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みなさんおはようございます。 五輪の書を非常に長くサボっておりましたが、
2週間ほど空いてしまったんですけれども、 最終章ですね、最終巻
空の巻、ここは非常に短い部分なんですが
短いのですが、やはり最終章なので、 非常に味わい深い文章になっております。
訳文によりますとね、本当にね、 1ページなんですよ。見開き2ページって言うんでしょうかね。
本当に文字数にしたら非常に少のございます。
空の巻は、途中で終わっているんじゃないかという説と、
完結しているという説の2つが対立しているそうですね。
一番最後の1行は、弟子が後から出したものであるとされているんですよね。
ということは、途中で切れている可能性が大いにありますよね。
でもさすが最終章だけあって、前段の部分でもかなり革新的なことをまとめ上げて、
非常に力強い言葉でお書きになってますね。
空の巻の原文を読んでまいります。
二等一流の兵法の道、空の巻として書き表すこと。
空という心は、物事なきところ、知られざるところ。
知られざることを空と見たつるなり。
もちろん空は、なきなり。あるところを知りて、なきところを知る。
これすなわち空なり。
世の中において、あしく見れば、物をわきまえざるところを空と見るところ。
まことの空にはあらず。
みな迷う心なり。この兵法の道においても、武士として道を行うに。
侍の方を知らざるところを空にはあらずして。
いろいろ迷いありて、せんかたなきところを空というなれども。
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これまことの空にはあらざるなり。
ここまで二段ですが、ちょっと読み返してみますね。
二と一流の兵法の道、空のまきとして描きあらわします。
こちらもね。
空という心の部分は、物事なきところ、知られざるところを空と見たつるなり。
もちろん空はなきなり。
空は何もないのですが、あるところを知りてなきところを知る。
これすなわち空なり。
ここね、非常に抽象的なような気はしますが、非常に物理的でもあるし、精神世界のことを言っているようでもあるし。
しかし日常で同じようなことが常に起きていると思うんですね。
何もない部分というのは、それ以外のごちゃごちゃしたものがあるから何もないところが際立つというんでしょうかね。
何もない空間というのはあるんですけれどもね。
その空間の価値というのは、それ以外の草ぼうぼうに生えているようなところがあるからそこが際立つみたいな、そういうのってありますよね。
勤めになさっている方なんかでしたら常に感じると思うんですが、全然仕事をせずに文句ばっかり言っている人。
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仕事以外のね、例えば趣味の集まりとかね、そういうところでさえもありますね。
だからそういう人がいるから、常に陰で仕事をして信頼を得ている人の価値がだんだん高まるというんですか。
引き立て役というんですか、本当に。
だからその引き立て役に対して、いちいち目くじらを立てて、こうしなさい、これくらい綺麗にしなさいみたいな、そういうことを言う必要もないんだと思うんですよね。
次読んでまいります。
世の中において、あしく見れば物をわきまいざるところを空と見るところ。
まことの空にはあらず。
この兵法の道においても、武士として道を行うに侍のほうを知らざるところ空にはあらずして、いろいろ迷いありてせんかたなきところを空というなれども、これまことの空にあらざるなり。
中国訳すると、世の中において、悪く見ればですよ、悪く見ればというか、
曲がった目で見れば、いろいろな常識をわきまえていないところを空と見るところはまことの空にはあらず、そうですよね。
みんな迷う心なり、どんな名人でも迷いますね。
この兵法の道においても、武士として道を行うに侍のほうを知らざるところ空にはあらずして、いろいろ迷いありてせんかたなきところを空というなれども、これまことの空にあらざるなり。
これまことの空にあらざるなりというのが、本来の空ではないんですって。
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薬文をちょっと読みますと、兵法の道を修練するに際し、戦いをこととする武士のありようを知らないのは空ではない。
薬文が薬文でないというか、薬文が小文体であるというか、戦いをこととする武士のありようを知らないのは空ではない。
ところがいろいろ迷いがあって手立てのない様を空と呼んでいるように見受けられる。しかしそれは本来の空ではない。
端的に言えば、迷っている段階はまだ空ではないということですよね。
次の第3弾から読んでまいります。
武士は兵法の道を確かに覚え、そのほか武芸をよく努め、武士の行う道、少しも暗からず、心の迷うところなく、朝朝時々に怠らず、心意二つの心を磨き、観見二つの目を研ぎ、少しも曇りなく迷いの雲の晴れたるところこそまことの空と知るべきなり。
ほう、すごいですね。
なんかこれは、二本手ぬぐいに書いて、配り手ぬぐいにしたいというような、そんな感じの文章ですね。
これ、武士は兵法の道をしっかりと修練し、そのほかの定められた11項目でしたっけ、その道にもよく励み、もちろん文武両道ですよね。
それ以外の芸事にもよく励み、武士としてなすべきことをはっきりと解読し、あれこれあれこれと迷うことなく、朝に夕に怠ることなく、大きい心で、ここですよね、一つのことに集中する意思である。
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意、意見の意ですね。
二つのところを修練し、遠く広く見る観。
二つのところというかね、全体を見る観は、観劇の観ですね。
近く細やかに見る県、見るですね、見える、見るという意味。
二つの目を鍛錬し、少しの曇りも迷いもない晴れ渡った、ありようこそ本来の空であると知るべきである。
ですので、見方というのを最終的に、これが一番大切なんだということを強調してますよね。
そしていよいよ最後の段になります。
真ことの道を知らざる間は仏法によらず、世法によらず、己己は確かなる道と思い。
ここもすごいですよね。これね、本当に感動しますよね。
仏前に手を合わし、神に感謝をして筆を取って書き始めるんですね、武蔵はね。
でも最終章の最終段になってね、真ことの道を知らざる間は仏法によらず世法によらず、
己己は確かなる道と思い、良きことと思えども心の軸道をよりして世の大金には合わせて見るときは、
その身その身の心の引き、その目その目の歪みによって実の道には背を背く者なり、
その心を知って、優なるところをもととし、真ことの道を道として、真ことの心を道として、
平法を広く行い、正しく明らかに大きなるところを思いとつて空を道とし、道を空と見るところなり。
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ちょっと解説を見ながら読んでまいりますが、本来の道を知らないうちはね、
仏法の道であれ世間の道であれ、己なりに確実な道であり、
ちょっと私の訳とは違う。
全部を習得した段階に行くまでの間はね、
仏法であっても世間の道であっても、己は確かなる道と思い、
良きことと思っていても、心の軸道へと、迷いのないまっすぐの道ですよね。
軸道よりして世の大金へと、最初の方に出てくるんですが、
大きく見なさいと、大きな尺度で大きく見なさい。
大きな五十の塔を建てる僧侶のように、大きな金の物差しですね。
大金に合わせて見るときは、その身その身の心の悲喜、その目その目の歪みによって、
実の道には背くものなり、かもわからないですね。
だから、仏法にしても、その他の道にしても、
最高の、というか全部を体得したその段階に達するまでは、
自分の偏見とかがいっぱい入っていると。
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だから本来の空ではないんだよと。
ここらへんは最終段階でありますから、
本当にね、すごいなって思うんです。
最終段階に到達したら、空の状態になるよと。
でも、修練の段階では、
いろんな迷いとか疑いとか、
そういうのが自分の考えとか、
そういうのに影響を受けて、
それは本来の空ではないよと。
しかし、兵法を広く修練し、正しく明らかにし、
大きく見て、私が言おうとしている空を道として、
道、すなわち道は空であるよというところにまで到達せよと。
最後の一行ですね。
これは弟子が書いたとされている最後の結びの一行ですよね。
しかし、弟子が書いたにせよ、
時期ですからね。
いつも武蔵の考え方というのは、
弟子が直接聞いているわけですよね。
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その段階に来ている寺を孫の招に託した、
新免武蔵の神春信ですので、
この最後の一行についてはね、
どちらが書いたにせよ、大義は通っていると思うんですよね。
空には善があって、悪はない。
知恵は有である。
勝利は有である。
道は有である。
心は空である。
なんだかね、ここの最後の一行ってね、非常に解説を求めちゃいますよね。
読む側にしましたらね。
空には善があって、悪はない。
なんとなくわかるんですよね。
外側の、集合で言ったら外側の部分ですね。
そこに悪があって、空には善。
で、知恵は有である、有であるって書いてあるんですね。
知恵は、知恵はやっぱり空を学ぶには必要だということなんでしょうかね。
ちょっと待ってくださいね。
あ、ごめんなさいね。
空、善、有、悪、無しって書いてあるんです、原文はね。
空、善、有、悪、無し。
知、知るという字に非の知ですね。
知は有なり。
利は有なり。
道は有なり。
心は空なり。
なんだかね、この最後の一行がね。
知恵と利益の利ですね。
利と道は有るんですって。
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で、心は空なんですって。
最後の一行が悩ましいですね。
ここまで来て。
しかし、なんだかね、こういう部分で終わっているから、謎めいているから、
後世にまで読み継がれているのかもわからないですね。
これね、本当に哲学的で、
正法2年、5月12日、もちろん旧暦ですよね。
新明武蔵の神春信で、より発信しているわけですね。
これね、発信者というのは日付の次の行に下に書くんですけれどもね。
それが師匠だったりする場合は、ちょっと上に大きく書いたりするらしいんですね。
その次の行の上の方に寺尾孫之丞信政殿って書いてあるんですね。
江戸時代の初期に、新明武蔵の神春信がと書いているんですけれども、
新明武蔵春信で、森っていう字、何の神の神はないらしいんですけどね。
神っていうのってね、だいたいね、今でいう県知事クラスプラス県警本部長というふうに私たちは聞いてるんですよね。
何々の神って付く場合ね。
だからここは神なしの方がいいんじゃないかと思うんですよね。
師団役ですもんね、武蔵は。
ですので、これで読み終わったのですが、
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空の薪を読み終わって、この五輪の書全体を一読したわけですけれども、
一回読んだだけでは、本当にね、読んだことにはなってないと思うんですけれどもね。
読む段階において理解できる部分と理解できない部分があると思うんですけれどもね。
これは今写本をしてますので、写本が出来上がる頃になったら、また私の考え方も充実してくるかもわからないですね。
それを期待して、五輪の書は私なりの訳文を文書化して、
Kindleに残しておこうと思います。
では皆様、今日も始まっておりますが、五輪の書はここで完結して、
次から新しいものに移りたいと思います。
ではごきげんよう。