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  2. 【音楽鑑賞】情感を込めすぎた..
2024-11-24 10:00

【音楽鑑賞】情感を込めすぎた演奏は聴くに耐えられないのでは、の話。

音楽演奏は容易に情感を投入しやすい表現媒体ですが、やりすぎると受け手の解釈に制限がかかってしまうのではないかと言う話をしてみました。
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おはようございます。小松でございます。いかがお過ごしでしょうか。
今日は演奏論について話そうかなと思います。
どんなことかというと、感情を入れすぎた演奏とか、自分の心情を音楽に託したりしすぎると、聞き取りづらかったりとか、嫌になってくるような感じがするので、そんなことをシェアしたいなと思います。
最近、僕はピアノの人の曲を聴くのも、自分が弾くのもとても好きなんですけど、
最近、他人が演奏する曲で感情的になったりとか、風景っていうのかな、心情的なものを伝えていくような曲の弾き方みたいなのがあると思うんですよね。
例えば、ヘニングシュニートっていうドイツのピアニストさん、作曲家さんがいらっしゃるんですけど、彼の曲ね、結構前すごく好きだったんですよね。
目を瞑ると、草の風が、草をなびかせて揺れるような風景とか、小川のせせらぎが、ドイツの大地の中で太陽に照らされてキラキラと流れるとか、そんな風景みたいなのをよく感じて、素敵だなとかいいなと思ったんですけど、最近聞けなくなっちゃったんですよね。
あと、僕は大学時代にずっと聴いてた、超超超有名なジョージ・ウィストンっていうね、去年おととし亡くなられた、去年だったかな、亡くなられた、オータムっていうすごく有名なピアノソロのアルバムありますけれども、悪くないんだけど、なんかね、お腹いっぱいになっちゃうんですよね。
なんか感情をどんどん出していくと、そこに入り込むような余地、リスナーの余地とか受け手の余地っていうのがね、やっぱなくなるのかなっていう気もするし、僕の今の心情っていうのがもう本当にこう、あんまり余裕がないのかもしれないですよね。
なので、なんかね、人の出す波動に対して、結構ね、ご馳走さん、もうOK、もういらない、もういいわ、いいやいいやっていう風になっちゃって聞かないんですよね。
で、その反面なんですけど、どんどん聞こう聞こうってする曲があるんですよね。これね、チリー・ゴンザレスっていう、今はイギリスに住んでいらっしゃるんですかね、カナダの作曲家でありピアニストさんなんですけど、かなり斬新なというか、アグレッシブというか、ニギリズムというか、そんな感じの曲をたくさん作られてね、1曲1曲がそんなに長くないんですよね。
3分とか5分ぐらいでですね、割とクラシカルであり、ジャズであり、ヒップホップであり、様々な要素をね、なんかすっごくハイブリッドに入れ込んだような曲の作り方するんですけども、ちょっとね、割と機械的というか、そういう感じの曲なんですよね。
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悪く言えば機械的、良く言えば無駄がないんですよね。1曲1曲に全然無駄がなくって、たくさん音の数はある曲はあるんですけど、全体の響きとして伝えているっていうのがあるんですよね。これ、簡単に言うとメロディーがないんですよね。
メロディーを立たせて演奏したりとか作ってる曲ってたくさんありますよね。特にJ-POPなんかはその典型なんですけどね。メロディーを作って、しかもそこに歌詞とかそういう意味のある記号みたいなものを音に変換して作っているわけなんですけどね。
そういう曲っていうのが、聴くことは聴くんだけど、好んで聴こうとしないんですよね。不思議なもんで。それがね、チリゴンザレスの曲っていうのはあまりないんですよね。たくさんの曲の音数はあったりとか、メロディっぽいものはあるかもしれないですけど、あんまりメロディーとして押し付けがないというか、響かせるというか、
すごい距離があるんですよね。すごくそういう、楽曲そのものに集中させるというか、意味として自分の思いをどんどんグイグイ持っていかないっていうのかな。そういうような曲があってですね、すごく好きなんですね。
表現の方向性は違うんだけど、坂本隆一さんの曲もそういうところありますよね。最小限にそぎ落としていって、メロディーとしてそこをグイグイと持っていくっていうよりも、全体の曲の響きとして展開していくっていう、しかも無駄がほぼないっていうか、そういう曲調が多いと思うんですけど、
チリゴンと坂本さんは結構共通点があるなと僕は思うんですが、そっちの方向の曲の方が好きになったりとか、演奏はそこまでいかないかもしれないけどね、耳が変わってきたのかなっていう感じがします。
ただ、その2つの方向性の曲っていうのは僕、嫌いとかじゃなくてね、ずっと平等には聴いてきたんですよね。時としては、ヘニングシュミレット的な曲が好きだし、また今みたいにチリゴンザレスの曲が好きだったりみたいなね。
そういう中で揺れ動いたりはしてるんですけど、あんまり上巻に訴えかける曲っていうのが、なんとなく聴こえてくると、えーって思っちゃうんですよね。自分から聴こうと思ってね、例えばベトベンの高級曲を聴こうと思って聴く場合が、運命とか、第5番だったかな、すごく好きですよ。
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第3学章から第4学章に行くにつれて、ものすごく展開しますでしょ、あの曲って。暗いところからめちゃくちゃ希望へとボーンと変わるっていうか、あそこまでの何か変化があるぐらいだったら、スカッとして聴いてみたいなっていうふうに思うんですけど、そういう曲っていうのがね、そこまでにいかない中、自分の上巻を適当にヘラヘラ出してるっていうかね、
そういう曲っていうのがあんまり聴けなくなっちゃったんですよね。これ不思議なことで、主観的な重もちをね、加味して音を聴くし、音を出したりしてるわけですから、ここのコントロールはね、理論化は難しいと思います。
今日聴いていらっしゃる方も、今日はなんでこの曲好きなんだろうとかね、あれ、別に昨日まで聴かなかったんだけど、この曲好きやし、あれ、昨日好きだった曲、今日聴いてみたら、そんなことないよなみたいな。そんなふうな感じってすることないですか?なんか、あれって。
これってね、本当ね、日々人間の感情って異例動いてるし、カマノショウメイの話じゃないけど、本当にね、元のね、水にあらずですよね、人間の重もちっていうのは。なので、そこに結構身を委ねたらいいとは思うんですけど、とはいえですね、期間的に、例えば1週間とか1ヶ月とか3ヶ月ぐらいかな、そういう傾向が続くことってあるんですよね。
いや僕もやっぱりね、そのあたりはすごくあって、この数ヶ月とか、この数年と言ってもいいのかもしれないけど、実はあんまり感情的、情感的な曲って聞かないなっていうふうに思いました。
エリック・サティーとかね、そのあたりは典型的なところはありますけどね。そんなふうなところで、やっぱり人の好みっていうのは多々あることはあるんだけれども、そういうふうにあんまり情感を入れないほうが、かえって受け手の余裕というか、受け手に自由な聞き方を与えてくれるっていうことがあるんじゃないでしょうかね。
僕もそういう曲をずっと聞いたりしてきているので、自分が出す音も実はそっちの方向が多いのかなっていうふうに思います。
即興だとね、ちょっと情感的なものを入れたりはするかもしれないけど、結果的に響きを楽しんだり、共有したいなと思って演奏していることが多いので、僕もどちらかというと、情感があまりないというか、あることはあるんですよ。
ある程度はあるけれども、それを過剰に出すとか、そういうことはしないんだなというふうに思いました。
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それをやりすぎるとね、不自由さを受け手にもたらせることになると思うんですよ。
ちょっと考える余地、自分だったらこうするかなとか、そういう余裕みたいなものを表現のところに置いた方が、受け手の方が自由に音を感じたり音楽を楽しんだりすることができるのかなというふうに思ったりしました。
この音声配信も、自分の感情をドドドッと出しすぎないようにしたいと思うんですけど、今日は出てましたかね、どうなんでしょうね。
そんな感じで、今日はいろんな捉え方ができるお話をさせていただいたんですけどね。
やっぱり、ある程度の心の余裕を提供するような音楽の作り方、在り方というのがいいのかなというような、そんな感じで今日はお話をさせていただきました。
それでは、今日もここまで聞いていただきましてありがとうございました。バイバイ。
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