1. 歴史から学ぶ精神科ラジオ
  2. 精神科医が読み解く北杜夫の人..
2025-07-25 43:29

精神科医が読み解く北杜夫の人生と創作

作家・精神科医であった北杜夫の人生と病に迫るエピソード。代表作『ドクトルマンボウ航海記』『楡家の人びと』の創作背景や、繰り返す病相エピソードと当時の治療環境、そして双極性障害を抱えながらも語り続けた彼の姿勢を、精神科医の視点で解説します。文学と病、家族と創作、その交錯から見えてくる「こころの歴史」を辿る回です。

 

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サマリー

精神科医の視点から、北杜夫の生涯と創作活動が語られます。特に、彼の躁鬱病や家族の影響、文学作品が取り上げられます。北杜夫が精神科医としての経験を生かしながら、どのように作家として成功を収めたのかが探求されます。このエピソードでは、北杜夫の人生と創作に焦点を当て、彼の著作『二礼家の人々』や家族のスキャンダルについて言及されます。また、北杜夫が精神科医としてのアイデンティティを持ちながらも、文学への情熱を抱いていたことが示されます。彼の精神病歴や文学活動についても掘り下げられ、特に、北杜夫が精神疾患をどのように作品に反映させたのか、その影響についての議論が展開されます。全体を通じて、精神科医が北杜夫の人生と創作を深く探求します。

北杜夫の躁鬱病と家族
精神科の知識を学べる番組、歴史から学ぶ精神科ラジオ。この番組では、精神科医療を創った人々、現在のトピックスを精神科医が解説します。
精神科専門医30年、医学博士で現在、海業医のマリモと、
その姉で、障害を持ちの方の就労支援事業所を経営していて、
初孫の、最近笑うようになったんですけど、その笑顔の写真が送られてくるのを楽しみにしている、桜がお送りします。
北杜夫、二礼家の人々を読んでみた。 その第3回として、北杜夫の躁鬱病を考えるです。
躁鬱病だったの?
はい、躁鬱病でした。北杜夫さんは躁鬱病でして、わりと生前からカミングアウトされてたりとか、わりと話題になったんですよね。
私はリアルに知っているわけではないですけれども、北杜夫の本を、うちの父親が読んでたのを覚えています?
知っている。ドクドルマンボウ航海記。家にありましたよ。
家にあった。僕が家にあったのを覚えているのは、次都十仙都というのがあるんですけど、
表紙が父と母の部屋にずっと置いて立てかけてあったのを覚えていて、それを父親が読んでたと思うんやけど、
北森寄ってみたいな話が出たときに、あの作家さんは躁鬱病で借金もして大変やね、みたいな話を言われた記憶があって。
お父さんから?
お父さんから。
そうなんや。
そういう人の本はあんまり読まなくてもいいかと思って、僕はこの年まで読まなかったというのもありました。
なるほど。
初めだったんですね、その当時ね。
で、そういうこともあって、北森寄さんの人生というか病気とかっていうことが、ちょっと今回こういうところでお話できないかなと思って、
ちょっとだけ実は調べてみたんですけど、あんまり時間がなくて本当にちょっとしか調べてないんですよ。
調べた内容はウィキペディアとかネットに残っている情報と、1個その本があって、北森寄と斉藤由加っていう、北森寄のお嬢さんですね、対談本があって、
2009年に発行したんですけど、それがそのパパは楽しい、躁鬱病っていうですね、対談してる本があって、
それらを読んで、読んだ話を今日はしていきます。
なので、とっても偉大な作家さんの人生とか病気の話をするとしては頼りない情報だし、空想というか想像ばっかりなんですよね。
で、実際彼自身とか彼の家族とか一族の権利とかもあるから、いい加減なことを言っちゃうのはちょっと問題かなと思うんですけど、
有名人だと思って、言える範囲で言おうかなと思うんですけど、だから間違っていることもきっとたくさんあるとは思うんですけど、
現在僕が調べた範囲でこんなことでしたということです。
またいずれ北森寄の話は後々もう一回したいなとは思ってるんですけど、
今日のところはこんな話で言っていこうかなと思います。
文学活動とデビュー
じゃあ北森寄ですね。北森寄さんは1927年ですね、昭和2年の5月1日生まれです。
昭和2年って言われても多分今の平成や生まれの人にとっては何のことやろうということだと思うんですけど、
実は僕らには昭和一桁生まれっていうのはありますよね。
おばさんですやん。うちの親父のお姉さんですよね。
僕らは割とおばさんでピアノ習ってたりとかしたおばさんは、
近い存在ね。
そうそう、昭和一桁生まれ。その旦那さんも昭和一桁生まれでしたね。
はい、そうです。
あの年代の同じ年代の方ですね。
戦前から教育とかを受けて、戦中を通り過がして、昭和の高度成長期に人生を送っていたという方々になりますね。
そうやね。
北森寄ですけれども、昭和2年に生まれて、
麻布中学入学して旧正松本高校に入学します。
旧正松本高校って、今時のイメージだったら新州大学っていうイメージなんですよ。
旧正高校っていうのは、今の大学ぐらいのイメージなんですよね。
昔の大学っていうのは、今の大学院ぐらいのイメージなんですよ。今の感じで言うと。
北森寄は、齋藤木一の児なんですから、教育はいい教育を受けるということになるんですけど、
あまり劣等生だったというふうには書いてますよね。あまり勉強しなかったと。
めちゃめちゃ優秀ではなかったようですね。
昭和22年、彼が20歳の時に東北大学の医学部に進学します。
この時は東北帝国大学ですね。旧帝大ですよ。
旧帝大の医学部に進学すると。優秀ですけどね、もちろんね。
多分、齋藤木一とか、あの辺りの方々って東京帝国大学とかが基準だったりするだろうから、
慶應とかの医学部とかが基準だから、東北帝国大学と言うてもというところだったんやろう。
一族の中ではそうだったんだろうなと思う。
で、その医学部には進んだ時に、当時は精神科医では食べていけないと思われてたので、
齋藤木一からは下界になることを望まれていたということなんですけど、
この爆流臭の手術を見て、気を失いかけて下界に進むのを断念したというエピソードがあります。
あるあるですよね。医学部へ行ったと言っても、人それぞれですから。
僕も精神科を選んだのは別には、下界手術、でも下界手術嫌でしたね。
嫌だったですね。あんまり好きじゃなかったね。
彼もあんまり下界はということで、精神科ですね。
おじいちゃんとお父さんと同じところに住んだんですね。
26歳まで仙台で住居してて、大学行ってたんだと思うんですけどね。
26歳から慶応道技術大学のインターンとして、
今で言うと初期研修医ですけどね、その当時インターンだから無休なんですけども、
戦後ですね、生活し始めるということです。
自宅が燃えてたりしたらしくって、齋藤木一、しげたさんですね。
この方は精神科医として戦中から働いてたので、
その方のお兄さんのところに居候にして、精神科医として勤務というか、研修を始める傍ら、文学活動もやってたみたいですね。
文芸首都とかという同人活動も並行してやってたって言われています。
だから学生時代から文学のことが好きだったんですかね。
書くのが好きだったんでしょうね。
同年に父の木一が亡くなります。
学生の時に。
インターンになった時なので、26歳ぐらいの頃かな。
慶応技術大学でインターンをしながら医師としてやってたらしいんですけれども、
あんまりこの時もめっちゃ優秀な精神科医としてバリバリやってたというわけではなくて、
ということが彼のエッセイには書いてましたね。
それで31歳の時に水産庁の調査船テルヨウマルに船員として乗船して、
インド洋からオーションにかけて航海に同航するというか、船員として乗っていくわけですね。
募集があって、あんまり応募する人がいなくて、たまたま話を聞きつけた秋田森代が申し込んでということみたいですね。
真面目に医者の勉強をしようというんじゃなくて、もののゆさん的な見聞を広めたいという気持ちもあったみたい。
旅行機っていうのを出すんですよね、彼がね。
それがこのドクトルマンボウ航海機っていう第一冊目なんですよ。
なるほど。この時のか。
ドクトルマンボウ機構機がベストセラーになるわけですわ。
31歳、北森雄ですね。
これでデビューというか、一躍人気作家になるということなんですけど。
多分これぐらいから、ほぼ医者の仕事はあんまりしなくなるというか、忙しくなるからね。
北森雄って多分30代ぐらいは少しは医者の仕事をしてたんだろうなと思うんですけど、
それ以降ほぼ忙しい売れ子作家としての生活になるんかなと思うんですけど。
そのドクトルマンボウ航海機を出して2年後ですよ。
1960年、昭和35年ですね。
彼が33歳の時にナチスドイツの夜と霧作戦をモチーフにした
夜と霧の隅でっていうことで、小説で第43回芥川龍之介賞を受賞します。
芥川賞です。
どんな話なんだろう。私読んだことないです。
僕もまだ読んでないんですけれども。
作品の背景と影響
この夜と霧作戦っていうのは、ナチスドイツが精神障害者の方を撲滅さそうとしてという話ですよ。
なるほど。ちょっと辛そうな話だな。
かなり辛い話です。
障害を持たれている方とか精神障害者っていうのを収容所を送りにして、
そこでまた虐殺しようかというような話の
そこで精神障害だったりとかお世話をする方だったりとか
病人の方とかがどういうことになっていたかっていう小説です。
短編小説のようなんですけどね。
これで芥川賞を受賞すると。
すごいですよね。そういう普通の非常に柔らかいエッセイから芥川賞を取れるような深い文学賞まで取れると。
ほんまですね。2年後ですもんね。
すごいんですよ。やっぱりこの方は才能あるし努力も作家の年の努力をずっとされていた方なんだろうなって。
これを見て思うんですけどね。
そこから2年後ですね。35歳から37歳にかけて二重家の人々を著作するということですね。
これが一番北森の中では有名な小説の一つ。他にもいろいろ賞をもらった小説もあるんですけれども。
これが二重家の人々ってやつですね。
これをもう一回調べてたら、実はこの二重家の人々を書こうっていうのは、実はずっと北森雄が考えてたというか、温めてたんだなっていうことが分かりました。
若い頃から。
幼少期からみたい。こんな文章がありました。
北森雄が幼少の頃、母テルコが父と別居した頃より、母から何度となく聞かされた一族の公謀のお話があると。
この話をいつかトーマスマンのグロッテンブローク家の人々って有名な長い小説があるんですけれども。
それが結構お好きだったんでしょうね。北森雄は。
そんなような小説にできると思って決意してたっていう記録がありました。
一族の公謀の物語を残したかったね。
だからお母さんから結構うちの家っていうのはっていうことで、うちのお父ちゃんはねとかうちの夫はねとかっていうことでずっと聞いてたんだと思うんですよ。
なるほど。
二重家の人々の辰子さん、龍子さんですよね。
龍子さん。
それぐらいのことも確かに言いそうですやんか。で実際そんな風に言われて育ってきたということですね。
でこの妻の齋藤紀美子さんは、二重家の人々を一年前に結婚してるんですけれども、その時に新婚旅行ですね。
1961年の新婚旅行から帰る時に夫の吐き迫る表情に驚いたって書いてて。
なんかどうもその新婚旅行の帰りとかにもこの関係者の取材旅行とかっていうのも取材もしてたみたいですね。
旅行の時に。
旅行の時にその自分の一族の方々とか関係がある方々の取材をしてたりとかしてたり、
自分の父の故郷である山形とか関係のある仙台とかにも行って話を聞いてたと。
とにかく親族が来てるうちに話を聞かなければと真剣でしたっていうことがですね、妻が書かれてるらしいよ。
で、図書館に通い詰めて大正時代の新聞の閲覧に集中したっていうのもありました。
あの時代の話が割とリアリティーをあふれて書いてるっていうのは、こういう努力もあるんですよね。
実際生の声を聞いてるってことですね。
生の声聞いてるし、風俗とかいろんな出来事とかっていうのも、実際の新聞とかを読んでね、彼が考えたと合わせて作った物語なんですよね。
とても努力して書かれた長編小説だったということなんですよ。
準備してるってことですね。
父も吉のモデルの哲義がですね、繁盛を振り返る場面っていうのが、2巻ぐらいで出てくるんですけれども、
その場面を書いてる時に涙があふれたと書いていました。
北杜夫の重要な著作
だからもう書いててもね、やっぱり感情が乗ったんだなっていうところですね。
北森雄にとってもこの小説って結構大切な小説だったんだろうなって思いました。
この北森雄の繁盛を読んだり、あるいはお父さんとおじいさんの人生とかを、ウィキペディアとかを見ながら思ったんですけど、
この二重家の人々っていうのはほぼですね、史実に即して書いてるんですけども、
実はね、二重家の人々には書かれなかった出来事っていうのもあるなっていうのがわかりました。
僕の安直な調べによるとですね。
すごい調べられるんだ。
おじいさんの人生とかお父さんの人生とかお母さんのことっていうのも結構ネットとかいろんな本に載っているので、
ちょろちょろっと見ていると、あれこれ書いてないなっていうことが出て気づきました。
例えばおじいさんですね、二重家の人々では紀一郎と言いましたが、
本当の名前は齋藤紀一と言いますけれども、その方の愛人問題っていうのがちょっと問題になっているようです。
いまだにネットに残っているので。
愛人っていうのは別におってもね、その当時は倫理的にはそんなに問題なかったことだろうなと思うんですけど、
明治時期の大正の人ですから。
ただ、紀一が亡くなった時に遺産相続等の問題で、ちょっとこの愛人と齋藤家っていうのが揉めたっていうようなことが裁判というか、
結構そういう問題にはなったようです。
新聞ネタにもなったみたいなことが書いてましたね。
さらに、父もきちさんの晩年に恋人というか思い人がいてたというような事実もあるようですね。
別居されていたもんね、お母さんとは。
別居していて、齋藤もきちは戦中に疎開するんですよ、東北の方に。仙台かな。
もともと自己自身の距離が山形県なんですけど、あの辺りに親戚を頼って、彼だけが疎開するんですよね。
そうしているうちに病気になって、そこで生涯を閉じることになるんですけど、
そういう時に恋人というか、押し絵子みたいな感じの人らしいですけどね。
とってもこのもきちさんは過人として、精神科医でもあるんやけれども、過人として有名だったりするので、
そういう関連の押し絵子さんみたいな方と、プラトニックな関係だったような感じを印象を受けたんですけど、よくわかんないですけど、
それも割と有名な話みたくてあるんですけど、それは二重家の物語には書かれませんでした。
あと、お母さんですね。リアルのお母さんはキミコさんって言うんですけれども、キミコさんのスキャンダルっていうのがあるんですよ。
夫婦が別居するきっかけになったものがあって、ちょっとそのお母さんが異性関係、男性との何かしらみたいな、
詳しくはちょっとよくわかんないんですけど、ちょっとそれも新聞だねになるような、ちょっとスキャンダルになったみたい。
でも事実がどうかそれもわかんないみたいなんですけど、とりあえずでもそういうゴシップみたいなのが起こったみたい。
それがきっかけで、お母さんに。それがきっかけで、夫婦が別居するということにもつながったみたいなことを書いている文章がありました。
でもお母さんと北森夫さんたちは一緒に住んでたもんね。
だからそういうきっかけもありつつも、お母さんは別に誰かと同行になることなくて、斎藤家でずっと育てるんですけどね。
でもそういったこともあったと。
そういうトピックって残りやすいから残ってるのかもわかんないけど、でもそこってあれですよね。
その二歴の人々には全く書かれなかったことですね。
北杜夫の精神的な葛藤
まあこの通りと関係ないかもわかんないし、この昭和期のこの時代っていうのはやっぱりこういう問題っていうのは書いちゃうととても注目引きすぎて、
なんか主題からずれちゃうのかなということで脱ぎたのかもわかんないしね。
そっちばっかり噂になってね。
それはちょっと本来書きたかったこととはずれちゃうから書かなかったのか。
あるいはやっぱりこういうことまで書くのはちょっとどうかなと北森を自身が思ったのか、そこはよくわかんないですけどね。
その昭和期中期の倫理観っていうのは確かに納得できるところでもあるかなと思うんですけどね。
今やったらそれらも含めてなんかね、キャッチーな感じでできそうな気がしますけどね。
あともう一個、僕は二礼家の人を覚えているので大切かなと思ったのが、
もきちさんがですね、過人なわけですよね。文学で文学文章を取るぐらいなんですけれども、
それが二礼家の人々の徹代さんっていうのは精神医学士とか精神医学の研究に没頭したというふうに置き換えられています。
そういうことね。文学者じゃなくてね。
文学者じゃなくて精神医学の研究を、精神医学士とか精神医学の研究をしたいということでしたというふうな内容がそんなに書き換えられてるんですね。
これってあれかなと思って、たぶんもきち自身の人生としては、多分過人というか文学の方が大切だったと思われるんですけど、
でも表向きというか、やっぱり自分は医者精神科医なんだっていうアイデンティティーはずっと持っていた人みたいですわ。
だから子どもたちにも医者であろうということを強いたわけですよ。
北森夫婦自身は実は医者にはなりたくなくて、昆虫学者になりたかったみたいなこともあったんだけど、
でも親父から言われて、医者にならざるを得なかったみたいな感じもあったりもして、
つまり自分はやっぱり医者の家系の当主としているので、そっちの方にやっぱり主題を置いてたんですね。
ただでも本心としてはやっぱり過人だったわけですよ。
後半生は過人として主に生きるんだけれども、でも医者の仕事も手放さなかったという生き方が議事されているんだと思うんですけど、
これって北森夫婦にもきっと通じるものがあって、北森夫婦も同じような感じじゃないですか。
始め医者として生活するけど、文学者として最後は行くと。
きっと彼にとって大切だったのは文学の方だったと思うんだけど、
でもそこはまだ文学にするのは、物語にするのはどうだろうということで、
精神医学の表の方を書こうというふうに考えたのかなと思うんですけどね。
だからここにむしろ北森夫婦が文学に書けると思いっていうのを感じたりするんですよ。
ここが結構大切、自分の人生にとって大切なのかなっていうことを、これからの人生考えてたのかなと思うんですけどね。
全くの想像なんですけれども。
膨大に著作が残っているので、何かしらヒントになることもあるんかなと思うんですけど、
まだ僕、北森を読んだのは二礼家の人々と、ドクトルマンボウと、
もう一個はツキトジュスセントってやつをちょっと読んだんですけど、
3冊ぐらいしか読んでなくて、あとはつまみ食いしているだけなので、
全然北森を語るには程遠いんですけど。
直接知っている方もたくさんいらっしゃるでしょうしね。
いってるでしょうしね。お嬢さんもまだご健在ですよ、当然ね。
もうちょっと北森の人生進めますね。
35歳の時、二礼家の人々を書いている頃に長女の斎藤由加子さんが生まれます。
38歳の時に、カラオコルムのリュランポーへの遠征隊に意思として参加と。
この人いろんなところに行きますねっていう。
行きたいんですね。
38歳。ここまでは順調だったんですけど、
実は41歳の冬頃に初めのうつ症状が出てくるというふうに本にも書いていました。
事実かどうかあれですけれども、それを信じるなら41歳の冬にうつ症状が初めて出て、
その翌年の1969年、昭和44年ですね、42歳の9月に初めて早症状が出現したと。
その後、毎年9月頃に早症状が出てくるということみたいですね。
9月になると早症状が出てきて、いろいろな問題が出てくると。
冬過ぎてからそれが収まってうつ状態に入ってというのを数年間繰り返したというふうに書いていました。
年単位で繰り返している感じなの?
年単位で繰り返したって長女さんとの対談集にも書いていたんですよ。
でも実際どこまでどうなのかっていうのはよくわかんないんですけど、
対談集の中からいろんなエピソードを拾い上げていくと、
確かに80年、81年、82年くらいまでは明確な早症態っていうのがあったんだろうなとは思うんですよ。
つまり42歳くらいから56歳まで、時々明確な早症態になっていたと。
早症態って気持ちがとても大きくなって、多弁になって、自分が万能感を持って、いろんなことをやりすぎてしまうということなんですけどね。
来た無料の場合は、どうもお金、自分の映画を作るという思いっていうのが結構強くなるらしくて、
それで株の売買をして、巨額の借金を作ったりとかっていうことが最終的にいろんな問題になったみたい。
創作活動も割と創画、曲記になると書けなくなったみたいなんですけど、
軽い早症態の時には非常に分泌業が進んで、
いろんな仕事を受けたりとかして、活動的だったみたい。
軽早状態って割と良かったよ、みたいなことを対談集で述べていました。
本人がおっしゃっている事実やし、そんなこともあるかなと思うんですけどね。
具体的なところで有名なところで言うと、例えば45歳の時ですね、
冬場に斎藤家というか北森をの一家というのは、やっぱりリッチというかお金持ちの基本的には一家なので、別荘とかもあるんですよね。
冬とかは新州の方にスキーに行くというのも一般的だったらしくて、
そのスキー場で株取引を電話でしてたとかね。
スキー場でわざわざ。
株取引とかして偉い目にあうから、奥さんからはそんなしないという約束はされてたにもかかわらず、
それでみんなでスキーに行くよって言って、家族でスキー場に行ってる間に隠れて電話してたというようなエピソードがあったり。
そこから4年後の49歳の時に、自己破産と禁止感染国というのを受けてしまいます。
そこまでやっちゃうんですね。
だから実際この時に世田谷区を抵当に入れて、出版社とか銀行とか、あるいは個人的にも多額の借金をしたというのが事実みたいですね。
でも対談集によると非常に悲惨な生活になったことはないみたいですね。
売れっ子作家で才能がある方ではあるので、いろいろ本を書いたりとかエッセを書いたりとかしながら何とか返していったんでしょうね。
自己破産してから4年後ですね、1980年、53歳の時に徹子の部屋に出演しています。
同じ年に2回も。
1回は終わらなかったらしいですよ。1回の時間が終わっても喋り続けてたっていうね。
これそう状態だったって後々、お嬢さんとか本人も言うてますけれどもね。
自分から売り込んで、2回目は出演させてもらったっていうことらしい。これもそう状態ですよね。
そうですね。
次の翌年ですね、54歳の時、昭和56年ですけど、これ有名なんですけど、ミニ独立国ですね。
マンボウ・マブゼ共和国の主席を名乗ると。
自分の自宅を日本国から独立させて、マンボウ共和国になりましたみたいなことを言って、お金作ったりとか。
もちろんそれはギャグのつもりというか、冗談のつもりなんですけど。
マンボウ共和国から文化勲章みたいなのを表彰して、作家さんとか女優さんとかにパーティーに呼ぶとか、そんなこともしてたみたいですね。
発想がすごいですね。
北杜夫の精神病歴
45、46歳くらいが一旦、相状態とか打つと。多分これ繰り返したと思うんですけどね。相と打つと繰り返したって言われてて。明確な相が一旦これで収まるんですよ。
長女さんとの対談集によると、一旦50代で相が終わって、72歳の時に最後の相談エピソードっていうのが出てくるらしい。
それが終わって、そこからは落ち着いてるよみたいな記載をしていました。
それが82歳の時の本なんですけどね。83歳の時の本なんですけどね。
だから50代半ばまで相状態が何回か繰り返して、72歳の時に最後の相病が起こって、それ以外の時は基本的には打つ病が多かったって書いていました。
打つ病の時でも若干頭の回転は鈍くはなるが、本は書けたみたいですね。
打つでも出せるんや。そうなんだ。
そういう彼の、僕が分かる範囲の病歴って簡単に言うとそういうことなんですけど、これをちょっと思うと、あれって思うことがあってね。
打つ病って今は相極性障害って言うんですけど、相極性障害って1型、2型とか3型、4型とかいろんなパターンがあるんですけれど、多分北森は相極1型なのかな。
1型っていうのは相病が結構目立って、いろんな問題を起こして入院させんとあかんぐらいな感じになるのが相極1型なんですね。
相極2型っていうのが相状態はあんまり目立たずに、打つ状態が結構目立つっていうタイプなんですけど。
打つ病と間違われやすいんで、相極2型注意ですよみたいなことが割と僕らが今気にしているところではあるんですけどね。
北森は自身は多分相極1型なんだろうなって思うんですけど、ここで相病の治療について考えたいところなんですよ。
現在、相極性障害の治療っていうのは気分安定薬っていうお薬が中心なんですよ。
リチウムとかバルプロ酸とかっていう薬なんですけどね。
リチウムって原素記号で水平リーベってあるじゃないですか。あれのリチウムなんですよ。
原素記号のリチウムが気分安定薬、相病にめっちゃ効くよっていうのが有名な話で、21世紀の未だにリチウムが使われる薬なんですけどね。
1949年にオーストラリアの精神科医がリチウムが相病に効くよっていうことを発見した。
発見したからってすぐにみんなに使われるわけじゃなくて、20年近く経って1970年にアメリカでリチウムが正式に治療薬として承認されました。
1970年ですわ。だから1970年って言うと初めて北森病が相病になった時期なんですよね。
頃ですよね。
日本はまだ急にはこの薬入ってこなかったと思うんですよ。
だからリチウムがしっかり使い出したっていうのは、たぶんそこから10年ぐらい遅れるんちゃうかなと思って。
たぶん北森病の層がある程度落ち着くのっていうのは、リチウムとかキブン安定薬をしっかり使われるようになってからちゃうんかなと思ってるんですね。
6歳ぐらい?
たぶんそれが大きい違うんかな。
なるほど。
ただでも北森病とかって、たぶんその当時で言う最高の精神科医療は受けられたはずなんですよ。わかんないけど。
たぶんそれはその医者の一族やし、親族とか知ってる人の精神科医やし、いろんな大学の先生も知っちゃったと思うので。
より早くリチウムが手に入れられたかもわかんない。けれどもそういう状態が結構繰り返すんですよね。
リチウムをうまく使うことっていうのも、実は2000年代になってわかってきたことがあるんです。
層鬱病って、層局性障害って、層があって鬱があってを繰り返していくじゃないですか。
今の考え方は、層でも鬱でも気分安定薬をしっかり使いなさいっていうことなんですよ。
鬱病になったとしても、基本この気分安定薬をしっかり使っていくと。
でも僕らが医者になった当時っていうのは、層鬱病でも鬱の時には抗鬱剤を使うものですよっていうのがあったんです。
これは実は2000年代に明確になるんですけれども、よろしくないっていうことがわかりました。
何がよろしくないかというと、鬱病の鬱の人に、いわゆる鬱病の時の抗鬱剤ですね。
これはあんまり効かない。ほとんど効かない。
しかもその効いたとした時にすぐに争点というか、層の方に持っていっちゃうので、よくないよっていうことがようやくわかるんですよ。
2000年か。
ちゃんとリチウムが使われるようになったのが1970年やから、そこから20年ぐらい落差があるんですよね。
このラグがあるんですよね。
この間に層局性障害、層鬱病の人っていうのは、鬱の時には鬱剤を使って、層の時にはリチウムを使ってっていうのを繰り返してやってたんですけど、
これが良くないっていうのが、1990年とか2000年代に明確になるんですよ。
年代的には北森夫は、ガッツリリチウムを層の時も鬱の時も使い続けるという治療は受けてなかったのが違うのかなと思って。
北杜夫の文学と評価
だからこんな層を何年も何年も繰り返すということが起こったのと違うかなと思ったりするんですけどね。
これは全くの想像ではあるんですが、僕が医者になって10年15年ぐらい経って、一番の進歩っていうのはここの話ですわ。
層局性障害の鬱に、鬱剤はあんまり使わないようにしようということですね。
今は全ての精神科はみんな知っている話なんですけれど、その当時は勉強している先生でないとわからなかったし、
そういうのはちょっとずつ広がっていくことになるので、みんなにこれを知らしめるっていうのは結構時間がかかるんですよね。
きっちり出てたなっていうのが見えるわけですよね。
もしかしたら僕これそうやったかもしれないなと思って。
ただそれが良かったかどうかっていうのはよくわからないし、それがあったからこそのもしかしたら北森用の随筆というかいろんな作品だったかもわからないのでね。
何度もわからないところですけどね。
というようなことがあって、82歳の時に最後にもう一回鉄子の部屋に出演します。
最後の層ですね。
これね、そうやったかどうかわからないんですけどね。
72歳の時に最後の層病エピソードがあったみたいで、そこから10年後なんでね。
多分層病ではなかったと思うんですけど、娘さんの斎藤優香さんと一緒に2人で鉄子の部屋に3回目出演しました。
すごいな、82歳か。素晴らしい。
その翌年にこのパパは楽しい層病っていうのが娘さんと対談集を軽く出して、そこから2年後ですね、84歳で亡くなります。
亡くなった後に受子っていう喰らいを送られて、極実中受賞というのも送られます。
最終的にはすごく認められた人ではあるんですけれどもね、という作家さんでした。
北森雄さんは文学家としては有名ですし、二重家の人々を始めたいろんな文学もあるし、ユーモア随筆ですね。
ドクトルマンバーを講学期を始めとしたいろんな随筆集を書いていらっしゃいますし、表伝とか回想集とかも書いているし、
文章も上手ですしね、人生への見方というか、そういうことも優れてるなというふうに言われています。
もう一個やっぱり大切なというか、精神科医として思うことは、北森雄はですね、自分のいろんな文章とか、講演とかもそうなんですけど、
自分の病気について包み隠さず語ったっていうのも、まあ特立すべきかなと思うんですよ。
昭和のこの時代に自分の病気、しかも精神疾患について語ることっていうのはきっとはばかられたと思うし、
自分の身内とかね、いろんな思いもあったと思うんですよ。
にもかかわらず積極的に言ったんですよね。
ここっていろんな意味ですごいなと思って、相打病こそが自分の文学を生んだとか、この病気がなければこの文体はなかったとかっていう言葉もあったりして、
リチウム治療の影響
つらかったこともあるでしょうし、この病気のせいでっていうこともあったでしょうけれども、その中で彼は奮闘したんだろうなっていうのを誇りに思ってたんでしょうね。
そことやっぱり素晴らしいなと思うとこなんですよ。
ほんまですね。
っていうのが北森雄の人生でした。
ありがとうございます。
よかったんじゃない?
北森雄の面白かった。
面白かった?
もう説明してもらうの?そうなんやって感じやった。
北森雄さんに人物に注目はしたことはなかった。
父親が読んでたから浮いてある本を読んで、どっちかっていうと文学の方の北森雄さんを好きになってたというか読んでたって感じですね。
で、北森雄さんの本を読んでるときに父から、この人のお父さんが斎藤木千奈家でって教えてもらって、えーって驚いたです。
それは覚えてる。
父がなんでこの人のことを、そんなに本を喜んで読んでるっていう感じじゃなかったでしょ。
だけど北森雄さんの本はずっとある時期読んでたから、で、お父さんこの人好きなん?って聞いたら、この人お医者さんなんやでって言って、すごい優秀な人なんやでっていうのを教えてもらって、で、そこから私も読み出したみたいな感じでした。
ドクトルマンボウ公開記を。
そうですか、ドクトルマンボウ公開記を読んだんですか。えー、10代の頃?
もうちっちゃいときやと思う。
ちっちゃいときに。
そう、小学生、高学年ぐらいかな。
あー、ほんと。
一番私が本を読んでた頃。
そうなん。
そう、だからちょっとね、難しかったんよ、小学生のときにしたら。
その、公開記やからいろんな船の中とか旅が出てくるでしょ。
そうやってわかんないんですよ、小学生には。
想像がしにくいというか。
だからこの二礼家のところまでたどり着いてないんですけど、難しいなっていう感じだったんですけど。
ただお父さんが好きな作家さんなんやなっていう記憶はあります。
だから斉藤無吉さんの息子さんなんや、斉藤家ってすごいんやな優秀な方が代々出てっていうようなのは子供心に記憶がありますね。
あー、そうなんだ。
私、あの父の本を読もうとも思ったことなかったな。
置いてあったのに。
置いてあったのに。
眺めてたけど。
そうだよ。
なんかね、あの父さんはこのドクトルマンボウ公開記が好きやったんやって。
あ。
なんか読んでみ?って勧めてくれた。
あー、そういや。
えっと、父親、船乗りになりたいって言ってたよね。
そうそうそうそう。
これか。
旅行に行きたい、旅に出て、冒険化してみたい、みたいなのが憧れやったらしくて。
将来のこととかさ、なんか相談したときに、自分はな、みたいなことで父親は自分のことを言いますやんか、
読んだら、父親はホマは何になりたかったん?って僕は聞いたんですよ。
うん。
だから、船に乗ったりしたかったなって、大きなタンカーに乗ったりとか、っていう希望を言ってて、
あ、そうなんや、とかって言って、
でも結局はタンカーとかには乗れずに、ちっちゃい船の船長で終わってたやろうな、みたいなことを笑いながら言ってた記憶がある。
あー。
ドクトルマンボウ公開記なんや。
そう。
なるほどね。
私はそう聞いた。
大きなタンカーで世界中行ってみたいっていうのは、私も聞いたことがあって、
でも私たちの中に船ってさ、そんな近い存在じゃないやん。
全く違いましたね。
ね、船って身近にある乗り物でもないし、
だから、どっからその発想来るんやろうって思ってた。
北杜夫の人生
船で旅行なんかも記憶にないでしょ?
ないよね。ないない。
僕、大学生になってからですよ、船乗っていったんは。
私もね、子供ができてから、一回フェリーなるものに乗ってみたいと思って。
そういうこと?
乗ったぐらいで、そうそう。
なるほどね。でも船はね、僕好きやな、フェリー未だに。
高校の卒業旅行ね、船でね、大阪から沖縄まで行ったんですよ。
2泊ぐらいして、同級生と一緒にね、旅行で沖縄本島まで大阪港から出るっていう船が、今あるんかな?分からへんけど。
2泊ぐらいして沖縄に行って、沖縄で過ごして、帰ってくるときは飛行機やったけどね。
あ、そう?
うん。あのとき楽しかったな。
へー。それ大学生になってから?
それからね、高校卒業して大学に入るまでの間。
あ、そうな。今初めて聞いた。
あ、そうですか。あのときね、すごく揺れるんですよ、その船が。
でもね、僕だけ酔わなくて、同級生とか酔っ払って、船酔いでしんどかったけど。
あー、かわいそうに。
そんな思って結構フェリーは好きやな、それ以降ね。
へー。何回も乗ってるんですか、それから。
乗れませんけどね、和歌山徳島のフェリーがあるんですけど。
あれはね、結構好きでしたね。
車じゃなくて、車で行くときはフェリーで行こうと思って、フェリーで行きましたね。
うだ話はよそして、はい。
じゃあ、北森夫の話はこんなんで終わりましょうかね。
はい、ありがとうございました。
ありがとうございました。
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