康に入ったらいいよ、
と言う。
分かりましたと言ってですね、
つまり私はその時に、
翔三先生を通して知った、
ウェンという先生、
この人が大阪で帰るので、
しばらくその、
高校生伝道の手伝いをしてはいい、
と言われて、
そして、
頭を突っ込んだことを覚えておりました。
ですから、
分かったことはただ、
そういう吉明の一生の、
旧説の言葉、
そのほんのちょっとだけなんですよ。
けれども、
そこに至るまでの、
神様の思いやってくださる私への、
そういった言葉らが、
21:01
その後、
少しずつ少しずつ分かりました。
そして、
イエス様が弟子たち一人一人の足を洗って、
追った時に、
ペトロがね、
どうして私がイエス様に足を洗うなんて、
そんな、
女中さんでもなんでもない、
その先生に、
こうしてもらえる、
私はいいです、
と言って彼は断ったんですよ。
そしたらイエス様がね、
私のしていることは今、
あなたには分からない、と。
後で分かる、と。
その縁の、
ペトロがつかましい様子が、
あそこの、
ヨハネの十三章に出ておりますけれども、
イエス様がおっしゃってますようにね、
神様の御心を知るということは、
ほんの一面なんです。
私たちの側から、
神様のすべてを知るということは、
これはもう、
できるはずがない。
しかし、
その一つのことが分かった時に、
そこから、
イエス様は、
信仰への道も開き、
私の場合ですと、
献身への道も開き、
一つ一つ、
紐解くように教えてくださって、
備えてくださって、
歩めるようにしてくださった。
バリアさんは、
最初はこの、
思いもしない出来事を、
彼女は誰にも話せないんです。
ガブゲイルの私に現れて、
ここだった。
一人を理解できる人が、
どこにおりますか。
恐らく彼女はですね、
もう一人、
自分の心の中にしまい込んでしまって、
一体、寄せ草にどう話したらいいんだろうか、
どうやったらいいんだろうか、
という、
その思いだったでしょう。
ところが、神様は、
バリアさんが心配する以上に、
この、
神様による福音書を読みますとね、
ヨセフのクリスマスの出来事を、
そこに記していると、
申し上げましたけれども、
精霊は今度は、
ヨセフに語りかけて、
おられるわけですよ。
そして、
初めてヨセフはですね、
今、自分に知らされたことならば、
既に、
イギナス家のバリアさんの身に、
起こしなさった。
それまでは、
少しずつの調子を知って、
いやあ、そんなことあり得ない、
いろいろ考えましたけれども、
しかし、実際彼女との結婚生活がないのに、
どうして体験が変わるんだろうか、
というようなこともあったでしょう。
ですから、これ以上明るみになる前に、
今だったら、
その婚約を、
24:00
破棄することによって、
彼女が受けるであろう、
おめえも、
その一つ一つが、
全部、
あるいは解決できるかもしれない、
という、
マリアに対する思いやりから、
彼はそのように考えた。
しかし、神様はね、
そのヨセフにも、
精霊を通して、
彼女の身に起きていること柄が、
どういう次第でこれが、
行って、
そして、ことが進んでいるのか、
ということを、
明かしなさった時に、
彼女は、
本当に平安を得たでしょう。
しかし、
ヨセフが死ぬ、
というところに至るまでが、
実はこの、
ルカニオル勲章でしょう。
この、
ルカニオル勲章を見てまいりますと、
ここで私たちは、
申し上げたように、
神様は、
神様は、
神様は、
申し上げたように、
神様は、
マリアに示しなさった、
こと柄の、
もう一つの側面を、
ヨセフに、
精霊によって、
これを、
表し、
そして、ヨセフもそれを、
受け止める。
ヨセフはヨセフなりに、
マリアに対する愛と、
そして彼女の、
最善のために、
いろいろ考えたでしょうけれども、
ヨセフは、
マリアのための最善を、
なんとか考えたのが、
婚約の解消。
人としての最善の、
方法として、
それが、
彼が、
成すべきこととして思ったでしょう。
しかし、
人としてのどんな最善も、
決してそれは、
ベストではないんですね。
最善というのは、
神がなさる方法でしかない。
ですから、パウロは、
あの、
ローマリティの手紙の発表において、
神様は、神様を愛する者のために、
ともに働いて、
最善をそこに、
生み出してくださる。
神が先行して、
神がそのことに、
働いてくださる時に、
初めて私たちは、
気がついたかのように、
27:00
神様が言葉の最善をそこに、
表してくださっているんだな、
と、こう思う。
そのパウロは、
コリント・ダニエル手紙の
十二章に、
精霊によらなければ誰も、
イエスは主です、
ということはできません、
と書いています。
私たちが、
信仰を決断して、
そしてイエス・キリストを信じますと言って、
クリスチャン生活をそこに始める。
実はそれは確かに、
神様は私たちの意思に働いて、
私たちの意思でもってね、
それは、
信仰を告白するという、
そういう一面があります。
けれど、私が信じたから、
と言って、
とにかくなるわけではない。
私は、
精霊がその時に、
私の意思に働いて、
そして、
私がイエス様を信じます、
と言えるように、
それこそ手足を整えて、
そして導きなさい。
私は、
ですから、神様という方は、
一つしか分からないような、
神様に心の一つしか、
理解していないような、
あるいは、
一つも理解できないようなものであったとしても、
このマリアに望んだ精霊、
あるいは、
ヨセフに望んだこの精霊、
このお方によって、
ことは、
成し遂げられていく。
精霊が望んだことによって、
マリアは自分のうちに、
平安を得たわけでしょう。
ヨセフもそうです。
そして、そういう意味において、
先ほどのお人心情において、
告白をした、
その一文に、
乙女マリアは、
精霊によって、
こう宿した、
という、その言葉があります。
私たちのマリアは、
最終の信仰告白は、
そのように、
精霊によって、
乙女マリアが見守って、
やがてイエスキリストを、
そこに迎えなさる。
しかも、
この精霊によらなければ、
本当のクリスマスを、
私たちは、
迎えることはできない。
どんなに着飾って、
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まあ、それこそ、
今年はコマーシャルを見ておりましてもね、
非常になんか、
キラキラキラキラするような、
そういうデコレーション。
まあ、いつも申し上げておりますけどね、
教会は、
徐々にクリスマスのこれが、
こう整ってきますけども、
いち早く、
テレビのコマーシャルを通して、
クリスマスの曲が流れます。
もう11月に入ってから聴いたんじゃなかったかなと。
一般社会の方がですね、
早くクリスマス、クリスマスってこうやって、
とにかく売り出しですから、
彼らの計算は、
そういう方法ですからね、
私たちは、
イエス様の誕生日を、
静かに迎えていくっていう、
それですけども、
私たちをこうして、
クリスマスを迎えるっていうことの中で、
一つ一つ、
このアドベントというですね、
私たちが過ごす中でもって、
このクリスマスに向けて、
準備をしていく。
名前は出てきませんけども、
こういうドイツのですね、
少しずつ切って食べるっていう、
ケーキがあります。
ケーキって言うんでしょうか、
パンがありますけどね。
ああ、こんな風にして食べてるんだな、
ああ、と思いましたよ。
美味しいものですからね、
しかし高いものですから、
そうは口に入りませんけども、
しかし、
こういう備え方もあるんだなと、
私はそれをいただいた時に思いました。
それは食べ物の世界です。
けど私たちの、
クリスチャンの世界においては、
本当に聖霊によって、
クリスマスを共に迎えていくっていう、
そして、
聖霊が叩きなさることによって、
私たちは、
イエス・キリストを信じますという、
信仰告白と、
そしてその信仰告白に基づいた、
クリスチャン生活がスタートしていくわけです。
人は聖霊によらなければ、
イエス様を信じることも告白することもできない。
けども、
本当に聖霊は、
そういう一つの印を持って、
私たちのクリスチャン生活を、
名乗ってください。
導いてください。
私は最後にもう一つ申し上げたように、
1章の38節、
ご覧ください。
私は篠橋ためです。
どうぞ、
あなたのお言葉通り、
この目になりましょう。
私はこの祈りこそが、
聖霊が望んでくださったことによって、
ことが、
マリアさんの家に始まりました。
しかし、そこに至るまでに、
マリアはね、
どうぞ、
この目に、
あなたの御言葉になりますように、
33:00
という、あの祈りですよ。
あの祈りがなかったならば、
あえてクリスマスはスタートしないんです。
しかし、彼女の祈りと、
と彼女の献身とが、やがてクリスマスへのステップとなって、そこから始まっていっているこの様子が、今の部下による福音書のお読みいただきました、そこには書いてあります。
私は、このクリスマスを迎えにあたって、同じ意味合いにおいてね、祈りとして、そして私たちは、この身になりますように、私は死の始めです。
私は何かをするわけではありません。どうぞ、あなたの献身になりますように、という明け話があって、そしてクリスマスが、ことが始まりだした。
私は、彼女の祈りこそがね、クリスマスを生み出した。そしてクリスマスを通して、やがて私たちの永遠の命に至る救いが、そのドラマが始まっていく。
彼女が生んだその方は、予言されたように彼女にとっては大きな痛みでした。苦しみとなりました。けれども、そこにイエス・キリストの十字架があって、私たちの救いが成立されていく。
クリスマスに十字架を見ないと、私たちは何のクリスマスかという意味がわからない。
けれども、クリスマスに十字架を知るときに、ああ、このクリスマスこそが、私のためにこのようなお方が生まれなさったんだということがわかる。
そして私たちはね、本当にこのクリスマスを通して、33年のうちに起こるであろうこの方による十字架の救いと復活が、私たちに永遠の命としての大きな喜びを与えなさる。
ですから私たちはクリスマスを迎えにあたって、このクリスマスの中に秘められているこれらの一つ一つに、私たちは心からの祈りを持って備えし、またあなたの御言葉どおり、あなたの言葉どおりこの身に置きますように。
人に話せないことでもあなたはできますという、こういう信仰を告白して臨んでいきたいと思います。お祈りいたしましょう。