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2026-02-18 12:38

【恩師の死去】藤澤先生がいなければ僕の大学人生はなかった。

藤澤和先生(明治大学農学部元教授)の死去に伴う、在りし日の大学生時代をトコトン振り返ってみました。
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おはようございます、小松でございます。
今日ね、久しぶりに国際会館から歩いて、成果大学まで行く道をですね、
ちょうど今日、珍しいんですよね、午後3時半で歩いているっていう感じなんですけど、
今日ね、そんな感じで話してみたいなと思います。
今日はですね、僕の恩師なんですけど、大学のゼミをその先生のところに入ったんですが、
藤澤和先生というね、ここの恩師でも何度か登場したという感じの先生なんですけど、
86歳でですね、2月の13日に亡くなられて、
それであの、ちょっと息子さんからね、僕の方に連絡があったという次第でございます。
でね、その先生は本当ね、まあその先生なかったらこの研究の道とか、
大学で仕事をしたりね、活動をしたりするっていう、そういうことを思わなかったですね。
その先生のおかげというかね、刺激を受けて、自分も研究という道を自分でやっていこうかなと思ったりとか、
あと自分のクリエイティブで人生を切り開くっていうことをね、すごく背中を押してくださった先生なんですね。
えっとね、僕は1990年に明治大学なんですけど、農学部に入って、
それで先生の研究室が材料性工学研究室っていうところだったんですね。
それが91年かな、92年の4月に大学の3年生で所属するんですよね、ゼミにね、農学部は。
3年生と4年生で学んで、卒業研究ですね、卒業論文を出して、それで成績がついてですね、卒業するっていうことになるんですけど、
だからね、2年間本当に先生の近いところで学んだりとか、一番刺激を受けたりとかした先生なんですよね。
一言で言うとどうになろう、あんまり喋らないんですよ、たくさん喋る先生じゃなくって、
しかもね、説明をたくさんするというよりも最小限の説明で本質をついたようなね、そういう言葉を投げかけてくださったりするんですね。
03:00
明治大学の入ってたところが農業土木緑地学っていう理系の中でもね、農村工学とか農村計画の中のハード的な分野の研究室というかね、先行にいたんですよ。
それで例えばダムを作るとか、農業機械を作ったりとかですね、あと土壌の整備とか、そういうハード的な農村計画っていうのかな、そういうのを整備していくような先行だったんですよね。
先週か、先週だったのかな。それで農業土木もあるし、緑地学っていって造園ですね。造園とか庭園とかランドスケープデザインですね、今でいう。そこの先行もあったので、
緑とハードウェアというかね、施工していくっていう2つの実際に動かすというか、実務的な経験と勉強をするような、そういう先週だったんですよね。
そこの先週ではですね、大学1年生は一般教養とかやってるけど、2年生ぐらいから専門の授業が、授業の中ではありますけどね、先生と出会うきっかけになって、
それが材料施工学っていう、硬い、めちゃくちゃ硬いですよね。理系で数値を扱ったり、コンクリートを作ったり、実験もしたりもしましたけど、本当にソフトウェア的じゃなくてハードですよね。
物質学とかね、施工学とか、僕はそういうところで理系だったので、そういう部分の研究に触れてみたらいいかなと思って入ったわけなんですよね。緑地系が好きだったかな。緑地系がとてもやりたいなと思ったんで、庭園とか研究とかね。
そういう感じの、ハードじゃないけどソフトにやや近いところの研究をしたいなと思っていたので、授業の中では理系がめちゃくちゃ多かったよね。構造力学とか推理学とかね。推理って水の力と書いてね。水の動き、流体力学ですね。
その辺りの勉強というか、実務を結構やってて、推理工学とか水の流れを作って、そこで推量とか推流とかを測って、数値がどんな数式と当てはまるかみたいなね。そういう授業もあったかな。金曜日の参予言とかにあったな、そういえば。
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それとかね、図工とか図画みたいなものもあったかな。製図ですね。そういう感じで、造園とか建築の、今で言うCADみたいな使う原型みたいな演習もあったので、本当すべからく実務系の分野に僕は携わっていたのかなと思ったんですけど。
その中で、藤沢先生はですね、一応理系なんだけど、なんかね、ちょっとそこを超えたところの話をするんですよね。僕の覚えている中ではね、やっぱり軽感はしそうだっていうね、そういうことを言っている場面が結構あったんですけど。
今で思うと、中小的に意味わからないじゃないですか。人によって解釈が違うわけだから、すごく捉えづらい内容だと思うんですね。軽感はしそうって、そりゃそうだよね。軽感って目に見える外在的なものではあるけれども、その内面とか背景とかそのあたりが形、視覚的な情報として立ち現れるので。
それはもう、人間活動とか自然活動の表出された、リプレゼンテーション的なものっていうのが軽感なので、それはそうなんだよねっていうことだよね。でもその軽感はしそうっていうのは、若い自分がどんなふうに思ったのか、それをちょっと感じたところで、やっぱりすごくこの前世のところで学びたいなとか思ってですね。
だいたい2年の終わりにゼミ選びっていうのがあるんですけど、それで材料施工学でよかったので、あまりにも志願者が多くて落ちちゃったんですよね。
落ちてですね。普通だったら、なかなかそこでリカバーってできないんだけど、なんかね、前からやっぱり先生の研究室に出入りしてたりとか、先生と直接話すことが結構多かったのかな。
だからね、顔もよく覚えてるし、自分のやりたいことも先生の中では結構共通してるというか、そういうところがあるので、なんか2年のうちに思い出したけど、2年生の後期ぐらいで研究室で授業終わった後に出入りして、文章を書いたり研究のテーマを相談し合った記憶が出てきましたね。
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だから割とよくコミットというか、コミュニケーション取ってたんですよ、先生と。その背景もあるから落ちたんだけど、そのね、くじ引きだったんだよね。
今みたいに志願留書とか、細かいのを書いて何とか言うよりも、くじ引きで、ダメな人は次みたいな、第2規模をここみたいな感じでめちゃくちゃ当時荒かったよね。
今、聖火大学でやってるのは本当に細かいね。ヒアリングしたり、そういうことをやって何とかゼミを選ぶということとはまるで違う。当時それでも全然クレームもなかったですし、そんな感じで適当に選んだんだよね。
先生方の方が選んだわけで、結局それで落ちたんだけど入れないでしょうかみたいな感じで伝えたのかな。すると受かったというか、入れてくださったんですよね。
今までのそういうバックグラウンドがあるので、そんな感じで先生の研究室に入るとね、もうそこから自分の地元の研究ですよね。
山の橋立の景観研究とか、稲町の景観研究をやったっていうか、それをやって3年生で2本論文を書いたんですよね。学会誌にも載りましたけどね。
そういう大学3年生で、研究ってめちゃくちゃおもろいなとか、地元の良さを形にするっていうのはすごく大事で、それが引いては思想の現れというか、これから必要な大げさに言うと日本のこれからを担うみたいなことまで若気のいたりでは思ってたんですよね。
それで3年生の時かな、かなりたくさん研究を始めたっていうのが藤沢先生とのつながりで、自分の大学生の時の活動が、就職しようと思ってたんですよね。大学4年終わったら地元とか市役所でもいいしね。
公務員でもなれば一応安定するみたいなね、よくあるちょっと安直な選び方でね、やろうかなと思って。農業部はそういう意味で京都風とかね、市とか地方公共団体の課があるのでやっぱり入りやすいというか、つながりやすいというところがあったので選んだところがあったんですけど。
そういうところとは違うね、価値観というか、実務というよりも研究ですよね。そのあたりの面白さをね、やっぱり先生によって導いてくださったかなっていうのがあったという。
今日ちょっとね、長くなったんで後編で話そうかなと思ったんですけど、そんな感じで、藤沢先生がね、2月13日に亡くなられて、まあだいぶ経ってるからね、話をしてからね。だからもうほんと15年とか20年ぐらい経ってるので、20年近く前から喋ったの。
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年賀状とかやりとりは、たまに手紙のやりとりはしたぐらいですけどね。そんな感じで、ちょっと自分の転機を導いてくださった先生のね、そんな話の前編をお伝えしました。
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