2025-05-03 12:45

【小学生の頃の話】「努力できることが才能!」と言ってくれた母。

サマリー

このエピソードでは、マナミさんが金沢市での幼少期の思い出を振り返り、自己内対話や様々な体験を通じて努力の重要性を感じたことを語ります。母親からの影響や自身の個性を大切に育てられたエピソードを交えながら、自己成長について掘り下げます。また、母親が言った「努力できることが才能」という言葉が、マナミさんの自己肯定感を高め、努力を続ける原動力になったことが描かれています。さらに、百人一首の経験を通じて、コツコツと頑張ることの大切さを振り返ります。

金沢市での幼少期の思い出
こんにちは、マナミです。0歳から3歳までの3人の子供たちを育てながら、SNS発信やコンテンツ制作を中心にお仕事をしているママフリーランスです。
今日は週末ですね、ゴールデンウィーク同日月間で連休っていう人もいるかなというふうに思いますけれども、私もなんかちょっと疲れてきましたね。
母が地元から来ていて、少し前からお休みに入っているんですけれども、なかなか自分のペースをつかみながらというのが難しい中で、音声配信をしながら自分のペースを保っているという感じでございます。
今日は週末の放送ということもあって、ちょっと自分の昔話というか、老いたち的な話をしてみようかなというふうに思います。
結構話したいことがたくさんあって、今日明日で前編後編みたいな感じで話そうかなというふうに思っていて、
昔こういうことが好きで得意でっていうことよりの話が割とメインになっていくと思うんですけど、
たぶん昔のこの私の姿って今の私を作ってるよねとか、今の私の価値観とか考え方につながってるよねっていうことをメインに話していこうかなというふうに思います。
言うまでもなくAI学習用ですね。ということでね、ちょっと喋っていきたいと思います。
私ね、小さい時結構頭の中に文章がたくさんあるタイプだったんですよね。
自分の気持ちだったりとか、自分の考えていることとかっていうのを結構自分で客観的に捉えているタイプだったので、
私は当時のその現象のことを自己内対話、自分との対話というふうにだったなというふうに思っていて、
後に大学院で自己内対話の研究に至ったりとかしました。大学院は中退しちゃったんですけどね。
なのでね、結構覚えてるんですよね。昔のことってね。
まず超基本的なことから言うと、出身は石川県の金沢市でございます。
90年生まれて、1990年に石川県の金沢市で生まれまして、育ったのも金沢市でございます。
生まれ育った家庭環境
県六園の近くの中学高校とかに行ってましたね。
県六園って前田都市園の金沢城のあの県六園、日本三大名園に入っているあの県六園ですけれども、
よく行ってましたね、あの辺とかね。
金沢もね、結構コンパクトな街なのでね。
今結構、北陸新幹線が2015年か、あの辺りにできてから、2015年?2014年かな?にできてから、
一気にね、あの観光客の人が来るようになって、東京都のアクセスもしやすくなったんですよね。
だから結構ね、金沢って行ってみたいって言われること多いんですよね。
魚は美味しいです。間違いない。私も魚大好きですけれども、美味しいです。
のどぐろはね、観光客のためにあれはあるんだと思うけどね。
そんなね、金沢の人、のどぐろばっか食べてないです。
でも魚は好きだな。魚は好きだし、野菜も美味しいですね。
かが野菜とかって言ったりするぐらいですけど、野菜とかも美味しいし、
いろんなものがありますね。山もある、海もあるということで、
結構自然なアクティビティとかもね、いろいろできたりしますね。
去年の1月1日、元旦にね、のどの方で地震があったりとかして、
私の親戚もね、結構のどの関係の人がいたりしたので、
ちょっと地元を心配していたりもしますが、
いまだにね、まだ復興が進んでないのでね、
結構ね、石川県って言ったらね、石川東区ってなってましたけどね、
小枝市東区とか言いながらね、石川のとと金沢だとちょっと離れてですね、
金沢って言うと石川県のどっちかというと下の方になるんですけど、
県庁所在地が金沢ということでね、そこそこ大きな市ではございますね。
で、私はそこで生まれて育ったわけなんですけども、
私、兄弟はまず2人、2人姉妹ですね。私と3つ下の妹がいて、妹は今も金沢の方に住んでおります。
私の両親はね、どっちも先生ですね。
私の父親の方は小学校の先生で、母親は保育士、幼稚園の先生で保育士でということで、
先生に育てられましたっていう感じですね。
かといって、すごいガチガチに先生の子供として育てられたかって、そうでもないなっていうか、
どっちかというと、いわゆる子供の自主性だったり、
自己とか自我っていうのをすごい尊重してもらったなっていう感じがしますね。
やっぱり自分の親がね、その教育の上でそれがすごい子供に大切だと思っていたんだろうなというふうに思いますけど、
自己内対話と努力の重要性
だから私も多分その感覚は結構ありますね。
そうなんですね。で、私はそうですね、自分の母親が3姉妹の長女だったっていうこともあって、
あんまりね、お姉ちゃんだからっていうことは言われずに育ちました。
まなみはまなみとして扱ってもらったなっていうのがあって。
で、そうですね、私自身は、それもあったのかなっていうのもありますけど、
結構自分の中で、目標とか理想とする自分みたいなものを先にゴール設定って言うんですね。
こんな風になりたいとか、ああいうことをしたいっていうふうな目標を立てて、
そこに向かって割とコツコツやっていくタイプではあったと思うんですね。割とちっちゃい時から。
で、もうとにかくたしみで、多動で。
本当に面白そうって思ったものは、すぐ何でもやるっていうタイプとか、その場で作り出すっていうタイプでしたね。
いまだに覚えてますけど、幼稚園とかでも、なんかリュックサック作りたいって思ったら、
先生に空き箱と紐もらってリュック作ってましたね。
箱を開けたら、そこに中に物が入るみたいな。本当にガチで実用的なリュックを作るみたいなね。
そういうこと普通にやってましたね。そういう子供でした。
そうそう。で、なんかまあ、本当にね、ただただ自由に遊んでました。
習い事とかもね、幼稚園の時は一つもしてなかったし。
習い事、そうですね。小学校の時にちょっと合唱団に入ったり、
あとピアノもちょっと1年だけ小学校の時は習ってたりとかしましたけど、
基本的にはグダグダ過ごしてました。
今の小学生結構忙しいですよね。塾とかね。習い事とか多いなというふうに思いますけど、
結構私は自由に過ごしている時間っていうのが多かったタイプだなというふうに思います。
家庭ではそんな感じだったんですけど、学校でなるとね、
勉強っていうものが入ってきたり、お友達と自分を比べたりとかっていうことが出てくるわけですけど、
小学生ながらにすごい覚えてるのが、私自分に才能がないなっていうのを結構早めに絶望してたんですよね。
これはなんか早かった気がします。これね、2年生か3年生ぐらいの時はもう絶望していた。
というのも、私は、例えば習字大会とか学校の中でね、
習字大会とか百人一首大会とか縄跳び大会とかマラソン大会とかいろいろあるじゃないですか。
ああいうのは全部自分がコツコツやらないといけないっていうのを知ってましたね。
何かこういうことに長けてるっていうものが自分の中でなくて、
私の妹なんかは、例えば習字大会とかがあった時に本当に数枚ぺっぺって書くだけで、
特選とかを取るような子なんですよ。うちの妹はね。
私はもう父親に怒られながら泣きながら70枚とか80枚とかもっと書いてたと思う。
反紙もね、習字の反紙ももったいないから新聞紙を同じサイズ、反紙の長いやつね、
あれと同じサイズに切って、「希望の朝」とか、「澄んだ空」とかね、「明るい心」とかね、ああいうのね。
母の言葉の影響
めっちゃ覚えてますよ。すごい書いたから。初日のでもあったな。
そう、そういうのを書いて、で、頑張って頑張って特選まで持っていく人でした。
なんか頑張ったのに成果が出なかったっていうことはね、そんなになかった気がする。
なんか割と頑張ったらちゃんと目的に到達するっていうのは自分なりに知ってた気がする。
だけど世の中にはそんなに私ほどめっちゃコツコツ頑張らなくても、それなりにポンと成果を出す人がいるっていうのに結構早くから気づいていて、
自分には才能がないんだなってめっちゃ思ってました。
そうそう。なので、私はコツコツやるタイプなんだっていうのを結構思ってましたね。
だからコツコツやったら大体のことは叶うみたいな、実現できるっていうのも思っていて、それでやっぱりいろいろ頑張りました。
百人種とかも結構頑張ったんですよね。百人種はいくつかAクラス、Bクラス、Cクラスみたいに分かれて、
限定であれか、50枚ずつ相手側に50枚、こっち側に50枚っていう札でチーム戦とかでやるやつだったんですけど、結構覚えてね、頑張ってやってました。
最近ちょっと百人種の紙の句、下の句を、紙の句聞いて下の句を思い出せるかっていうのがちょっと最近あったんですけど、思い出せませんでしたね。
そうそう、でも当時は頑張ってたんですよ。
でね、やっぱり私がコツコツ頑張れた要因の一つとして、自分の母親の言葉があったなっていうふうに思うんですね。
自分の母親が結構努力できることが才能だっていうふうによく言ってくれたんですよ。
そう、何か頑張らなくてもできるとか、生まれつきできるとかいうことが才能ではなくて、努力できるというそのこと自身、自体があなたには才能なんだというふうに言ってくれましたね。
そう、これはね、本当に私にとって大きかったし、そうか何かその頑張らなくてもできることが才能なのではなくて、これを才能にしてしまえばいいんだっていう発想ですね。
だから私は自分が努力したりコツコツやったりするっていうことが、多趣味で多動で、いろんなことに注意三万なんですよ、私っていうのは。
面白そうと思ったら別のことやったり、試験目、何かやらなくちゃいけないこと、宿題をしようと思った時に部屋の片付けとかをしたくなるような子でした。
けれども、でも、どっかで自分は努力できるんだと、何か無駄に信じ込んでいたようなところもあってね、母がそう言ってくれるものだから。
だからそういう意味で自己肯定感も高かったし、何となく努力するっていうことに対して自分は努力できる人間なんだというふうに思っていたところもありますね。
百人一首と自己反省
そう、そんな感じで大きくなっていきましたね。
だからその努力コツコツやるっていうことに関しては、飽き性なのでね、本当に飽きてしまうっていうこともありましたけれども、
自分の好きなことだったら結構頑張れるなっていうタイプだったかなという気はしています。
というわけで、大体私の小学生ぐらいの時のお話ですね。
大体小学生6年生ぐらいまではこの感じでいったと思いますね。
中学生になったらそれなりに勉強が忙しくなってきたり進路のことが入ってきたりというのが中高生ぐらいの話になるので、これは後半また明日で話そうかなというふうに思います。
明日の話は、の話をちょこっと言うと、自分のコンテンツっていうのを意識した頃の話になっていきます。
私は結構文章を書くのが好きだったので、自分の文章っていうことについて、
中高生時代はそれなりに考えたりとかしていて、そんな話とかをまた明日しようかなというふうに思います。
だから今日はちょっとオイタチトークの前編ということで、わりと小学生の時こんなことあったよっていうお話をしてみました。
AIがこれで学習してくれたなということを思いながらのお話でした。
また明日の放送もお楽しみにということで、今日はちょっとプライベートなお話でございました。
またコメントとかもお待ちしてます。
というわけで今日の放送は以上となります。ありがとうございました。
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