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今、福岡市の自宅の方から、鷹橋・いいかねパレットに向かって、車を走らせております。
時刻は、お昼12時27分でございます。
明日ですね、次に、いいかねパレットの方でイベントがありまして、
ライブイベントをですね、コンセンサスビルディングボリューム1というライブイベントなんですけども、
なんとですね、ラッパーのロフ・カルマさんがですね、いいかねパレットでライブを開催しますと、出演されますと。
で、一応出演者を読むとですね、ザ・プラクティス、これバンドさんですね。
で、あとヌイ、これは、うちのスタッフでもある松本慶ちゃんがやってるバンドです。
ボーカルをやってる斉藤君と慶ちゃんとかっていうのが、実は僕、福岡で昔バンドやってた頃にめちゃくちゃ好きだったスペクトラム・シンセサイズっていうバンドがあるんですけど、
ちょいちょい対バンしてたんですけどね、むちゃくちゃかっこいいバンドだったんですよ。スペクトラム・シンセサイズっていうバンドが。
で、その時のベースの慶ちゃんが今、いいかねパレットで働いてまして、
で、その、まあね、慶ちゃんがどうしてもこう、音楽ライブやりたいって言ってくれまして、言ってくれてっていうか、まあ、今言ってくれてやな。
で、パレットを使って自主企画イベントということで、慶ちゃんが全部企画をして、こういうライブを立ち上げてくれてみたいな。で、そこに慶ちゃんのバンドヌイっていうのが出ると。
そういった形で、明日ちょっと楽しみなんですよね。
彼も実はスペクトラム・シンセサイズっていう、さっき言ったバンドの、もともとギターを弾いてたりしてて、
僕は、あのー、いや、あのー、
スペクトラム・シンセサイズって言ってたんですけど、
スペクトラム・シンセサイズって言ってたんですけど、
彼も実はスペクトラム・シンセサイズっていう、さっき言ったバンドの、もともとギターを弾いてたりしてて、
僕は、あのー、いや、あのー、
上さんって呼んでるんですけど、上さん出ます。
あと、大石佑介くんですね。
これは、もう、あのー、おたしき音楽フェスティバルとか、数々のイベントをやってる、
まあ、田川のイベンターですよね。
僕の1個下なのかな?2個下なのかな?
これも田川の後輩なんですけど、
まあ、そんな2人がDJをやりますと。
いやー、楽しみですね。
さて、そんなのは、まあいいとしてですね、
ちょっと、さっきシャワーを浴びてまして、朝、
ふと思ったことがなんとなくあるんで、
これ原稿ができるかどうかわかんないんですけど、
ちょっと言ってみようかなと思ってるんですよ。
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なんで、ちょっとグダグダになるかもしれないんですけど、
なんか、ふと宗教について考えてたんですね。
なんでかわかんないんですけど。
ああ、そうだ、思い出した。
なんでか思い出した。
えっと、昨日、あのー、
まあ、どういう会っていう、その、
僕が入ってる社長同士のコミュニティがあるんですけども、
そこで、まあ、ファンコミュニティの講義をしたんですよね。
で、そこで、終わった後に、そのレビューみたいな感じで、
いや、これって、その、宗教ですよねっていう、
宗教に近い感覚ですよねっていうレビューを受けまして、
ああ、面白いなと思ったんですよね。
まあ、もちろんその、宗教との、まあ、
共通点みたいなものは考えたことがあったので、
なんか改めて、
ファンコミュニティっていうのと宗教っていうのを
おずぼうと考えてたっていうのはそういえばありました、昨日。
はい。
で、今日シャワー浴びながら、
宗教ってなんなんやっけみたいなことを考えてた時に、
あの、
なんか一昔前までは宗教の役割っていうのが、
生きる道筋を示してくれるようなものなんじゃないかなって思ってたんですね。
と思ってたんですよ。
要は今から人は未来に向かってどう生きればいいのかっていうことを、
光の道筋を指し示してくれるみたいな、
効果というか、機能かな、
機能かな、目的?
まあ、機能かな。
そういう機能があるんじゃないかなと思ってたんですけど、
もちろんそれもあるとは思います。
ただ、
今日ぼーっと考えてて、
それよりもやっぱり一番メインになるもので、
生きる目的を規定してくれることなんじゃないかなと思ったんですね。
この配信でも言ってるかどうかわかんないですけど、
僕は人生に勝利点っていうものがあると思っていて、
それは人それぞれ目的が違うと。
要は何をゲットしたら勝利点として加算されていくのかっていうのがあって、
逆に言うと勝利点として規定されてないものについては、
死ぬときまでに持っていても意味がないっていうことですね。
一番わかりやすい例で言うと、
お金っていうものは勝利点になり得るかっていう話なんですよ。
僕の中では、
人生の生きる目的っていうのが知るであったり、
知識を蓄えるであったり、
わかるとか、
理解するみたいな、
そういうところが僕の人生の勝利点として定義してるんですよ。
なったときに、
お金っていうものは勝利点を蓄えていくための手段とかツールとか、
リソースでしかないんですよね。
だから天国にお金持っていけないっていう言葉がある。
本当にその通りで、
なんとなく僕が死ぬまでに、
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知識とかわかるみたいなものを蓄えるために全てが存在しているというイメージですよね。
これはボードゲームとかやったことある方はわかると思うんですけど、
ドミニオンとかそういうのやったことあると思うんですけども、
最終的に勝利点が高いほうが勝ちなんですよ。
お金いくら持ってても勝利点とは関係ないんで、
だから金だけ集めて負けるみたいなこともあるんですよね、
ゲームの中で。
これは結構いいメタファーだなと思ってるんですけど、
それはちょっと置いといて。
勝利点というものを何に定義してくれるかっていうのが、
結構僕、宗教の大きな意味だと思ったんですよね。
もちろん古典ラジオだけでざっくりと聞きかじった知識なので、
適当に言ってるんですけど、
宗教改革以前の生きる目的っていうのはやっぱり天国に行くことだったりとか、
神に認められるみたいな、
キリスト教的な価値観の中で、
それを生きる目的というか、
生きる勝利点として定義されてたという時代がおそらくあってみたいな、
西洋ではですね。
それが崩壊した後に、
資本主義が勃興してきたみたいなところがあって、
今っていうのはその資本主義はOSなんじゃないかっていう話もありましたよね、
古典ラジオの中で。
OSって何かっていうと、
僕は勝利点の定義とか、
ルールブック根源みたいなイメージなんですけども、
要はお金で買える幸せを得ることっていうものを一旦幸せと定義しましょうみたいな、
生きる目的を資本を重ねて富を得ることっていうことに定義しましょうみたいな、
ざっくりとしたルールブックだと思ってるんですね。
OS言い換えるとルールブック。
ちょっと語弊がありますけど、
そういったイメージですよね。
そういう感じの役割を宗教ってずっとしてきたんじゃないかなって思ってるんですよね。
逆に言うと、
これ1個の目的みたいなものがなんとなく社会としてあったのが、
由来だ時っていうのが多宗教化するんじゃないかと思って、
そういう意味で宗教的なものがあったんじゃないかと思って、
1個に一本化されたところからそれが崩壊したタイミングで多様化のフェーズに必ず来ると、
発散をするというフェーズですよね。
閉じる、広がる、閉じる、広がるっていうのは人類はいろんなジャンルで、
いろんな規模で繰り返しているっていうのが話なんですけども、
そういう意味で、
ブレインストーミングのアイディア出しのフェーズに来ると思うんです。
そうなった時にいろんな宗教が本来であれば没効するはずなんですね。
いろんな信仰宗教的なものが。
ただ、日本で言うと宗教っていうものに対する良くないイメージというか、
宗教的なものに対して、
宗教っていうものっていうのがすごくうさん臭いものだったり、
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詐欺の温床だったりとか、
あとは周りから見た時にあいつ言っちゃってんなっていう、
なんていうんですかね、
そういう意味で、
宗教的なものに対する良くないイメージというのは満員してるじゃないですかね。
これはもう明らかにオウム心理教の影響だと思ってるんですけども、
宗教っていうものっていうのがすごくうさん臭いものだったり、
詐欺の温床だったりとか、
なんていうんですかね、
ちょっとおかしいものだったり、良くないみたいなイメージがちょっとついたおかげで、
宗教っていうものはなかなか勃興しにくいっていうところが、
特に日本はあるような気がしていてと。
知らないです。僕適当に言ってますよ。
そんなに絵画のこと勉強したわけじゃないんですけども、
絵画で宗教が勃興してるかしてないかも知らないで適当に言ってますよ。
そうなった時に、でも宗教的な何かは必要なんですね。
だからそういうので、例えばタレントだったりミュージシャンとかだったりっていうのが、
無知、教祖として出てくるんじゃないかっていうのがあって、
生き方って僕思うんですけど、
人との関係性っていうのになかなか切っては切り離しにくいと思うんですよ。
本当に山奥とかで生活している人っていうのはもしかしたら、
一人で単体として生きていくっていうことなので、
人間とのコミュニケーションってなくても、
例えば世界とのコミュニケーションみたいなことで成立する可能性はあるんですけども、
やっぱり僕は人間は社会生物だと思っているので、
他者とのコミュニケーションっていうものが必ず生活に深く関わってくると。
その上で、幸せとは何かって考えるってことは、
他者とのコミュニケーション自体に言及する必要があると思ってるんですね。
そうなってくると、コミュニケーションとか、
人と人が存在するとそこに焦点があるんじゃなくて、
人と人をつなぐニューっていうニューロンみたいなもの、
シナプスとシナプスをつなぐニューロンみたいなニューロン自体に焦点を当てていくみたいな、
関係性に焦点を当てていくみたいなものが当たり前だけど起こるような気がしていて。
この関係性をどのようにすればよりよく生きるかみたいなことの定義が、
社会の中で必要となってくるみたいなイメージなんですよ。
これが宗教だと思う。
宗教がやるべきじゃないか、宗教が担ってきた役割、大事な役割だと思ってるんですね。
それって一人じゃ規定できないから必ず他者に決めてもらうか、他者と決めるみたいなものが起こると思っていて。
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プチ教祖っていうのが至る所に存在するっていうことになるんですね。
これ自分が教祖になる場合もあるし、近い人が教祖になる場合もあるし、
遠く離れた芸能人とかSNS上の誰かみたいなものが教祖になることもあるんですけども、
大事なのは異神教じゃないっていう雰囲気がある中で、
プチ教祖を複数持つっていうのが一般的になってるってことだと思ってるんですね。
だから僕らはいろんな人の言葉を聞いて、この人のここの部分いいな、この人のここの部分いいなと思って、
そこを自分の生きる勝利点として定義していっている、生きる規範として定義していっているってことなんですけど、
これって自分の中にプチ教祖みたいなものがものすごく存在しているっていう状態なんですよね。
ちょっとまとめ、なかなかまとまらないんですけど、概念はまとまってるんですよ。
言葉にするのがまだ初めてなんであれなんですけど、
自分の中にプチ教祖みたいなものがとにかくめちゃくちゃいるんです。
それは今現存する人だったりするし、たとえば親、先生、もしかしたら知ったあるたぶったかもしれないし、
イエス・キリストの要素も入っているかもしれないし、会社の上司かもしれないし、
とある芸能人かもしれないし、みたいなものが自分の中にプチ教祖としてものすごく存在しているっていう状態。
っていうのがそれぞれの心の中に起こっているような気がしてるんですね。
今の現代の日本人で。
ただ、今って情報量がめちゃくちゃ多いわけです。
めちゃくちゃ多い。
インターネット開けばいろんな人がいろんなことを言っていて、どれも確からしいみたいなことが起きていて、
全部信じられるってなったときに、じゃあどれを選ぶかっていうフェーズになってくるわけですよね。
キュレーションっていうフェーズになってくると情報が多くなりすぎると。
ってことはプチ教祖をキュレーションしてくれる存在っていうものが、
教祖コンシェルジェみたいな形で、教祖ソムリエ、プチ教祖ソムリエみたいな形で、
必要になってくるんじゃないかっていうのがあるんですね。
僕これっていうのが、もしかしたら弟子師匠みたいな関係なんじゃないかって思ったんですよね。
僕は師匠として弟子を雇っているんですけど、僕なんかソムリエしてる感覚かもしれないんですよね。
弟子のマサに対してプチ教祖っていうものが誰であるかっていうものをキュレーションして、
ソムリエしてる感覚っていうのはたまにあるなと思っていて。
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だから弟子師匠の関係ってもしかしたら、師匠と教祖ではなくてプチ教祖ソムリエの役割をしてるんじゃないかなって思ったって感覚なんですよ。
それで言うと、コテンラジオとかももしかしたらプチ教祖ソムリエの側面があるんじゃないかなって思ったんですね。
要は我々というか不解散なんですけど、不解散って別に思想を伝えてるわけじゃないわけですよ。
なんです。だから01で思想を生み出しているっていう感覚ではないわけですよ。
歴史上で起こったことを伝えるっていう感覚。だからこれソムリエをやってるわけですよね。
この人はこういうことを思ったっていうものを客観的に伝えてると。
例えばマルクスという人はこういうことを唱えたとか、ルソーという人はこういうことを唱えたとか、
高杉晋さんがこういう思想を持ってこうしていたとか、国民国家というものを捉えてる学者さんの意見があるみたいなものを紹介してるわけであって。
皆さんの心の中にいるプチ教祖は誰ですかみたいなこともあるし、
じゃあそのプチ教祖をうまくキュレーションしてくれる存在って皆さん持ってますかっていうのは
ありますよね。多分これ何回も言いますけど、
人間って関係性の中で生きてるので一人じゃもうそれを定義するって難しい。
それっていうのは生きる目的っていうものを定義するっていうのは難しいと思っていて、
っていう感じなんです。だから一人じゃ定義できない。じゃあ他者と関わりながらそれを決めていく。
じゃあその決め方ってどうしてるのっていう話だったっていうことです。
はい、以上です。
ご視聴ありがとうございました。