2025-10-15 14:31

本多清六 12


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サマリー

本多清六さんが70歳を超えた際の考察や人生の意義について語ります。彼は精神的な進歩と人生計画の再検討の重要性を強調しています。

人生の意義についての考察
こんばんは、本多清六の続きを読んでいきたいと思います。
人生と財産なんですけれども、私がこれを2000年か2001年かどちらかに買っているんですけれども、
9800円も出しましてね、買っているんですよ、25年前にね。
その時は私はまだ、今よりは非常に若かったので、これから読む部分ですよね。
70歳を超えた本多清六がどういう境地になったかということは、ほとんど飛ばして読んでいるんですね。
ところどころラインマーカーは引っ張ってあるんですけど、
でも、なんだかね、自分ごとのように捉えていないというのがよくわかるんです。
というのがね、記憶に全く残っていないんですね。
ここではどういうことを書かれていたかと申しますと、
昭和17年に77歳で、計画通り伊東市の蒲田というところに移り住むんですね。
成功をうどく、やることはやり尽くしたので、もう自由に気ままに過ごすことに決めていらしたので、
その通りなさるんですけれどもね。
それがね、なぜかね、彼は時としてほのかに脳裏をかすめる満ち足りなさに我ながらふと驚かされることがあった。
今朝ね、私思いっきり舌を噛んじゃいましてね、ちょっとお聞き苦しい点があったら申し訳ございません。
非常にね、なんかね、まだ痛いくらい。
あのね、おいしい柿をね、夫より先に食べようとしてね、こんなことになっちゃって。
まあ本当に失礼いたします。
ちょっと舌の回らない私ですが、人生には人生の任務が終わるということがあるはずはない。
先哲先賢は臨終の明日まで、いずれも道を極めることを怠らなかった。
勤め勤めて、我が道のたらざることを恐れた。
それなのに、未熟もはなはだしい自分ごときが、70歳で一応任務を勤め、
果たしたように考えるのは僭越でもあり、また軽率でもある。
まさしく人生の冒涜である。
我大いに過てりの感が、ここでむくむくと沸き起こったのである。
完全に引退して、モールディブに行ったり、引退した人ばかりのすごく満たされた街があるらしいんですけどね、アメリカにね。
そこに移り住むには相当な資産がいるんですけれども、全て揃っていて、一つ一つが豪邸で、体が悪くなっても全部完備されているみたいなところらしいんですけれどもね。
だいたいね、そこに入られたら平均住民は2年なんですね。
ですので、役目を終わったというふうに、自分自身が思うことによって、そこで自分の寿命というのをご自身が決めているのかもわからないですね。
本田勢力は、自分の計画したとおりに三四数名の温泉郷にたどり着いたのに違和感を覚えるんですね。
そこから20代に立てた計画をもう一度練り直すんですね。
なるほど、私が旧人生計画を立てた当時から見ると、時代はいろいろと変転した。文化の向上もあり、文明の力も続々と生まれた。
けれども思想的、精神的にはどれだけの進歩があっただろうか。
ここですよね。
国民の精神的進歩というのを考える人はひょっとしたら少ないかもわからないですね。
技術力であったり経済力というのは常に考えますが、精神的進歩、思想的進歩というのを考える人はごく一部の方に限られるかもわからないですね。
つまりこの新しいデモクラシーも歴史は繰り返す。明治時代の繰り返しに過ぎないっておっしゃってるんですよ。
そうだったんですよね。
だから明治に生まれ大正を過ぎて昭和まで来た方っていうのは、明治のこともやはりご両親とかご親戚とかご家族から聞かされてるでしょうし、
明治生まれの方と大正生まれの方の決定的な違いみたいなのも、私の母と祖母がよく話しておりましたね。
特に男性の違い。時々女性のことも出てきましたけれどもね。
そうですよね。
それが明治時代にあれだけ世の中が変わったことの戦後っていうのが、それの繰り返しに過ぎないんじゃないかっていうふうにホンダ西陸がここで語ってるんですね。この時期ね。
で、それからまずね、もう悠々時的な生活をする予定であったのに、人生経験を練り直すんですね。作り変えるんです、ガラッと。
計画の重要性
で、肝心なところは、かっこたる最高目標を定めることだとおっしゃってます。
すでに前々から説いてきたように、計画は向上を意味し、努力を意味するのであるから。
目標の中には我々の絶え間ざる修行の姿が盛り込まれ、向上発展の企画が含まれねばならぬのである。ごめんなさい。舌が痛い。自分で噛んだので仕方ないんですけどね。
まあね、これは本当に、前回申し上げましたが驚きでしたよね。
努力することが最高の目標で、経済的に成功するとか学問で成功するとか、そういうことは後からついてきた、その絞りかすみたいなもんだと。
好きなことに邁進して目標に近づくために、努力をすることが目的であるので、計画というのは努力をするために計画を立てるんだと。
目標のところに到達するために計画を立てるんじゃないというところが、凡人の我々とは決定的に違うところですよね。
何人もまず80歳ぐらいまでの詳しい人生計画を立てて、80近くになれば、さらに20年先の100歳ぐらいまでを予定し、細かい計画を立てようと書いてあるんですね。
これは本当に、こんなところを読んだのかしらと思うくらいびっくりいたしました。読み返してですね。
計画を立てた後ですね、1年の計は元旦にありで、各年書ごとにそれぞれ宅上日記の始めにでも整然と歴記できること柄、大体その大綱を書くと。
20年ぐらいを書いたら、10年に割って書く、それぞれ前後10年ずつをまた分析して、またその半分の5年。
今生きているその月の実行案が日々の予定欄に安倍されていくって書いてあるんですよ。すごいですね。
凡人も非凡なことができるっていう項に入りますね。日々その予定を実践し続けることにより間違いなく目的の被害に到達し得られるとの予想は、日常生活をこのえなく張り合いのあるものとするし、潤いに満ちたものにもする。
もちろん最初はかなり意識的な努力を必要とする。しかし、それが着実に実行されていくとき、いよいよ地震も生まれ、新たなる工夫も積まれ、計画の追考、それ自体が面白くてならなくなってくるのである。
計画の追考、それ自体が面白くてならなくなってくるのである。
ですって。すごいですね。
皆さん、これ私25年前に買った本なんですが、すごい本ですね。では皆様、まだね3分の2ぐらいしか来てませんが、あと252ページまで来ましたね。
最後の年表、略年風がだいぶ長いので、389ページまで読むとしても、まだもう少しございますので、どうぞ明日もお付き合いくださいませ。ではごきげんよう。
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