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2025-05-23 20:43

新しい精神科病院を作ったウィリアム・バティ #2

この番組では、精神科医療の歴史と現代のトピックスを精神科医が語ります。今回は「フィリップが鎖を取る物語」第2回。18世紀イギリスの精神科医ウィリアム・バティと、彼が設立した画期的な「セントルーク病院」の話を紹介します。

個性的で「マッドドクター・バティ」と呼ばれた彼は、清潔さにこだわり、ユーモアと機知に富んだ人物。彼の名前が英語のスラング「batty(変わり者)」の由来とも言われています。エピソードでは、当時の医師の階層や精神医療の現状もわかりやすく解説。

精神科医療を学びたい方、ぜひお聴きください。

 

番組へのお便り

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Summary

ウィリアム・バティは新しい精神科病院を設立し、18世紀の精神医療の変革を体現しています。彼はセント・ルーク精神病院を設立し、人道的な治療を提供することで精神科医療の進歩に貢献しています。ロンドンで精神科病院を開業し、精神疾患の治療に新しいアプローチを取り入れ、患者に穏やかで厳格な生活習慣を促しています。彼の努力により、精神疾患も治療可能であることが明らかになり、医師としての評判を築いています。

精神科医療の歴史
精神科の知識を学べる番組、歴史から学ぶ精神科ラジオ。
この番組では、精神科医療を作った人々、現代のトピックスを精神科医が説明します。
精神科専門医30年、医学博士で現在開業医のマリモと、
その姉で、障害を持ちの方の就労支援事業所を経営していて、
つい先日生まれた初孫の写真を楽しみにしているサクラがお送りします。
フィリップ・ピネルが鎖を取る物語。
これを4回に分け、その第2回として、新しい精神科病院を作ったウィリアム・バティ、です。
ウィリアム・バティさんって誰?
ですよね。分かんないですよね。
実はこの話、今回するんですけど、僕もそんなに知らなかった人。
今回ちょっと勉強したので、これ分かったぐらいで、めっちゃ有名な人ではないです。
フィリップ・ピネルさんはめっちゃ有名なんですけど、
この人はイギリスの中で知っている人はいてるやろうなぐらいの方なんですけどね。
ピネルさんがやった偉大さを感じるたびには、この人の話もするのも大切かなと思って、
今回はウィリアム・バティさんという精神科医の話をしようかなと思います。
この話をする前に、この医者の、18世紀のお医者さんのご様子というのをちょっと言っておかなければなと思っています。
はい、18世紀ね。
今のイメージとはちょっと違うんですよね。
19世紀の1個前の話なので、ちょっとだいぶと古いイメージですね。
日本でいうところの江戸時代後期ぐらいの、ヨーロッパのお医者さんのご様子ということなんですけどね。
なるほど。
まずですね、お医者さんというのは大きく2種類いるんですよ。
内科医というのがいていて、内科医というのはいわゆる大学で勉強したお医者さんです。
ただでも、この内科医というのはとても少なくて、フランスやったらパリ大学とか、イギリスやったらオクスポード大学とか、
この最高学府みたいな大学で医学の勉強をした貴族とかブルジョワ階級出身の家庭から出たような、そういう種族が学んで、
エリートのお医者さんというのがいているんですね。
なるほど。それが内科医さんね。
これ内科医と言われていて、主にこの人らが見ているのは上流科学級の人ばっかりなんですよ。
おー、階級があった時代ですね。
そうですね。
なるほど。
庶民を見ているというのではなくて、基本上流科学級の人たちを見ているお医者さん方というのがいていたわけです。
なるほど。
一般の人はどうしたかというと、一般の人は下界という人たちが割と見ていました。
下界だけではないんですけど、この下界というのは、都定制度で親方が下界をしていて、
弟子となって勉強して、医者の勉強をしていくという、大学とかで学ぶんじゃなくて、職人みたいな形でお医者さんになる人たちというのもいていて、
こういうのを下界と言っていました。
なるほどね。
なるほど。技術を追求だな。
技術追求の中の技術が実は、ちっちゃな下界の手術とか、あるいは歯の治療とか、
プラス、髪の毛を切ると理髪店の役割も持っていたと言われる下界です。
なんでも屋さんですね。
そうですね。ナイフというかハサミとかを持って、いろんなことを庶民の人にやる技術を身につけていった人たちという感じなのかな。
なるほど。職人さんや。
職人さんですね、そういう意味で。
そういうことですね。
理髪店の白と赤と青のぐるぐる回るやつってあるじゃないですか。
ありますね。
あれがその下界のマークだったんですよ、昔は。
え、そうなの?
そうそう。あれだから、銅脈と錠脈という印で、
理髪店もかね出たから、あのマークというのがそうだったらしいと言われています。
初めて知りました。
そうですか。理髪店のくるくる回るマークは下界のマークでもあったっていうこと。
下界のマークなんや、なるほど。
下界もやってますよということで、今はもちろんそんなことないですけども、
18世紀の中ほどとかぐらいまでは、この下界というのがあって、
いずれでもこの下界の先生方がライジングしてきて内界と合体することになるんですけどね。
それがそういった時代です。今これから話すのは、そういう下界の先生もだんだん地位が上がってくるような時代で。
ウィリアム・バティの業績
ただでも実はこれだけじゃ、一般の方って医療が届かないじゃないですか。
そうですね。
実はもう一つあって、薬剤師っていうのがいてたらしいんですよ。
そうなんだ。
つまり薬剤師っていうのが、薬を庶民の方に分け与えて、それが医者みたいなことだったみたいですわ。
ああ、なんか草とか使ってそうな時代ですもんね。
そういう官邦的なものとか、薬というても商的なものだったりするんですけど、そういうのを薬剤師っていうのがやってて。
また違う話なんですけど、薬剤師が実は家庭医みたいな形にヨーロッパとかではなっていくみたい。
なるほど。この人に相談しようみたいな感じね。
そうそう。家庭医になってきて、結局昔で言う内界と昔で言う下界と薬剤師が全部合体して、近代的なお医者さんっていうのをヨーロッパで作っていくことになるみたいですね。
なるほどです。今から思うとちょっと怖いですけどね。
まあまあちょっと今とはね、やっぱりいろんなことが違ったので。
その中で精神科医っていうのは、数めっちゃ少なかったし、その医者のグループの中でも一番低い地位だとされてました。
しかも地位が低いというか感謝に近いというか、施設で主に保護されるということが中心だったので、見張る人の医療を見るという、そういうタイプですね。
だからちゃんとした大学で勉強する人っていうのはほとんどいなくて、都定制度で下界みたいにして精神科医になってた人っていうのがほとんどいなかった。
思うだったみたいです。上流階級の精神科医みたいな人もできてきてて、それは大学出た人たちなんですよね。
上流者階級向けの精神科医みたいなことをやる人もこの18世紀ぐらいには出てきてたと言われてます。
裕福な家庭にもちょっと精神に疾患のある患者さんがいたってことよね。
そうですね。
そこを見るとお金もらえるしって感じですね。
そうそうそう。そういう人もいてたんですね。
一般の方の精神科っていうのは医療ではなくて、宗教施設に収容されるとか、施設に入れられるとかっていうことが多かったみたい。
そういった人たちをケアする精神科医っていうのは一応いてたけど、医者の中では非常に低い地位にあって、お金も低賃金だったみたいなことみたいです。
この18世紀の頃に医療がいろいろ進歩するんですけど、精神科医療も進歩してきて、その中の一人というか有名な人を挙げようということで、ウィリアム・バッティの話をしようかなって思います。
このウィリアム・バッティさんというのは、写真がAなんですけどね、サムネイルにあげるつもりにしてて、これ載ってるんですけど、ちょっとのっぺりしたお顔の、あんまりハンサムとはっていう、個性的な。
後で見てみます。
このバッティさんの話をしていこうかなと思うんですけど、この人というのはイギリスの生まれの方で、18世紀の英国の精神科医で、1703年から1776年で生きた方ですね。
18世紀のイギリスの精神科医です。
セント・ルーク精神病院という、ちょっと画期的な精神科病院を設立したということで、名前を残している方です。
ベストルーム病院って見学費のような病院あったじゃないですか。
はい、ありました。前回の話ですね。
見学料を前回で取ってたっていうのがあったと思うんですけど、あれに対抗してこのセント・ルーク精神病院というのを作ったと言われています。
人道的な治療を始めましたよという人なんですけどね。
この人のやったこととか、考えたこととかをちょっと見ていこうと思うんですけど、初めにですね、この人ちょっと変わり者だったんですって。
どんなふうに?
ニックネームがあって、マットドクター・バッティって言われてたって言われてて。
すごい直接的やね。
マットドクターだから、ちょっと七害医者、バッティみたいな感じ、日本語に訳すと。
っていうのも、実は精神科の治療をしてたっていうこととか、あるいはこの方自身がちょっと風変わりだったことから、ロンドンの社交界ではマットドクター・バッティって呼ばれてて。
しかも彼はこの名前をですね、結構コノンで使ってたみたい。ユーモアを交えてね。
治療の変革
ご自分で?
ご自分で仰ってたみたいです。ちょっとそういう個性が強い方です。
ちょっと勉強するにつれて、結構ちょっとかなり変わってた人なんやろうなっていう感じですわ。
楽しんでる方なんですね。
楽しんでるね。基本めっちゃエリートなんですけども、きっと全然選ぶってない感じの人で、好きなこととかを何でもやってあげよう、やろう、やろうというちょっと好奇心の強いタイプなのかな。
ただそれだけじゃなくて、やり手な分野というか、っていうのも結構持っていたのかなっていう感じですかね。
イメージですけどね。200年も前の人なので何とも言いにくいんですけど、そんなイメージを持ってます。
結構身出し並みに気を使って、自分の衣服に結構こだわりを持ってたりとか、ネクタイとかカツラとかね。
その当時って人前に出るとき、公式に人前に出るときにはこういう紳士とかっていうのはカツラを着けたりすることがあったんですけど、ネクタイをするみたいに。
そういうのは結構気を使ってたとかね。
おしゃれな方やったんですね。
おしゃれですかね。おしゃれな方、きっとこだわりがあったんかなと思うんですけど。
あと結構清潔さにも結構こだわってて、自分の病院があるんですけど、そこを何度も綺麗になってるかっていうのをチェックしてたりとか、自分でハンカチで拭いたりとかしてたってね。
そっちのこだわりも強かったんだ。
そっちのこだわりも強いと言われてて、汚いと職員を怒ったり。
なるほど。
あと、割と有名なのが、独り言をブツブツ言いながら目振り手振りをして、街の中を歩いてる姿を見られてたということで、ちょっとそういうからかわれる対象にもなってたみたいです。
なるほどです。
たとえば基地に飛んだ人物というか、ユーモアが分かる人物だって、自分の精神科医療のやり方を結構批判されることがあったんですけど、
つまり精神病のある患者さんを一般の人と同じように扱っている治療っていうのはどうなんだみたいなことを批判されたときに、
彼はですね、我々はみんな狂っているんだと。だから一部のものが他のものよりもより狂っているだけなんだから、そんなことを言うのはおかしいよみたいなニュアンスですけどね。
僕たちはみんな狂ってるんだみたいなことを言ったような逸話が残っています。
なかなかこの時代にそれを言うのってすごいですよね。
今よりももっとひどい偏見を持たれてた時代だったろうし、病気かどうかっていうのもね、多分精神的な病気を勉強している人は病気っていうこともわかったと思うけど、多くの人たちは精神疾患のことを病気とは見てなかったわけなので。
そうだね。
そのおかげかとか、このバティっていう言葉、英語でですね、スラングみたいなんですけども、奇抜なとか、ちょっと蒸気を意識しているみたいな言葉で、このバティっていう言葉を使うようになったらしいですわ。
そうなんや。すごいな、名前がそういう言葉に。
ただ、バティっていうのは、綴りがちょっと違ってBATTEIっていうのがバティの名前なんですけれども、この狂ったっていうか蒸気を意識したっていう方の、英語のバティの方はBATTYということでバティって言うらしいんですけどね。
今もこの言葉通じるらしいですよ。
今でも使ってるんや。
今でも使ってるらしいですよ。
彼はこの奇抜な服装をしているという時に、彼はバティな格好をしているみたいな言い方を英語ではするらしい。
へえ、すごい。
正式英語ではないみたいなんですけどね。
はいはいはい。
俗語ってやつやね。
俗語ですね。
というちょっと変わりがちな方のお話です。
始めから行きますね。
ウィリアム・バティの精神科病院の開業
1703年ですね、9月にイギリスのデポン州のモトベリーっていうちっちゃな町、今もあるらしいんですけど、非常にちっちゃな町の司祭の息子として生まれます。
ここがすごいんですけど、19歳でケンブリッジ大学のキングズカレージっていうところに入学して、医学を学ぶと。
はい。めちゃくちゃ優秀ですね。
一行なんですけど、ここすごい優秀なんですよね。
司祭っていう階級的なこの当時でいうと、一応中陸階級には当たるんやけれども、でも多くの方はこの司祭を継いで行くと、お父さんの職業を継いで行くというのが一般的なんですけど、
中にとても優秀な方っていうのはロンドンとかのE大学に入るっていう道もあったようです。
その中でこのバティーさんっていうのは最も難しい大学ですよね。
そうですよね。ケンブリッジですもんね。
入学できて、頭がとってもようできたんやろうなと思いますね。
そこで医学を生なんで、25歳で学位を取って、27歳からセント・トーマス病院っていうロンドンの主要病院で医者としての研修というか勤務を始めると。
当然この頃要するに内科医だったわけなので、内科の治療をしていたということで、結構有能な医者としての評判を築いたみたいな記載がありました。
青年医師として頑張ってたんでしょうねっていうこと。
この29歳の時に英国王立内科医協会っていうロイヤルカレッジオブフィジジャンスとかっていう、今も実はある組織なんですけど、
この当時は本物のエリート中のエリートの人しかなれない組合の会員となったって書いてました。
すごい優秀なんや。
すごい優秀なんですよね。この当時からしてもね。
この王立内科医協会っていうのは、今日本でいうと石川みたいな形で、ロンドンというかイギリスではあるんですけど、それの一番初め、祖先みたいなところですね。
そこでこの人がすごいところなんですけど、36歳の頃、私立病院をロンドンで開業することになりました。
自分で?
自分で。
すごい。35歳。
35歳。これってたぶん、上流階級の人たち向けの精神科のクリニックとか病院とかっていうのがポツポツと出てきてたって言われてます。1730年代なんですけどね。
はい。
やっぱりニーズがあったんやろうということなんですよね。
これはバティだけじゃなくて、いろんな人が私立の裕福な人向け、上流階級向けの精神科病院というのはポツポツできてきたっていうふうに書かれています。
入院施設とかもあるんですか?
入院施設もあったようですね。ただ、きっちりは書いてないんですけれども、人数はめっちゃ少なかったと思います。
あ、ですよね。割と隠したい時代でしょ?
そうそう。
たぶんベスレム病院とかでも100人とか150人とかなんですよ。入院患者数がね。
患者数がね。
だから、そんなに多くないですね。だからこの私立病院よりも10人いかんぐらいちゃうんかなというか、結構家族的に治療できるぐらいになるんちゃうかなというところなんですけどね。
そういうので経営を始めたと言われてて。
当然なんですけど、こういうところ、私立の裕福な方向けの精神科病院っていうのは、割と穏やかに治療を当然するわけですよね。
あんまり隔離したりとか、鎖を繋ったりとかそんなことをするんじゃなくて、生活習慣を整えて治療しましょうっていうことです。
ただ、バティンさんはこの時に患者さんを家族とか使用人とかから隔離して、病院の中だけで厳格な生活習慣を維持することが治療につながるよっていうことを考えてたみたいで。
結構生活習慣は厳しく守って、入院の中で生活してたと。
そうすると割と良くなる人が多かったよっていうことを体験したのに違うんかなと思うんですけどね。
精神疾患も治るんだよということの経験というか、精神科の病気っていうのがあるんですねっていうことを実感したんだろうなって思うんですけどね、実際のところね。
なるほどです。規則正しい生活ですね、まずは。
一応そういうふうに言ってたということですよ。
37歳の頃ですけども、多分私立病院を開業した次の年ぐらいだと思うんですけど、博士号を取れて、どうもこの頃ですね、親戚から2万ポンドの遺像を受けたとかっていう逸話も残っています。
治療アプローチと影響
すごい。
すっごいお金見たい、これ。結構なお金見たくて、何千万単位、今のイメージだったら。
結構なでっかい家とか、ちっちゃい病院とか建てれるぐらいの遺像を受けたっていうことなので、自分も経営してたし、自分の資産も増えたし、基本そういう上力階級の方にこの人はなったんですよね、バティさんはね。
続きは次回お送りします。
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