1. 名谷教会
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2024-09-01 32:07

2024/09/01: 主の戦いのために

2024/09/01 聖日礼拝

加藤満牧師

ヨシュア記 -15


サマリー

このエピソードでは、主の戦いのために心を新たにすることや、旧約聖書の新明記とヨシュア記を通じて祝福と呪いのテーマが探求されます。また、リーダーと民の世代交代や、約束の地を占領するための神の約束についても言及されています。さらに、ヨシュアがイスラエルの民を率いてカナンの地に入る際の試練と神の戦いの姿勢について語られます。特に、主の軍の将との出会いを通じて、ヨシュアが戦いに対する理解を深め、神に従う重要性が強調されます。今回のエピソードでは、彼らの戦いが主の戦いとどのように結びつくかについて考察し、彼ら自身の姿勢について問いかけられます。また、中川先生の実体験を通じて、愛による変化の重要性と聖なる戦いの姿勢が探求されます。

新しい季節の始まり
それでは一言、お祈りをさせていただきます。
愛する天皇、父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
9月になりました。
暑い8月のうちも、私たちを守ってくださり、支えてくださり、
また、この9月から新しい季節を始められる幸いを感謝いたします。
主よ、私たちの心と体と霊は弱いものです。
そのことを、この季節の8月の中に覚えさせられましたが、
変わらず主の支えの身腕は、永遠のカイナはその下にあるということを、
また覚える季節でもありました。
主よ、あなたは、私たちを限りなく愛し抜いてくださいました。
あなたがその十字架で流された血潮により、私たちの罪を完全に許し、
神の子とし、それだけではなく三神によみがえられた命、
永遠の命を私たちに与え、永遠なる死とともに、
あなたからの命をいただいて生きる者へと、私たちを変えてくださいました。
主よ、私たちは欠けたるものですが、しかしあなたの命によって、
私たちは息を吹き返し、あなたの命によって変わることができ、
あなたの命によって、あなたとともに御国を築く、
そのような使命を与えられていることを覚えます。
主よ、御言葉を通し、私たちをまた整えてください。
あなたの御顔を拝させてください。
そして、あなたの前に神戸をたれつつ、
死とともにこの新しい季節を歩むことができますように支えてください。
お願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人、
施設におられる方、ご自宅におられる方、
また思いやっても来れないお一人一人がいらっしゃいます。
どうか主よ、お一人一人とともにいてくださり、
そのところにも主がおられることを教えてください。
そしてまた、あなたが許されるのであれば、
様々な隔てを取り除き、ともに集うことができますよう、
帰りにいてください。
お願いいたします。
世界は未だなお戦争が続いています。
どうか平和の主が異性者のうちに、
その現場のうちに働いてくださいますように、
お願いいたします。
また、先週私たちは台風10号の影響を
この九州から関西にかけて受けました。
今なお中部地方が台風の影響があるかと思います。
関東も被害を受けています。
どうか置かれたところにおいて、
それぞれの方々の歩みを、生活を主が支え、
各地の教会の教の礼拝を支え、
また、これによって傷んでいるお一人一人に
主が慰めを与えてくださいますよう、
お願いいたします。
これからの時を御手に委ねます。
主が御言葉を開いてくださいますように、
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
祝福と呪いの道
9月の新規日礼拝を今朝は迎えております。
昨年もお話ししましたけれども、
新規日というのはラリーデーとも呼ばれまして、
ラリーというのは再び心を震い起こすという、
そのような意味があります。
夏休み明けの子ども、また教会に来られていない方々が
再び集うことができるようにという願いが込められていますし、
またそのためにも祈る日です。
手法にも載せましたが、後で子どもたちのことを覚えて
お祈りしたいと思いますし、
また、この9月からアドベントに向けて、
再び心を震い起こし、私たちは旧約聖書の新明記、
その続きである吉脇詩式を御一緒に読んでいこうと思っています。
昨年新明記を読みましたけれども、
吉脇詩式を理解する上で大事なことは、
これは新明記の続きだということです。
大事なところなんですね。
と言いますのも、新明記は何を語っていたかというと、
端的に申し上げるならば、
あなたの前には祝福と呪いの道がある。
あなたは命を選びなさいということでした。
新明記の30章の19節から20節というところ、
せっかくですから読みましょうか。
新明記の中心的なところですが、
30章の19節から20節というところを読みますと、
こういう言葉があります。
新明記30章の19節から20節。
私は今日、あなた方に対して天と地を承認に立てる。
私は命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。
あなたは命を選びなさい。
あなたの子孫も、あなたもあなたの子孫も生き、
あなたの神主を愛し、
御声に聞き従い、主にすがるためである。
これは孟子の言葉、大事な孟子の遺言でしたね。
あなたの前には祝福と呪いがある。
あなた方をエジプトの奴隷から救い出し、
ご自身の民とされた力強い神がおられる。
あなた方に立法を与え、ご自身の民として整えて、
共に生きようと招かれる神様がおられる。
それほど全てを懸けて、あなたを愛しておられる神がいるのだから、
あなたはこの神を心から愛し、全てを懸けて愛しなさい。
これが神明記でしたよね。
だから命を選びなさいと。
それがあなたの命となり、祝福となると。
ただ、この神を否み、神の言葉から離れるならば、
あなた方には呪いが待っているというのが神明記でした。
そして今朝から読みますこのよしわき詩式というのは、
まさにこの言葉の実現なんですね。
よしわきというのは何かと言いますと、
これは孟子の後のリーダー、よしわを通して、
神が神様に従う歴史です。
従った結果祝福され、彼らは約束の地を占領していくという話がよしわきです。
ただ一方で詩式というのは呪いの話なんです。
よしわと神様から離れていった世代が、
徐々に神様から離れ、その呪いが実現していくというのが、
実は詩式ですね。
約束の地への準備
詩式の最後というのは実に悲惨です。
礼拝でもあまり読まれることはないかもしれませんが、
しかしご一緒にこの歌手に秋見ていきたいと思います。
祝福と呪いを学びながら、
主と共に歩むことの意味の一歩一歩を学んでいきたいなと、
そう願っております。
さてですね、よしわきをちょっと見てまいりますけれども、
このよしわきも大まかに言うならば、
主に二つのことが書いてあると思っていただいたらいいと思います。
よしわきに書かれていることそれは、
リーダーと民の世代交代です。
一つはリーダーと民の世代交代のことについて書いてあります。
そしてもう一つは、約束の地の占領について書いてあるということです。
今朝は五章を読んでいただきましたが、
一章から五章の内容を見てまいります。
この一章から五章に書いてありますのは、
リーダーと民の世代交代のことについて書いてあるのです。
すなわち、モーセとエジプトから出た第一世代というのがいるのですが、
そのモーセはカナンに入る前に、カナンに入れずに、
彼はその手前で亡くなりましたし、
そしてモーセと一緒にエジプトを出た第一世代も、
あれの弟子に耐えてしまいます。
ヨシオアキから始まるのは、モーセの次のリーダーであるヨシアと、
その出された民の次の世代、第二世代の話なんですね。
そのことがよくわかるのは、ヨシオアキの一章の二節です。
神様がヨシアに告げた言葉、
それは、私の下辺、モーセは死んだから始まります。
私の下辺、モーセは死んだ。
モーセはもういない。
ヨシオアよ、あなたが立たなければならないということから、
この話は始まってまいります。
モーセはいない。
重い事実ですね。
ただ、ここからあなたとあなたの世代に始まっていくという、
新しい期待を含んだ言葉です。
神様はモーセと同じことをヨシオアにも約束をなさいます。
それがこの一章の二節から九節に書いてあることですけれども、
神様がヨシオアに約束をしたのは、
カナオは約束の地なのだ。
タラッと内容を外観的に言いますと、
カナオは約束の地なのだ。
すでにあなたに与えられている地なのだから、
そのことを信じてあなたが足で踏み出す時に、
その場所はあなたの土地となるということですね。
私はあなたと共にいるとヨシオアに神様は告げられます。
ヨシオアに神様が約束されたのは、
モーセにも約束されたことと一緒でしたね。
私はあなたと共にいる、ですよ。
シュッとエジプト記の三章でしたね。
そして、神様はモーセに求めたように、
ヨシオアにも同じことを求めます。
それは、神の言葉を信じ大しく強くあなたは一歩一歩を歩み、
そして神の言葉を民にも教えなさいということでしたね。
立法を守るようにヨシオアにも求めました。
新しい世代のイスラエルの民もまた、
神様そして隣人と共に生きることができるように、
神の言葉によって彼らを整えなさいとヨシオアに告げます。
そしてこの1章から5章を通じて、
神様は約束の地下難に入っていくヨシオアと、
そしてその第二世代に対して、
モーセと共にいたようにあなたと共にいると
1章の5節で語りますけれども、
そのことを教えるために、
モーセと第一世代が経験したことを
もう一度民に経験させるんですね。
2章を見ていただくならば、
2章に書かれてあるのは、
ヨシオアが2人の石膏を使わせて、
エリコの地を偵察させるということが書かれてあります。
このことを読みながら私たちが思い返すのは、
民数記13章に書かれてあります、
モーセがカナンの地を偵察させるために、
12人の石膏を派遣したという話です。
ご存知かと思いますが、
12人の使わされた民は、
大きな武道人差を抱えてきてですね、
カナンは偉いところや、
イスラエルの不信仰とカナンへの試練
ってことを言って喜んで帰ってきた人がいる。
ヨシオアとカレブは、
あそこが神様が与えてくれた土地だから占領しようという。
しかし残りの10人は、
無理だ、あそこはネフィリム、巨人が占めている地域だから、
私たちはあそこに登っていっては勝てない。
ヨシオアとカレブだけが登って占領しよう、
必ず打ち勝てると言いましたが、
残りの10人はカナン入りを断念しました。
実はそのことがきっかけで、
神様はイスラエルの不信仰に怒り、
その世代、20歳以上の世代は、
あれので死に絶えると言われました。
実はこれがカナンの地に入れなかった大きな要因なんです。
でも、かつてその道が断念されたその出来事を、
ヨシオアの2章でもう1回、ある種同じことを繰り返してクリアさせようとさせる。
ヨシオアの2章では、
このかつての過ちを乗り越えさせるように描きます。
2人の石膏体はエリコを偵察をいたします。
そのところで、今度はエリコの民であるユジョラハブ、
その一家の助けを味方につけて帰ってきます。
そして帰ってきた石膏体はヨシオアに告げました。
2章の24節というところを読みますと、
彼らはヨシオアにこう言いました。
2章の24節。
主はあの地をことごとく私たちの手にお与えになりました。
確かにあの地の住民は皆、私たちのゆえに震えおののいています。
今度はこの世代は、
いやヨシオアさん、行きましょうと。
この地を神が約束された地ですと一歩踏み出していく。
そのようにしてこのヨシオア紀を始まってまいります。
神の臨在と約束の地への導き
そして3章ではこの子にはヨシオアとイスラエルの民が
ヨルダン川を渡るという出来事が出てまいります。
これも私たちは読んだらよくわかります。
あれはモーセとイスラエルの民が航海を渡って
エジプトの軍勢から逃げたということと重なります。
神様はここで契約の箱を先頭に立てなさいと言われて、
契約の箱を担ぐその祭司たちを
湖の最初に進ませましたね。
契約の箱というのは神様の臨在の場所です。
出て行く時にはこの契約の箱の上の蓋にある
2つのケルビミの間から神様が離されるということが書かれてますが、
神の臨在なんです契約というのは。
その神様ご自身がその先頭に立って
イスラエルの民を連れて行きヨルダン川を渡っていく。
箱を担ぐ祭司が足を踏み入れた途端に川は割れ
イスラエルの民全員がヨルダン川を渡りました。
このことを通し神様はモーセと同様にヨシュアとも
神様が共にいることを示されたということですし、
またもう一つ4章の23節から24節というところを読みすると、
4章の23から24、
あなた方の神主があなた方が渡り終えるまで
あなた方のためにヨルダン川の水をからしてくださったからだ。
このことはあなた方の神主が足の海になさったこと、
すなわち私たちが渡り終えるまで
私たちのためにその海をからしてくださったのと同じである。
それは地のあらゆる民が主の手が強いことを知るためであり、
あなた方がいつも自分たちの神主を恐れるためである。
川を渡らせたのは、
あのエジプトから導き出した神と今あなた方といるのは
同じ神なんだということを伝えるためであった。
同じ種が変わらず、あなたたちと共にいるのだということを
神様はここで目に見える形示されます。
主の軍の将との出会い
そして5章の2節から9節というところに書いてあるのは、
滑稽が民に施されるということです。
4節と6節、5章の4節6節だけを読みしますと、
ヨシハが滑稽を施した理由はこうである。
エジプトを出た全ての民のうちの男子、
すなわち戦士たちはすべて、
エジプトを出てから途中で荒野で死んだ。
出てきた民は皆滑稽を受けていたが、
エジプトを出てから途中で荒野で生まれた民は皆滑稽を受けていなかった。
イスラエルの殻は40年間荒野を歩き回り、
その間に民全体が、すなわちエジプトを出た戦士たち全員が
死に絶えてしまったからである。
彼らが主の見声に聞き従わなかったので、
私たちに与えると主が彼らの嘘に誓った地、
血と水と流れる血を主は彼らに見せないと誓われたのである。
民数記14章にこのことが書いてあります。
先ほど述べた内容ですね。
滑稽と言いますのは、
神の民であることの目に見える印ですね。
それを民は身に帯びました。
そして5章の10節から12節というのは、
民は再び杉越祭を祝う。
杉越祭というのは、
民が出エジプトの神の偉大さを覚える大切な祭りですね。
そしてその時から、この12節に書いてますが、
カナンの地の産物を食べた翌日からもはやマナは振らなくなったとあります。
今後はカナンの地、約束の地の産物であなた方は行きなさいということでしょう。
今や約束の地を前にして、あなた方はそこに進んでいくだけだという。
そしてそこに、猛瀬と共にいた神である私は共にいるとはっきりと約束をされる。
今や準備万全なんです。
ちょっと長くここまで読んできましたが、今や準備万全。
かつての過ちも乗り越えた。
同じ神が共にいる。
私たちの民の準備も整った。
さあカナンに進んでいこう。
しかし一番大事なポイントが最後に出てくる。
いわばこの世代交代において一番の要点が、実は今朝お読みした5章の13節から15節です。
ちょっとここをしっかりと見て終わりたいと思います。
このエリコにさあ攻め入ろうとする時に一つの出来事が起きるわけです。
それが13節から15節ですけれども。
読んでいただきましたが、ヨシハの前にぬき身の剣を構えた人が現れるわけですね。
そしてヨシハは問います。
あなたは私たちの味方ですか?それとも敵ですか?と。
するとその人は答えます。
いや私は主の軍の将として今来たのだと。
その人が答えたのは私は主の軍の将であり、すなわちエリコに攻め入るために戦いに出てきた主の軍団の将軍であるということがここで言うのですね。
注目をしたいのはここでヨシハの態度が180度変わるということ。
何が変わるのでしょうか。
先ほどはヨシハはあなたは私の味方ですか?それとも私の敵ですか?と問います。
それは言い方を変えるならば、あなたは私の戦いの味方になってくれるのですか?それとも協力してくれないのですか?
私の戦いにとってあなたは役に立つお方ですか?それともそうじゃないですか?
それがヨシハの最初の問いかけですね。
しかし相手が主の軍の将、主の軍勢の長だと聞くときにヨシハはどうしたでしょうか。
彼は地に足を。
14節の途中にあります。ヨシハは顔を地につけて伏を拝み、彼に言った。
我が主は何をこの下辺に告げられるのですか?と。
これはこういうことでしょう。
あなたの戦いのために私は何ができますか?という言葉です。
もうちょっと整理するならばこういうことでしょう。
ヨシハが最初に言ったことは、あなたは私の戦いの味方ですか?敵ですか?と聞くんです。
あなたは私の戦いの敵ですか?味方ですか?
でも主の軍の将はその問いに関して、実はここでは何も答えていないんです。どっちも答えていない。
むしろ大事なのは、主の軍の将が明確に答えずに、むしろ大事に彼に問いかけたのは、
ヨシハよ、あなたこそ神の戦いの味方であるか敵であるかどっちだ?ということです。
ヨシハよ、あなたこそ私の戦い、主の戦いの味方なのか敵なのかどっちなんだ?という問いかけです。
これはこういうことも言えるでしょう。
ヨシハはこれまで、これから始まる戦いは、イスラエルの民とエリコの戦いだと彼は考えていたでしょう。
イスラエルの民が攻めるわけですから。
けれども主の軍の将が示すのは、いやこれはイスラエルの民対エリコの戦いではない。
この戦いはイスラエルの神である主とエリコの戦いなんだということです。
であるならば、戦いの主役はヨシハでもイスラエルの民でもありません。
戦う主役は神様ご自身です。主の軍が戦います。
であるならば実はヨシハの対応というのは実にふさわしいのです。
我が主は何をこの下辺に告げられるのですか?
これはおそらくこういう転換ですよね。
私の戦いのために主は何をしてくださいますか?ではなくて、主の戦いのために私は何ができますか?です。
そのような転換が彼の中で起きた。
主がヨシハに求めたのは、15節に書いてありますけれども、
主の軍の将はヨシハに言った、あなたの足の履物を脱げ、あなたの立っているところは聖なる場所である。
そこでヨシハはそのようにしたとありますが、
これもまたご存知の通り、出世エジプト紀三章5節にありますが、
孟瀬と同じ経験ですね。孟瀬とあの照明の箇所と同じ経験ですね。
燃え尽きることのない芝の前に、聖なる場所であるからあなたは靴を脱ぎなさいと神様は孟瀬に現れたときに最初にそう言いました。
聖なる臨済の場に立つのではなくて、ひざまずきなさいということ。
それは、主を私が従わせるのではなくて、私が主に従いますという姿勢ですね。
私が靴を履いて戦いに行くのではなくて、靴を主の前に脱いで、あなたが戦いに出てくださいとそのように願う姿ですね。
この姿勢こそが実はこの世代交代において一番大事だったんです。
私たちの戦いと主の戦い
リーダーであるヨッシュアが、主の前にどういう姿勢でいるのか、私の戦いに主を巻き込むのか違う。
目には見えずとも私たちの王として既に戦い道を開き守ってきた、あの主がおられる。
私たちが問われるのは、いつも私の戦い、主の戦いにあなたは従うかどうかであるということではないか。
そのことを思うときに、さて、私たちの戦いは主の戦いになっているのでしょうか。
その戦い方はあっているでしょうか。
そのことが問われるような気が致します。
一つお話をしても終わろうと思いますが、昔中川先生の説教でこういうお話を聞きました。
先生が勃開をされていたときに、教会のご夫人から相談を受けたようです。
先生、私は主人を神様のもとに導きたいのですが、主人が教会には来てくれません。
むしろ、私が午後、教会で奉仕することに反対して、礼拝に参加するので精いっぱいです。
神様に祈っているのですが、どうも状況も変わりません。
先生、どうしたらいいでしょうかと相談をされたそうです。
中川先生はその話を聞きながら、こう問い返されたそうです。
そうですかと、大丈夫ですよ。あなたの祈りは決して地には落ちていません。
それで、主はあなたがご主人に何をするように求めておられますか?
主はあなたがご主人に対して何をするように求めておられますか?
その方はそう問われて止まりました。
先生、祈っていますと。
そうですか、それは本当に大事なことですね。
でも、おそらく主があなたに望まれることはきっと、あなたの隣人を自分自身のように愛しなさいということではないでしょうか。
むしろ、礼拝からいち早く帰って、ご主人に丁寧にコーヒーでも入れて差し上げればどうでしょう。
心を込めてご飯を作り、話を聞き、あなたの笑顔を見せ、いつも家族のためにありがとうと感謝をお伝えしてはどうでしょう。
それが愛することではないでしょうかと、そうおっしゃられたようです。
その方は全く納得されない顔で帰られたそうですね。
けれどもしばらくして、そのご主人が徐々に教会に来られ始めたそうです。
きっかけを聞いてみました。なぜ急に来たいと思われるようになったんですか。
先生、教会に行き始めた最初、妻は私を変えようとしてきました。
でもある時から、教会に行って妻が変わったんですと。
自分を変えようとしてきていた妻が変わった時に、私は教会には何かがあると思ったんですと、そう言われたそうです。
この今朝の吉脇の箇所というのは、落ち着いてじっくり何度も何度も黙想してみたい箇所だなと私自身も思わされていますが、
私たち思います。私の戦いのために主は何をしてくださいますか。
でもそうじゃない。主の戦いのために私は何ができますか。
そして主とともに戦う術は聖書にたくさん書かれてあります。
愛による変化
戦うというのはガチンコでこうやりあうことだけじゃないですね。
愛の戦いですよ。イエス様があの十字架で力を振るわずにあの十字架まで従い抜かれたように。
私たちは私の願いを叶えるためにどうすれば主に働いていただけるか。
そのような私の戦いに主を巻き込みがち。
そして相手を変えたい。
でもその中にこのヨシアのような
我が主は何をこの下辺に告げられるのですかと
主の戦いのために私にできることはありますかと
止まることは果たしてあっただろうかと問われる気がするのです。
丁寧にこの箇所は何度も黙想したい箇所ですね。
そして主が求めるのはあなたの足の履物を脱げ
あなたの立っているところは聖なる場所であると言われます。
神ご自身が主役となり戦ってくださる。
主は当然私の願いを知っておられる。
主は当然良きお方である。
そのことを知っているならば
主が戦ってくださいと聖なる主に跪き
自分の願い通りになること以上に
主の最善がそこに働いているのだと願いつつ
主を従わせるよりも私が主に従い
相手を変えるよりも時に自分が変わることすら厭わない
聖なる主の聖なる戦いの姿勢とはそういうものではないでしょうか。
私たちは覚えたいのです。
私たちの置かれている現場で主はすでに戦っておられますよ。
そして私と一緒に戦おうと言われる。
これはあなたの戦いではなくて私が戦うと。
であるならば私たちは主の戦いを認め
この戦いにふさわしく参加しているでしょうか。
あなたの足の履物を脱げ
あなたの立っているところは聖なる場所であると
その意味を深く思い巡らしながら受け止めたい。
それぞれにおいてこの受け止め方は違うでしょう。
違っていいのです。
でも私にとって主が戦っているのであれば
私にとっての靴を脱ぐというのはこういうことだ。
それぞれが主の御前に応えさせていただきたい。
そう願っております。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
32:07

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