1. 小松正史『耳の保養』
  2. 母親が残してくれたものは《人..
2024-12-11 10:02

母親が残してくれたものは《人の縁》だった。

本日で母親の四十九日が終わりました。そこで実感したものは人の縁。自分の人生は人の縁によって生かされていることを目の当たりにした話をしました。
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おはようございます。小松正史でございます。今日はですね、今収録しているのが、日曜日、12月の8日なんですけれども、今日単語から配信、録音しております。
今日はですね、母親が今年の10月の25日に亡くなりまして、それで今日、49日をちょっと前倒しにはなるんですけど、
もうじき、親戚の人とか、お坊さんが来られるようなそのタイミングなんですけど、1ヶ月半ぐらいですかね、49日だと。
それでちょっと思ったことをね、今日お話ししてみたいなというふうに思います。
母はですね、地学校の教員、家庭科の教員をですね、何年だったかな、もうすごい長いことやってまして、
23ぐらいから60だから、ほとんど3、4、5、30年後半ぐらいぐらいやってたのかな。
それで、地元の生徒をずっと見守ったり教育してたりしてるので、もう至る所でね、うちの母に学んだとか、他人とかね、そういうことを。
昨日もタンテツメロディーの会場で出会ったお母さんと話をしてたらですね、お子さん連れ乗って、僕の母と他人1年生、中1の時にもお世話になりましたみたいな、驚かれてましたけれども、
そういう教育に捧げた一生だったかなというかね。
で、割と穏やかですし、本当に僕が学問とか好きなこと、特に音楽の道を導いてくれた人なのかなというふうにね、思います。そんな母がですね、今年の6月ぐらいの最初にちょっと体調をね、崩して、
すいません、ちょっとお客様が途中来られた感じでございます。続きだと、母親が地元に40年近く教育で貢献したという、すごいそういうところまで話したと思うんですけど、
それから僕のやりたいことを導いてくれたという感じで、直接忙しい、仕事に忙しかったから、そんなにたくさんは現役時代はね、
喋ることが多くなかったんですけど、退職してから帰ってくる度にですね、ちょこちょこと言ったりしたときに話をしたり、あと地元でですね、結構いろいろなライブとかイベントがあるときには必ずね、
父と一緒に来てくれたりとかしてですね、すごい、やっぱり陰ながら見守ってくれた人なのかなっていう感じがしますね。ちょっとお客さんがまた、すいません。
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はい、ちょっとすいません。今日はですね、なかなか時間取れなくて、京都に戻ってきまして、夜に撮っておりますが、どこまで朝話したかな。そうそう、母親が教員をしてて、それでも周りのね、地元の人の繋がりとか、
すごい、僕の見えないところで、多分すごく信頼関係を持って、親しみを持たれたりとか、何かこう育て上げをされてたのかなっていう感じでね、見えないところですけど、ただですね、きょう、
昨日のですね、あの端鉄のライブで実は何人かの人の声というかね、お話したんですけど、なんとですね、その親子で来ていた小学校6年生の男の子なんですけど、そのお母様はですね、僕と同じ中学校だったんですよ。
で、実は僕と僕の中学校の時にですね、実は母親がそこにおりまして、3年間、親と子が同じ学校におるということでですね、不思議な状態だったんですけど、なんとそのお母さんがですね、たまたまですよ、たまたまライブで知り合ったというかね、ちょっとCD買っていただいたんで、サインしながら話をして、その後も話したんですけど、
なんと母親が中学校1年生の時の担任だったみたいな、えーっていう、もうこれね、地域で先生しているあるあるだと思うんですけど、すごいですよね、なんかそういうつながりがあるのかなみたいな、そんなところでやっぱなんか、ちょっと亡くなった後からいろいろこうつながりがあったりとか、そんなところで縁がね、膨らんでくるのかなというふうに思いました。
それで、僕の音楽をね、ずっと僕、小学校2年の時から電子オルガンやって、で、高校3年までね、12年間電子オルガンやって、そこから大学に入ってからピアノに転校したんですけど、最初の後押しというかね、してくれたのがやっぱ母親だったんですね。
これあのエピソードをちょっとお伝えするとですね、あの音楽の試験があるということで、小学校の時ですよ、音楽で。何かというと、オルガンで蝶々を弾くみたいな、そんな短線率で弾くような課題が出て、で、家に鍵盤がなかったんで、教科書の後ろによく写真で鍵盤が書いてあるというかね、写真で表示されているじゃないですか。
で、それをこう弾いてたんですよね。タトタトしく机の上で、タトタトタトみたいな感じでね。そうしたらね、母親がその姿見てたんですよね。それで、えっと、何かね、それとなく、あのまさみ、何かこう、音楽やってみたいの?みたいな話になって、うん、何か鍵盤触ってるから、みたいな。
で、僕も別に習いたいっていうわけじゃなくて、言われたからちょっと興味もあったこともあってね、うんうん、ちょっとやってみようかなっていうふうになったらですね、実は母親の教え子の生徒さんが、その時にですね、短大出て、新しくピアノのとかね、電子オルガンの教室を町内というかね、地区内でやろうっていう話になったみたいで、
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そこに行ったらどうかなっていうような、これもまたね、何かネットワークですよね。その先生ね、ピアノというか、電子オルガンをずっと12年習ってた僕の先生が、そこも担任というかね、やっぱ家庭科だったんで教えたんでしょうね。
で、そのお母さんがですね、その先生のお母さんが教員同士のつながりで、また知り合いっていう、もう地域でこうすごい網の目みたいにつながってんだけど、まあそれで結果、あの先生ね、あの、にずっと習ってですね、12年間、あの、みっちり練習したというか丁寧に弾きなさいって言われたのが、まあ、いまだに習慣として残ってて、まあ、その先生のご縁も母親なんですよね。
で、さらに言うとですね、母親のつながりで僕生きてるようなもんで、あの、後々ですよ。えっと、まあ僕のジャケットCDあるじゃないですか。あれもね、あの母親の友達のお母さん、友達ですよね。その方も、あの、学校の先生なんですよね。中学校の。その息子さんに僕ね、つながりがまたできて、母親つながりの縁ですよね。
それで、あの、今は30、30枚ぐらい、あの、アルバム作ったり、本ね、を作ったりとかっていう表紙をね、あの、共孫松本さんにお願いしてるんですけど、それも母親のつながりなんですよね。すごいよなっていう。で、あの、実はさっき、あの、49日が終わったときに、まあ、来てくださった人が、あの、その、ね、お母さんもだしね、松本さんのね。
あと、あの、まあ、これもちょっと薄い親戚なんだけど、どうも母親と話したりするのがすごく好きで、もう本当に薄い親戚、ほとんどね、もうめちゃ遠いし、でもやって来られる、あの、親戚、薄い親戚の方がいらっしゃって、で、まあ本当にね、親しくもう来られるんですよね。
で、その方が、あの、まあ、ちょっととある事業をやってることをね、あの、僕は知ってたんだけど、そこでまた音楽つながりでコラボできるかもしれないっていうね、えー、僕はちょっとやってみたいなって話が実はあって、まだここではちょっとまだオープンできないですけどね。
それもね、もう回り巡って、その母親つながりですよね。まあ、そんな感じでね、憎しんがなくなるのはちょっともうどうしようもなく、もうね、あの、なんでしょうかな、あの、心に穴がポッカリ開くっていうね、あの、消失感があるけど、後で残ってるもんってすごいなっていうか、僕は教員やってしまってるのも間接的に母親の影響があると思いますよ。
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ね、一人一人やっぱりこうちゃんと対面する、向き合う。で、ライブとかなんかいろんなところでも、まあ、とりあえず人の話をしっかり聞くっていうのもやっぱ母親のこう、なんか誠実なところが活かされてると思うし、うん、精神性をいただいたなっていう感じかな。
あんまりたくさんこれこれしなさい、あれあれしなさいって言う親じゃなかったんだけど、うん、なんかそういう道筋をやっぱりこう感じ、あの、伝えてくれるような、まあそんなことをちょっと今日お話ししまして、皆さんもそういうね、あの、ご両親いろいろ感性的に影響を受けてるってことあるんじゃないかなという、そんな感じでちょっと今日ね、途切れ途切れで申し訳なかったんですけど、時間なるべくある感じで喋ってみました。
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