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おはようございます。抜粋の精神科 イリューラでございます。
本日、マイク充電できておりませんので、
別の、これは多分音声、耳の、どれから撮ってるんでしょうね。
耳のね、なんだ、オープンランプロから 撮ってるんじゃないかと思うんですけど、
アンドロイドがどこに繋がってるか 分かりませんもんね。
よくね、だからちょっとよく分かりませんけどね。
オープンラン、なんだっけ、
エアロペックスだっけ、アエロペックスだっけ、
違うかな、アクオペックスかな、違うね。
あの、このあれだよ。
歌えない、今日も。
オープンランですね。耳のやつ、イヤホン。
耳の穴の、なんだ、骨伝導イヤホン。
で、撮っております、多分。
えっと、ふと聞いて面白かったので、
何も言われてないのに勝手にアンサー放送しておりますけど、
書き込めばよかったんだけどね、
もう書き込めなくなっちゃった、もう大変だ。
コメント書き込むの大変だ。
宇川さんの放送を聞いてちょっと思ったので、
少ししゃべってみたいなと思いますが、
めちゃくちゃ面白いですね、
仏教は自責的な思考を感じるとかね、
キリスト教は多責的な、外に原因を求めるところがある。
ああ、なるほどなと思ってね。
で、そういう宗教っていうのはその通りだなと思ったんですけど、
要は句伝でしょ。
よくスカンクさん言ってますね。
宗教は句伝じゃないかと。
要は口伝えじゃないかと。
キリスト教はこうだとか、お釈迦様はこう言ったとか、
お釈迦様が言ったこと伝わってないよね、本当はっていうことです。
スカンクさんは非常に疑っていて、
それすごく本質的なところだなと思うんですけど、僕は。
僕もその通りだと思うんですけど。
つまりさ、キリスト教はこうだとか、
仏教はこうだっていうのはもう本当にそうだと思うんだけど、
それは文化とかそこに住んでいる、伝えた、つまりですね、
キリスト教がある種の波だとすると、
その波は、あるいは仏教が一つの波だとすると、
その波が伝わっていくときには、その波が伝わる媒体というか、
水の中を伝わるのか、空気の中を伝わるのかによって、
周波数が変わったり、聞こえ方が変わったり。
宗教とかっていうのは、句伝だし考え方なので、
その考えている人たち、人によって人から人に伝わっていくんですが、
人によって、その媒体によって、周波数も波も大きさも変わるなというふうなのを、
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お釈迦様の放送を聞いているとふと思ったんですね。
だから、その波の本質がどういう波かっていうのはもちろん、
それ考え方も大事だと、どこが伝わるかじゃなくて、
本質をどこかっていうふうに思うときに、ある程度そぎ落とさないといけないので、
本質なんてものが人間にわからないと僕は思っているんですけど、
なるべくそれを知ろうと思ったときには、
波の媒体が何であるかということはそぎ落としていかないといけない。
そうすると、ある程度抽象化して、極端な形にして、
ある程度、間違ってしまうというかね。
間違いじゃないんだよ。
ただ、ある種の立場からすると間違いに見えるっていうね。
そういう間違い、本当かどうかわからないんだけど、
間違いかどうかなんてわからないんですけど、
ある種のそういう間違いだと思われる部分を、
ということを犯しながら、
何かこう、ソフィストケートしないといけないということですね。
だけど、力さんはそれをソフィストケートする作業をしているんで、
それは違うよと思う人たちが出るのは仕方がないと思うんですけど、
そこが微妙に違うとかいろいろあると思うんだけど、
ソフィストケートする作業を力さんはしているわけね。
そうすると、ある程度そぎ落とさないといけないんで、
そうすると、いろんなちょっとした違い、もしかしたら大きな違いみたいなものも生むかもしれないんだけど、
そういうふうに、キリスト教は多識、仏教は自識という気づきみたいなね、
なるほどねと参考になる。
参考になるとともに、思ったのは波みたいなもので、宗教というのは。
伝わる媒体によって変わるよなというような、
だけどと、僕は主要末節のほうに意識が逆にいって、
変わるよなと、句伝であるというものに、今意識がいきましたね。
なるほど。
だけど、まとめて考えると、
もしかすると、最初は力さんが想像した本質みたいな違いがあったのかもなと思いますけど、
それが伝わっていくうちに、例えばですね、
今日の放送の本質、一番言いたいのは今のところだね。
今一番言いたいのは、とはいえ宗教というのは人の意志であり、
人の意志が伝わっていくときの伝わり方みたいなものが宗教であり、
本質でありだから、
波と空気と水で伝わる、同じ音でも伝わり方が違うように、
僕ら聞いている、伝えている人間のその文化、
日本国、いつの時代の日本国で流行った、
いつの時代のヨーロッパのどことこの場所で流行った、
伝わったというところによって、
同じキリスト教、同じ仏教であっても、
その伝わり方や音を聞く方や周波数が変わるよと、
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それは宗教というのが波のようなものだから、
人から人に伝わっていく、まさに伝わる波のようなものだからと、
その媒体によってはよく違うんじゃないかというのが最後のゴールですね。
そこのゴールに行くわけですけど、
そのような本質があっても、
例えばですね、その実績的であるはずの仏教が日本に伝わって、
ある種の発展を遂げて、
浄土神宗という一番多い、
マサヤさんなんかもそうですよね、
本願寺派と大谷派、うちの近所の高田派とかね、
いろいろあるわけですけども、
いろんな派閥に分かれてはいるけども浄土神宗と、
神覧聖人に伝わったときに、
たりき本願と言いますよね。
たりき本願という考え方は、
自分じゃなくて外側の方に頼って良くしようというね、
たりき本願。
そういう伝わり方をしたわけですね。
神覧がそういうふうに解釈した、
あるいはそういうふうにねじ曲げた、
あるいは解釈したわけですけど、
解釈というのはねじ曲げと一緒ですけど、
ということで神覧がある程度の注意のね。
それはさ、やっぱり当時苦しんでたからですよね、
民がね。
なんとか救いたいという気持ちから、
そういったたりき本願みたいなことを考えたんでしょうし、
例えば浄土神宗には、
あまり仏像みたいなものがないとかね、
いうふうなものがあってね、
そりゃね、貧しい人を救おうと思ってるんだけど、
仏像が必要だっていう話になったら、
本末戦闘で仏像買うのにお金かかっちゃうからね、またね。
あるいは仏像祀らないといけなくなっちゃうからね、
どっかね、寺にね。
そうすると大変だということで、
仏像は使わない方向になったんでしょうね。
まさにそれがあれに似てませんか。
カトリックから分裂した時のプロテスタントに似てるじゃないですか。
カトリックもお金持ちがね、
免財布を発行されて、
お金持ちは幸せになるみたいな、
そういう考え方に納得がいかないルターだとか、
ルターだっけ、
聖書に変えるといった宗教改革、
そこにカトリックにプロテストする人たちが
抵抗したとしてね、プロテスタントとして出てきて、
彼らも、だからプロテスタントの教会には十字架あるけど、
キリスト様もいらっしゃらないよね。
キリストが張り付けになってぶら下がっている像があったりするのは、
カトリックとかね、主にカトリックですよね。
マリア様がキリスト様を抱いた絵なんかをモザイクで描いてあるのは、
オーソドクシーですよね。
聖教だよね。ギリシャ聖教とかね。
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聖教会ですよね。オーソドクシー。
オーソドクシーはオーソドクスのね、
オーソドクスはそういう絵が描いてあるけど、
そしてカトリックは像があるけど、
プロテスタントには十字架しかないよね、基本的には。
だからそういうやっぱり歴史の背景とかね、
人々によって形を変えますよね、伝わり方ね、波ね。
というふうに思いましたね。
なので伝わり方が変わるという面で、
末節のところでは自責的だと力さんがソフィスト系として発見したというか、
見つけたというか、そういうふうに思ったというかであってもね、
浄土真宗においては他力本願という考え方を使うし、
同じようなことはカトリックのときにも起こっているし、
もっともっともっともっといっぱい話がありますけど、
例えばさ、浄土真宗のわざわざ貧しい人たちを救おうというところから発生してるからさ、
貧しい人たちの宗教になっているんだよね、もともと。
農村に多いだろう。
農民みんな浄土真宗じゃないか。
物資はみんな総統州とか物資ばっかりじゃないか。
だからちょっとお金持ち多いだろう、総統州。
気づいてますか。
それに憧れて、うちの親なんかそれに憧れて総統州に回収したよ。
そんなことあるかよ。あるんですよ。
お金持ちが好きだから、お金持ちになりたいから。
それもあれだよね、引き寄せの法則なんて言うじゃないですか、最近ね。
引き寄せの法則なんて違ったっけ。
そう思うとそっちに行くみたいな話じゃないけど、よく知らんのだけど。
そういう意味ではさ、うちの親なんか浄土真宗だったけど、
あれは貧乏人が宗教だからな、お前と。
俺は金持ちになりたいから、金持ちの宗教の、
俺は総統州に回収するぞ、俺は。
おお、そうか、好きにしなよって言うわけですけど。
面白いよね、考え方って。引き寄せの法則だな、うちの親なんかは。
わけわからない、そんな宗教会だって一緒だろうかと思うんだけども、
それで本当に何とかやってるよね、うちなんかは。
もうやめないといけない。
本質の問題と末節の競技とは結構変わってしまうよね、というのをちょっと思いました。
ただ、本質と本質ともちろん誤解をたくさん生むようになるけども、
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磨いていくと、力さんがやってるような本質が見えてきたりするような感じはもちろんあって、
僕なんかが思っている仏教の本質っていうのは、
やっぱり無常、諸行無常だっていう。
そして全てには意味がないみたいな。
やっぱりお釈迦様は悟りを開いて、最後やっぱり涅槃になって形になっていくという物語が中心になっていて、
キリストはやっぱり張り付けに神様の遺体を、
いったん物々とされて張り付けになって死んでいくと、また復活するというような物語になっていて、
ムハンマドはどういうふうになるんでしたっけ、
あの人は生きてるときに自分が教祖になってんだよね。
あの人は生きてるときにイスラム教があったんだよね、自分で作ったんだよね。
仏教とキリスト教は他人が作ったんだよね。
その辺の成り立ちの違いもあったりすると思いますけど、というふうに思いました。
ということで、今日の放送は、力さんの話を聞いて、
本質を見極める方向の考え方と、そうじゃない、
末端まで考えていく考え方にはちょっと違いがあるなという話が一つね。
それと、宗教というものは伝わる波のようなものであって、
なので、そこの人々だとか国だとか文化だとか、
そういったものに大きく依存すると伝わる波というのは、
伝わる媒体によって大きく変わるということで、とさせていただきましょう。
信号も青になりました。それではさようなり。