2021-04-25 25:17

#52 21/4/25 自分で決められるように

ピレモンへの手紙8-10節からの礼拝メッセージ。2021年4月25日録音。今日の箇所でパウロは、ピレモンに自分の願いをかなえてもらえるよう、丁寧に話を進めています。愛情と友情に訴え丁寧な段階を経て相手の自発性に訴えているのです。この3つの内容は、神様に私たちが喜んで従うための3つのプロセスでもあります。これら、私たちが自ら進んで神に従う決意を促す3つの要素について学びましょう。

00:06
朗読します。ピレモンへの手紙、8節から10節です。
ですから、あなたがなすべきことを、私はキリストにあって、まったく遠慮せずに、命じることもできるのですが、むしろ愛のゆえに懇願します。
この通り、年老いて、今またキリストイエスの囚人となっているパウロが、
獄中で生んだ我が子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。 以上です。
今日はこのところから、自分で決められるように、自分で決められるように、と題して御言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。 久しぶりにこの場で共に礼拝を守れる方、また
オンラインとの併用で、オンラインでも毎週あるいは久しぶりに来られる方がいて、見える方、見えない方を含めてたくさんの方と共に
礼拝を守れていることを本当に感謝しています。
今日からですね、東京でも4度目ですか、3度目の緊急事態宣言が発令されました。
まさに行きつ戻りつですけれども、共に御言葉から生きる糧を学べたらと思います。
先週からピレモンへの手紙に入りました。 簡単なおさらいですが、ピレモン、
パウロによっておそらく救いに導かれたのでしょうか。 コロサイの教会のリーダーの一人です。
彼個人、そして彼が任されていた教会の少人数当ての手紙です。
それで、コロサイの同じ地域に
あったピレモンの教会であって、コロサイ人の手紙と一緒に託されたものですので、このようにコロサイの後にピレモンから学んでいます。
先週の本題のおさらいをしますと、先週のカギの聖句はこの地図が出ましたけれども、ここが英下界で、
エペソビトの手紙のエペソ。おそらくこのエペソか、このローマでパウロは投獄されていて、このコロサイに手紙を書いた。
その地域の
ピレモンに手紙を書いた。 その
先週のカギの言葉はこちらです。読める方は小さい声でもいいので読んでみましょう。
私は祈る時、いつもあなたのことを思い、私の神に感謝しています。
03:03
あなたがシュエスに対して偉大でいて、すべての生徒たちにも向けている、愛と信頼について聞いているからです。
この手紙のテーマは、ざっと言うと信仰の実践、愛と許しの実践です。
その前置きとしてパウロは祈りの中で、ピレモンさん、あなたのことを感謝していますよ。
なぜなら、あなたのシュエスの信仰が
生徒たちにも向けられている。あなたが周りの兄弟姉妹に愛を示している。
そのことがエペソにいる私の耳にも届いていますから、あなたのその愛と
信頼のいける信仰の上に、神様に感謝していますよ、ということを言っています。
そのことから、今日は段々とパウロが具体的なお願いをしていく準備、
そういうところに今日の朗読の箇所が入っていきます。
その本題と関係する線流を見つけたので、見てください。
昨日の東京新聞に出ていました。こちらに掲示しました。
読めますか?縦に書けましたけど、
出かけません。おしゃべりしません。打つまでは。
出かけません。おしゃべりしません。打つまでは。
これ、打つってわかりますよね?ワクチンですね。
この強い決意が現れています。
自粛されなくても、ワクチン打つまで私はしませんよ。
これは何かというと、この人が自分で進んで決断しているということなんです。
今日の御言葉の書きは、パウロが、ピレモンが自分で決断できるように促している言葉から、
私たちも自分の決断で、喜んで神様に従うことができる、
そういうことについて、3つの点から学んでいきましょう。
まず、第一の点ですけども、
立場による強制力ではなくて、愛によってパウロはピレモンに進めています。
ピレモンは強い立場にあって、
失礼しました。パウロは強い立場からピレモンに命令することができました。
でも、その強制力ではなくて、愛によって命令を進めると書いています。
もう一回、ちょっと伏診のために読んでみましょう。
今日の朗読箇所。
ここにはですね、いろんなことが示唆されていますが、
06:00
パウロの強い立場が見えます。
それは、まずパウロが年老いてと言って、年長者である。
だから命令する権利がありますよ。
そして、年老いてというのは、読み方によっては、使徒である。
使徒と読めるんですね。
しかもキリストの使徒で、囚人として名誉の立場にある。
このような私はあなたに遠慮せずに、これはね、大胆にと訳せる言葉です。
大胆に命令できるんですよ、と。
でもそうじゃなくて、愛のゆえに懇願します。
命令じゃなくてお願いなんです、とパウロは言っているんです。
懇願するというのはですね、ギリシャ語でパラカレオと言って、
よく英語で言うとエンカレッジとか励ます、日本語で言うと進めるということです。
命令と進めの違いは分かりますよね。
命令というのはですね、命令する側に権威とある面決定力がありますが、
進める時はですね、決定力は進められた本人にあるわけですね。
だからピレモンに決定権を委ねる、そういうお願いをしていますとパウロは言っています。
その理由は愛のゆえにと言うんですけど、どんな愛ですかと言うとですね、
少なくとも3つの説があります。ここに書きました。
最初はですね、イエス様が、神様がピレモンのために示した愛ゆえに。
2つ目はですね、パウロがピレモンのために注いだ愛、
すなわちピレモンとパウロの間の友情や2人に共通する神にある家族、兄弟という意味での親愛。
3つ目、多分これが最も概然性が高いんですけども、
ピレモンが他の兄弟姉妹に注いでる愛のゆえに、
3つとも概然性が高いので全て受け入れていいと思うんですが、
3つ目のカギは、動機はですね、神様と人への愛ということなんですね。
神と人へのあなたの愛のゆえに、私たちの愛のゆえにお願いしますとパウロは言っています。
実はですね、このピレモンのように、私たちもイエス様から愛にできるように実は命じられています。
ヨハネの福音書でイエス様がこう弟子たちにそして私たちに語っています。
読める方だけでいいのでちっちゃい声で読んでみましょうか。
私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合うこと、これが私の今使命です。
09:01
この愛ゆえにイエス様も弟子たちに私たちに命じています。
命じられていますけれども、私たちがイエス様に従い兄弟姉妹に使えるその理由は、
強制されているからではなくて、神と人への愛を私たちが知っているから、
自分で決断をしてある意味喜んで兄弟姉妹に使えるということなんですね。
つまり言い換えますと、イエス様の愛を私たちが知る時に、
私たちが他の兄弟姉妹、教会の中の兄弟姉妹、クリスチャンの兄弟姉妹に愛を注ぐその決断ができるということです。
イエス様の学弟、ヨハネも自分の手紙の中でこのように言っていますね。
ちょっと長いですが、読んでみますね。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためになだめの捧げ者として御子を使わされました。
読める方はここから小さい声で読んでみましょうか。
ここに愛があるのです。
愛する者たち、神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、
私たちもまた互いに愛し合うべきです。
ヨハネが言っていますね。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、
その愛を知った私たちもまた互いに愛し合いましょう。
そのように命令しながらというか、決断を愛の上に私たちに促しているわけです。
さらにこのことをパウロは別の角度から教えています。
2番目。愛の具体的な形として先ほども触れましたが、
パウロはキリストの兄弟姉妹としてまた友情のゆえにお勧めしますと言っています。
ちょっと音声が入っている方がいますので、どなたかミュートしてください。ネットの方。
失礼しました。
実はこの人間の差がありますね。
私たちは上司から命令されたら仕事したくないんですね。
NOと言いたい。
でも友人から頼まれたら断るのは難しいわけですよね。
12:00
特に愛ゆえにお願いしますと言わんばかりに
頼むよ。俺とお前の仲じゃないかと言われたらなおさらお願いを聞くわけです。
学者によればここにありますように、パウロのギリシャ語の言葉遣いから
パウロの根幹の基礎は兄弟愛や友情だと言うんですね。
そしてパウロの勧めをこう言い換えることができるんです。
ちょっとこれを読んでみますね。
私はパウロは人の権威から命じることもできますが、
あなたの兄弟であり、友であるパウロからあなたにお願いしますよ。
こういう兄弟愛あるいは友情にパウロは訴えかけているそうなんです。
実は不思議なことがここで起こっています。
このオネシモとパウロの関係を社会的な見方で見ると、
命令できるパウロの方が社会的な地位は低いんです。
オネシモは家で協会ができるほど財力もあって、
ピレモンはそれだけの財力があって、
そして奴隷を従えるほどの地位もあったわけです。
パウロは普通に見れば一階の囚人です。
裁判を待っている囚人です。
でも一方、キリストの味方からすると、先ほども言いましたが、
パウロの方が使徒として命令する権威を持っている。
こうやって人間関係とかパウロの関係とピレモンの関係は、
見方によってはどっちが上か下か分からない関係ですね。
そういう関係はバーチカル、垂直の関係ではなくて、
実はパウロは上下ではなくて、
水平な関係をここで根拠としているんです。
つまり二人はイエス様にあって兄弟です。
そして友です。そういう水平な関係です。
実はこのように上の立場の人が降りてきてくれる。
それは他でもない誰ですか?
イエス様と私たちの関係ですよね。
この姿はイエス様のありを、
上の立場の人が友となるという姿です。
イエス様は私たちに神の御心を示して、
御自分の道に従うようにと十字架にかかる前に弟子たちに教えました。
その時にイエス様はこういうことを命じられたんですね。
ヨハネの15章の13節から15節で、
15:02
イエス様はこういう大切なメッセージを投げかけてくれました。
読みますね。
人がその友のために命を捨てるという、
これよりも大きな愛は誰も持っていません。
私があなた方に命じることを、
あなた方が行うなら、
あなた方は私の友です。
読める方はまだ小さい声でここから読んでみましょう。
私はもはやあなた方を下辺とは呼びません。
下辺は主人のすることを知らないからです。
私はあなた方を友と呼びました。
なぜなら父から聞いたことを皆、
あなた方に知らせたからです。
この友、あなた方は奴隷ではなくて、
私の友ですとイエス様は
弟子たちに私たちに呼びかけてくださっているんです。
私ちょっとこれ考えたとき、先程も言ってますけども、
仕事の上司と部下の関係を思い浮かべるんですね。
私も普通の仕事をしてまして、
そういう関係の中に来ています。
それでその中でですね、皆さんどうでしょう。
部下思いの理想の上司に出会えたと仮定してください。
そしてその上司との間に友情が芽生える。
ドラマみたいです。
で、まさに部下を奴隷扱いする上司は、
部下が失敗するとですね、気捨てるわけですよね。
でもこの友愛的な、しかも有能な上司というのはですね、
部下の失敗の尻拭いをちゃんとした上で実績を上げるんですね。
まさにイエス様は私たちが拭いきれないこの罪、
その最大の問題の罪ゆえに、
それを贖うために自ら命を捨ててくださった。
私たちの罪を神に償うためにイエス様は十字架で死んでくださったんですね。
この最大の問題を解決するために、
私たちのために命を投げ捨ててくださったイエス様。
このイエス様の十字架こそ最大の友情の証なんですね。
皆さんがよくご存知のある賛美歌。
その賛美歌は私たちの究極の友であるイエス様について歌っています。
思い浮かびましたよね。
特に日本語の3番。
慈しみ深きという賛美歌の3番ですね。
慈しみ深き友なるイエスは、
変わらぬ愛もて導き給う。
世の友我らを捨て去る時も、
祈りに応えていたわりたまは。
18:01
なかなか歌詞を味わうことはありませんが、
よく見ると本当に深く慰めに見せた歌詞です。
世の友が私たちを見捨てたとしても、
イエス様は私たちを見捨てないで、
祈りに応えていたわってくださるという。
まさに究極の友なるイエス様の愛が歌われていますが、
そのイエス様の愛を知った私たちは、
そのイエス様の御心である、
イエス様のあるめま、
願いというかですね、依頼である、
忌ましめに従う、
互いに愛し合う、
愛し合えば使えるというピレモンのような、
忌ましめに喜んで従うものなんですね。
最後です。
パウルはですね、
丁寧な段階を経て従えるように、
ピレモンに進めています。
この御言葉、十節の御言葉、
ちょっと読める方は小さい方でいいので読んでみましょう。
実はここでパウルはですね、
ある学者に言わせれば、
戦略的に、ファクトフルですね、
戦略的にピレモンに、
おねしものことを順を追って紹介しているんです。
パウルはですね、
一番最後におねしもと名前をギリシャ語では置いています。
そして、
彼の名前を紹介する時に、
彼の名前を紹介する前に十分な前置きをして、
ピレモンの関心を抱かせて、
ピレモンがおねしもの名前を聞いた時に、
おねしもを許して受け入れやすいようにしています。
そういう布石を出しています。
あとでも言いますが、
おねしもはですね、奴隷だったんですけども、
ピレモンの家からおそらく、
お金か物を盗んで逃げたんです。
そして獄中でパウルに会って、
戒心したんですね。
その、彼を許してくださいとパウルはこれから伝えたいんですけども、
その伝える時にですね、
ギリシャ語の順序を元に訳すとこんな訳になるんですね。
私はあなたにお願いします。
それは私の子供で、
獄中で産んだ、
おねしものことです。
そういう書き方をしています。
この言葉の順番、
そしてピレモンの反応を多少ですね、
大げさに再現すると、
こういうようなやりとりがあったんじゃないかと思うんですね。
このパっていうのはパウロです。
ピっていうのはピレモンです。
前に掲示しました。
パウロ、私はあなたにお願いします。
え、何ですか?
それは私の子供で、
なるほど。
獄中で産んだ。
え、パウロ先生が獄中で戒心に導いた人がいるんですか?
21:02
そう、それはおねしものことです。
あ、あの逃亡奴隷のおねしものことなんですか?
と、まあ、多少大げさですけども、
こういう段階的なやりとりがあったんではないか。
そういう丁寧にパウロは
おねしものことをピレモンに依頼しているんですね。
実はですね、イエス様も
このような手順を踏みながらですね、
私たちが御言葉やいろんな環境の中で
驚きを持って、
あるいはきちんと段階を踏んで
イエス様の見心を受け入れて
イエス様に従うことができるような
決断へと導いてくださるんですね。
例えばそれはですね、
このピレモンのように
私たちが誰か思わぬ人に
使える時とか、
あるいは誰かを許し受け入れなければいけない時に
このような丁寧な決断への導きということが
当てはまるかもしれません。
今日このように三つのことから
共に学んできました。
神様は私たちが
自分の決断を持ってですね、喜んで
神様の愛に応答して
いましめに従うことができるように、
あるいは互いに愛し使い合うことができるように
私たちを導いてくださるお方なのです。
そのまた神様の愛、
私たちの従順、決断ということを
イエス様の眼差しのヨハネが
手紙で書いていますので、
そのことを最後に
共に読んで終わりにしたいと思います。
こちらに掲示しました。
第一ヨハネの手紙4章の
10節から11節です。
読める方は小さい方でいいですので読んでみましょう。
3、はい。
私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、
私たちの罪のために
なだめの捧げ者としての
御子を使わされました。
ここに愛があるのです。
愛する者たち、
神がこれほどまでに
私たちを愛してくださったのなら、
私たちもまた互いに愛し合うべきです。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
パオロが丁寧にまた
愛をもって
ピレモンのことを思い、
オネシモのことを思い、
ピレモンがあなたに従えるように
せしたことを今日学びました。
私たちは心固くなる時があります。
恐れる時がありますけれども、
またイエス様御自身が
24:01
私たちに愛を示してくださり、
何よりも私たちの罪を、
その命をもって暴なってくださり、
愛を示してくださったことを
感謝いたします。
どうぞ御精霊の導きによって、
私たちがそのイエス様の大きな御愛を、
また共なるイエス様を
日々の生活の中で、
また御言葉を通して
知ることができますように。
そしてどうぞ、
あなたに喜んでお従いする
お互いでありますよう、
どうか導いてください。
なかなかコロナ禍の状況は
明けませんけれども、
その中であなたの御言葉を
いただきながら、
兄弟姉妹とともに
歩んでいくことができるように
どうか導いてください。
この言い尽くせない思いを、
私たちの救い主、
主イエス様のお名前によって
お祈りします。
アーメン。
それでは一分ほど、
しばらく御言葉に応えて、
お祈りしましょう。
25:17

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