00:01
聖書をお読みします。
今日の聖書朗読は、柳沢幸子姉妹です。
聖書箇所は、使徒の働き12章4節から7節、
新約聖書の251ページをお開きください。
使徒の働き12章4節から7節です。
では、お願いいたします。
ヘロでは、ペテロを捕らえて牢に入れ、
四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。
それは杉越の祭りの間のちに、
民の前に引き出す考えであったからでは。
こうしてペテロは牢に取り込められていた。
教会は彼のために熱心に祈り続けていた。
ところでヘロでは彼を引き出そうとしていた日の前夜、
ペテロは二本の鎖につながれて、
二人の兵士の間で寝ており、
戸口には蛮兵たちが牢を監視していた。
すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。
御使いはペテロの脇腹を叩いて彼を起こし、
急いで立ち上がりなさいと言った。
すると鎖が彼の手から落ちた。
続いて聖火隊の賛美、新聖火533番に続いて、
牛田牧師より栄光の出獄と題して、
説教をしていただきます。
説教をしていただきます。
03:05
説教をしていただきます。
説教をしていただきます。
説教をしていただきます。
皆さんおはようございます。
行け猛瀬という賛美に励まされて出てきました。
行け打ちだということで、
もう何年経ちましても、
この御言葉の御推しにする前は緊張いたしますし、
このまま聖灰が過ぎていけばいいのになと思いますけれども、
でも行けということであります。
今日も神様の御言葉を取り付かせていただきます。
お祈りをして町に臨みたいと思います。
ここに私がおります。
私をお使わしください。
あなた方の体を神に喜ばれる、
06:02
生きた聖なる備え物として捧げなさい。
恵み深い天の父なる神様、
今日こうして新しい月を迎え、
第一の聖日ここに開いてくださり感謝をいたします。
ここまであなたが導いてくださり、
伴って今日を迎え得たことを心よりありがとうございます。
その同じ主はこれからも私たちとともに、
また永遠の命を与えてくださって、
共に生かしてくださるその特権をありがとうございます。
今日この主の日の安息日、
あなたが今日真ん中にいてくださって、
安息日の主としてあるいは礼拝の主として君臨くださり、
また私たちもその臨済を仰ぎつつ、
今このところで共にこの礼拝を持っております。
どうぞあなたの御前におられるお一人お一人、
天からの豊かな恵みを注いでくださるようにお願いいたします。
私たちもひたすらあなたの精霊を求め、
そして恵まれることをひたすら求めて、
そして魂に糧を与え、
そしてまた力を与えてお使わせくださいますように。
また私たちの耳にあなたのお声がかかったときには、
私がここにおります。
この私をお使わせくださいと応答できるものとして、
備えてくださるようお願いいたします。
今日もまた御言葉を通してあなたの御旨を教えてくださり、
またそれを十分に悟り得るものとして整えてください。
御言葉を聞くだけではなく、それを行いなさいと。
どうぞこれまで培ってきたこの信仰を、
生きた信仰として働かせていくことができるように、
どうぞ私たちを導いてください。
今日も御言葉をありがとうございます。
語るもの乏しくまた弱いものですが、
私をどうぞあなたが最後までお支えくださいますように。
今日ここに集えましたことをありがとうございます。
またいろんな事情や妨げがあり、
あるいは夜明けを覚えてここに来れなかった兄弟姉妹方のうちにも、
あなたがどうぞ行きめぐってください。
今日日本全国で持たれる礼拝、
世界中の礼拝が主の恵みで満たされ、
精霊が豊かに注がれますように。
真摯委ねて主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン。
暑い夏も終わりまして、
一気に涼しくあるいは寒いくらいの季節になってきました。
09:00
でもよく言われるように、
喉元すぎればということでありまして、
もうそういう時になると、あの暑かった夏も、
どうだったのかなと忘れてしまいがちな、
それぐらいのところであります。
良い気候になりまして、収穫の秋、
また私たちが神様とじっくりお交わりができる、
そういう時期かなと思っております。
教会におきましても、いろんな行事、活動がこれから用意されておりますけれども、
まず祈って、そして足を地につけて、
そして主の導きに導かれて、
それをさせていただきたいと思います。
私たちのこの弱さのゆえにどうしても浮き足だったり、
そして祈らずに、あるいは精霊の導きを求めないで、
自分の思いや考えですぐに行ってしまう、
そういう弱さがありますが、まず御言葉をいただき、
そして祈って精霊の導きを求めつつ、
一歩ずつありますていただきたいと思います。
今日も聖書を開いてくださっていますが、
使徒の働きの十二章全体を通して御言葉をいただきたいと思います。
この歌集には登場人物として、大きく二人の人物のことが挙がっていると思います。
一つはペテロを悟空に入れたヘロデオですね。
それともう一つはその逆であります。
ヘロデによって捉えられた、そして悟空に入れられたペテロ。
それともう一つはその教会。
この三つのことについて、今日は御言葉からお話をさせていただきます。
種の弟子たちが福音仙境の働きに預かって働きを成していった、
そういう中でそれを良しとしない人たちが博害をしていた。
教会に対する博害をしていたということですね。
そして当時のこの地域を牛耳っていましたこのヘロデオ。
ヘロデオもクリスチャンたちの教会の働きを好ましく思っていなかった。
そういうことでこのヘロデオについて、今日この十二章から見ていきたいと思います。
一節から四節と二十節から二十三節のこの中であります。
その頃ヘロデオは教会の中のある人々を苦しめようとしてその手を伸ばし、
12:03
ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捉えにかかった。
それは種なしパンの祝いの時期であった。
ヘロデオはペテロを捉えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。
それは杉越の祭りの後に民の前に引き出す考えであったからである。
二十節からヘロデオはツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた。
そこで彼らは皆で揃って彼を訪ね、王の侍従プラトスに取り入って和解を求めた。
その地方は王の国から食糧を得ていたからである。
定められた日にヘロデオは往復をつけて王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。
そこで民衆は神の声だ、人間の声ではないと叫び続けた。
するとたちまち主の使いがヘロデオを打った。
ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。
彼は虫に噛まれて息が絶えた。
ヘロデという人がどういう人なのか、その人となりがここに現れていると思うんですね。
人々を苦しめようとしたとか、ヤコブを剣で殺したとか、そしてユダヤ人の気に入ったのを見て、
そしてペテロを捕らえて、そしてそれを民衆の前に引き出して、そして晒し者にするとか、そういうことがあったわけですね。
どうもこのヘロデ王という人は、自分に与えられた権力を使って死体放題という、そういう感じがいたします。
本当に人間の血が通っているんだろうかという、そういう残虐なことも平気でするような人。
気に入らないものは抹殺するというような、そんなことがここからうかがいするわけです。
そしてヘロデはツロとシドンの人々に敵意を持っていた。彼らをもう嫌っていた。
ところが彼らは食料がないので、やはりこのヘロデ王にへつらってその食料をいただかなければならない。
それをいいことに、また彼はここにあります演説を始めたということですね。
そこで民衆は、このヘロデ様は人間ではない。神様だというようなことを言うわけです。
こういうヘロデ王。このヘロデ王がどういう生き方をしてきたのか。
そしてそれは書いてませんけれども、肝心の彼の最後がどうであったかということが書かれてあります。
23節。
するとたちまち主の使いがヘロデを撃った。ヘロデが神に栄光をきさなかったからである。彼は虫に噛まれて息が絶えた。
15:10
皆さんこのヘロデに対する主のお言葉がこのように記されている。
これは彼がいかに息を絶えて死んだかということを書いてあるわけです。
私たちも同じようにいつかはそれこそ息が絶えて、そしてこの地上を去っていくわけですが、
私たちが愛する人たち、あるいは教会の人たち、今まで天に召されたそういう人たちを送ってきましたが、
彼らをしのぶときにどういうふうに死んだかという、そんなことはもう考えないですよね。
彼らはいかに生きてきたのか。私も国別式で何度も御言葉を取り継がせていただきましたが、
まず考えるのは、あの人はどういう生き方をして、どういうことを教会でなされて、どういう交わりをしてくださって、
そしてそういうふうに生きておられて、そして天に召されていったなということを思うわけですね。
しかしこのヘロデオにとっての神様のお言葉、それは彼がいかに生きたかということはこと細かには書いていない。
ただ彼がどういうふうに死んだのかということがここにはっきりと記されているわけです。
彼は虫に噛まれて息が絶えた。何とも虚しいと言いましょうか。何とも哀れな、そういう言葉ではないかな。
もし彼が自分のお墓、おそらく立派なお墓を建てさせたと思うんですね。
そしておそらくそのお墓の墓標にヘロデオは偉大な王であったと書かせたかもしれない。
それはわかりませんが、いくらそこに立派な文言が書かれていたとしても、永遠に変わることのないこの聖書は、
彼の最後を、彼は虫に噛まれて息が絶えたという、そのことを記してある。
そしてこれは、いくら消そうとしても消えない、永遠に残る神のお言葉。
私たちがヘロデオはどういう人であったのかというときに聖書を開きます。
その中にこのことが書かれてあるわけです。
ヘロデオとは、彼は死ぬときに虫に噛まれて息が絶えた。
彼はどんなに人々に自分は偉大な王なのだ、そして権力を欲しいままに彼らを痛めつけ、
18:12
そして自分の死体放題にできるのだと豪語しておった、そういう人物であろうとも、
聖書は彼の最後をこのように書いてある。
これは消すことができない。
彼は虫に噛まれて息が絶えた。
それはヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。
神の境界を痛めつけ、そして自らを神とし、そして神を侮ったヘロデオを表す言葉として、
聖書はそのように彼のことを書いている。
何度読みましても、もっと彼のことを称える、あるいは一人の人間として何か他に言葉はなかったんだろうかと、
もうかわいそうになるぐらい、そんな気がいたします。
彼は虫に噛まれて息が絶えた。
自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろうと、
そういう言葉もあわせて、このヘロデオを見るときに、そんな見言葉が思い浮かびました。
第2番目に、ヘロデに極に入れられたペテロ。
そのペテロのことが5説からずっと書かれてあります。
このペテロに関して、11説まで一緒に見ていただきます。
ペテロは牢に閉じ込められていた。ヘロデに捕らえられて閉じ込められた。
教会は彼のために神に熱心に祈り続けていた。
ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれて、
二人の兵士の間で寝ており、戸口には蛮兵たちが牢を監視していた。
すると突然主の密会が現れ、光が牢を照らした。
密会はペテロの脇腹を叩いて彼を起こし、急いで立ち上がりなさいと言った。
すると鎖が彼の手から落ちた。
このところを読んでいただきました。
そして密会が帯を締めて靴を履きなさいと言うので、彼はその通りにした。
すると上着をつけて私についてきなさいと言った。
そしてペテロとこの密会が出ていくわけです。
11節、ペテロは我に返って言った。
今確かにわかった。主は密会を使わせてヘロデの手から、
またユダヤ人たちが待ち構えていた全ての災いから私を救い出してくださったのだ。
21:05
捕らえられたペテロは獄に入れられて、
彼はおそらくどうしようということであったろうと思うんですね。
ところが彼の状態というのは鎖につながれてましてや
蛮兵たちに監視されていた。
もうどうすることもできない。身動きとれないようなそういう状態。
そういうところに突然主の密会が現れて、
そしてその鎖も解かれて、
その獄から出て行って教会に戻ったというんです。
皆さんはこの記事を読んでどう思われますか。
きと様々だと思います。
正直な私たちの思いは、そんな馬鹿なことありますかというようなことでしょうね。
私たちは聖書を読むときにそういうところが何回も出てきます。
イエス様もなさったことに対して私たちもそんな馬鹿なことはないでしょう。
聖書に登場する弟子たちも同じようなことがあったということは多く書かれています。
それは本当に私たちの純粋な人間としての感想でありまた思いですね。
そんな馬鹿なことあるでしょうか。
でもそれは私たちが自分の経験を通して感じたことを言っているだけですね。
それが本当に起こったのかどうかというのは誰もわからない。
ただペテロとあるいはペテロが自分に起こったことをこの使徒の働きの記者に語った。
それをここに書いてあるわけですね。
私たちはこの証というものを聞くことがあります。
その証を聞くときに自分の経験あるいは自分が今まで生きてきた中でのさまざまなことを教えられたこと。
そういう中でその証を聞く。
そのときにそんなことはないでしょう。
ついついそういうふうに応答してしまいます。
でも私たちはそう思ったとしてもその本人がそうなのだと言っている限りそれはその人の証なのです。
その人の神様との中で起こった出来事であってそこに私たちが介入することは許されないわけですね。
私たちはただただアーメン主を感謝します。主を褒めたたいます。あなたは偉大なお方です。
そういうしかないわけです。
24:01
私たちはここでもペテロがこういう経験をしたそのことを彼は言ったわけですね。
そしてその使徒の働きの記者がそれを書き記してそれが聖書として今日私たちは見ているわけです。
ペテロ自身も旧説でこのように言っています。
彼には見つかりのしていることが現実のことだとはわからず幻を見ているのだと思われた。
ペテロ自身もこういうことが本当に起こるんだろうかと。
でも実際に鎖が解けてそして蛮兵たちにも気づかれずにスーッと牢をごくからくを出ていったということを彼は体験をここで言っているわけですね。
そして見つかりは彼を離れていった。
これは本当に現実なのだろうか。あるいは幻を見ているんじゃないだろうか。
そんな中で起こった。そういう出来事。
そして11節のこの言葉ですね。ペテロは我に帰っていった。
今確かにわかった。彼も今までは何かぼやっとした幻あるいは夢を見ているようなそんな状態だったのでしょう。
主は見つかりを使わせてヘロデの手からまたはユダヤ人たちが待ち構えていた全ての災いから私を救い出してくださったのだ。
これがペテロの証です。
私たちは皆さんもそうですが一度は二度証をしたことがあると思うんですね。
あるいはこれからまた証をする機会もあろうかと思います。
証とは何でしょうか。
証とは私たちが主の素晴らしさ主の偉大さそして主が私にどんなことをしてくださったのか。
あるいは主は教会にあるいは生徒たちにあるいはこの世にどんなことをしてくださったのか。
それは救いでありあるいは恵みを与えてくださったことでもありあるいは献身の召しを与えてくださった。
要するに神様が私に何をしてくださったのか教会に何をしてくださったのか。
そしてそれを聞いた人たちがその証を通して主の偉大さを褒め称える。
そして主の素晴らしさを称える。
それが証ということですね。
ですからここでもペテロはこのように言っています。
主は神様は密会を使わせてヘロデの手からまたユダヤ人が待ち構えています全ての災いから私を救い出してくださったのだ。
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これが証というものですね。
私たちは自分の経験もそうですが証をするときに私は捉えられてそして獄に入れられて
そしてそうすると何か突然光が当たってそうすると私は何かどうしようかと思っていたら鎖が取れて
そして私は導かれるままに出ていった。
常に私は私は私は。
ある証は私自身の老いたちからずっと成長の糧を言ってくださる。
そういう証もまた恵まれますけれども。
でも本当の証というのは主は私に何をしてくださったのか。
ペテロの証は主はこうこうこういうふうにして私を救い出してくださったのです。
それを聞いた私たちは神様はすごい神様は偉大だ。
この神が今日も私たちとともにいてくださる。
さあ皆さん一緒にこの主をたたえましょう。
それが証の素晴らしいところですね。
どうしても私たちの弱さで私は私は私はという証になりますと
この人は素晴らしいこの人は偉大だ。
それこそヘロデオは神様だ偉大だというのと同じようになってしまいますね。
ですから証というのはこのペテロが示してくださったように主は私に何をしてくださったのか。
そのことを主に述べるあるいは皆さんと一緒にそのことを共有してそして主をたたえること。
それが証というものであるということをもう一度このペテロの言葉から確認させていただいたことであります。
こうしてペテロはこの極野から抜け出すことができた。
救い出されたということそれがこの使徒の働きの中に記されている。
私たちはただただ聖書を神の言葉として偽りのない神の言葉として信ずるものとしてこの言葉を今日いただいたわけですね。
そしてこの偉大な主を褒めたたえるそのためのまた礼拝でもあるわけです。
三つ目に教会のことがここに書かれていました。
誤説のところにペテロが捉えられたその彼のために教会は神に熱心に祈り続けていたとあります。
この言葉は本当に素晴らしい言葉でありますし、今日の私たち教会にとりましても大変励ましの言葉であります。
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ペテロが捉えられた教会は彼のために神に熱心に祈り続けていた。
これが教会の本来の姿でありますし、そういう教会を目指してどの教会も励んでいるということであります。
教会は祈り続けていた。
先日神戸中央教会で行われました兵庫教区夫人部主催の日韓の選挙交流アワーの私は出席はしませんでしたが録音は聞かせていただきました。
その中に説教者はこのように言ったと思うんですが、韓国の教会はまず恵まれるということ、それを大事にする。
日本の教会はまず神との一致というものをすごく重んじるということですね。
それは両方ともすごく大事なことである。
しかし韓国の教会もただただ神様の恵みをいただくということだけではなく、日本の教会のようにもう少し一致ということもこれから取り組んでいきましょうというようなことだったと思うんですね。
それに対して日本の教会ももちろん一致ということは大事なことですが、それも大事にしながらもっとこれからは神様の恵みというものを覚えてそして豊かな恵みの中で何か取り組んでいく。
そんなことをされたらどうですか。
もちろん神との一致ということもそうですが、精霊の一致、精霊による一致というものもこれから取り組んでいくことができたらどうだろうかというようなことですね。
そう言われればそうだなと。単純に韓国、日本どこそこの国と比較はできませんけれども、そういうふうに見ていきますと、私たちに少し足りなかったところあるいは欠けているところ、そういうことにも気づかせていただくというのは幸いだと思うんですね。
この初代教会、ペテロが悟空に捕らえられた。そのとき教会は彼のために神に熱心に祈り続けていた。これはまさに一致ですね。教会の人が誰一人漏れることなく、みんながペテロさんのことを心配して、そして彼のために一致して祈った。
ある教会は連絡網でペテロさんが悟空に捕らわれた。当時電話はありませんね。そういうようなことで口伝えに祈ってくださいということで、みんなが一致して祈ったという。それは本当に素晴らしいことだなと思います。
33:25
しかし私たちがただ一致するということにおいて、欠けている面は先ほども言いました、やはり恵まれるということですね。私と神様との関係の中で、今日私は神様に求め、恵みを求め、そして魂が喜び、そして渇いていないだろうか、そんなことを求める。
私が感じることは、皆さん一人一人本当に恵みを求めておられる。確かにそういう中にありましても、一致ということが本当に大事にされているなということは感じます。
ですから何か集会をしましても、誰か遅れて来られたら、みんな一斉に見られるんですね。やはりその人も大事にしないといけないという。でも前に立っているものは、みんなが後ろを向かれるとあれっとなってしまう。
でもそういうときは、受付の人にそれは任せて、皆さんはとにかく神様の恵み、その御言葉の恵みを一心にいただきたいということであって、みんながみんな気を使わなくてもいいと思うんですね。
そういう面の少しずつ意識改革、そういうことも必要だろうし、私は今何が必要なのだろうか、特に自分が傷つき、また上渇いて求めている。そういうときはもう一心に神様を求めるということですね。
別に周りの人の気を使ったり、そういう必要はないわけですね。また一人一人が神様の恵みと精霊の助けを求めていく、そういう中で三魂の一致というのがあるんだと思うんですね。
そういうところでは必ず神様は御業をなされるし、また回収もあるいは説教者もあるいは賛美する人も本当に一つになって、その場が神の栄光が現れるという、そういうことがあるんだなということを教えていただいたことであります。
この箇所ではもちろん教会というものは神様の恵みなしには立ち往せない、そういうことがあるわけです。この教会もみんなが一致して祈った。その一致して祈れるということはまた彼らが恵まれていたということですよね。
36:11
日頃から神様の恵みを十分いただいて、誰一人漏れることなくみんなが神様と正しい関係の中で恵まれていた。だからペトロさんが捉えられたよというとすぐに祈りに入る。あの人もこの人もみんなが祈りに入る。それが三魂の一致。
そうでないと。韓国の説教者もおっしゃっていたように恵まれていないと。恵まれていないとペトロさんが捉まったよ、なんであのペトロか、あんな奴は、とかなってしまうわけですね。
ですからそういうことがなかったということは、本当にこの教会がみんなが神様の恵みの中に生きていたし、そして一致するときには三魂によって一致して、そして祈ることができた。そういうこの教会、本当に素晴らしい教会であった、そのように思うわけであります。
最後にこのペトロさんが帰ってきた、その後のことが少し触れているんですが、触れられているんですが、私はこの場面が非常に好きで、何かお芝居の一シーンを見ているような感じがいたします。
それもちょっと笑えるような、吉本新喜劇のようなものまではいきませんけれども、何か微笑ましいと言いますか、私たちの姿を本当に表しているような、そんな記事で本当に私は好きですね。
ペトロが教会に帰ってきたわけです。ペトロは十二節、マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家へ行った。そこには大勢の人が集まって祈っていた。祈っていたんですね。彼がペトロが入り口の扉を叩くと、「開けてください、開けてください。」そうするとロダという女中が横断に出てきた。
もう誰ですか、こんなにみんなが一生懸命祈っているときに、もう邪魔しないでくださいよと。十四節、ところがペトロの声だとわかると喜びのあまり、門を開けもしないで奥へ駆け込み、ペトロが門の外に立っていることをみんなに知らせた。
開けてください、その声はもしやペトロさん?あれは大変だということで、開けもしないで奥へ駆け込んでいって、みんなみんなよく聞いて、ペトロさんが門のところに来ていますよ。彼らはあなたは気が狂っているのだ、何を馬鹿なことを言っているのと。ペトロさんは鎖につながって獄に入れられて、もうどうしようもないんです。
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だから私たちは祈っているんじゃない、それをペトロさんが門のところに来ている、そんな馬鹿なことはないでしょう。いやいや本当にこれは確かにペトロさんの声です、間違いありません。どれどれ見ていきましょう。そうすると彼らは門を開けると、そこにペトロがいたので非常に驚いたという、そんなことが書いてあるわけです。
よく考えてみますと、彼らは熱心に祈り続けていたわけです。もう信じて祈っていたわけです。私たちの祈りは神様に叶えられるんだ、答えられるんだ。私たちの祈りを通して主は働いてくださり、ペトロさんは鎖が解けられて、そして獄から出てくるんだ。神様はそうしてくださるに違いないと祈っていたわけでしょう。
それが現実にそうなると、本当なの、本当にそんなことがあるんだねというようなことで、彼らは非常に驚いたというのです。これはイエス様に言わせれば信仰の薄いものよというようなところだと思うんですね。
お前たちはペトロが救われるということを信じて祈っていたんじゃないかと。それを神様がその通りにしてくださったら、こんなことが本当に起こるのみたいに驚くというのは何事だということですね。
でも神様は本当にびっくり微笑んで信仰の薄い者たちだなと。でもお前たちはよく祈ってくれた。その祈りに私は答えたんだ。見つかりを使わせて。そしてお前たちの祈りに答えて。そしてペトロをこうして救い出してきたぞとそのように言ってくださる神様ですね。
私たちはこの教会が一致してペトロのためにペトロが救われることを信じて熱心に祈り続けていた。こういう教会でありたいと願うわけであります。
この主に今日もより頼みつつ私たちは前進させていただきましょう。祈りをして聖三式を行います。教会は彼のために神に熱心に祈り続けていた。
天の神様、今日はミコトバを通してペロデオのこと、あるいはペトロのこと、そして教会のことを教えていただきありがとうございます。私たちの身にどんなことが起こるかわかりませんが、そんな時も主に祈り、そしてあなたが技をなしてくださると信じて祈り続けていくことができるように。
祈ったではなく祈り続けていた。やむことなく教会がひたすら祈り続けていた。そのことを覚えて皆をあがめます。またペトロの証も感謝をいたします。主が私たちにこれまでどんなことをしてくださり、どれほど多くの恵みをなしてくださったか、そのことを覚えてあなたを褒めたたえます。
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また続きます聖三式の上にも、主が臨んでくださり、主の割いてくださった肉と流してくださった恩恵をいただいて、そして恵まれてこの場を出ていくことができるように。委ねて主キリストの皆によってお祈りをいたします。アーメン。