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このポッドキャスト、まなびのはなしでは、大人の学びをサポートしている2人が、それぞれ見つけた、考えたことを話したいから話しています。
今日もよろしくお願いします。
お願いします。
今日のテーマは、言葉を使わない学びについて。
はい。
いろんな大人の学びをしているときに、思っていることとか学んだことを話すとか、
また、チャットGPTとかを使って、まなびを伴奏してもらうときも指示を出すっていう、
グロンプトの言葉の使い方が結構ポイントだよね、みたいな話もしてて、
認知の話とか、言葉の話とかしてたんですけど、そろそろ、そうじゃなくて、
例えば、言葉に依存しない形の大人の学びっていうものについて、
ラックバランに話したいなと思った。
そうですね。
チャットGPTもだし、SNSとかもやっぱり文字で、
共有することがすごく多いので、
言葉に囲まれているっていう感じがある中で、
あえてそうじゃないタイプの学びってどんなことがあるかなってことですね。
そうですね。
ゆみさんは、何か言葉を使わない学びって聞いたときに、
何か連想することってありますか?
私、本当に言葉にまみれているので、
そんなのあるのかなって、
何か考えれば考えるほど、
私の生活の中で言葉を使ってないときって、
見つからない感じがしているんですよね、現段階では。
そうですね、確かに何か言葉を全く使わない学びっていうのは、
またすごく特殊な感じもするんですけど、
自分が今回このテーマを話してみようかなって思ったときは、
言葉が後にくるイメージなんですね。
まず最初に体で、また感覚で何かを吸収して、
その後、それは一体自分にとってどういうことなんだろうかっていうときに、
言葉が使われる。
それがセットで学びになるみたいなイメージですかね。
それをたぶん私、一番最初に感じた、
こんな学びのあり方があるんだっていうのは、
ダイアログ・インダー・ダークっていう学びの場なんですけど、
完全に光を閉ざした、本当に目を閉じても開けても真っ暗っていう空間の中で、
普段から視力に依存していない視覚障害者の方が、
私たちをリードして案内してくれる。
その中で、その暗闇の中を一緒に進むことで、
視覚以外の感覚の刺激を受けて、
感性を使って、そこで自分の視野が広がるとか、
視点が切り替わるみたいな体験をする、
対話っていうか、暗闇という空間と、
自分、そして仲間の方々との一緒に過ごす時間、
みたいなところからの学びを得るっていう体験があるんですね。
もともと、日本にはたぶん99年にドイツから来たものなんですけど、
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それがソーシャルエンターテインメントというカテゴリーなんですけど、
企業研修に使われてたりっていうところに行ったのが、
まず一つ目の体験でした。
もちろん話したりしますし、
暗闇の中で全く無言っていうことでもないんですけど、
喋るので、そこは足気持ちを気をつけてくださいとか、
そういう形のメッセージだけなので、
あまりなんか、今ここで何が起きてるんだろうって、
体験する瞬間にたくさん話すというよりは、
体験したいだけはやっぱりその感覚に集中していて、
それが終わってから対話をするっていう感じなんですよね。
対話しない人もいるのかもしれない。
なるほどな。今のトムコさんの話を聞いていて、
私は同じ場で同じ経験をしても、
多分言語活動っていうふうにカウントしただろうなっていうふうに思っていました。
っていうのは、言語を使う活動っていうのは、
インターパーソナルだね。
他の人がいて、その人と言葉を交わすというタイプの活動と、
イントラパーソナルでね、
一人の人の中で言語を巡らせるようなコミュニケーションっていうのもあるので、
おそらく私は暗闇に入れられたら、
より言語活動が活発になっているんじゃないかなという、
そういう感じがしましたね。
そうですね。確かにイントラパーソナルな対話が起きて、
しかもそれに耳を傾けやすくなる環境なのかなと思いますね。
なので、確かに言葉を使わないっていうと、
外に出る言葉の量と、中で起きるものっていうのが、
違いがあるのかもしれない。
今のエミさんのカテゴリーの話を聞いてちょっと思いましたね。
もう一つ、ダイアログ・インアダプトと同じくらいの時期に、
自分が出会ってすごく好きなのが、
絵画ワークショップって言って、
これは人間がみんな本来持っているクリエイティビティ、
創造性っていうのが、学校教育の影響とかもいろいろあって、
可能性が閉じ込められているところを回復というか、
引き出すことをサポートするワークショップなんですね。
アートとかクリエイティビティって言うと、
すごく自分はないんです、みたいなことを言う大人が多い一方で、
そうじゃないんですよっていう非日常な体験を提供するワークショップで、
30分くらい無言でパステルクレヨンみたいなのを使って、
指で書くんですね。
その抽象画を系補研の中に書いた後に、
テーマがあって、そのテーマに向き合って書くんですけど、
それを並べて、みんな他の人と並べて、
鑑賞するって、それも結構無言でポストイットとか使って鑑賞して、
みんながもらったフィードバックを振り返って、
その後に最後対話が起きるっていう、
口に言葉で出すのは最後にあるっていうワークショップで、
これもさっきのダイアログの中とちょっと似ていて、
インパクトとしては、普段、活字とか言葉だけで、
あなたは何々についてどう思いますかって、
いきなり直球の通りが来た時に、
必ずしも自分の中から言葉を紡ぎ出せないようなものが、
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アートという抽象的なものが中間に存在することで、
自然にその人らしい言葉で出てくることをサポートするっていう、
絵画ワークショップは、
ダイアログになると私3、4回しか行ったことないんですけど、
絵画ワークショップは多分15回しかやっていて、
そのぐらい自分は結構好きな言葉に基準をそこまで置いていない、
大人の学びのあり方、もう一つの事例なんですよね。
うーん、なるほどな。
私の解釈としては、自分の中の内省とかをむしろ高めて、
自分の感覚を言語化していくように思えるんですけど、
私が今までしたことがある活動で似たようなものを探すと、
座禅かなっていう感じがしました。
静寂の中に自分を置くっていうことで聞こえてくるものとか、
感じられることに集中を向ける、
それに似ているのかなっていう気がしますね。
そうですね、座禅とか瞑想とか、
自分の普段の表面的な意識化に潜ったりとか、
ちょっとクリアになって新しいことが見えたりっていう、
そういう意味では似ているかもしれないですね。
特に私は言語にまみれているせいもあるんですけど、
ワークショップに参加するとかっていう風に、
ちょっと非日常にでもしない限り、
なかなか起きにくいっていうことなのかもしれないですね。
そうですね、結構ポイントは確かに非日常っていうところにあるような気もしてきますね。
こうやって聞いていると、言語がどうのというよりは、
普段の環境下で紡ぎ出される言葉とか思考のレンジを超える、
きっかけとして一旦非日常に刺激が違う形で存在する。
それによって、いつものデフォルトのパターンの考え方とか、
言葉の幅を超える体験を持って帰ってくるみたいな感じなんですかね、日常に。
デジタルデトックスみたいな感じですかね。
そうなんでしょうかね。
なんか、ガイアロー・イン・ダ・ダークも絵画も私の中だと、
非日常に行って、あっと気づきを得て、
それでリフレッシュされて終わるというよりは、
そこで得たものを持って帰ってくるイメージなんですよね。
新しい視点とか、自己理解が深まったもそうですし、
他の人ってこういうことを考えているのかっていう発見もそうなんですけど、
それが日常に戻った時に、その気づきは持って帰ってきて、
自分の次からの生活に取り込まれていくリソースになるみたいなイメージなんですけど、
デジタルデトックスもリトックスして、こういういいことがあった。
だからこれからもう少しこういうふうに行動を変えようってなっていくのならば、
同じなのかもしれないですね。
あと、冒険教育っていうのもあって、山みたいなところでチームビルディングに使われたりするんですけど、
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身体的に結構ギリギリの活動を一緒にする。
例えば崖を登るとか、一人だと絶対登れないような高い役目みたいなところに、
上に宝物があって、みんなでそれを工夫しながら取るみたいな、
与えられた道具は限定されてるんだけど、みたいなそういうところでやる冒険教育みたいなのもあるんですけど、
全部私の中でそれは一つ子としてはソーシャルなんですよね。
他者と一緒に気づきを深める。
なので体験するっていうレベル1で自分でちょっと非日常肉はあるんですけど、
それをこうセンスメイキみたいな形で振り返って自分の言葉で紡ぎ出す時には他者の存在があるみたいな。
自然は他者の存在はどういう影響があるのかな?
私もしばらくお寺に通ってたぐらいの浅い経験なので、
それは深いですよね。
極めたわけではないんですけど、
でもあくまでもやっぱり自分と向き合うっていうことで、
そこに誰がいようとどんな人がそれぞれにどういう経験をしていようと、
そこには関心が向いていないので、ソーシャルな印象はないですね。
ソーシャルは一つの促進材であって、必要不可欠な要素ではないのかなと思うんですけど。
私がでも興味があるのは、
例えば絵画のワークショップで友子さんがその絵を描いている間っていうのは、
何を考えているとか、何を感じているかとか、その辺はどうですか?
結構ですね、考えられないんですよ。
集中するから。
それが多分ポイントで、
英語で fully present とか being present とか言いますけど、
その場にいる、あるっていう状態に反強制的になるんですよね。
ダイアログインドワークもそうなんですけど、
この暗闇は何だろうかって、とりあえず頭の中に少し自分の声とかはよぎってくるんですけど、
そんなに深く考えるというより、動いたりとかしたりとか、
あと暗闇の中で出される材料とかがあって、その素材とかに向き合ったりとかすることがあるので、
そこに集中する。これ何だろうとか、
あとは描いている時も、自分の手の先で色がどんどん進化していったりする時に、
コントロールが比較的できないです。
何が起きているんだろうみたいな、それにその場に集中する。
ある意味、走っている時にあんまり自分は右足を上に上げているとか考えないじゃないですか。
ざっくりあっちに行こうとか、このぐらいの速さかなとかいうのは頭をよぎるんですけど、
走っていることに集中していると思うんですよね。
そういう体験になるイメージですよね。
無にはなっていないんですけど、あんまり頭の中でめちゃくちゃ声が発生しないぐらい忙しく集中している。
忙しく集中している。これは何だろうとかは考えているってことですか?
考える暇もないぐらい手を動かしたりとか、目でそれを見ている、情報をキャッチして、
これはって考えるんじゃないんですよね。
こういう色になったとか、あそこまだ白いからここ塗ろうかなとか、
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そういう感じのフォーカスをしているんですよね、描く場合は。
途中で正方形なので、ファッションセンターには一番最初の導入部分で言われるんですけど、
たまにはちょっと距離を持ってみて、自分が描いたものを途中で一度回って、
ちょっと眺めてみてとか、90度回してみて、他に何が見えるかとか、
やってくださいねぐらいのインストラクションもあるので、
それをやって何が見えるだろうって自分で対話をするっていうのは少しはありますけど、
立ち止まらない限りは指先の上にあるチョークの色を伸ばすことに集中して、
この色とこの色が混ざったら、何か思ったのと違ったとか、そういう瞬間にフォーカスしている。
やっぱり言語を使わないと一般的に言われている活動っていうのは、
芸術的なもの、その中に美術とかダンスみたいな動きだったり、
スポーツもある種そうだと思いますけど、体を動かすとかね、何かを作るとかね、
そういう活動の中に入っていることが多そうですよね。
ちなみに絵学は、私は15回ぐらいやっているので、今言ったようなことが起きるんですけど、
やっぱり1回目、2回目、3回目とかだと、ここで自分は何をしたらいいんだろうとか、
これ正しいのかなとか、すごい頭の中が声でいっぱいになって、
うまく活動にフォーカスできないっていう人は結構いるんですね。
それは多分そういうふうに教育を受けてきたりとか、
組織の中での期待値とかに合わせるみたいなことをすごいしてきているので、
真っ白のキャンバスを出された時に、どういうのを描けばいいんですかね、みたいな、
すごくいろいろあるんだっていうのを1、2回やるとわかるんですけど、
それでむしろ今まで見たことがないやつにしようみたいな感じで楽しめるんですけど、
最初の1、2回はそこがむしろ大人の学びの体験なんですけど、
結構怖い体験でもあり、正しい答えがない世界に向き合わなきゃいけないみたいな、
答えは自分しか持っていないっていうのは結構チャレンジングである人もやっぱりいますね。
割と一般的には子供なら迷わずできることが、大人だから躊躇してしまうっていうことでしょうかね。
そうですね。日本人以外の人もやってたりとかするんですけど、
やっぱり文化とかその人たちの教育とか、自分のやりたいように描くまたは思いを伝えるみたいなことに慣れている人とそうでない人で、
この体験のインパクト持ちだったりとかするのは面白いなと思って、
個人的には日本の社会人向けにすごくフィットする内容だなと思って。
その持って帰るっていう部分については、
例えばそのワークショップを経て、どんなことがお持ち帰りになるんですか?
2種類あって、1つは自分についてで、もう1つは一緒に参加した別の人についてなんですけど、
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例えば同じチーム、同じ会社の人と一緒にやった場合、例えば15人とかでそれぞれやって、
そうすると、いつも一緒に働いたこの人はこういうことを大切にしてるんだなとか、
こういうことをリーダーとして目指してる、大切にしてる人なんだな、みたいなこととかがわかることで、
相手の理解が深まるっていうのが1つあります。
そうではなくて、自分に対しては、自分はこういうのを思ってるんだな、
自分がそんなことを思ってたんだ、みたいな気づきであるとか、
あとは他の人から絵に対してこういうふうに見える、みたいなのをもらうんですけど、
それがすごく自分のことをこういうふうに見ている人がいるんだ、みたいな自己理解の発見にもなったりとか、
あとは向き合うテーマによっても全然違うので、
例えば2ヶ月前にこういうことを書いたときは、こういうふうなことを言ってたけれども、
違うテーマで書いてみたら、こんな部分も自分でできたよ、みたいな、
自分に対する多面性みたいなものを需要するきっかけになったりとか、
あとはリマインド的なアートを持ち帰ることになるので、
人によっては家に飾ってる人とかがいて、こういうのを書いて、
こういう時にこういう思いを伝えたことを思い出させるリマインダーとして持ち帰るみたいな、こんな感じですかね。
なるほどな。その辺がだから、その場で終わらない、続いていくインパクトっていうことですかね。
言語の依存度みたいなものを低くすることで見つけられることとか、
新しい体験をする思考が深まるっていうのはね、すごくあると思うんですよね。
私自身はそういう経験をあまりしないので、
すごく言語に依存しているな、偏っているなという気はします。
だからこそ英語に関わったりしているんだと思うんですけど、
でも実は言葉にならない経験っていうものがたくさんあった方が、
言語を学ぶっていうことにもすごくいい影響があるなというふうには思っているので、
英語を学ぶってことは言語を学ぶわけだから、言語だけをやってればいいんでしょと思っている学習者もですしね、
教える先生たちも多いなっていう気がするんですけど、
そして私自身もそっちに偏ってはいるんですけど、
でも本当はその言葉にならない経験が多ければ多いほど、
それをどうやって言葉にしていこう、どうやって他の人に伝えようっていう、
本当に中から出てくる気持ちは生まれてくると思うので、
その後に言語の学習が追いついてくるようになっていくっていうのが、
言語学習の理想のあり方かなって思っています。
特に日本の文化って英語圏のアメリカとかに比べて、
感情をカラフルに言葉にする機会みたいなのが相対的に少ないみたいなのを前読んだことがあって、
それが大人になったときの感情マネジメントのあり方のタイプの違いにも影響があるみたいな文脈で学んだんですけど、
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確かに言葉をインストールしてないと、悲しいっていうのもいろんなタイプの悲しさがあるけれども、
一つの単語悲しいしか知らないとうまく伝えられないっていうのがあると思うんですよね。
描くで悲しみっていうテーマで描く会があったとして、
結構悲しみの用の使い方とか形とか全然一人一人違うんですよね。
悲しみでもこんなにいろいろあるんだっていう。
言葉ではだから説明ができないものを色とか形とか、
あと濃さとかそういうので表現できることによって少しニュアンスコンテクストを語れるみたいなのがあって、
それとちょっと似てる言語学習の話をされたから思ったんですけど、
私結構擬音語が日本語で好きなんですよね。
好きというか無意識のうちにたくさん使ってて、
社会人になってから同僚にもらった誕生日プレゼントの一つが擬音語辞典みたいなことだったんですけど、
それが英語圏で生活するのが長くなればなるほど、
日本語みたいに擬音語がなかったりするので、
なんかチャカチャカしてるみたいな言いたいんだけど、
英語でチャカチャカしてるがうまく言えないみたいな、
やっぱり言葉の限界、自分が知らないって思うんですけど、
英語でチャカチャカとかセカセカとかをうまく言えなくて、
言えないから結局一生懸命違う単語でニュアンスを長く説明しなきゃいけないみたいなのがあって、
言葉以外の手段で何とかしないとニュアンスが伝わらないみたいな体験は、
言葉をトランスレートするときにもある体験だなと思ったんですよ。
なるほどな。今のも面白いですね。
似たような感じなんだけど、私が考えてるのと少し違うのは、
言葉にならない体験をして、例えば言葉にするとしても、
日本語っていう一つの枠組みである必要がなくなってくるっていうことなんじゃないかなと思うんですよね。
例えば最初におっしゃった悲しいとか感情については、
英語の方がやっぱり豊富に表現を持っているので、実際。
英語でだったら言えるっていう豊かさを道具としてインストールしておく、
持っておくっていうことが言語学習だと思うので、
逆に擬音語を使いたいってなったときに、日本語だったらこんな表現ができる。
英語であれば、例えばそれを動詞に変えなくちゃいけない。
そういうどちらにでもいける、でも私の言いたいことはまだそれでも足りない。
で、もしかしたらそれがイタリア語にはあるのかもしれない、中国語にはあるのかもしれないといって、
言語の幅を広げていく人もいるでしょうし、
一つの言語の中で例えばたくさん小説を読んだりして、
語彙を広げていくっていう方法もあると思うんですけれど、
いずれにしても言葉にできてない感覚を自分は持っているんだとかね、
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そういうことを体験するきっかけっていうのは、
たくさん持っておいたほうがいいのかなという気はしますね。
その一つとして、描くっていうことをすることで、
私これ絵にはできたけれど、言葉にはうまくならないなっていう、
そのギャップに気づけるっていうのはすごく言語学習としても良いような気がしましたね。
絵画は確かに自分の中で思っていることをより幅広く語れるための
ファシリテーター的な存在だと思うんですけど、
今私がこれはどういう体験なんだろうなって思っているものに
フォースコーチングっていうのがあるんですけど、
上手く向き合うことでコーチングを受ける体験をするっていう、
それも多分ちょっとまた絵画とかダイアログウィンドダークが
違う体験になると思うんですよね。
相手が生き物であり、あとなんかけっこう蹴られたりしたら痛い存在なので、
緊張感のある環境下の中で向き合うらしいんですよね。
絵も完全に自分に一応コントロールがあるし、
ダイアログウィンドダークも安全な場所でやるみたいな感じなので、
どういう揺さぶりがあるんだろうなっていうのが個人的には興味があったりするんですけど。
相手が動物となると、基本的には言語っていうものは相手側にはないっていうことなので、
動物を使ったセラピーとかもね、いろんな種類がありますし、
例えば自閉症のようにね、言語に何か障害があって、
言語活動がうまくできないタイプの人っていうのは、
動物とだとすごくうまくコミュニケーションが取れるっていう研究もあるので、
きっと何か波長みたいなものとかね、あるんでしょうね。波動みたいな。
そうですね。まさに子供を使わないというか、
それがメインのコミュニケーション媒体じゃないみたいなことで気づきを得るみたいなのは、
他にもいろいろありそうですよね。
私の子供もまだ言葉をそんなに話さないので、
彼と一緒にいるっていうのも、ある意味言葉に依存しない学び方を、
自分が体験しているところだなとは思います。
そこまでなんか面白いですよね。
私がその同じ現場を見ると、例えば生まれたてでも、
言語発達の第一段階っていうふうに見てしまうので。
そうですね。私は確かに、私が聞こえないから、
言葉ではないっていうふうに判断しちゃうっていうところは違うかもしれない。
赤ちゃんの言葉を翻訳するみたいなのもありますよね。
犬とか猫とかも会話する。
確かに猫の言葉を訳すみたいなのはありますしね。
だから、もしかすると同じ活動をしていても、
言語的に捉えることとそうしないこと、
どちらも可能なんじゃないですかね。
そうですね。頭でかい人になりがちになるのでね。
言葉でギュッといろいろと。
そうなんでしょうね。
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そうなんでしょうね、きっとね。
こういうプログラムが流行るというか、刺さる対象者は、
特にそういう環境に日々置かれがちの人が、
大企業に広がったりしているっていうのが共通点であるような気がする。
いろんな好みとか特性があるので、
一つ参加してみて、私は苦手だなって思ったとしても、
何か別の形で、たまに言語を意識的におふってみるみたいなことは、
見つけられるといいかなと思いますね。
自分も含めて。
今日は言葉を使わない学びについて話しました。
紹介したエピソードや関連する他のエピソードへのリンクは、
エピソードの情報欄にまとめています。
学びの話は毎週1回配信予定です。
それではまた次回。