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2025-07-18 34:43

『楡家の人びと』が映す精神の歴史:家業、飢餓、そして記憶の継承

精神科医が語る『楡家の人びと』続編。今回は、北杜夫の父・斎藤茂吉への思いや、自身の父との経験を交えながら、「家業」と「親子」の関係に迫ります。また、明治期の精神医療や、戦中の飢餓と心の関係を『楡家』を通して掘り下げ、ミネソタ飢餓実験などの知見も紹介。文学と医療、そして歴史が交差する濃密な1回です。

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サマリー

『楡家の人びと』は、家業の継承や飢餓、家族の思い出を通じて精神の歴史を描いています。特に、父親の苦労や誇りが子どもたちに与える影響を考慮し、過去と現在をつなぐ記憶の継承を探ります。また、家業の重要性や蓄積された記憶を通じて、日本の精神医療の歴史や飢餓の影響についても語ります。青山農病院や松沢病院などの医療機関の役割に焦点を当て、患者の生活や入院費用の現実にも触れています。このエピソードでは、飢餓状態が人間の心理に与える影響や実験の結果について詳しく掘り下げ、食への執着や心理的問題が引き起こされるメカニズムが考察されています。

楡家の人びとの物語
精神科の知識を学べる番組、歴史から学ぶ精神科ラジオ。
この番組では、精神科医療をつくった人々、現在のトピックと精神科医が解説します。
精神科専門医30年、医学博士で現在、会業医のマリモと、
その姉で、障害を持ちの方の就労支援事業を所経していて、
社会人サッカークラブのオーナーもしている、さくらがお送りします。
北森代、楡家の人びとから考える。
その初回として、楡家の人びとを読んでみようです。
これは?
ありがとうございます。
北森代の楡家の人びとを読んでみようという対応をしようかなと思いました。
前回の続きからお送りします。
楡家の人びとを書いた北森代さんは、自分のじいちゃんとお父ちゃんと自分たちを書こうと思ったんですよね。
はい。
主に多分、北森代はお父ちゃんのことを書きたかったのかなと思っていて。
もきちさんのことね。
もきちさん。もきちさんは実はすっげえ偉大な人なんですよ。
そうですよ。北森代さんより、私はもきちさんの方が…
小学校の時とかは馴染みがあった気がするんです。
そうなんですね。
あんまり単歌とか歌系ってあんまりよく知らなくて、興味があんまりなかったのであれなんですけど。
もきちさんがすごい立派な過人だったんですよね。
はい。
最終この人、文化勲章を受けて亡くなるんですよね。
そうです。
歴史の教科書に載るぐらいの人なので。
そうそう。
で、このもきちさんが亡くなって10年経った後、北森代が二重家の物語を書くということになるんですけど。
なるほど。
自分の父親を書いてみたいということを、北森代はいろんなものを書いてるから別にこれだけに限ったことじゃないけど。
この二重家の人々、こういう大作を書いたっていうのが、やっぱりお父さんの思いっていうのはきっと北森代だったんやろうなと思って。
はい。
で、僕自身もやっぱり自分の父親のこととかってやっぱり自分で仕事をしてたら思うことって全く違う仕事ですけどもあるんで。
自分がある程度生きてきた後に、自分の親のこととかを考えるっていうことがやっぱりあるんかなと思って。
それをちょっと言ってみたいなと思ったりもするんですけど。
はい。
で、うちの僕らの父親っていうのは家業ですね。費用屋さんやったんですけどね。それを継いだんですよ。継ぎたくなかったけどね。
父の苦労と誇り
継ぎたくなかったけど継いだっていう人で、うちの父親とか母親はこのうちの家っていうのを非常に重視していたと思われる。
そうですね。おじいちゃんがね病気で亡くなったんでね。若かったけど継がなきゃいけなくなったんですよね。
父親が22ぐらいの頃に死んだんですかね。祖父がね。
はい。
大学生の最終学年ぐらいの時に父親が死んで、家業を継ぐことになったと。で、商売屋になったと。
結構その時苦労したよみたいな話は時々聞いてたような気がして。
はい。聞きましたね。
聞きましたね。
お姉ちゃんから聞いたかな。本人からも聞いたような気も若干するんですけど、あんまりちゃんとは聞いてないか。
おじいちゃんはそれなりにお仕事されてたけれど、うまくいってたんでしょうね。ある程度。
お家的にはうまくいってたんやけど、おじいちゃんが若くして病気で亡くなっちゃったんで。
やっぱりその時、おじいちゃんが生きてる時は、いいお付き合いをしてくださったりとか、ニコニコしてくださってた方たちが、
私たちの父親がついだら、ちょっと意地悪してきたりとか、意地悪とはいかなくても足が遠のいちゃったりとかっていうのはあったんやっていうのは、
おばあちゃんね、祖母とか父からは聞いたことがあります。
若くして家業をついだ苦労っていうのがうちの父親がしていたと。
そうですね、あったみたいですね。
それでまあでも何とか頑張って、それなりにやってて。
僕はね、なんかね、わりと父親とちょっと関わりがあんまりなかったけど、バブルの頃以降かな。
うちの父親がバブルの頃に、ゴルフ場の方々といろいろ仕事をすることになって、
割と仕事大きくなっていったんですかね。
そうですそうです。ゴルフがもうすごい流行った時代ですもんね。
すごく流勢だった頃で、いろんな人たちと多分、今まで農家の人を中心に付き合ってた地域の人だったと思うけど、
大阪とかそういうね、他の人たち、商人の方とうちの父親は割と付き合うことも出てきた頃とかに、
割と疲れてるというかしんどいとかっていう話がちょっと聞いたような気がして、
そんなこともあったんかなと思うんですけどね。
はい、お付き合いがすごかったですよね。
ね、まあいろいろすごかったことも。
ほとんどいなかったしね。
その時にちょっとしんどいとかなんとか言うてたり、あんまり直接は言わんかったけど、
朝とかにお祈りさんに長いことお祈りしてたりとか。
手合わせてることがね。
ね、多かったですよね。
自分に頑張れよみたいなこと言うてた。
独り言と言うてたのを聞いたことがあったりして。
そうなんや、それは初めてです。
あれ、高校ぐらいの頃かな。
父親もアリアなんやなと思った記憶があったけど。
そうなんや。
自分が大学生になってから父親とほぼ会うことがないというか、表面上の付き合いになっちゃったんで。
結構して会ってるからね。
大学生になってから時々は会ったけどほぼなんもなかったですけどね。
で、僕はよくわかんないんですけども、結局父親は一定の成功はしたと思うんですよ。
そうですね。
でも一定やったと思うんです。バブルの頃にめちゃめちゃ金持ちになったわけでもないし、人をいっぱい宿ったわけではないけれども、
それなりの小金持ちになったぐらいで、グループ上の会員権を何個か持ったりとかぐらいやったと思うんで。
家をちょっと買ったりとか山を買ったりとかっていうぐらいのことやったと思うんですけど。
あの当時からしたらめっちゃ金持ちにはなってなかったと思うんですけれども、
でも少なくとも借金なく走り抜けたというか、
それってやっぱりすごかったんちゃうかなって思うんですよ。
そう思います。
大つらくした人たくさんいてたと思うけど、うちの父親は少なくとも家業を減らさずにそこそこは保ってた。
ああいう浮き沈みの激しい中でいたので、一定の商才はあったんやろうなというかね。
商売の才能はあった方なのかなと思ったんですけど。
すごい頑張ってたと思います。
でね、それぐらいのことをちょっと親のこと思ったりして、自分も励みにするわけですよ。
全然違う。僕は医者の職業になったんで、
まあ親の商売とは違うけど、やっぱりそれなりに頑張らなきゃいけないこととか、
親のね、なんかきっと父親はこんなの苦労したんやろうなとかと思ったりして、
いうことだったね。
父親のことを思いながら自分の仕立てにつなげるみたいなことはありましたね。
なるほど。
そんなことって思ったりします?
精神科医療の歴史
今めちゃくちゃ思ってます、私。
おお、今思ってますか。
めっちゃ思ってます。
本当にそれこそバブルの頃、ゴルフ場の社長たちとお付き合いね、父がしてるときに、
朝すごい暗いうちから起きて、ゴルフに行ったりとかしてたじゃない。
ああいうのが結構今私も、サッカー事業ちょっとやったりとかお手伝いしたりとかっていう中でもあるんですね。
朝めっちゃ早くから用意したりとか。
これってめちゃくちゃ自分が望んでしてる仕事かなって思うときがあるんですよ。
おお。
そのときに、いや、自分でしたかったわけじゃないような気がするんだけど、
これをすることですごく生きる人たちがたくさんいたりとか、
私の場合はもう子どもたちが自立してるので家族を養わなきゃとかっていう思いはもうないんですけど、
例えばこれが父みたいな立場で妻や子どもたちを養わなきゃっていう立場だったらね、
やっぱり眠たんし、しんどいし、前日までの疲れもとれてないのに、
自分が別にしたいわけじゃない、自分が好きなゴルフに行くわけでもないんだけど、
お付き合いだし行かなきゃなっていう感じで父もしてた日が多かったと思うね。
それを今ね、まさに自分の仕事、事業をしてても重ねてしまうことはたくさんあって、
だから母を磨きながら、父さんもあのときこんな風に思ってたんかなとか、
っていうちょっと一瞬思い出すことはあるんですよ。
ありますね、確かに。
父が早く出て行くのに、前の夜に母がおにぎり握ってたりとかさ、
朝起きなくていいよって父が母に言うから、
じゃあお父さん一人で食べれるようにって言って、
バナナとかゆで卵とか腐らないものを準備してたりとか、
ありましたね。
美しい夫婦がありましたね、昔。
そうやね。
そんな言葉あったっけみたいな。
仲良しやったんよね。
そういう、まあ夫婦やからね、それはうまくいかないときもあれば、
喧嘩してるときを見たこともあり、あるんですけど、
でも本当に二人で自分の役割っていうのを、
ちゃんときっちり真面目に生きた人たちやなっていうのは、
本当に暗いときに私ね、母を磨いてるときに思い出すんです。
なんでこの瞬間っていつも思うんだけど。
ああ、ね。
うん。
だからまあね、お父さん頑張ってたから私も負けたくないし、
あと今の私の姿を見て、父や母は、
いやもうよくやってるって、えらいえらいって褒めてくれてるん違うかなと、
自分に言い聞かせて、
なるほど。
日々頑張ってます。
なるほどね。
だからあの頃の父ちゃんは、家っていう思いもあったと思うけど、
まあ僕には、前半さ、僕たちを一人前にしないとっていう思いもあったと思うんですけど、
後半さ、姉は取っ継ぐし、僕はもう大学行って自分でするわみたいなことになってたから、
もう家っていうよりは、僕にはね、継ぎ屋とは言わんかったもんね。
それは言わんかったね。
むしろ継ぐなって言うと思う。
継ぐなって言われてたから、家業は断絶させたいという思いがあったみたいだけど、
でもやっぱり彼自身はやっぱり誇りがあったんちゃうかな、
家っていうよりも自分自身がやり遂げたいというか、
ということを商売にあったんですね。
自分の商売ってやりたいと言うのかなって思いますね。
やってきたことへの誇りもあったでしょうしね。
あったんですね。
だからそういうのも受け取って、自分も今仕事してるとこもあるなとも思いますな。
ほんとそうですね。
同じとこに来てますよね、私らね。
まあ方向は違うけどね。
分野は違うけど。
分野は違うけど。
自分たちの話をしてしまうと、皆さんにお役に立てへんかもしれないですけれども。
でも、どなたにも家族の思い出とか歴史があるので、そこに置き換えていただけたらね。
この丸本桜の兄弟の話を聞いてもならんかもしれないけど。
この二重家の人々から描かれる大正時代とか昭和時代の精神科医療のことが
ちょっと所々に出てくるんですけどね。
それで精神科医療をその時代のを振り返ってみたりしたいなというのがあってですね。
はい。
まずは初めのシーンですけれども、
まず今回のサムネイルですけれども、この写真というかイラストなんですけどね。
見えますか?
はい、見えます。
これ青山農病院の写真をイラストに、GPTにしてもらったやつなんですけど。
これ本物?
本物です。ほぼ本物です。
すごいね。これ資材で作った私立病院じゃないですか?
その通りですよ。
すごいですよね。
これが斎藤喜一っていうのが元一郎の本物の名前なんですけれども、
作った青山農病院なんですよね。
こんな風に本当に塔が建っていたらしい。
立派に見える柱は石ではなくて、木が出てきた上にレンガを張ってたっていうのが出てきましたけれどもね。
見かけ直しだったみたいなのが出てくるんですけれども。
これだけ立派なのが出たらその当時びっくりしますよね。
びっくりしますね。
明治大正の人が見たらね。
着物を着ている時代ですからね。
青山農病院について
そうそう。ほぼみんな着物を着ているけど、やっぱり誇り高くそこで働く人も当然多いですよね。
青山農病院というのが建っていたシーンなんですよね。
そこで委員長の元一郎がラジウム温泉に入るんですよ。
ラジウム温泉好きなんですよね。
患者さんがラジウム温泉に入って治療するというのがあるんですけど、
元一郎自身がラジウム温泉が好きなんですよ。
一緒に入るんですね。
そうそう。一緒に入るんですね。
一緒に入って患者に話しかけるシーンでね。
君は入院費を払っているかね。余裕があるのなら払わないといけないよみたいなことを言うというシーンがあったと思うんですけど。
これ今言うたらちょっとまずいやつですよね。
これすごいなっていうかね。いやいやいやいや。リリアルだったんだろうと思うんですけどね。
つまり入院費を当然患者さんから払わなあかんねんけれども、どのくらいの払われてたのかということとか、
これ払ってない人がいてたっていうこともあるよねっていうことで。
そうです。確かにそうなんですよ。
どうなってるんっていうか、どういう方々が入院費を払っているのかっていうと、
どうなってるんっていうか、どういう方々が入院してたんだろうということなどをですね、ちょっと考えてみたわけですよ。
このシーンからね。ちょっといろいろ調べてみたんですけれども。
結論から言うと、この青山農病院ですが、ニレ病院で入院してたのは慈悲で入院する入院患者さんが中心でした。
まれに昆急で入院する人っていうのが一部あったようなんですね。
その当時の東京府とか市町村が、社会的孤立というか貧困の方を入院させると、私立の精神科病院に入院させるという制度は一部できてきていたらしい。
主には法律病院、今でいう松沢病院というのがあるんですけど、昔は菅野病院というところだったんですけど、そこに主に入院いっぱいさせてたんですけど、中にそういうとこじゃなくて、この私立病院の方に青山農病院に入院させるという制度もあったようです。
だからこの言葉が出てきたのかなと思うんですけどね。
実際この青山農病院に入院患者さんはどの程度かっていうのを調べると、だいたい300人ぐらいだったと言われてます。
なかなかの大きさですね。
なかなかの病院ですわ。東京のど真ん中にあったには違いないんですけどね。
そんで入院費用ですけども、これ何か載ってて、これいつ時代かというのによるんですけれども、青山農病院は対象末期に焼けちゃうので、実際これぐらいの値段やろうと言われて、実際その記録は残っているんですけど、特別費が1日8円、一等費が4円から5円、二等費が1日2円と言って、2円と言われてもよくわかんないなということなんですけど。
そうですね。
これだいたい物価で言うと、この労働者の1日平均給与が50,000円から1円と言われているので。
日給がね。
日給がね。月給で言うと、20から30円というのが都市部に勤務する工場の工員の平均給与だったみたい。
だから、20万から30万燃えられることないやろうけれども、20万程度って考えたら、だから1円というのが1万円弱なんですよね。
そうですね。
だからこの入院費で言うと、1日2万弱とか、1日8万弱なんですよ。今の感覚で言うと。
高いですよね。
すっげー高いよね、これ。
高いですよ。だから1日。
1日8万は辛いな。
辛いでしょう。1日2等室でも1日2万円ぐらい働かない。2万弱ですけどね。
1万にしても毎日1万円。これは薬代も治療費も人件費というか、食事代も全部込みなんですけどね。
込みでね。なるほど。
この当時保険ないですから。
ないですよね。
全くの慈悲ですよね。
全部慈悲です。
きついわ。やっぱり保険って大事ね。日本の政治大事ですわ。
保険が実はできるのがこの大正の初期ぐらいからできますが、当然保険に入れる人たちっていうのは、社会保険みたいなそういう特別な保険に入っている人たちだけから始まって、
精神科病院に入るような人たちが保険を使うことっていうのは全然ほぼなかったらしい。青山農病院とかで入院する人っていうのは基本やっぱりお金持ちな。
だいぶお金持ちな方ですよね。
あるいはさせざるを得ない。それぐらいのお金を頑張って払って、でも家では生活させられないというような人たちがおったというところなんです。
できない人はどうしてたのっていうと、自宅感知っていうのが結構有名というか、いろいろ問題があったみたいですね。雑誌披露です。雑誌披露。
何やらに閉じ込められてみたいな。こういうのが政治大正の時代はメインによくあったって言われて。
でもそれはやっぱりダメというか当然良くないって言われてて、主にそれ以外の人っていうのは公立病院ですね。公立病院っていうのは税金で払われているので入院費がほぼいらないんですよ。
入院費用と患者の実状
ほぼ無料で入院できるっていうのがあったんですけど、でもそこはすっごく環境が悪かったって言われてます。
そうでしょうね。
だからそれこそこの18世紀で勉強したベストルーム病院とかサルテペトリエル病院とかと似たような感じですよ。
そうやるね。
だからやっぱり収容施設と似たようなもんっていうところもあったみたいですね。ただもちろん病棟としてはやったみたいですけどね。
ちょうどこの時代の松沢病院の記載っていうのがあって、1953年に菅さんという精神科医がですね、戦後ですよね1953年に書いた文章で、菅さんが松沢病院に入職した頃なので、その頃が1927年ぐらいですから、まだこの大正期ですよね。
はい。
松沢病院がどんな様子かっていうのを書いている文章があるので、ちょっと読んでみましたらね。
私が松沢に入局した頃は今とは段違いであって、作業療法ばかりではなく患者の生活の方向へ注意を向ける人が少なくて、結局の医者のエネルギーはもっぱら研究室の方に集中されていた。
したがって病院は今から比べると放尿たるもので、のみとしらみの層屑といって良いぐらいで、患者は巣の中にうずくまっていて、外に運動に出してもらうことはほとんどなかった。
つらいね。今聞くと。
この時代もやっぱりこういう感じだった。ただやっぱりこの時代から、人道的観点からこういうのはダメですよねということで、私立病院とかでは開放病棟だったりとか作業療法だったりとかもここに入れてきました。
はい。
これが二重病院のラジウム温泉だったんです。特別な治療で温泉治療をやったりとか。
あとこの二重病院が建て直した後なんですけど、田舎に移動してですね、新病院がでっかいの建つんですけど、そこで農作業とかテニスの運動場とかを作ったりするっていうのが後で出てくるんですけど。
2館とかに出てくるんですけどね。
へー。
飢餓と心理的影響
これもそういうことですよね。私立病院が良い治療をしようと、それで良い患者さんを集めようという。
はいはい。
そういう病院になっていっているわけですね。二重病院というか青山農病院というのは日本の精神科医療の中では比較的良いところを位置していた病院だったということが言えるのかなと思いますね。
そうですね。
徹陽師さんがドイツに留学したというシーンはまだ桜さんに出ませんかね。
まだ出てないです。読んでないんですよ。
まだ出ないですね。そこまた出てきますので。
はい。
そこでちょっと面白いシーンがあるんですけど、クレッペリン教授という方から徹陽師さんが握手を拒否されるというシーンが出てくるんですよ。
どうしたんでしょう。
クレッペリン教授というのは実際の名前でめっちゃ有名な精神医学を作った今も通用する教授なんです。
へー。
今もクレッペリンという名前は精神科医であれば誰でも知っている名前の人なんですけど、この当時ですね、1920年から30年にかけてクレッペリンはずっとこの人はドイツの教授でね、すごく精神学を盛り立てる人ではあるんですけど、
ちょっと人格的に偏屈というか、ちょっと偏った性格も持ってたということも有名で。
はい。
で、あとプラスですね、この当時って徹陽師さんが留学した当時って、斉藤無吉が留学した当時って第一次大戦終了後だったんですよ。
終了してから5年後だったんですね。
そう。で、第一次世界大戦でドイツは敗戦国なんですけど、日本は戦勝国なんですよね。勝ちましたね。その後からドイツ領の鎮倒とかね、襲撃して占領してみたいなことになるんですけれども。
つまり戦勝国と負けた国なんですよ。
なるほど。
その人としては、しかもそれがさ、日本っていう国はさ、後から侵攻してた国のくせに、後から自分たちをね、っていう思いがあって。
国粹主義者とも言われてて、クレッペには。
はい。
ドイツっていう国が大切ですよっていう考え方が強かった人と言われてて。
だからこの日本人である無吉が来た時にはちょっと冷たかったのと違うかとかって言われてますけれども、
まあ事実はよくわかんないんですけど、でもこの佐藤無吉が握手を拒否されたっていうシーンは、すっごく日本の精神科の中では有名で。
それね、そんだけ有名な教授ですからね。
そう。で、このクレッペリン教授っていうのは、そういう転屈なところがあるよっていうことも有名でして。
これはね、有名になったのも理由あって、実はこの佐藤無吉の後に留学したですね、内村勇子っていう先生がいてるんですけど。
はい。
この人内村勇子の長男なんですけどね。東京大学の第4大教授になるのかな。
結構、戦前戦中戦後ずっと東京大学の精神医学の教授として多くの有名な精神科医を育てます。
はい。
で、その内村先生が佐藤無吉からの話を聞いてて、クレッペリンさんというのは有名な人ではあるけれども、会ったら全然ええことないよっていうことは聞いてたので、
この話をクレッペリンを避けてたっていうのも有名なことでね。内村先生のお弟子さんたちっていうのが日本の精神医学を築いていくことになるので、この話っていうのは割とみんな知ってるんですよ。
ああ、なるほど。無吉先生無視されたで、みたいな感じでね。
僕も先輩というか、内村先生の指導医からこの話も一緒に聞きましたね。
そうなんや。
リアルに聞きましたね。
マリモ先生は自分の後輩にこれは伝えたんですか?
伝えてないな。
そこはそこで途切れるんや。
途切れてるね。
そうなんや。
いや、言ってないと思う。言ってないと思う。
というか、クレッペリンって多分ね、平成の人は言わんのかな?勉強しないのかもしれない。あまり少なくとも教えてないですね。
例えばクレッペリンが作ったDSMとか前言いましたんか?ICDとかっていう。
あれを考えるの基礎はこのクレッペリンさんが作ってるんですよね。
この方なんですね。なるほど、なるほど。
北森のお兄さんですね。物語の中では春一さんっていうのが軍医になるんですよね。
軍医になって南方の方に行って南海の孤島で飢えと戦うというシーンがですね、第3章で。
割とメインに出てくるめっちゃドラマティックというかびっくりするような場面が出てくるんですけどね。
南の島に閉じ込められてだんだん食料が少なくなる方であったりとか、それぞれ疑心暗鬼になる方であったりとか。
南の海なので魚を獲ったりカニを獲ったりする人もあるんやけれども、うまくいったりうまくいかんかったりみたいな。
その心理とかを結構匿名に書く場面が出てくるんですね。
これを見て思ったのが、僕らはあんまりもう植えることっていうのが正直経験のないし。
そうですね。
ないんだけれども、やっぱり一番精神科医として感じるのがこの接触障害ですね。
接触障という方が結構あるんですけど、この方の心理の中でこの飢餓っていうのが実際の体で起こるわけですわ。
飢餓自身がこの人の気持ちを左右するとも言われてて、実際その接触障害になる心理って色々複雑だし万能の病気とも言われてるんですけど、
プラスこの飢餓っていうのが加わってくると結構精神的に特徴的な気持ちになってくるって言われてます。
だからそこをうまく表現してるなっていうか、飢餓が人類の人間の精神に与える影響っていうのを結構きっちり書いてるなっていうところあるんですね。
ミネソタ飢餓実験っていうのがあって。
そんな実験したんですか?
心理実験の背景
アメリカのミネソタ大学というところで、第二次大戦中の1944年から45年に行ったっていうのが有名な実験があって。
なんでこんなことをしたかっていうと、第二次大戦とか大きな戦争があったら住民とかは結構飢餓になっちゃうんですよ。
食料がない、今もガザとかそうなると思うんですけど、そうなった時にどんなふうに人を回復させることができるかっていうことを国とか考えるんですよね。
なるほど。
そういう時って心理状態どうなるんだろうっていうことも求められるわけですわ。
で、この実験を行ったんですわ。
結構歴史的な実験で有名なんですけど、これはですね、36人の若くて健康な男性が対象となりました。
良心的兵役の秘書として軍役を免除された人々ということなので、軍隊に行かないよって言った人で実験に参加しますって言った36人です。
で、3ヶ月間は通常の食事をとってもらって、6ヶ月間は半飢餓期っていうのをして摂取カロリーを大幅に制限しました。
1日のカロリーが1560キロカロリーっていう、以前の約50%。
少ないね。
1500キロカロリーって、まあでも日本人やったら女性とかってこれぐらいの人もいるのかもわからないけど。
少食の人はそうかもしれんけどお腹すくよ、これじゃあ。
アメリカの若者ですからね。3000キロカロリー以上食べるようなアメリカの大きな若者がこういう少ない量、プラス毎日35キロの途方運動を義務付けられると。
35キロは長すぎでしょ。
ですよね。体重の25%減量を目指すというのを半年間、6ヶ月間させて、それが終わってリハビリテーション3ヶ月間リハビリしたっていう、まあ1年かけてやる実験だったんですけどね。
今はちょっともちろんこんな無理だと思うんですけど、その当時やったらできたってことですね。
そこで結果なんですけど、どういう心理状態になったかって言われると、食への脅迫的な執着。
食事に対する空想とか夢の中でも食事が出てきたりみたいなことがあったようです。小説の中にもこれ出てくるんですね。
そうすると欲打つ的とか無気力になって活動量が低下したりとか、呼びがなくなったりとか涙もろくなったり。
あと異動性とか怒りとか緊張の高まりで、些細なことでイラだったりとか人間関係が悪化したり。
あるいは社会的に引きこもって他者との関わりを避けて孤立する傾向が見られますよ。
食事のことを思ったりとか意欲がなくなったりとか怒ったりとか引きこもったりとかってする。
あとプラス、この再栄養期って言って、回復する時にも問題が起こることがあって、再栄養してもすぐに心身が元に戻らないということもわかっています。
体も気持ちも過食傾向があったりとか情緒不安定になったりとか焦燥感が出てきたりして、うまく回復できないっていう人も中にあったりして。
つまりこの飢餓っていうのが長く続くと単に体重が減るっていうだけじゃなくて、気持ちもやっぱり深く傷ついて戻るまでに結構時間がかかるよっていうようなことが言われてますね。
ニレ・シュンイチさんは南の島に行って、そういう長い飢餓状態に置かれて、この後捕虜となって、うまく日本には帰ってはくるんだけれども、うまくやっぱり回復できなかったっていうようなことも姿として描かれますね。
飢餓と心理的影響
ちょっと食への誘惑的な執着があったりとか、その後肥満状態になったりとか、そういったことがちょっと描かれたりして。
だからうまくね、これ事実はそんなことなかったみたいですわ。
お兄さん自身は、北森雄のおじいさん自身は、ずっと内地で精神科医として軍医として勤務してたみたくて、南洋には行ってないんですけど。
多分北森雄が実際そういう経験をした軍医さんの話を聞いて、捜索に落としたかなと思うんですね。
だから実際その飢餓状態になって、接触障害になった患者さんとかのお話を聞いたりとか、こういうのは確かにどれもあるなと思ったから。
単に、もちろん接触障害になるっていう心理というか、そういう脳の状態っていうのもあるし、プラス飢餓の状態が長くなって、こういう心理状態になるっていうこともあるし。
接触障害はいろんなタイプがあって、めっちゃ痩せる人と、痩せない人もあるんですけど、この初めの気持ちというか、病理の初めからだんだん進行してくると、この飢餓の状態とかも変わってきて、結構複雑というか難しい病態になってくるんですね。
実際その病態で亡くなる人っていうのは、稀じゃなくありますからね、今の世の中でも。
精神かいやからかけたことですよね。
そうやね、それかけたなっていうところですね。
続きは次回お送りします。
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