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2026-10-12 21:19

JP#4|なぜ三十三間堂には、1001体も観音像があるのか?【京都編】

長さおよそ120メートル。日本でいちばん長い木造のお堂に、金色の観音様がずらりと1001体。しかも、そのすべてが国宝です。

いったい誰が、何のために、これほどの観音様を並べたのか。カギを握るのは、天皇の位を退いたあとも30年以上にわたって国を動かした「後白河上皇」。平安時代が終わる直前の京都へ、旅をしていきます。


▼ この回で分かること

・天皇、上皇、法皇の違いと「院政」のしくみ

・後白河上皇と平清盛、蜜月から対立へ

・炎の中から救い出された、平安時代の観音様124体

・なぜ1001体なのか?「33」に込められた意味

・江戸時代に大流行した弓の競技「通し矢」

・三十三間堂を訪れるときのコツ(会いたかった観音様、太閤塀、後白河の御陵)


▼ 目次

オープニング

天皇・上皇・法皇の違いと、院政

後白河上皇は何をした人か

1164年の創建と、1266年の再建

なぜ1001体なのか

観音様を守る仏たち

江戸時代の「通し矢」

現地で楽しむコツ

エンディング


▼ 全文文字起こしはこちら / Full transcript (Japanese)



▼ 次回

JP#5|なぜ足利尊氏は、敵だった天皇のために天龍寺を建てたのか?【京都編】


▼ パーソナリティ

新井大貴|福井県在住の英語コーチ。全国通訳案内士を目指して勉強中。TOEIC 930点、英検準1級。


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サマリー

京都・三十三間堂の長さ約120メートルのお堂に、なぜ金色の観音像が1001体並ぶのかを、後白河上皇の生涯と平安末期の政治からたどる。天皇・上皇・法皇の違い、院政の仕組み、後白河上皇と平清盛の協力から対立までが語られる。1164年に建てられたお堂は火災後の1266年に再建され、平安時代から残る観音像124体も紹介される。三十三という数や千手観音に込められた救いの意味、風神・雷神ら守護仏、江戸時代に盛んだった通し矢にも話が広がる。最後に、会いたかった観音像や太閤塀、後白河の御陵など、現地での見どころが案内される。

三十三間堂と1001体の観音像
万華鏡 Mangekyo, Japan through history.
本番組では、日本の観光地を主に歴史の視点から掘り下げ、
誰もが知っている名所のまだ知らない物語をお届けしていきます。
聞き終わった後に、その場所をもっと知りたくなる、
いつもの景色が少し違って見える、
そんな発見をお届けできたら嬉しいです。
パーソナリティのあらいたいきです。よろしくお願いします。
さて、今回訪れるのは三十三間堂です。
場所は京都駅から東へ歩いて20分ほどの場所です。
バスで向かうのであれば、バス停降りてすぐ目の前となっています。
第一階で話した京都駅周辺のエリアにありますので、
京都に着いてすぐ向かう、あるいは帰る前に立ち寄りやすい場所です。
このお寺の特徴は、なんといってもその長さにありまして、
お堂の長さはおよそ120m。
木造の見物としては世界でも例がないほどの長さだと言われています。
その長いお堂の中に後ろの奥までびっしりと並んでいるのが金色の観音様たちです。
ではその観音様、全部で何体あると思いますか?
正解は1001体です。しかもそのすべてが国宝に指定されています。
では一体誰が何のためにこれほどたくさんの観音様を並べたのか?
その鍵を握っているのが後白河上皇という人物です。
後白河上皇を主役に平安時代が終わる直前の京都へ旅をしていきます。
天皇・上皇・法皇と院政
後白河上皇の話に入る前に一つ整理しておきたいことがあります。
天皇と上皇、そして法皇、この3つの違いです。
まず天皇は今まさにその位についている人を指します。
上皇は天皇の位を次の天皇に譲って退いた人のことを言います。正式には大上天皇と言います。
そして法皇は上皇が出家してお坊さんになった場合の呼び方です。
上皇という言葉は約7年前にニュースになりまして、2019年平成天皇が位を譲られて上皇になられました。
上皇が生まれるのはおよそ200年ぶりのことでした。
では位を譲った上皇はもう政治には関わらないのか?
実は平安時代の終わりには全く逆のことが起きていまして、位を譲った上皇の方が今の天皇よりも強い力を持って国を動かしていたんです。
これを院政と言います。
なぜそんなことが起きたのか。
天皇でいる間はたくさんの儀式や古くからの決まりごとに縛られていたんですよね。
さらに当時は藤原氏という貴族が天皇家と親戚になることで政治に大きな影響力を持っていました。
ところが位を譲って上皇になれば、そうした決まりや貴族の影響から離れて自由に政治を動かすことができました。
自分の子供や孫を天皇にしてその後ろから国を動かす。
位は引退した社長が会長として会社を動かすようなそんな形です。
後白河上皇と平清盛
この院政は1086年に白河上皇が始めたとされています。
ちなみに白河上皇と後白河上皇は別の人物です。
後のという意味で後白河上皇は白河上皇のひ孫にあたります。
そしてこの院政を最も長くそして最も激しい時代に行った人物の一人が今回の主役後白河上皇なんです。
後白河上皇が生まれたのは1127年。もともとは天皇になる予定のない立場でした。
政治よりも当時の流行歌、今よ。今という漢字に様子のようで今よ。
今でいうJポップのような歌に夢中になっていたとも伝えられています。
ところが天皇家の事情で1155年、思いがけず天皇の位につくことになります。
その翌年1156年に起きたのが保元の乱です。
天皇家と貴族が二つに分かれて争った戦いで後白河はこの戦いに勝ちます。
この時後白河上の味方として戦ったのが平清盛たち武士でした。
これはとても大きな出来事でして、それまでの武士というのは貴族に使える用心棒のような存在でした。
もともと武士は都の力が届かない地方で自分たちの土地を守るために武装した人たちです。
地方で反乱が起きると朝廷はその武士たちの力を借りて鎮めていました。
そうして少しずつ力をつけてきた武士たちをまとめていたのが平氏と源氏です。
こういったことがはっきりしました。
1158年後白河はわずか3年ほどで天皇の位を譲り上皇になります。
そしてここからが本番です。
後白河はこの後亡くなるまでの30年以上にわたって上皇として政治を動かし続けます。
その拠点となったのが京都の東山のふもとに作られた大十字殿という広大な御所です。
実は三十三間堂はこの御所の敷地の中に建てられたお堂なんです。
その建物のお金を出したのが平清盛でした。
天皇家のトップである後白河と武士のトップである清盛、
この二人が手を組んでいた時代の象徴が三十三間堂だといえます。
1169年に後白河は出家して法皇になります。
先ほどの話でいうとお坊さんになった上皇ですね。
ただしお坊さんになっても政治からは離れませんでした。
二人の蜜月つまり仲の良い関係は長くは続きません。
清盛と平家の一族はどんどん力をつけやがて後白河と対立するようになります。
1179年清盛はなんと後白河を閉じ込めてしまいます。
自分が引き上げた武士に自分が抑え込まれてしまったんです。
ここから時代は一気に動いていきます。
源氏が平家に立ち向かい源平合戦が始まります。
1181年に清盛が亡くなり1185年には平家が滅びました。
この激動の時代を後白河は生き抜きました。
時には平家と時には源氏と手を組み武士たちを競わせながら天皇家の力を守ろうとしたんです。
日本一の大天狗と呼ばれたと伝えられています。
一方で若い頃に夢中になった今様への情熱は生涯変わりませんでした。
後白河は今陽を集めた良人秘書という歌集もまとめています。
政治の駆け引きの名人でありながら文化を愛した人でもあったんです。
後白河が亡くなったのは1192年。
そして同じ年に源頼朝が征夷大将軍になります。
後白河の死はまさに貴族の時代が終わり武士の時代が始まる境目だったのです。
創建・焼失・再建と1001体の由来
では三十三間堂そのものの話に戻っていきましょう。
三十三間堂が建てられたのは1164年。
後白河が上皇になって数年後平清盛と一番仲が良かった頃です。
後白河が観音様に祈りを捧げるための場所として建てさせたお堂でした。
ちなみに三十三間堂この名前実は通称でして正式な名前は蓮華王院と言います。
ところがこのお堂は建てられてからおよそ80年後の1249年火事で焼けてしまったんです。
その時炎の中から運び出された観音様がいました。
その数は124体。この124体は今も三十三間堂に並んでいます。
今もそこにいます。
1266年鎌倉時代になってからお堂は建て直されました。
今私たちが見ているお堂はこの時のものでして焼けてしまった観音様も新たに作られ
平安時代の124体と合わせて1000体が揃いました。
そしてその1000体の真ん中に座っているのが一際大きな観音様です。
この観音様を作ったのは丹景という鎌倉時代を代表する仏師、つまり仏像を作る職人です。
丹景の父は東大寺の金剛力士像で知られる運景、親子で日本の仏像の歴史に名を残した仏師です。
立っている1000体と真ん中に座る一体、合わせて1000一体というわけです。
三十三と観音菩薩の救い
ではいよいよ本題で、なぜ後白河はこれほどたくさんの観音様を並べたのでしょうか。
まず前回の清水寺の会を思い出してみてください。
観音様というのは困っている人の声を聞いて助けに来てくれる仏様でした。
そして救う相手に合わせて三十三の姿に変わると言われていましたよね。
三十三間堂に並んでいるのはその中でも千手観音、千本の手でより多くの人を救う観音様です。
そして三十三間堂という名前、これはお堂の正面に並ぶ柱と柱の間の数が33あることから来ています。
この柱と柱の間のことをけん、漢字では間と書きます。これでけんと数えます。
なので三十三間堂。この三十三という数には観音様が三十三の姿に変わって人々を救うという意味が込められています。
つまりこのお堂というのは建物の形そのものから中に並ぶ仏様の数まですべてが観音様の救いを表しているんです。
ではなぜ御白河はそこまで観音様にこだわったのか。
一つは信仰です。三十三間堂が建てられるまでの数年間だけでも、
京都では1156年の保元の乱、1159年の平治の乱と大きな戦いが続いていました。
三十三間堂は、この国を動かして人々を救うために、
そういった御白河の力の証でもあったんです。
信仰と力、この二つが重なって生まれたのが千一体の観音様なんです。
観音像を守る仏たちと通し矢
三十三間堂に並んでいるのは観音様だけではありません。
千一体の観音様の前には法神台の仏像が30体ずらりと並んでいまして、
28部首と呼ばれる28体と風神、雷神です。
彼らの役目は観音様を守ること、いわば観音様のボディーガードです。
特に風神と雷神は風の入った袋や雷を鳴らす太鼓を持った姿で、
一度見たら忘れられないそんな迫力があります。
風神と雷神は日本の絵画にもよく描かれていますので、
この姿どこかで見たことがあるとそう思う方も多いと思います。
金色に輝く千一体の観音様とその前に立ち並ぶ守護の仏たち。
お堂に入った瞬間にその光景に思わず息を呑むはずです。
さて33玄堂にはもう一つ意外な顔がありまして、
それは弓の競技の舞台だったということです。
お堂の長さは先ほど冒頭でもお伝えしたようにおよそ120メートル。
この長いお堂の外側の西側の軒下を使って、
端から端まで矢を射通す、これが通し矢です。
通し矢は秀吉の時代、桃山時代から行われていたと言われていまして、
軒下なので上には屋根があります。
矢を高く放つと屋根に当たってしまうので、
低くまっすぐに120メートル先まで届かせる必要がありました。
なのでかなりの腕前がないとできない技です。
江戸時代になるとこの通し矢が大流行します。
丸一日かけて矢を射続け、何本届いたかを競う。
一日に千本から多い時は一万本を超える矢を射たとも言われています。
各地の武士たちが藩の名誉をかけてこの記録に挑んだそうです。
その伝統というのは今も形を変えて続いていまして、
武士たちが集まる大的大会こちらが開かれています。
今は約60メートル先の的を狙う形で行われていて、
成人を迎える若者たちが振袖や袴姿で弓を引く姿は、
京都の冬の風物詩にもなっています。
三十三間堂を訪れるポイント
最後に三十三間堂を訪れる時のコツやポイントなどを3つ紹介します。
一つ目、自分が会いたかった観音様こちらを探してみてください。
千体の観音様よく見てみると一体一体少しずつ表情が違います。
この千体の中には自分が会いたかった観音様が必ずいると言われています。
ゆっくり歩きながら一体ずつ表情を見ていくと、
きっとこの観音様だと思える一体に出会えるかもしれません。
千体もいるからこそ誰にでもその人のための一体がいる。
そう考えると後白河が仙台も並べた意味が少し身近に感じられるかもしれません。
ただしお堂の中は写真撮影ができませんので、その分自分の目でじっくり見てください。
二つ目、お堂を出ましたら南側にある太閤塀と南大門を見てみてください。
太閤というのは豊臣秀吉のことで、第一回で京都の街を作り変え、第二回で伏見稲荷に楼門を起身したあの秀吉です。
秀吉はこのすぐ隣に巨大な大仏を作らせました。
そのお寺の兵として作られたのがこの太閤塀です。
秀吉と京都の話は京都編の後半でじっくりお話をしますので、ぜひ楽しみにしていてください。
三つ目、三十三間堂の東側には後白河のお墓、大十字の御捧ぎがあります。
後白河は今も自分が建てたお堂のすぐそばで眠っています。
今回のこの話を思い出しながら訪れると少し特別な気持ちになれるはずです。
ちなみに三十三間堂の向かいには京都国立博物館もありますので、時間があれば会わせて回るのもおすすめです。
今回は三十三間堂のお話でした。
天皇の位を退いた後も三十年以上にわたって国を動かした後白河上皇。
戦いが続く時代に彼が観音様に寄せた祈りとその力の大きさが形になったのが千一体の観音様でした。
後白河が亡くなった後、源頼朝が鎌倉に幕を開き、日本はいよいよ武士の時代に入っていきます。
次回はその約150年後、鎌倉幕府を倒し新しい幕府を開いた武将、足利尊氏が登場します。
舞台は京都の西、嵐山。なぜ尊氏は敵だった天皇のために天龍寺というお寺を建てたのか、その謎を解いていきます。
最後に少しだけ告知させてください。
自分は今、英語を学び直したい、そんな方に向けて英語コーチングを行っています。
学生の頃の英語をもう一度やり直したい、日本のことを英語で話せるようになりたい、そういった方はぜひ概要欄からチェックしてみてください。
この番組はSpotify、Apple Podcasts、YouTubeなどで配信しています。
ぜひ高評価よろしくお願いします。
最後まで聞いていただきありがとうございました。
お相手はPersonalityの新井大貴でした。
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