1. まなびのはなし
  2. #023 - 教える - teaching -
2023-07-19 25:37

#023 - 教える - teaching -

大人の学びをサポートする二人が、今回改めて「教える」ということについて話し合いました。自分たちが教える側にいるときの視点、自分たちが学習者として教わる側にいるときの視点、などなど。

  • 他の人たちの教え方に触れたときに感じること
  • それぞれが教育学科にいた時のエピソード
  • 内容・テーマ・相手によって適切な「教え方」は違う?
  • 梅干しの作り方を初めて教えてもらったときの体験からの気づき
  • 学習者側の心理的安全性への配慮
  • Zoom会議を主催する方法を教える体験からの気づき
  • 学習者が「迷子になる」とき
  • 教える側が用意する、学びのロードマップづくりの価値
  • 全体像・地図とスポットライトの両方の大切さ
  • 教える人の意図・フィルター・限界があるからこその面白さ
  • AIの時代における「教える」

関連エピソード

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このpodcast「#まなびのはなし」では、大人の学びをサポートしている二人が、それぞれ見つけた・考えた、ことを、話したいから話しています。話している二人はemi (⁠ウェブサイト⁠)とtomoko (⁠ウェブサイト⁠)。自己紹介エピソードはこちらです:⁠#001 - 自己紹介

サマリー

このポッドキャストでは、教育現場の高知的ななり方やコーチングの有効性、教育学部の教授の在り方、梅干しの作り方など、さまざまな教育に関する話題が取り上げられています。また、大谷翔平の活躍とメジャーリーグのマーケティング戦略についても語られ、野球のマーケティング戦略が広がっていることが示されています。教えると学ぶ人のキャパシティには限界がありますが、教える人が存在する環境で学ぶことの良さが引き出されます。

教育の変化とコーチング
このポッドキャスト、まなびのはなしでは、大人のまなびをサポートしている2人が、それぞれにつけた、考えたことを話したいから話しています。
はい、今日もよろしくお願いします。
お願いします。
今日話したいことは、教えるについてです。
はい、教える。
教育現場は、わりと高知的になっていこうっていう流れがあって、
教えないっていうことがテーマになっているセミナーとか研修もたくさん今出てきている時代なんですが、
あえてそのコーチングをやっている私たちが、教えるっていうことについて話してみると、どんな感じになるかなと思っています。
自分が教えるっていうのって、教えられ方とかって結構参考にするじゃないですか。
他の人に自分たちが教えられた経験で、あれ良かったなと思って、ちょっと自分のツールに入れるみたいな、
私はコーチングではやるんですよね。
コーチングされた時に、こういう風にコーチングやるのか、みたいなことをちょっと覚えて、
コーチとしても自分の道具箱に入れるみたいなのがあって、
教えるっていうのも、そういうの少しあるなって自分は思ってるんですけど、
えみさんは、自分が教えられるっていう体験と、自分が教えるっていう体験に何かつながりとかってあったりします。
なるほどな。
ともこさんはやっぱりすごく適応力が高いから、たぶんそうなってるんでしょうね。
うん、適応力。
私、あんまりないかも。
どうなんだろうな。あんまりそれ考えたことがないですね。
そうですか。いや、実は考えてそうですけど、
ウェビナーのお話しした時に、参加者としても違う視点でえみさんをクリティカルに結構見てた印象があったので、
教えるのをさりげなく、そういう視点で自分の体験をメタ認知していくようなイメージがあった。
教え方として、評価を割としてしまいがちっていうところはあるかもしれないですよね。
こういうところが上手だなとか、ここのした方がいいなっていうアイデアを出すことはすごくあると思うんですけど、
普通にと言って、私この人じゃないから、受け継いだりっていうのはあんまりないかもしれないですね。
例えば、最初に私ティーチングの経験をした時って子どもの英語教室で、
一人の先生が持ってた教室をそのままいただいたんですね。
なので、1ヶ月ぐらい引き継ぎ期間があって、その前の先生の授業を見たり、
子どもたちの名前とかを覚えたりとかってする期間があったんですけど、
教え方と自分の道具箱
同じようにはむしろしないようにすることが多かったので、
そこが出発点なせいか、あんまりこの人の教え方をもらって自分が実現するっていうのはできる気がしていないんだと思うんですよね。
その時は何であえて通ってみようと思ったんですか?
圧倒的に私はもう全く初めての経験だったので、経験値が違うなっていうことと、
キャラが全然違う先生だったので、同じようにはとてもできないので、
私は私で作っていくしかないんだなっていうのが、割と最初の原体験なのかもしれないですね。
じゃあご自身らしくやるぞっていうのも結構早いじゃないかね。
もう見極めをされてそうしてたんですね。
全く違うから比べようがないっていうふうに自分でも思っていってたし、
先生変わったからやり方変わるんだみたいなふうにそんなの考えたことなかったですけど、
直接的に取り入れるってことはすごく少ない気がしますね。
確かに私も全部を取り入れるわけじゃないんですけど、結構やっぱり参考になるところは、
なるほどってみたいな感じで根を押すことがあって、
もちろん自分ができないものもありそうだし、いいなって思うできないものと、
特に興味がないなっていうのと、いろいろあるんですけど、
あとはすぐ取り入れられそうみたいなやつと、
もしかしたら体験の組み立て方っていうところを特に見ているのかもなって、
インタラクションデザインみたいな設計のあり方で、
こうやってこのコンテンツをこの1時間半を使って教えるんだなっていう、
そういうとに依存しない部分を盗んだりとかした上で、
デリバリーしている部分は確かにね、あまり比較そこまで確かにしていないと思う。
そうですね、構成とかテクニックの部分についてはね、
盗んですぐに実践できる部分は確かにあるかもしれないですね。
今ね、私は大学院生で何人かの違うタイプの教授の授業を、
コンテンツも違うので横並びで比較はできないんですけれども、
授業を受けているっていうのをやっている方を見ていることがちょっと多いんですよね。
例えば、1人の教授があの使い方が結構上手いんですよ。
ちょっとけど私からすると長すぎる。
問いかけして答えを待っているのか、
なんか普通に次話すことを忘れているのかちょっとわからないような微妙な間を使う人がいて、
けど私にとってはそれがなんか長いなって思うんだけれども、
余分な間があることによってギリギリ最後にようやく口を開く同級生がいたりするんですよね。
だから自分の直感的にそのまま多分使わないんだけど、
使うとこういうことが起きるのかふむふむみたいな、
そういう発見があって、そのまま使い方みたいなのはね、
構成っていう話でもないので、
先生の在り方というか、その人の性格の表れもあると思うんですけど、
そういうのも興味深いなとか思ったりしたことがちょっと頭にあったので、
参考にして道具箱に入れているっていう話をしたんですよね。
現役のね、学生さんなので。
教える体験と教育学部の教授
そうね。
今はトモコさん教育学科じゃないのよね?
そうですね。今はビジネススクールですね。
そうだよね。
私教育学科にいた時、別学科の授業を取らないといけないとかあるじゃないですか。
うちで言うと、例えば言語系は人類学とか、統計だったら別の学科に行ったりするんですけど、
そういうところのプロフェッサーたちが教育の人たちが来るとやりにくいって、
内側から見るっていう学生に慣れてないので、
教育学科の先生たちは自分も教育者だし、相手も教育者って分かってやってるからいいんですけど、
他の学部のプロフェッサーって、そんな自分の舞台裏を見られてるっていう経験があまりないので。
それすごい考えることがあって、やっぱり教育学部の先生たちって、
特に私とかエミさんが行ったプログラムで教えてた先生たちって、
やっぱ教えるのプロだなって思うんですよね。当たり前なんですけど。
で、私が大学院生だったときって、ちょうどムークが流行り始めたときだったんですよね。
大規模公開オンラインコースで、教育学部の生徒がインターンとかで、
別の例えば歴史学とかの教授のムークのコースを作るインターンとして送り込まれるみたいな、
やっている友人たちがいて、そういう人たちってもうコンテンツとか研究とかがマグネットというか、
それがあるから授業が満席になるとか、そういう教授たちって教え方ってそんなにイノベーションは必要ないというか、
やっぱりいかに専門の知識を常にアップデートしてるかみたいなことの方が重要だった時代が、
ずっと続いてた人が、急にオンラインコース作るけど、
ビデオに向かって2時間話し続けるのはやめてくださいみたいなことを。
できちゃうからね、それがね。
飲んでないみたいな感じで、やっぱそこのところのやりとりが結構大変だったっていう、
2012年の話をちょっと思い出しましたね。
そうなんですよね、だから教えるってプロもいる中、誰でもできることでもあったりするので、
教えるについてあまり深く考えなくてもね、いつの間にか教える立場になっている人っていうのはたくさんいるんですよね。
確かにね、そうですね、教えるって誰でもできることだから、いろいろなやり方でやっているものですよね。
あともうちょっと大学院でいろんな教授のを見てて思うのは、やっぱりコンテンツによって教え方の適切なスタイルってあるなと思っていて、
私もともと教育学部で学んだ経験とかもあったので、いかに学習者に自分の頭で考えたりワクワクして学んでもらうかっていう体験を作ること、教えることをやる人にとって重要だと勝手に前提を置いてたんですよね。
ただ今受けてた労働法の授業、弁護士の先生が教えてるんですけど、今の世の中がいろいろダイナミックに変わっている中で、
組織の守らなければいけない人に関する法律をたくさん学ぶ授業なんですよ。
すごくコンテンツが詰まっているので、いかつ私とか受けてる人は、弁護士でもなく法律のことを今まで全く知らない人たちが受けているので、
自分の頭で考えるとか、そういうふうに二の次というか、やっぱり事例をたくさん先生に教えてもらって、
先生の視点はこうだけど、こういう人の考え方もあって、いろいろなパターンを先生が言ってくれることがインプットがたくさんあった上で、ようやく頭が考えられ始めるという順番だと思うね。
だから教えるの、彼女の在り方っていうのは、やっぱり彼女がコンテンツを持っていて、いかにシャワーを浴びるかのほうが重要なんだなっていう、
あの教え方が一番フィットしているコンテンツなんですよね。
一方、リーダーシップとかだと、たぶんあれが適さないかもしれない。
ぼんやり考えながら大学院授業に受けていく。
ちなみに、エミリーさんが何かティーチングされた経験みたいので、最近一緒に残っているものとかってあるんですか?
最近ね、私、おばに初めての梅干しの作り方を教わっているんです。
はい、はい、現在進行形なんですね。
はい、だんだん赤くなってきました。
いいですね、いいですね。
本当に手取り足取りで、私生の梅の実に触ったのすら、今回たぶん初めてで、
そんなわけわからない梅だと、おばも思っていなくて、
もう梅の木の前に立って、どこを持ったらいいの?
持ってどうすればいいの?から教わっていて、
おばに笑われたり、呆れられたりしているんですけど、
おばは何十年も一人で梅干しを作りながら、どんどん改良してきているんですけど、
一回も誰にも教えたことがなかったんですね。
だから、おばにとって教えるっていう体験が初めてなので、
簡単に教えていいよっていうふうに始まったんですけど、
教える側と学ぶ側の違い
なんかやっていく中で、これはちょっとおばにとって負担が大きいんだなって気づいたっていうことがありましたね。
配慮ある学習者ですね。
教えてる人の気持ちがわかる。
本当なんか多分大変なんだろうなって思って、
2つあるんですけど、1つは全体像をなかなか教えてくれないんですね。
今ここにあるこのことだけを教えてくれて、
次のステップを、これがどこに繋がっていくかっていうのを教えてくれないので、
やることは言われた通りやるんですけど、
これをするとどうなるか、しないとどうなるのかっていうのがわからないまま進んでいくので、
結構学習者としては不安になるっていうところがある。
2つ目はきっちり決まったことがないので、
だいたいでいいとか感覚だよとかやってみなきゃわからないとか、
そういうインストラクションなので、
これもまただいたいでいいってすごくおばは大らかな人なので、
許容範囲が広いという意味で言ってくれてるのはわかるんですけど、
やったことない私としてはどのくらいだいたいなのかすらわからない。
例えば梅に塩をまぶすとかでも、
塩はどれくらい取るのかとか、どのようにまぶすのかとか、
サッと取ってペッペッみたいな、そういうことなんですけど、
スプーンでもいいのかなみたいなことを聞いたりすると、
じゃあ1回スプーンでやってごらんって言われて、
やったら固まってしまって、やっぱりスプーンはだめだった。
なるほど。
なのでその2つが割と不安になる大きな要素だなっていうふうに感じましたね。
さすがえみさん、重要な2つのポイントを抽出されている。
なるほど。
それはえみさんからすると、
おばさんが過去に誰かを教えたことがないことがやっぱり大きな理由なんですかね。
そうだな、そう言われてみるとそうじゃない気がしてきますね。
私アメリカで教育実習を担当していたことがあって、
英語を教える先生たちを育てるプログラムだったので、
全く教えた経験がない人たちに、
一からいろんなお手伝いをして、レッスンプランを書いて、
現場に実際行って、初めて教団に立つっていうような場合でも、
いきなりやっぱりできる人っていますからね。
必ずしも経験がないからとは限らないかもしれないですね。
なるほど。
おばの場合は、自分がやってることが複雑なんだっていうことを
気づいてないんだと思うんですよね。
誰でもできる、見ればわかると思っているっていうところがあるかなと思いますね。
そういうのはありそうですよね。
ちょっとバイアスの時に話した質問と似てますけど、
自分の当たり前だ、他の人の当たり前じゃないっていうのは
本当にシンプルな、教える側と学ぶ側には前提が全然違うとか、
そういうものがわかっていると、多分もう少し学習者の立っている場所に近い形で
情報を届けるとかできるんだろうなと思いつつ、
これで結構練習とかフィードバックをもらって、
何言ってるかわかりませんとか言われたら、
そっか、そうなのね、みたいなのがあるから、
経験があるかないかっていうのは少し影響はしてるだろうなと思うんですけど、
経験以外にもやっぱりそういう、
英語だと先人の靴を履いてみるみたいなプレーがありますけど、
その人の立場から物事を見るとか考えるとかっていうのは
結構ね、教える側としてはすごくたくさん使う場所かなというふうに思いますが、
そのためには結構覚悟が必要かなと思っていて、
覚悟。
それをやると、企業のマネージャーと部下みたいな関係性で、
覚悟と環境の重要性
教えるの起きるときって、早く成果出してとか早く改善してみたいなプレッシャーの中で
教えるが起きることが多いので、
そうするとやっぱり上司側が、
自分が若い時はこんなんじゃなかったとか、
本当に簡単に説明してんのにみたいな、
そういう結構思い込みによって、
教育機関先生もそこで学んでる側は、
やばいやばいみたいな、
分かってないから言いづらいみたいな感じに使ってるっていうのが起きるので、
やっぱり教える側が相手を指す。
逆にやってもしょうがないというか、
学習者がいかに教える側の気持ちを指しても、
学びがこう、スムーズに起きないと思うので、
そこが重要だろうなと思っている文脈で、
うちなんか母親は、
ルールもコロナとかの中で、
たくさんウェビナーとか、
いろいろなものがずいぶんあって、
参加するっていうのは、
自分でできるようになったんですよね。
けど、
ホストする。
要は自分でミーティングを立ち上げて、
人に入ってもらうっていうのを、
彼女はちょっとお仕事みたいなのをやる中で、
やらなきゃいけなくなって、
そのやり方を教えてくれって言われて、
私が何度か教えている、
現在進行中なんですけど、
母がパソコンの画面を、
LINEのカメラで見せながら、
これのボタンどこ?
カメラ向いてるとこ、
血が動いてる。
酔いますしね、それやられると。
そうそう。
で、それをやっている会話を、
たぶん父は横で聞いてたりとかして、
時間かかりすぎだから、
今日はやめにしたなとか、
途中で聞こえたりする時もあるんですけど、
やっぱなんかこう、
時間のプレッシャーとか、
教える側にゆとりがないと、
ギガッとする動画が早まるというか、
そこは覚悟はして、
もしかしたら15分で終わると思ったけど、
30分ちょっと予想して、
スクリーンシェアを学ぶっていうやつが、
教えるスキルと全体像の共有
最近のレッスンだったんですけど、
LINEの画面で教えるの結構大変なんだよな、
と思いながら、
それをやった記憶をちょっと思い出したり。
なるほど、そういう意味の覚悟なんですね。
時間もですし、エネルギー、
忍耐力みたいなものを、
確かに教えるっていう時には、
必要でしょうね。
そうなんですよね。
だから、教えることが起きるって分かるときは、
自分の心の状態とか、
スケジュールの状況とかで、
今教えられる状況かどうかと、
私は結構意識した上で、
来い!
何の質問がありますか?
最初にやりとりをすることがありますね。
私は今回、教わる立場として、
初日とかは、
細かい話ですよね。
梅をどういう順番に詰めていくかとか、
どれくらいの分量なのかとか、
この後どうなるのかとか、
どんどん質問してたんですけど、
でも、それはもう、
大葉のキャパを超えてしまうので、
不安な部分は自分で検索とかで、
補ったりしようと思ってたんですけど、
それはそれで、
みんな言ってることが違ったりとかして、
学習者ってこうやって迷子になるんだなっていう経験も、
一方でしながら、
今回は検索もしないで、
他の情報をなるべく入れないで、
大葉の教えるスタイルに、
学習者のスタイルではなくて、
教えるスタイルに徹底的に合わせていこうっていう風に、
切り替えたので、
そこから先は、
割とスムーズに進むようになったなと思うので、
例えば上司と部下の場合も、
部下の側にできることは、
比較的少ないですけれど、
でも割と教える側の人が、
気分よく動けるようにしてあげることで、
スムーズになることっていうのも、
あるかなっていう風には、
ちょっと思いますね。
マチュアな学習者ですね。
学習者の迷子っていうのは、
結構重要なテーマだなと思っていて、
やっぱり初心者は、
気になるじゃないですか、
いろんなことが。
見極めができないっていうところがあると思うんですよ。
例えば、
Zoomのボタンも、
スクリーンシェアのボタンだけを探してほしいんですけど、
これ何だろうとか、
これ必要?とか、
これは何?みたいなのが出てくるのを、
やっぱり教える側が、
いかに迷いをなくすことを手伝うか、
みたいなところで、
それ後でいいかなとか、
それ今本当にいらないかなとか、
結構私はそれは、
コーチングとかのスタイルは吹っ飛ばして、
ピーチングのテクニカルなことをやるときは、
私にとって、
今必要なのはこの4つだけだから、
みたいな感じで、
断言しちゃうことはありません。
相手がフワッと迷い始めた時、
それはもしかしたら、
大学院の先生もきっと、
労働法とかって、
無限に教えようと思えばあると思うんですけど、
多分そのプログラムの目標であったり、
参加する我々の特性とかを踏まえて、
彼女なりに教えるのを、
ロードマップをついて、
その横道は、
そんなに彼女が強調しないことによって、
私たちの頭の中に入ってこない、
みたいな、
見えない道作りを教えている側は、
上手な人はしてくれてるんだろうな、
っていうのもちょっと思ったりしてますね。
何を教えるかっていう、
そのフォーカスの絞り方もありますし、
複雑なものの中で、
いかにシンプルにチャンクダウンしてね、
バイトサイズって言われたりしますけど、
学習者が咀嚼できる量に、
小さくしてあげるっていうのもね、
教えるスキルとしては大事な、
ところですよね。
それにもう一つ加えるとしたら、
さっきエミさんも言ってた、
全体像っていうのも、
チャンクダウンするのも大切だけれども、
それぞれがどういうふうに、
大きな地図の上に残ってるか、
みたいなものがあると、
教える人の存在
それがなくても学べる人も、
もちろんいるんですけど、
全体像が欲しい人っていうのは、
それがないと、
全体像、全体像、
しばらくずっとそれに、
これは何なんだろうかっていうね、
粒がたくさん前に並んでても、
そこに意識が向いちゃう人もいるので、
結構全体像が対象になった方がいい人も、
半分ぐらいいるんじゃないかな、
という印象が個人的にはある。
フォーカスと全体像、
どちらもね、だから大事で、
全体を見つつ、
今はここにしようとか、
今必要なのはここだよ、
っていうようなね、
スポットライトを当ててあげるっていうのは、
ここだけを見せるっていうのとは、
ちょっと意味が違うと思うんですよね。
梅干しで言うなら、
今赤じその段階になって、
だから塩漬けの段階から、
梅を平らにしていかなくちゃいけない、
って言われたのは、
こういう意味だったのかって、
後になって戻れないことに気づくんですよね。
ここで学習者としては、
モチベーションが落ちる人もいるだろうな、
と思うんですよね。
もうガタガタになってしまって、
元に戻せないので、
後々こうなるんだよって言ってくれれば、
もうちょっと頑張ったのに、
もう嫌になったっていう風になったりするかもしれなくて、
そういう後戻りができないっていう部分はありますね。
労働法もね、梅干しも、
もちろん英語で言うなら文法とかもそうですよね。
文法なんてもう海のように広いものですし、
学習者ってこのSとあのSがどう違うかわからないで、
S持ってきましたっていう感じで来たりしますけど、
今はこっち見よ、こういうのがグループだよっていうことはね、
区切ってあげないとどんどん混乱して、
で、検索するとみんな違うこと言ってるっていうね、
私が今回ハマったのと同じ沼にハマってしまうのでね、
その辺のところが教える人は知っておくと、
学ぶ側としては助かるところでしょうね。
教える体験の意味
検索っていう単語って改めて思ったのは、
今本当にだからコンテンツはすぐ探せる。
AIとかでも出てくるし、探す海があるから、
なおさら教える人が意図を持ってスポットライトを当てたり、
地図も意図を持ってクリエイティブに描けるものだと思うので、
結構やっぱその教える人というフィルターが、
学習者の体験を左右するなというふうに改めて思います。
それじゃなかったらその学習者が自分で検索して、
自分のフィルターで好きなように集めていって、
学べばいい世界もたくさんあると思うんですよね。
だからあえて教える人が存在する環境で何かを学ぶっていうのは、
教える人のアーティスティックなもの、
表現といったアイデンティティの体験かもしれないけど、
弁護士の先生を見て思ったのは、
彼女の結構フィロソフィーがあって、
労働法を学ぶビジネスリーダーにはこういう視点を知ってほしいと、
すごくあるんですよね、こだわりみたいな。
そのこだわりがある人が教えるからこそ面白い。
もっともっとAIとか検索がスムーズにいく時代になればなるほど、
教える人という人間の在り方みたいなところとか、
その人らしさみたいなのが魅力になるのかなってちょっと思ったりしましたね。
さっき私、おばのキャパシティっていうような表現を使いましたけど、
やっぱり人間が教えて人間が学ぶことの良さっていうのは、
キャパシティに限界があるっていうことだと思うんですよね。
なので、教える側の人は一旦広い海を見て、
学ぶ人のキャパシティで受け取れるところはどこなのかなっていうふうに、
あえて狭めていけるロードマップの中でサインポストして、
次はここだよ、こっちだよ、最終的にはあそこを目指そうね、みたいなふうなのも、
キャパシティに限界があるからこそできてくることだと思うんだよね。
無限に膨大ではないっていうことを良さとして使っていけるといいのかなと思いますね。
それを受けた人たちが出発点としてそれを使いながら横道をどんどん検索して、
別の視点とか枝の部分をどんどん深めていくっていうのをやるっていう意味では、
いいとこ取りで両方人からそういう限界がある形でまず道路をしっかりもらった上で、
人が自分でテクノロジーとかリソースを使って広げていくみたいな、
いろいろ豊かな感じになりそうだなって。
そうですよね。教えないっていう流れっていうのは、
そういう意味で教えきれないっていうようなことだろうとは思いますけどね。
教えたことだけですべてだと思うなよっていうね。
他にもいくらでも横道はあるよっていうのを見合わせつつ、
でも道をそんなに外れないように連れていくっていうのが、
特にそういうAIなんかが出てきた時代の教えるっていう体験なのかなという気がしますね。
今日なんかピーチンコーチングのお話から、
実際のAIという話もあったので面白かったです。
今回は教えるについて話しました。
紹介した情報や関連するエピソードのリンクは、エピソードの情報欄に載っています。
学びの話は毎週1回配信予定です。
番組をフォローしていただけると嬉しいです。
それではまた次回。
25:37

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