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こんにちは、マコトです。 今日は2月22日、ニャーニャーニャーで猫の日ですね。
皆さん、猫とか飼われてます? 僕は実家にいた時、小さい頃から猫をペットとして飼ってたんですけど、
今は子供がアレルギーがあったりするので、猫は飼えてないんですよ。 代わりに、今ハムスター2匹飼ってるんですけど、
でもね、やっぱり猫可愛いですよ。 実家に時々飼えるんですけど、
その時、僕がいなくなって飼い始めた猫なんで、全然僕に懐いてないんですけど、
やっぱりそれでもその猫の仕草とか見てると、癒されるなぁっていうふうに思ったりします。
猫派、犬派、いろいろあるかなと思うんですけど、僕はね、自分の都合のいい時だけすり寄ってきて甘えてくれる猫っていう存在ね。
結構好きなんですよ。 犬はね、遊んでくれ遊んでくれみたいな感じでね、しょっちゅうひっついてきたりするんですけど、
あれはあれで可愛いのかもしれないんですけどね。 僕にとってはね、ちょっとそれはちょっとしんどいなっていう感じもあったりするので、
猫ぐらいの距離感がね一番好きです。 でね、僕がね、小さい頃はペットはペットだったんですよ。
家族とはやっぱり違ってて、ペットが死んだらやっぱり悲しみはしたんですけど、今ほどね、ペット層とかっていうのはなかったんですけど、
最近、ちょっと前からね、やっぱりペットも家族の一員っていう感じになってきて、家族の在り方っていうのを大きく変わってきたなっていうふうにペット層が出た頃に思ったりしたんですけど、
時代とともにね、家族の在り方とか人との関わり方、そういったものね大きく変わってくるかなと思うんですけど、
やっぱりね、そんな中でも変わらないものっていうのはその人だったり、そのペットって言ったら言い方変だけど、
相手に対するねリスペクトの心を持って接するっていうのはね、
どんな時代でも変わらないし大事なことだろうなっていうふうに思っています。
このね、相手をリスペクトするっていうことをね、忙しかったりすると忘れてしまいがちなんですよね。
結構自分勝手な思いだけで相手を判断してしまったりとか、相手を批判しそうになってしまったりすることっていうのは往々にしてあったりするんで、
時々ね、この相手をリスペクトして、ちゃんと相手のことをリスペクトして関われてるかなとか、声かけできてるかなとか、そういったことをね、
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思い出しながらやっぱりね、仕事とか生活とかしていかないといろんなトラブルも起こしてしまうだろうし、相手にももちろん嫌な思いさせてしまうし、
同時にね、後からそれを思い返した自分も嫌な気持ちになってしまうので、誰もね、いいことはないかなっていうふうに思ったりするんで、
やっぱりね、このリスペクトの気持ちを忘れず、時々思い出すようにして生活していきたいなと思っている今日この頃です。
といったところでね、今週も窓の外にいる皆さんに僕の声を届けていきたいと思います。
窓の外、スタートです。
昨日のことになるんですけど、子供と一緒にねお風呂に入ってたんですよ。
そこでね、飛行機の話になっていろいろ話したんですね。
その話をしている時に、もしかして将来的にね、飛行機って使用頻度とか下がってくるのかな?
そんな妄想みたいなことを思ってしまったので、今日はその話をしていこうと思います。
ということでね、まずはじめに妄想大百科のコーナーに行きたいと思います。
さて今日の妄想は、今よりもテレワークの技術やメタバースが進んだら、飛行機は使わなくなるんじゃないか?
なんでこんなことを思ったかというと、今海外では環境保護の観点からか、飛行機よりも電車とかそういったものを使いましょうっていう動きが活発になってきてるんだっていう話を小耳に挟んだんですよ。
それでふと思ったのが、海外に行く時に飛行機よりも船を使った方が環境に優しいんじゃないかなっていうふうに思ったりしたんですね。
ただね、飛行機で行くのと船で行くのとでは、現地に到着する時間っていうのはかなり違うじゃないですか。
飛行機の方が圧倒的に早いんですよね。
今だとやっぱり現地に行っていろんなことをしないといけない。
仕事で現地に行くにしても早く現地に行って仕事しないといけないっていう感じで飛行機使われてるのかな?
それだけじゃないかもしれないんだけどね。
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そういうのもあるかなっていうふうに思った時に、テレワークが今よりも進歩すると、船でゆっくり移動してる時でも仕事ができるし、
もっともっと技術が進歩したら、ドローンとかいろんなものを使って実際に行かなくても見ることができたりとか、
そんなことができれば、その移動時間も仕事の時間にできるので、
わざわざ飛行機を使って早く現地に行くっていう必要がなくなってくるのかな?なんて思ったんですよ。
もちろん、現地に行かないと絶対できないことっていうのもたくさんあるので、
そういう時には飛行機を使うんだけど、そうじゃない。ちょっと時間に余裕があるっていう場合は、飛行機じゃなくて船とかで、
現地まで移動するとかっていうのがね、今後できてくるんじゃないかな?なんていう風に思ったりしたわけです。
もちろんね、合格客船で現地まで行くわけじゃないにせよ、
外に出たらね、一面の海が広がっていたりとか、潮風を感じることができたりとか、
そういった普段と違う環境で仕事しながら移動しながらっていうね、ワーケーションみたいな感じができるっていうのも、この船での移動のメリットなんじゃないかな?っていうふうに思ったりします。
金額的なこととかね、そういったことは全然考えてないので、もしかしたら船旅になると費用が余計かかってしまったり、そういうことはあるのかもしれないんですけど、
もしかしたら、テレワークの技術みたいなのが今よりももっと進化したら、そんな世界っていうのもあるんじゃないかな?なんていうことをね、昨日ね、お風呂の中で妄想したりしました。
それでは次にニュートンのリンゴのコーナー行ってみたいと思います。
今回でね、ソーシャルワークの歴史はね、ちょっと終わろうかなっていうふうに思ってるんですけど、
前回話をしたのはね、セルスメントと一緒にね、欧米から日本に入ってきた民生委員の前身である訪問委員というのが、大阪府が一番最初にね、
設立して、その後全国に定着していったっていう話とかね、まあ大阪府が一番最初にやったから、もしかしたら大阪府ってね、
福祉とかに関して結構取り組みが盛んなのかな?なんていうことをお話ししたんですけど、
じゃあそのね、訪問委員の話をちょっとして、その後ね、戦後の公的浮上制度、その話もね、続けてしていきたいなっていうふうに思ってます。
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このね、訪問委員は、名誉職として地域の中間層、例えばね、お医者さんであったり、お寺のね、住職さんであったりに任されていくことでね、
日本における地域補助制度のね、伝統の中に欧米のケースワークっていうのを取り入れようとしたっていうね、手法だったんですよ。
そんな中でね、1927年に第1回全国訪問委員大会っていうのが開催されて、
そこでね、国による給品制度の拡充っていうのがね、この訪問委員の方から要望されました。
それを受けて政府の方は、29年に市町村による救護責任を定めた救護法っていうのをね、制定するんですけど、
財政がね、ちょっと苦しくてですね、これ実施できなかったんですよね。
なので、訪問委員を中心として、その後、
補助法の実施を求める運動が継続的に行われていったんですね。
そんな運動の中で、天皇へのね、上層なども行われたことから、1931年に救護法っていうのが実施されることとなりました。
もちろんね、その訪問委員の方々が天皇にね、実施をしてくれっていうふうにね、上層しただけがね、
実施の原因ではないんですけど、このね、上層したっていうのも一つの要因なんだろうなと思いますし、
この他の要因としましては、1920年代のね、関東大震災とか、あと経済変動によるね、社会不安の増大とか、
そういったものもね、実施の背景にはありますし、
あとね、1917年には、戦争から帰ってきた焼夷兵とかですね、戦死者家族を対象にした軍事救護法っていうのがね、制定されたっていうこともね、
この一般の方々に向けたって言ったらあれですけど、救護法がね、制定される要因にもなったんじゃないかっていうふうにね、本には書かれていました。
それではね、次に公的扶助制度の戦後改革についての話をしていきます。
救護法によって、法務委員によるソーシャルワークとか、あと養老院とかね、
補児院などの民間事前施設が制度化されていったっていうことがあって、日本のね、初期のソーシャルワーク実践の大半っていうのはこの救護法によってね、制度化されていったというふうにね、考えてもいいんじゃないかっていうふうに言われています。
こういった背景からね、日本初期のね、ソーシャルワーク実践をしていた救護行政っていうのは、第二次世界大戦後のね、
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改革によって生活保護行政とね、つながっていくこととなります。
この生活保護法ができた時に、法務委員がね、民選委員っていうふうに名称変更となります。
で、この民選委員はね、厚生大臣が移植する無給の特別公務員という立場で、
まずね、GHQの理解を得ようとしたんですけど、この無給の特別公務員っていうのが理解を得られなかったのかどうなのか、ちょっとそこら辺はね、はっきりわかんないんですけど、
GHQがね、これをよしとしなかったんですよ。なので、このGHQの判断を受けて、1950年にね、新生活保護法っていうのができるわけなんですけど、
この新生活保護法で実施機関というのが市町村長とそれを補助する有給の専門職である社会福祉主治っていうふうにね、されて、
これをね、GHQが受け入れて実施されることとなりました。
これによって、民選委員がどういう立場になったかっていうと、
このね、専門職である社会福祉主治に協力する協力者っていう位置づけとなって現在に至るわけです。
でね、この社会福祉主治と民選委員のパートナーシップによる生活保護のケースワークっていうのがこれから先行われていくことになるわけなんですが、
社会福祉主治の多くはケースワークの経験がないね、公務員の方だったので、実質的にこのケースワークになっていたのは、
民選委員であったし、これがね、無給というか、ボランティアというか、そういったものに頼っているっていうところがね、ちょっと、
まあね、どうなのかなっていうのを僕なんかは感じるわけですよ。
で、そのね、しわ寄せというか、それが今、現代に来ている部分というのもあるんじゃないかなーなんていうふうに思ったりします。
戦後日本の社会福祉制度っていうのは法理面はね、戦前のものと全く異質なものなんですけど、
実施内容はね、あまり戦前のもの変わってないんだろうなっていうふうにね、思われまして、
例えば、保育っていうのは母親がね、やるもので、やむを得ない事情がある場合に、国とかね、実施機関がそれをね、補助しますよ、みたいなね、制限的なものだったし、
またね、身体障害者に関しても、症病軍人用のね、病院とか施設などでのリハビリテーションが行われるなどね、
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実施はね、伴ってないような感じだったんですよ。理念はね、もちろん変化はしてるんですけど、実施が全然伴ってないっていう状況だったわけです。
で、この時代はね、福祉三方時代っていうふうに言われるんですけど、
これがね、時代が進んで、1960年のね、福祉六方時代になってから、このね、実施が伴ってないという状況に変化が現れてきます。
この1960年代っていうのは、日本の福祉が生活保護世帯から低所得世帯へと対象を拡大していく、そんな時代なんですね。
これはね、何でかっていうと、高度経済成長による国民所得の上昇によって、生活保護受給者世帯への処遇問題っていうのが起きてくる。
これとですね、あと、所得がね、この保護水準に接している、もうボーダーライン層の問題っていうのが出てきたっていうのがね、大きな要因となっています。
これに対して、各福祉法っていうのが整備されていくわけですね。
この各福祉法なんですけど、福祉三方時代っていうのは、生活保護法、あと児童福祉法、身体障害者福祉法の3つだったんですけど、
これがね、1960年代、福祉六方時代っていうのになってくると、精神迫弱者福祉法。
これがね、1998年に、積障害者福祉法っていうものに改正されるわけなんですが、これと老人福祉法、母子福祉法の三方っていうのがね、できて、この
最初のね、1950年代の三方と、この60年代の三方を合わせて六方っていうふうになるわけなんですけど、
このね、各福祉法の整備と、あと一方でね、国民年金とか国民医療保険などの社会保障っていうのもね、整備されて、これが
ボーダーライン層とかね、そういったところも保護する役割を果たしたんだっていうふうにね、言われています。
このような社会福祉とか社会保障の発展っていうのは、生活保護水準よりも上の低所得層に対する給付を充実させる働きをしていました。
つまりは、社会福祉の役割っていうのが、低所得者層に対する給品からね、
貧困を防止していきましょうっていうところにね、移り変わっていったのはね、このね、1960年代だっていうふうに言えますね。
70年代に入ってくると、社会福祉の対象拡大っていうのは、生活保護世帯から低所得層世帯であったものが
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高齢者介護を中心にしたね、低所得者層とか、あと国民全体に社会福祉サービスが必要だっていうふうにね、意識され始めたことから
さらにね、拡大を続けて、現在に至っているっていうことかなっていうふうに思います。
といったところで、ざっくりだし、もしかしたらね、僕のね、理解不足で違う説明とかもしてることがあるかななんて思うんですけど、
社会福祉のね、大雑把な歴史みたいなのを、何回かにわたって喋らせていただきました。
次、ニュートンのリンゴでどんなことを話そうかななんていうふうに思ってて、まだ全然考えてないんですけど、
またね、何か皆さんの考えるきっかけとかね、そういったものになれる内容を喋っていけたらなーって思いますので、お楽しみにしておいてください。
それでは今週はこのあたりで失礼します。エピソードの概要欄にGoogleフォームのリンクとTwitterのリンク貼っていますので、そちらからお便りをいただけると嬉しいです。
リスナーの皆さんとのつながりが、ポッドキャスト続けていく原動力になりますので、どうぞよろしくお願いします。
それでは皆さん、次回もお楽しみに。パーソナリティは誠でした。