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2020-10-03 09:16

#82 「弓と禅」から「ブログ道」に行き着く思考 【書評回】

オイゲン・ヘリゲルさんの「弓と禅」は3年ほど前に読んでブログにも書評を書いているのですが,
それを話しているうちに,「ブログ道」「Youtube道」などにつながっていきました。
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Lyustyleの知的迷走ラジオ、第82回目のきょうは、書評回です。
ウィーゲン・ヘリギッドさんの弓と禅をもとに、考えを展開してみました。
きょうはですね、きのうは結構早歩きで歩きながらしゃべっていたので、
ハッハイハッハイ言う音が結構聞こえていたから、
きょうはね、ゆっくり歩こうと思って、少し早く家を出たんですね。10分ぐらいね。
そうやって結構いい感じで話したのに、
まさかの録音ミスということで、ゆっくり時間を使ってしまったんでね、
また今少し早歩きにならざるを得ないということで、
ちょっと早歩きをしながらしゃべることになるんで、
ハーハー感はまたあるかなというふうに思っています。
きょうはですね、少し前に、
ツイッターの界隈で話題になっていた、
弓と禅という本について考えたことなんですね。
弓と禅という本は、大正時代ぐらいだったと思いますけれども、
ドイツの外交官として、オイゲン・ヘルギルさんという方。
その方が日本にですね、外交官としておいでになったときに、
宮道を習われたんですが、そこから学んだことを書かれた本なんですね。
それがですね、弓と禅という本です。
弓と禅ですね、どういうつながりがあるのかなというところなんですが、
オイゲン・ヘルギルさんという方は、
本国では結構弓の名手でいらしたらしくて、かなり弓が上手だった。
的に当てるという、狙った的にちゃんと当てるというスキルを、
しっかり習得された方だったらしいんですね。
日本に来られるにあたって、日本の弓もかなりのものらしいから、
ちゃんと師に就いて、良かにですね、日本の弓を学ぼうと、
というふうに思って弟子入りをされるわけです。
ところがですね、そこで驚くような経験をされるわけですね。
師匠からですね、的を狙うなとかね、矢を射るなとかね、
そのようなとんでもないことを言われるわけです。
的を狙わなかったら当たらないじゃないかと。
矢を射なかったら、矢が飛んでいかないじゃないかと。
そういうことなんですが、まさにそこで、
師匠の方がですね、矢を狙おうと思って、
的を狙おうと思って矢を射ると、それというのは当たらないんだと。
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そういうことじゃなくて、しっかりと心の上で見ればね、
的は自分から当ててくれと言って近寄ってくるんだと。
矢は自分の手からね、自分で勝手に飛んでいくんだと。
その結果、勝手に矢は的に当たっていく。
それがね、大事なんだということで、
自分は真っ暗の中で目をつぶっていても矢は当てられるぞという風に言われたので、
実際やってみせてくれたと。
その通りになったということでね、びっくりする経験をされているわけですね。
いったいこれなんだと、自分がこれまでやってきた弓と球術と、
それと全く違う世界だと。
上手になるだけじゃダメなんだと。
その先にあるものを、なんかそういうものがあるんじゃないかということでですね、
大井玄さんはその境地に達することができるように一生懸命練習をされるわけですね。
つまりこれは人間磨きをしないと、なかなかそこへ行けないと。
そういうことなんです。
その時にですね、大井玄さんが思ったのが、
これは日本の禅じゃないだろうかと。
禅につながるんじゃないかということなんですよね。
日本人というのは小さい頃から習字を習うのにも書道という道をつけるし、
剣のスキルを身につけるにも剣道というし、
柔道というのもあるしね、お茶をスキル身につけるにも茶道というのがある。
必ず何かの道の世界に分け入ろうとしていく民族だと。
そこにやっぱりね、なんかそういうのは、
禅の世界が小さい頃から触れているからじゃないかというようなことを思われるわけです。
その上でしっかり修行されて、大井玄さんは宮道をちゃんと極意を身につけられてですね、
外交官の仕事を終わりとともに本国に帰られるわけですが、
そこで日本の禅というものを広めるための読本を書いたり、講演をしたりとかされるようになっていくわけです。
この上手になりさえすればいいわけじゃないと、
その先にあるものを見つけなきゃっていうような考え方というのは、
そんなにですね、僕たちにとって非常に自然なことのように感じます。
小さい頃から何々道というのに慣れ親しんでいる、
そしてその中で術を学んでいる私たちというのは、
もしかしたら知らぬ間に禅という世界を学んでいる、
そういうことになっているのかもしれないですね。
日本人としては気づかないけれども、外国の人が見たことによってですね、
そのような考え方に気づかされたということだと思いますね。
さてですね、この弓と禅、このことからね、ちょっといろいろ考えたりすることがあったんですが、
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先日YouTube、なんであなたはYouTubeしないんですかという本を読んでということで、
ちょっとお話をしたんですが、その中にですね、実はあそこでは触れなかったんですが、
鴨頭さんはね、本の中でYouTube道という言葉を使われているんですよね。
YouTubeというのはね、ただ登録者が多ければいいとか、ただそこで稼げればいいとか、
ただ集客できればいいとか、そういうことではないぞと。
そのことによって幸せを生んでいく、そういうような仕組みがあるんだと。
だからみんなが幸せになっていけるような、そういうようなYouTuberになろうよと。
そういう意味でね、YouTubeは美しい世界だというふうに言葉を使われているんですが、
その文脈の中でYouTube道という、そういう言葉が使われていましたね。
ここにも出てきたなと思って。
僕らはやっぱり、いろんなことに道をつけて考えたがるし、それがきっと自然なんだと。
何かが上手になればそれでいいというんじゃなくて、その先にあることですね。
その先に何が広がるのかと。
そういうようなとこまで僕たちというのは考えていくことでね、より人生というのは充実するだろうなと思います。
振り返ってみるとですね、2005年頃にブログがブームになった頃にね、
ブログ道というね、ブログに道をつけた、そういう本が出たんですよ。
それね、ブログが始まって、まだ数年しか経たない頃に出た本なんですけど、今でもね、とっても良い本です。
そこにはね、ブログのスキルが書いてあるんじゃないんですよ。
ブログというものを通していかにですね、人との関係、良いものを世に生み出すかという。
そういうことが書かれているんですね。
まったく同じなんですよ。
ブログ、ただのブログじゃなくて、ブログ術じゃなくてブログ道。
まさにそのね、ブログ道という本の名前に恥じない内容なので、今でも十分読める。
十分どころか、今、まさに今だからね、みんな読んだ方がいいんじゃないかなというようなね、そういうような本がありました。
今日はですね、そのブログ道、それからYouTube道から、宮道、柔道、茶道、剣道、書道。
そのような日本人というのは、道というのをつけて考えるのは、もともと小さい頃からね、禅の道に知らない間に触れているからじゃないかという。
そういう大井玄さんのお話を元に、やっと考えを展開してみました。
はい、いかがだったでしょうか。
今日はですね、結構ゆっくり喋りながら、そして橋のたもと、今橋のたもとなんですけどね。
橋の真ん中で喋って、川面を見ながら今喋っているんですよね。
これでね、はぁはぁ感がなくなるしね、立ち止まって落ち着いて緊張する、喋りながら過ごすという。
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それがうまくできればですね、移動中の収録ってとっても効率がいいんで、この形でしばらくはね、ポッドキャスト毎日配信を続けていこうというふうに思っています。
それではまた、レジスタイルでした。
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