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リュースタイルの知的瞑想ラジオ、お昼の雑談です。
今日のタイトルは、今こそ話す、みたいなことになっていると思います。
この年末からですね、この1月の間、人生中とっても大切なことに向き合っている、というようなことを言いつつですね、低浮上がずっと続いていたんですけれども、
一体何に向き合っていたのか、ということについてようやく話ができるような状況になりました。
今日でコロナによる休業もですね、6日目ということで、明日までですね、僕休まないといけないんですけれども、
体の方はもうほぼ完全にっていうぐらいに治っていまして、
このコロナが言えるのと同時にですね、この1ヶ月ほどにずっと低浮上だった、ずっと人生上に向き合ってきた心の問題というのも、一緒にスーッとですね、言えたような気が今しているんですね。
一体それはね、何だったのかということについてお話ししたいと思います。
僕はですね、去年の暮れから今年の初めにかけて、たった16日の間に父と母と2人を亡くしてしまったんです。
父が亡くなったのは12月25日の夜、もう26日になってほんのしばらくした頃でした。
ちょうど25日の夕方にノートから始めるKindle出版ですね、今の一番最新の間ですが、それを出版ボタンを押したよ、そして出版が始まったよって言ったその日のことです。
夜中の2時頃に携帯がけただましくなりまして、何だろうかと思って出たら、施設からの電話で、お父様が息をしておられませんよというそういう電話でした。
急いで施設に向かいまして、父は救急車で運ばれるところでしたが、非常に残念なことに25日の朝、コロナに感染してしまっていたために、なかなか受け入れ先がなくて、ようやく決まった時には朝の4時ぐらいになっていました。
そして私は母と一緒にですね、父を見取ったという形になったのでした。
父と母は本当に仲が良かったので、施設も一緒に入ってたんですね。部屋は別だったんですけれども、2人で食事の時間になったら一緒にご飯を食べて、そしてまたそれぞれの部屋へ戻っていくという生活を最後1ヶ月ほどはすることができていました。
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そういう父を見取りに行く時に、母が車の中で本当に寂しそうに残念そうにしていたことをね、本当によく思い出します。
その時に母が言っていたことなんですけれども、実は夜寝ていたら、お父さんが部屋に訪ねてきたっていうんですね。
そのことを私に話しました。あれは夢だったのか夢でなかったのかも分からなくなったというのでどうしたって言ったら、扉を開けてお父さんが来て、この部屋だったのかーってやっと見つけたって言って来たんだそうです。
母はここは男子禁制よって言って笑いながら扉を閉めて追い出したって言ってたんですけれども、それが夢だと思ってたけれどももしかしたら夢じゃなかったのかもしれないという風に言ってたんですね。
私もお父さんそれ来たんだよと、それは夢じゃなくて本当に来たんだよと。
父はずっと車椅子で自分では歩けなかったんですけれども、母が同じ施設に入ったということを聞いて、それはよかったってすごく喜んでいましたね。
いつかは自分も母のところの部屋を訪ねたいという風に思っていたんですけれども、最終的にそれを叶わずに行ってしまったんですが、
最後行く直前にもう体のさまざまな縛りから解き放たれた父が母の部屋を探して最後の別れに来たんだよと。
だからよかったねという風な話をしました。
母もそうだろうね、本当だったんだねということで、そして病院で父に会ってお別れをしたんですね。
ところが先ほども言いましたように残念ながらコロナにかかっていたということがあって、もうその日のうちに仮装をしなければならなかったということがあり、お葬式を出してあげることができなかったんですね。
本来なら2日3日は置いた上で仮装をするということになっているんですけれども、その間に目が開かないということで諦めるというそのような期間があるんですけれども、コロナの場合にはそういう期間がありません。
母もずっと諦めがつかないような状況でした。
翌日からはもうその母のそばにとにかく一緒にいてあげようと思って、弟と2人で母のところへ行って寄り添っていろいろお話を聞こうと思って行ってたんですが、その翌日に行きましたら今度は母がコロナにかかってしまいました。
一番私たちがそばにいてあげて、そして話し相手になってあげたいというその時期に全く誰にも会うことができないという状況になってしまったんですね。
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お正月には実家に戻ってきて孫たちと一緒にもう楽しくやろうよと、お父さんもいないけれどもみんなで楽しくやろうというふうに言ってたんですけれども、もうそれもできなくなってしまいました。
なので私は毎日施設へ行って窓の下から近くにいるよと言って、母と携帯で会話をするということを続けていきました。
正月には孫ですね、私の弟と家族、そして私の家族、孫も入れて全部で10名、施設の下からおばあちゃんに向けて手を振りまして、母も窓からその様子を見て嬉しそうに手を振っていました。
母にとってはこれが孫たちの姿を見た最後になったわけですね。
年が明けてからも毎日施設に通って、お母さん今下に来てるよと言ってずっと電話を続けていました。
ようやく10日ぐらいになってきた頃にですね、母のコロナも癒えて、そして母の方も病院に行く日が近づいていたので、ようやく外に出ることができるねと、
そして病院に行ったら帰りに実家に寄って、お父さんの供養をしようよと、そして美味しいものでも食べよう、そういうような話をしたところでした。
母もようやくはきがめがついた。
49日の日には孫とあなたたちとみんなで集まって美味しいお弁当食べようねと、本当にニコニコしながらですね、希望ができたかのような、そういう明るい声でした。
私も弟もですね、これから本当にこの母親を大事にしていこうと、実家に本当は帰りたい、でもなかなか一人では暮らしていけないというような状況の中、何とか頑張って施設で暮らしていたんですけれども、
少しでもね、実家に帰る回数を増やしてあげて楽しく暮らせるようにしてあげたいねというようにね、話をしていたところだったんですけれども、
1月の11日の夕方ですね、施設から電話があって、息をしておられませんという、そのような知らせでした。
19時半ぐらいまではヘルパーの方がね、部屋に行って、そしておしゃべりをしたり楽しそうにしたりしていたんだそうです。
ところが2時間後に薬を持って行った時にはもうすでに息をしていなかったんだということでした。
本当にですね、眠るようにあっという間に行ってしまったんです。
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知らせを聞いた時に、ちょっと待ってと言って、本当にゲームならリセットボタンでも押したいような気持ちでした。
ちょっと巻き戻してって時間を、そんな感じだったですね。
いや、だって昨日あんなに楽しみにしていたじゃないと。
そして明日一緒に病院に行こうと、そしておいしいものを食べようと楽しみにしていたじゃないと。
なんで急に、ちょっと待ってって時を止めたいような気持ちがしました。
なんでこんなにあっさりと行ってしまうんだろうかと、呆然とした覚えがありました。
とっても仲の良かった父と母ですから、もういいよと、もういいよ、もういらっしゃいということで父が呼びに来たのかなというふうに思いました。
病院で最後見取った時に手を取って、弟がお母さんありがとうという言葉を言っていました。
私もその感謝の気持ちでいっぱいでした。
悲しくてたまらないとか、寂しくてたまらないとか、そういう気持ちではなく、
ああ、よく頑張ったねと、お父さんが迎えきてくれたんやね、本当にありがとう、ゆっくりしてねという、そのような感じだったんです。
でもその気持ちとは逆に、なんで、なんでという気持ちも別にありました。
お葬式の日には、父の家も一緒に持って行きました。
父はお葬式をあげてあげることができなかったので、母のお葬式の時に、その母に寄り添うような形で家を置いて、
私が祝福をする時にも、父と一緒に、家と一緒に祝福をしてですね、その場にずっと一緒にいたような気持ちがしました。
また、仮葬の時も、仮葬の待ち時間の時に、家を立てかけておくんですけれども、その家の横に父の家も並べておいて、
そしてお父さんが横にいるから大丈夫よというようなことで、二人で一緒にその時間を過ごしたことを覚えています。
僕は精一杯のことをやったと思いました。
二人同時に送り出してあげられたような気もしました。
きっと二人も向こうで喜んでくれているだろうと、二人で一緒に手を取って向こうの世界へ今行こうとしているだろうと思って、
子供としてできる限りのことを自分がしたというふうに思って、本当に心の底からですね、
自分としてはよくやったと、本当に精一杯頑張ったとそういうふうに思いました。
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そのお葬式を終えて帰ってきた日の夜から、私の心というのはとてももやもやし始めたんです。
本当にできる限りのことをやったとても気持ちがさっぱりしたんです。
それなのに帰ってきてからずっと心がドキドキドキドキし始めました。
血圧を測ったらかなり高くなっていました。
このドキドキというのがすごくあったので、このまま寝ちゃいけないような気がしました。
私も一緒に、父と母と一緒に行ってしまうんじゃないかという気がすごくしたんです。
それで、その日は家族と一緒に結構遅くまでYouTubeを見たりゲームを見たりそういうふうにしてですね、楽しく過ごして、そして夜中に寝たということを覚えています。
翌日になってもずっとそのもやもやが晴れません。
その翌日になってもずっともやもやが晴れないんです。
あれだけ一生懸命やった、精一杯しっかりと供養をしたと思って、
そしてよかったねという感謝の気持ちでいっぱいになっていたのになぜこんなに心がもやもやするんだろうかとずっと思っていたんです。
2人とももう93歳、91歳という人生の大養生を遂げたと言ってもいいような亡くなり方をしているので、悔いとかそういうものはなかったんです。
寂しくてたまらないというそういうこともありませんでした。
それなのになんでこんなにもやもやするのかずっと苦しんでいました。
その答えがなんとかわかったのは施設の方と話をしていたときでした。
僕はその方と話をしていたときに母親が亡くなったというそのことがどうやら僕の心をこんなにもやもやさせているんじゃないかなということに気がついたんです。
理屈の上でも気持ちの上でもしっかりと心の整理がついていたのに気づかない心の奥底の方でずっともやもやしていた。
これは母親がいなくなったというそのことに起因していたんじゃないのかなというそういうことなんですね。
どうやら母親というのは自分に血肉を分けてくれただけでなく魂も一緒に分けてくれていたようです。そんな気がします。
なので母親がいなくなったということはそのことによって僕の魂が傷ついたんじゃないのかなというそういうような気がしたんですね。
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それと同時に父にはごめんと手を合わせました。父のときにはお疲れさんというその気持ちだけだったんですけれども同じように母のときにはお疲れ様ありがとうございましたというその気持ちとは別に魂自体が傷ついてしまった。
お父さんごめんというそのような気持ちで手を合わせたものでした。
もやもやの原因に自分なりに気づいてからもそのもやもやが晴れることはなくずいぶん長いこと体不調の状態が続いていました。
しかし今回コロナにかかることによってこのコロナが癒えるのと同時に心のもやもやも一緒に持ち去ってくれたような気がしています。
こうして話していてもドキドキをすることがなくなったんですね。
母親がもういいよということで一緒にもやもやを持っていてくれたのかなというそういうような気がしています。
すごく長い放送になりましたけれどもこれがこの1ヶ月ほど僕が向き合っていた人生でとっても大切なことということのお話でした。
現在様々な事務手続きを絶賛行っているところですけれどもなかなか先が見えない中でもうすぐ49日が行われます。
ここで初めてですね気持ちが今度は晴れる方に向かっていくんじゃないかなという気持ちがしているところです。
長い時間お付き合いをさせてしまってどうも申し訳ありませんでした。
そしてここまで聞いてくださった皆さんどうもありがとうございました。
2週間ぐらい前一度もう話せると思いますという告知をしたんですけれども実際に話そうとした時にまだドキドキして急に話せなくなったんですよね。
それでやっぱりダメでしたっていう風にね告知したんですけど今日は最後までちゃんとドキドキもせず話すことができて本当に良かったなというふうに思っています。
しかし改めて思うんですけれども母の力というのはすごいもんだなと思いますね。
知事には本当に申し訳ないんですけれども母というのは先ほども言いましたように血や肉だけじゃなくてきっと魂も一緒に分けてくれてるんだろうなとそういうような思いがしているところです。
自分は子供たちにとっては父なんですけれども今度はですね私の連れ合い妻ですね妻がそのうち自分たちの子供にとってそのような存在になっていくわけですから
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僕はこれまで自分のことをしっかり支えてくれた妻を今度は僕がですね本当に大切に大切にしていきたいなというふうに思っているところです。
はいということでですね何とか前からずっと5日を話さなくちゃ話さなくちゃと思っていたこの放送をすることが最後まですることができて本当に良かったなと思います。
最後まで聞いてもらってありがとうございました。また僕もですね2月からは元の僕の状況に戻していきたいというふうに考えているところです。
それではまた何か始めたのりースタイルでした。